16/18 由美子のなかには、すでに数馬が住みついており

文字数 4,105文字

 由美子のなかには、すでに数馬が住みついており、それが邪悪なものであったとしても、由美子は、それを追い出してまで新しい恋に走ろうとは思わなかった。

 では、達郎の存在は、由美子にとって何であったのか。男たちを追い払うためのただの都合の良い番犬であったのか。

 そう言えば、由美子は、いつ、どこで、どのようにして達郎と出会ったのか、ほとんど思い出すことができない。それは、恋愛するものにとって致命的なことではないか。

 加藤との出会いは、これが本当の恋愛の始まりなのだと言いたくなるほど、強烈なインパクトがあり、劇的なものであった。加藤が、数馬の存在を消し去ってくれるだけのエネルギーを持っているのは間違いない。

 あとは、由美子が本当に数馬の存在を消し去ることを願っているのかどうかということが問題であるのだが…

 由美子は、シャッターによって閉ざされたガレージの薄暗闇のなかで、加藤と無言で見詰め合っており、加藤が、由美子のなかから黒猫=数馬をひょいとつまみ上げて、あの映画のなかで、宮下道雄がそうしたように、それをガツガツと食べてしまうことを夢想する。

 加藤は、川尻たちを見送った後、「ありがとう、助かったよ」と由美子が礼を言うのには応えず、ガレージのシャッターを下ろした。それから、かなりの時間が経ったような気がする。

 由美子の耳に聞こえてくるのは、何かのモーターが回る振動音だけで、それがガレージ内に反響している。

「そ、それじゃあ、帰るね」

 由美子がそう言って、シャッターの横の扉から出ようとすると、加藤がその手をつかみ、ぐいと引っ張って、由美子の身体を抱き寄せる。

 由美子は、頭を抱き寄せられ、押し付けられた加藤の胸から、その心臓がはげしく脈打つのを感じ取り、自身の鼓動も急激に速くなる。由美子は目を閉じて、加藤の背中に手をまわし、さらに深く、加藤の胸に自分の顔をうずめる。

 トットットットッという速いリズムの心音が、ブウウウンというモーターの振動音と混じって聞こえてくる。思い浮かべるのは、黒猫の断末魔に上げる声。もうすぐで、その声も聞こえなくなるだろう。

 わたしは数馬ちゃんのことが好きだった。だけど、数馬ちゃんが溺れたとき、わたし、何も出来なかった。

 長い年月を経ても、その罪悪感は薄れることなく、むしろ、つねに補強されるかたちで、由美子を苦しめつづけてきた。これで、その罪悪感からも解放されるのだと思うと、由美子の目には自然と涙があふれてくる。

 だけど…だけど、死者から解放されたとき、わたしは、まだわたしのままだろうか。

「どうかしたか?」由美子の異変に気付き、加藤が声をかける。
「ごめん。やっぱり、わたし…」由美子は顔を上げて、加藤の目を見る。
「俺はお前に惚れちまったんだ。お前に彼氏がいても関係ねえ。俺は絶対に引き下がらないからな」加藤は熱く語り、今一度、力を込めて由美子を抱き寄せる。

 わたしは、あまりに長い間、罪悪感を持って、死者とともに生きてきた。そのことが、わたしという存在の根幹部分を形成する大きな要因となっていて、そういう生き方がわたしにとってのすべてではないのか。今更、自分を変えたところで、どうなるというのか。

 加藤の背中にまわされた由美子の手が、静かに滑り下りて、加藤のジーンズの尻ポケットから、バタフライナイフをつかみ出し、加藤がひるんだ一瞬の隙に、強引に身体を引き剥がす。

 由美子は、刃を出そうとして、カチャカチャとナイフをいじくるのだが、どうすれば刃が出るのか分からず、モタモタしているうちに、加藤の手がすばやく伸びてきて、取り返されてしまう。

「俺、お前に惚れちまったんだ」加藤は、慣れた手つきでナイフを展開し、刃の部分を取り出す、「たとえ何があっても、俺は引き下がらないよ」

 由美子はすばやく視線を巡らせて、何か武器になりそうなものを探す。ガレージの奥に小さな作業台があり、その上の工具箱が目に入るが、そこにたどり着くには、加藤の脇をすり抜ける必要がある。

 ここは、イチかバチか体当たりを仕掛けて、突破するしかない、と決心したそのとき、思いがけず、差し出されたのは、ナイフの刃ではなく、柄の方である。

「嫌なら刺せよ。俺は構わないからよ」そう言う加藤の目は真剣そのもので、ハッタリとは思えない。

 由美子は、その目と差し出されたナイフを交互に見て、すこしためらうが、次の瞬間、すばやく手を伸ばしてナイフをむしり取り、かえす刀で加藤の手首に斬りつける。

 加藤は「うッ」と小さくうめいただけで、すばやく動き、由美子の髪をつかんで、引き倒す。由美子は、コンクリートの地面に頭を強く打ちつけて、気を失いかけるが、何とか持ちこたえて、覆いかぶさってくる加藤の喉元に、決して離さなかったナイフを突きつける。

 ナイフの前で、加藤は動きを止めて、由美子を見下ろす。由美子は、朦朧とする意識で、それでも加藤をにらみ上げる。刃先が浅く加藤の皮膚に食い込み、血が滲んでくる。それでも加藤は一向にひるまない。

「どうした、やれよ」その声は冷静そのものである。

 由美子の頭をよぎるのは、「こいつにはかなわない」という思いであり、圧倒的なエネルギーの前に、もう、どうにでもなれ、という気持ちになり、抵抗をやめてしまいそうになるのだが、ぎりぎりのところで緊張感を繋ぎ止める。

「動けば、刺す」

…とは、由美子の口から出た言葉ではない。加藤は、由美子の目からそれを読み取る。

 少し間があった。

 加藤はチラリと視線を移して、斬りつけられた手首を見る。傷はさほど深くないようだが、血は傷口からあふれ出ている。フッとひとつ息をついて、加藤はすばやく起き上がり、「あー、やれやれ」などと呟きながら、傷口を押さえて、ガレージの奥の扉から姿を消す。

 由美子は、しばらくのあいだ、何が起こったのか分からず、突き出したナイフをぼんやりと見つめていたのだが、とりあえず危機を脱したようだったので、すこしずつ落ち着きを取り戻す。

 最初に思ったのは、これ、どうやれば刃を仕舞えるのだろう、ということなのだが、それはそのままに、とりあえず身体を起こしてみることにする。頭がクラクラとして気分が悪い。

 視界が突然赤くなるので、びっくりして額に手をやると、ヌルリとした感触があって、その手には血がべっとりと付いている。急に吐き気がして、それでも、こらえて、とにかくはやくここから出ようと、立ち上がろうとした途端、視界が暗くなり、気を失う。


 そこは川原で、由美子のとなりには十八歳の数馬が座っている。由美子は、ああ、また夢を見ているのだな、と思う。

 数馬は何も言わずに、川の流れを見つめている。由美子もそれに倣って、川の方へと視線を向ける。川の流れは穏やかで、その水は澄んでいる。

「見てみろよ。皆、通りすぎていくな」数馬がつぶやく。
「え?」由美子は、あたりを見まわすが、ふたりのほかに人影は見当たらない。
「あそこだよ」数馬が川の流れを指差す。
 由美子がもう一度川の方を見ると、川の底を多くの通行人が行き交っているのが、水面を透して見える。
「ほんとだね。にぎわっているね」由美子が言う。
「これから、どこへ行く?」と数馬。
「うん、そうだな…どこでもいいよ」
「そうか、どこでもいいか…」
 どこからともなくサイレンのような音が聞こえてくる。
「何の音だろう?」由美子は不安げに訊ねる。
「ああ、あれは、飢えた野良犬の遠吠えさ。ああやって合図を送って同類を集めて、群れで獲物を捕まえようって肚なのさ」
「ふーん、そうなんだ」由美子がそう言って、となりの数馬に視線を戻すと、数馬はすでに黒猫に変わっている。
「奴ら、この俺を狙ってやがるのさ。もっとも、俺は捕まるようニャへまはしないけどニャ」声は数馬のままである。
「だけど、由美子、お前は気を付けろよ。お前、昔っからそそっかしいところがあるからニャ」
 数馬はそう言って、ニャニャニャと笑い、由美子はすこし頭にくる。
「何よ、自分だって、足すべらせて川に落っこちたくせに」
「あ、そんニャこと言うか。俺、それで死んだんだぞ」
「へへへ…ごめん、ごめん」肩をすくめて、舌をチロッと出す。
「フン…とにかくだ。野良犬どもには気を付けろよ。あいつらは、いつでも、お前の太ももに食いついてやろうと隙をうかがっているんだからニャ」
「ハーイ、気を付けまーす」
「実際、今、現実の世界では、お前が気絶しているのをいいことに、奴ら、四人がかりでお前のこと輪姦してんだからニャ」
「え、ウソ」
「四人がかりは卑怯だニャア」
 数馬はその言葉を最後に完全な黒猫になって、ニャアニャア鳴きながら川下の方へと去っていく。
「あ、こら、待ちなさい! 本当に、今、わたし、まわされてんの?」
 由美子の問いに答える声はなく、黒猫の後ろ姿、肛門の下のふたつのふくらみだけが印象に残る。


 由美子が目を覚ますと、四人の男が本当にまわりを取り囲んでいるので、ガバッと身を起こそうとするのだが、肩をつかまれて強引に押さえつけられる。

 由美子は全力を持って抵抗を試みる。男たちの怒号が響く。
「馬鹿! お前、はやく足を押さえろ!」
「動かすな! あぶないぞ!」
「鎮静剤! はやく! 完全にパニックを起こしている!」
「大丈夫ですよ! 落ち着いてください!」

 メチャクチャに暴れる由美子の腕に、注射器の針がすべりこみ、鎮静剤が注入される。

 由美子は、薄れゆく意識のなかで、四人の男の服装が、白衣にヘルメットという救急隊員のものだったことに気付き、チッ、あのクソ猫、だましやがったな、と悪態をつき、それと同時に意識が途切れる。
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登場人物紹介

星野 由美子(ほしの ゆみこ)

 高校2年生。タバコを嗜む。不良と呼ばれることには納得している。ただ、まわりに構ってほしくて悪ぶっているわけではない。できれば、そっとしておいて欲しいし、他人に迷惑もかけたくないと思っている。

 基本的にはドライな性格だが、一線を越えられたと感じた時にはしっかりと切れる。切れるとすぐに手が出る。

 映画研究部に在籍。同じ部の後輩である達郎と恋人関係になる。達郎との仲が深まるにつれて、過去の暗い出来事への自責の念が強くなっていく。

上座 達郎(かみざ たつろう)

 高校1年生。映画研究部に在籍。同じ部の先輩である由美子と恋人関係になる。由美子に対しては徹底的に従順である。

 基本的に温厚な性格。自分に対しては素を見せてくれる由美子のことが好き。由美子からぞんざいに扱われていると感じることもあるが、由美子には自由に振る舞っていて欲しいので、受け入れている。

 頭の回転が速く、状況判断にすぐれている。そのため、柔和な雰囲気がある反面、どこか芯の通った強さも周囲に感じさせる。

数馬(かずま)

 由美子の幼なじみ。幼少時に不幸な死を遂げる。その死が由美子に暗い影を落とすことになる。とは言え、長らくの間、由美子から存在すら忘れられていた。

 忘れられていた間は、由美子の無意識下に潜んでいたのだが、とあるきっかけで意識上に浮上することになる。

 それ以降は、由美子の夢の中にちょいちょい現れるようになる。ある種のストーカー。

琴子(ことこ)

 高校2年生。由美子の親友。映画研究部に在籍。

 裕福な家庭で育ったお嬢様。由美子と親しくなるまでは優等生タイプだったが、由美子の影響でタバコの味を覚えて、最終的に由美子以上のヘビースモーカーとなる。

 基本的に甘やかされて育てられたが、性格がねじ曲がることもなく、両親の愛情を一身に受けて素直に育った。

 それでも道を外れてしまったのは、好奇心旺盛な気質のためだったのだろう。

水野(みずの)刑事

 麻薬取締課の刑事。33歳独身。童顔のため10歳ほど若くみられることが多い。

 10代後半の頃、自分で自分のことをサイコパスだと考えるようになる。このままだと自分はいつの日か犯罪者になってしまうのではないかと恐れて、自分の行動を縛るためにも警察官になることを決心する。

 本当にサイコパスかどうかは不明だが、今のところ刑事としての職分をそつなくこなしている。

 実際のところは、自分のことをサイコパスだと妄想する妄想癖を持っているだけなのかもしれない。

桐生 和彦(きりゅう かずひこ)

 高校2年生。陸上部に在籍。走り高跳びの選手で県大会出場クラスの実力を持っている。陸上部のエース。

 運動神経が良くて、身長も高く、顔立ちも悪くない。口数が少ないところもクールな印象を与えるらしく、少なからず女子からモテてきた。

 これといった努力をしなくてもモテるので、どんなオンナでも自分が本気になれば絶対に落とせると勘違いしているところがある。

 そういったズレた感覚を胸に秘めているので、周りからは理解できない突拍子もない言動を時に取ることがある。

火堂 梨奈(ひどう りな)

 高校1年生。陸上部に在籍し、長距離走チームのマネージャーを務める。

 恋愛体質で惚れっぽい。恋人がいるか、もしくは想い人がいるか、つねにどちらかの恋愛モードに入っていないと情緒不安定になってしまい、日常生活に支障が出てしまう。

 片想いの時には、なりふり構わずに相手にアピールしまくるため、まわりの女子生徒からは、その「あざとさ」のため好印象を持たれていない。

 現在は陸上部のエースである桐生にターゲットを絞っている。桐生に惚れたというよりも、「陸上部のエース」という肩書きに惚れた面が強い。

北島 耕太(きたじま こうた)

 高校2年生。水泳部に在籍していたが、厳しい練習について行けずに、1年生のうちに退部した。

 その後はどの部にも入らず、帰宅部となる。帰宅部になってからは、空いた時間を使って駅前のうどん屋でアルバイトをしている。

 物静かな性格で、クラスでも目立たない存在。かと言って、仲間外れにされているわけではなく、友人もいないわけではない。学業成績も平均的である。

 口外はしないが、退廃的な思想を持っており、「遅かれ早かれ世界は滅ぶ」という座右の銘を胸に隠し持っている。

西条 陽子(さいじょう ようこ)

 高校1年生。陸上部に在籍。長距離走の選手。長距離走チームのマネージャーをしている火堂 梨奈と仲が良い。

 人一倍霊感が強いことを自覚しているが、奇異の目で見られることを嫌って、友人の火堂も含めて他人には秘密にしている。

 お節介焼きなところがある。火堂の精神的な弱さにつけこんで、取り憑こうとしてくる浮遊霊をひそかに祓ったりしている。

 長距離走の選手になったのは、長い距離を走るとトランス状態に入りやすくなって霊感が磨かれると感じるためである。

 

加藤(かとう)

 高校3年生。不良グループの一員。父親が有限会社を経営しており、高校卒業後はその会社に就職することが決まっている。将来的には父親の跡を継ぐ予定。

 190㎝近い長身を持ち、格闘技経験は無いものの、持ち前の格闘センスの高さから、タイマン勝負では無類の強さを誇る。

 愛想が良くて人たらしの面があり、仲間たちや後輩たちから慕われている。ただその反面、こうと決めたら絶対に折れない頑固な面もあり、どれだけ仲の良い相手とでも一触即発の状態になることがある。

川尻(かわじり)

 高校3年生。不良グループの一員。卒業後は先輩のツテで鳶職に就く予定である。

 小学生の時からクラブチームに所属してサッカーをしていたが、中学生の時に膝の靭帯を断裂する大ケガを負ってしまい、それを機にサッカーをやめた。その頃からしだいに素行が悪くなり、今に至る。

 現実的で現金な考え方を持っていて、物質的、金銭的なメリットをまず第一に優先して行動する。損得勘定ばかり気にしているので、まわりからは不信感を抱かれがちである。

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