14/18 上映の途中で、由美子は便意をもよおして
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由美子は、足元をたしかめながら、階段状になった通路を上っていく。その途中で、チラリと観客席の方に目を向けると、誰も彼もが何とも言えない間の抜けた表情でスクリーンに見入っているので、何だか可笑しくなってきて、後で達郎にそのことを言おうと思うのだが、自分だって、スクリーンに見入っているときには、きっと同様に間の抜けた表情をしているに違いないのだから、言うときには、馬鹿にした調子にならないように気を付けないといけないと思う。
あまり清潔とは言えないトイレで用を済ませ、手を洗っていると、何やら劇的な音楽とともに、「ボケーッ! カスーッ! アホーッ!」という宮下道雄のものらしき男の叫び声が聞こえてくる。さしずめ、有り金すべてを賭けた競走馬が、ジョッキーが落馬するなり、トップでゴールしたと思いきや進路妨害で失格するなりしたのだろうと思いながら、婦人用トイレから出てくると、そのとき、ちょうど紳士用トイレから出てきた男と鉢合わせてしまい、その背が高くて長髪をオールバックにしている男が、やけに宮下道雄とそっくりなので、由美子は思わず「あッ」と声に出してしまうのだが、ほとんど同時に男の方も「あッ」と声を出す。
「あッ、星野。お前も観に来てたのか」
「え?」
よく見てみると、その男は、三年の不良グループの一員で、一九〇センチもあろうかという背の高さが不良グループのなかでも一際目立つので名前も憶えているのだが、たしか加藤という名前で、名前は知ってはいてもとりあえず知っているという程度のことで、まともに会話をしたことは一度もなく、そんな相手に「星野」などと気安く呼びかけられても、特に抵抗を感じないのは、ビラ撒き事件以来、不良グループからは何かとちょっかいを受けてきたので、気安く話しかけられるぐらいのことは免疫ができて何とも思わなくなっているためなのだが、それにしても、この加藤という男、日頃はもっと無造作な髪型をしているので、気付かなかったのだが、彫りの深い目鼻立ちなどは、宮下道雄とよく似ているように思う。
「何だよ。人の顔、ジロジロ見て」
「え?…いや、いつもと髪型が違うから、誰かと思って」
「そうか? お前だって、一瞬、誰だか分かんなかったぞ。私服着ているところなんて初めてだからな」
「そう?」由美子はそう応じて、自分の服装を見る。
「それに、学校だと、お前、もっとつっけんどんだろ?」
「つっけんどん?」
「なんて言うか、緊張感があるって言うか、近寄りにくい雰囲気だぜ、学校では」
「ふーん…」そうかもね。
「今日は、あの一年とデートか?」
「うん。そっちは?」
「野郎ばっか三人」加藤はそう答えて、自嘲気味に笑う。
「彼女、いないの?」
「いねー。いたら、クリスマスに野郎三人で映画なんて観に来ねー」と軽い口調、「まあ、映画が終わったら、女の子三人組でも見つけて、声をかけることにするよ」
「フフ…そっか、頑張ってね」
「おうよ」
由美子と加藤は、館内に戻り、階段状の通路をそれぞれの席へと向かい、由美子は下り、加藤は上る。
まだ暗闇に目が慣れていないうえ、スクリーンは夜のシーンを映し出しているので、足元がよく見えず、階段を踏み外さないように注意する。何とか達郎のとなりにたどり着き、ふうと息をついて、スクリーンを見上げると、そこではベッドシーンが繰り広げられていて、どぎまぎしてしまう。
シーンがシーンだけに振り返ることが出来ないので、加藤とその連れの三人がどの辺りに座っているのかを確認するのは、とりあえずこのシーンが終わってからにする。ところが、このベッドシーンが思いのほか長く、あれこれといろいろな体位がオーバーラップで繋げられ、延々とつづいていく。
由美子は次第に焦れてきて、何やってんだ、さっさと済ませろよ、と心の中でつぶやき、その自分のつぶやきが妙に笑いのツボに嵌まってしまい、もう少しで吹き出しそうになるのを必死で我慢する。ポルノ映画並みの時間をかけて、ベッドシーンがようやく終わり、スクリーン上に飛び立ちつつあるジャンボ旅客機が映り、空港の待合ロビーにシーンが移ったので、そろそろいいだろうと思って振り返り、加藤の姿を探すのだが、多数の間抜け面に埋もれて、なかなか見つからない。
「どうかしましたか?」達郎が不審に思って、由美子に耳打ちする。
「ううん、別に」由美子は探すのを諦めて、正面に向き直る。
物語は佳境に入る。ヒロインを救うべく、ライバルとの一騎討ちをむかえて、宮下道雄は不敵な笑みを浮かべた顔でスクリーンを一杯にする。コンピュータによって合成された炎があたりを包んでいる。
それまで、極端に食欲の人であった宮下道雄が、ベッドシーンを境に性欲の人へと変わり、愛する女をふたたびその腕に抱くために、一時は友情の念さえ覚えた男を目の前から排除しようとしている。
観客は、間抜け面をさらに間抜けにして、スクリーンに向けて身を乗り出す。息のつまるような緊迫感のなかにおいて、由美子の意識だけはどこか冷めていて、自分の身体が自分のものでないような奇妙な感覚におそわれる。
由美子は何者かの視線を背後に感じる。途端に身体が強張り、指先ひとつ動かせなくなる。劇的な音楽や炎の燃えさかる音が、しだいに遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。
そいつは、身じろぎひとつせずに、暗闇からこちらを見つめている。
「おまえは立派によくやったよ」そいつの声が聞こえてくる。
「だけど、あなたが川に落ちたとき、わたし、何もできなかった」由美子の心の声が館内に響く。
そいつの手が暗闇から伸びてきて、背後から由美子の肩にズシリとのしかかり、鋭い爪が食い込む。
「やっぱり、あなたはわたしのこと恨んでいたんだね」
荒い息が首筋にかかったかと思うと、太い牙が喉に食い込んでくる。
「いいよ。あなたに殺されるのなら…だって、あなたのことが好きだから」
「今でもか?」
「うん、今でも…」
「それなら、奴を近づけるな、あの汚らしい野良犬を」
「野良犬?」
「そうだ」
「誰のこと?…達郎のこと?」
「いや、それは…」
そのとき、何者かの雄叫びが館内に響き渡る。
「ああ、あれは野良犬が腹を空かせて鳴いているんですね」となりにいるはずの達郎の声が、遠くから聞こえてくる。「だけど、こんなに真っ暗だと、何も見えないから、エサを探すこともできないんですよ」
「え? 犬って、夜行性だから、夜目が効くんじゃないの?」由美子はとなりの達郎に視線を移す。
しかし、そこに達郎の姿はなく、そこにいるのは一匹の野良犬…いや、加藤だ。
「満足を覚えた飼い犬の目、昼の光に慣れてしまった犬の目には、すでに暗闇を見透す力はない…重要なのはいつも空腹で、夜の世界を徘徊すること。それだけだ」加藤の口がゆっくりと動き、その顔がぼやけてくる。
そこで金縛りは解けて、現実の音が戻って来る。