驟雨-3 にわか雨と湯葉の笑顔

文字数 1,955文字

 虹子は旅行会社に勤務している。一応、正社員採用だ。
 旅が好きで、とくに一人旅が大好きで、〝おひとりさま女子〟向けのツアーを企画したくて受けた会社だった。
 しかし入社後は、社の方針でクルーズコンサルタントの資格取得を義務づけられ、資格を取ったあとは横浜の店舗に配属された。制服を着て、来店したお客様にご希望の旅行をコーディネートする業務である。
 もちろん、不満だった。旅行のコーディネート自体はやりがいのあるものだったが、接客が苦痛でたまらなかった。作り笑いは子どものころから苦手だった。
 ミイラ病になってよかったと思えるのは、内勤に回されて、念願の企画部に転属できたことである。

   ***

 クリニックの診察室を出る前に、ビッグサイズのマスクで顔を隠し、つば広のストローハットを目深にかぶった。
 会計を済ませて外へ出たら、うんざりするほど輝いた青空が広がっていた。強い陽射しが、青山通りのビル群を明と暗に塗り分けていた。
 灰色の歩道に、黒々と落ちた自分の影が鬱陶(うっとう)しくて、急ぎ足で駅に向かった。
 キタムラの帆布素材のトートバッグに、ミハマのサンダル、ミミ&ロジャーの白いレイヤードワンピース。10代のころから慣れ親しんだ元町商店街で揃えた一式は、虹子にとって戦闘服だ。地元の人たちに、なんだか守られている気分になる。
 しかし、今日ばかりは全身それでかためていても、すれ違う人びとが投げかけてくる視線に気が滅入った。
 この世界の全員に、訝しげな目で見られている気がした。

 陽に当たると、いっそう顔が痛痒(いたがゆ)い。苛立ち、腹立ち、気分が反転しちゃったら泣き出しそうな自分を奮い立たせて5分ほど歩き、ようやく地下へ通じる駅の出入口が見えたとき、ゆらりと空気が動いた。
 ぬるい風が、世界をひと舐めしたかと思うと、足元の影が薄くなり、かわりに小さな黒い点が路面に落ちて、どんどん増殖していった。
「ヤダァにわか雨」
「予報ゼロパーだったのにィ」
 若い女の裏返った声に、男の舌打ちが混じって聞こえ、誰もがバタバタと動作を速める。
 そのなかで、虹子だけが足を止めた。
 雨のなかでは、痛痒さがいくらかマシになる。地獄月間に突入した虹子にとって、思いがけないそれはめぐみの雨だった。

 驟が現れたのは、そのときだった。
 地下鉄の出入口からうつむいて出てきた彼は、空をちらりとも見ず、地上に雨が降っているのは当然と思っているかのような滑らかな動きで、持っていたネイビーブルーの長傘を開き、2、3歩、歩き出してから視線を上げた。
 虹子のちょうど正面だった。
 エスカレーターや階段を上がってきた他の人たちが、出入口の軒先で予想外の雨に二の足を踏んでいたのにもかかわらず。

 虹子のほうは、動きを止めて立ち尽くしていた。
 驟から見たら、そこだけ、まるで静止画だったことだろう。そんな虹子に彼はまっすぐ近づいてきて、虹子の目の前で足を止め、さしていた傘をひょいと虹子にかざしてくれた。
 空を(さえぎ)り、予想外に虹子の頭上に広がった傘。その裏側には、晴天があった。爽やかな水色を背景に、白い雲がふわふわと浮かんだ青空がプリントされていて、思わず仰いで二度見した虹子に、彼は言った。
「帽子が濡れちゃいますよ」

 もしも、出かける前に雨の確率が10%でもあったなら、つば広のストローハットは選ばなかった。多少顔は出てしまうけれどもキャップを選び、折りたたみ傘を携帯する。万が一降られたら、キャップをかぶったまま傘をさす。
 でも今日は、虹子の住む横浜も、都内も雨は0%だったのだ。つまり、関東全域が。
 それなのに、なぜ彼は、余裕の笑みで虹子に〝プライベート青空〟を貸すことができるのか。
 不思議なことに、虹子には確信があった。
「ねえ、あなた、雨男でしょう」
 彼は一重のわりに大きな目を見開いて、丁寧にむかれたゆで卵を思わせる肌を、半紙を丸めるみたいにくしゃくしゃにした。
「めちゃくちゃそうです」
 湯葉(ゆば)をすくい上げたような笑顔だった。
「すごいな。なんでわかるの?」
 笑うと、鼻梁(びりょう)(ほほ)と目尻にたくさんのしわが寄る。きれいな白い歯とピンク色の歯茎が、実に健康そうな印象だった。

 なんて歯並びがいいんだろう、と虹子はまず思い、それから、湯葉をすくったところをもう一回見たいという気分になり、どういう言葉を使ったのだったか、気がついたらお茶に誘っていた。
 驟はあっさりOKした。ノリが軽いというよりは、来るもの拒まずの無防備(むぼうび)さで。

 ひとつの傘で並んで歩くと、驟からふわりと、ミントの香りが漂ってきた気がした。
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