凍雨-2 傷んだ柿とスーパームーン

文字数 2,194文字

 (へび)脱皮(だっぴ)というものを、実際に見たことはないけれど、きっとこんな感じだろうと虹子(にじこ)は思う。
 9月の第1週だった。
〝ミイラ〟の包帯のように白く浮き上がっていた顔の皮膚が、つるりと()けた。
「へえ。なんかエステしたみたいだね」
 下から現れた虹子のほんとうの顔を見た、(しゅう)の第一声だった。
 新しい肌はみずみずしく、つややかでハリもある。
 毎年真夏に虹子を襲う〝ミイラ病〟は、ものすごく大袈裟(おおげさ)極端(きょくたん)な、肌の新陳代謝なんじゃないかと虹子自身は解釈している。でもプロセスが極端すぎて、やはり虹子には迷惑だ。こんなこと、なくなってくれるなら、それがイチバンいい。
 まして――。
 母が投げつけてきた言葉のように「いい気になって生きてきたから、バチがあたった」なんて、認めたくはない。
 とにかく、新しく現れた肌がいくらきれいでも、喜ぶ気にはなれなかった。

 その日から、驟の態度はどこかよそよそしくなった(ように、虹子には思えた)。
 虹子のほうも、夜ごと降りしきる雨を鬱陶(うっとう)しく感じてきた。
 もう顔は痛痒(いたがゆ)くない。雨ではなく、降るような星空を見たいと思った。一度思ってしまったらずっと頭から離れなくなり、その気持ちは日増しにふくらんでいった。
 放浪生活に疲れてきたのも、あったかもしれない。
 虹子に芽生えた小さなうとましさを、驟は敏感に察していたのかもしれない。
 驟は自分にとって恋人なんだろうか。その疑問が窓ガラスの汚れのように虹子の心を曇らせた。
「いくら雨男だからって、どこにも定住しないのは、落ち着かないんじゃない?」
 虹子は意味深に問いかけるようになり、その都度、驟は虹子の心を知ってか知らずか、晴れやかに返して、はぐらかした。
「俺は居場所を見つけるのがうまいんだ。どこでも〝隙間(すきま)〟を見つけられる。俺一人分くらいはね」

   ***

 ここ数日は、虹子の部屋で生活している。
 会社帰り、いつものようにJR山手駅まで迎えにきていた驟と、駅前のスーパーで、ひとつ98円の柿を2個買った。他の野菜や肉と一緒に。
 家に帰り、キッチンでレジ袋に手を入れた虹子は、悲鳴をあげた。
「どうした」
 テレビを見ていた驟が、飛んできた。
「なんか、指がぐにゅって……気持ち悪」
 袋の中で、指先に、やわらかくて濡れている不快なものの感触があったのだが、取り出してみると、柿だった。2つ買ったうちの一方が致命的に(いた)んでいて、玉の3分の1ほどが腐って溶けている。
 一部がどす黒く変色した柿を見て、虹子はものすごい不運に見舞われた気がした。
 ところが、驟は安堵した顔で、
「なんだ、びっくりした。もう1個は大丈夫なんだから、いいじゃん」
 などと朗らかに言い放ったものだから、虹子は猛烈(もうれつ)に腹が立ち、()みついた。
「なんで? なんでそんなに受け身なの? それでいいと思ってるの?」
 驟は目を丸くして、しばし微動もできず、立ち尽くしていた。その背後で、テレビのニュースが九州地方の水不足を報じている。
 なぜこんなにも腹立たしいのか、虹子は自分でもわからなかった。
「なんで? どうしてなんでもそんなに軽く許せちゃうワケ?」
 驟を責めながら、脳裡(のうり)(よみがえ)っていたのは、帰り道で驟と交わした会話だった。
「驟は、友達はいないの?」
「長く続いたことは、ないなあ」
「一人もいないの」
「そうだなあ。トモダチかあ。オンナノコもそうだなあ」
 尋ねられてもいないのに、漫然と、オンナノコとも長く続いたことはない、などとつけ足した、その無神経さにいまさらながら(いきどお)る。しかし、まさかそんな些細(ささい)なことが、自分のなかに引っかかっているとは、思いたくもなかった。
 驟は明らかに戸惑っていた。
 テレビのニュースはスーパームーンの話題に移り、今夜は晴れた地方で〝どでかい満月〟が見られると告げていた。

   ***

「スーパームーンが見たい!」
 寝る前に、虹子は駄々(だだ)をこねた。
 極上の月ってやつを一緒に見たい、見たい、見たい。
「生まれついた運命だかなんだか知らないけど、雨男なんて自分の力で突破してみせてよ。雨雲なんか気合いで吹き飛ばして!」
 驟は黙って寝室へ行き、夏掛けを頭からかぶってもぐってしまった。
「6歳差ってすごいよね。小学校に、私が卒業してから入学してるでしょ」
 薄いふとんのなかで背を丸める驟に、追い打ちの皮肉を降らせながら、虹子も寝床に入る。雨の降る湿った音が、耳について苛々(いらいら)した。
「虹子さん」
 ふとんのなかから、驟のくぐもった声がした。
「ずっと俺を疑ってただろ」
 虹子は絶句する。
「いつも、あんなふうに、気軽にオトコを誘うのかよ」
 出逢った日のことを言っているのだ。いまさらそんな毒矢を、驟が自分に放つなんて、思ってもみなかった。
〝バチがあたったのよ〟
 母の高らかに笑う声が、頭に響いた。

 その夜、驟は激しく虹子を抱いた。
 しわくちゃになったシーツの上で、虹子は柿を思い出した。手の中で、くるくると向きを変えられて、皮を()かれていく、濡れた柿を。
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