凍雨-1 その傘には、いつも青空があった

文字数 1,829文字

 違う。虹子は心のなかで首をふった。
 (しゅう)とはうまくいっている。なにも、変わってなんかいないんだ、と。
 だけど、虹子にはわかっていた。
 そうやって、わざわざ否定しなくちゃならないのは、ほんとうはそうじゃないのを認めているからにほかならないってことを。

 変わらない関係なんか、ない。盆休みに、地下街に()り出したあたりから、おかしかった。
 あのときは明らかに、ふたりとも、ほんの少しずつ、無理をしていた。その、〝ほんの少し無理をしている感じ〟はその後もずっと続いていて、毎日、着実に降り積もり、厚みを増している。
 なぜだろう?
 どうしてこうなっちゃったんだろう?
 なにが原因だったんだろう?
 自問してみて、絶望する。最初から、原因になり得る要素はあり余るほどあったのだ。見ないふり、考えないふりをしていただけで。

   ***

 仕事を終えてビルから出ると、夕暮れにもかかわらず、息もつまるほどの熱気が地表を覆っていた。
 熱帯だ。東京はいつから熱帯になったんだ!
 叫びたい気持ちを抑えて、キャップとマスクをしている(いますぐ、かなぐり捨てたくなる)ことの暑苦しさに耐え、スマホのスケジュール管理アプリで〝今日帰る場所〟を確認する。
 うん、今日は……西大井(にしおおい)のウィークリーマンションだよね。よし。
 これまでの(くせ)で、うっかり山手へ帰ってしまわないよう(実際に、何度か失敗した)、虹子はビルを出たところで〝念のための確認〟を自らに義務づけていた。
 田町から品川で乗り換えて、西大井。近いから、乗り越しには注意しなくちゃ。
 独りごとを繰り返しつつ、駅まで歩き、電車に乗りこんだ。
 田町は晴れている。
 金色の夕映えが、駅と電車と家々の屋根を染めていた。

 車窓から、暮れなずむ町を眺めて、考える。
 驟との暮らしのことだ。
 生活費は、7対3で虹子のほうが払っている。もちろん、交通費や一人のときの食事などは、お互いに自分でまかなっていて、そのほかの、たとえばふたりで食べるデリバリーのピザ代やスーパーで買うものの会計、ウィークリーマンションの滞在費などを、虹子が出していた。
 でも、すべてを寄りかかられているわけじゃないもの。
 呪文(じゅもん)のように、虹子は自分に言い聞かせる。
 驟は、キャンプ場で飲み物を調達しに行ってくれたり、出かけた帰りにスイーツを買ってきてくれたり、そういうとき(彼が一人で会計するとき)はごく自然におごってくれるのだ。だから、いちいち割り(かん)にしようなどと、虹子のほうから言うのは無粋(ぶすい)に思えた。
 自分のほうが年上で、職が安定していて、年収も上なのだし、負担が多いのは当然だと、そう考えていた。考えるようにしていた。
 少なくとも、〝女は男におごってもらって当然〟という態度よりは、受け入れやすい考えだった。

 それでも、どこかに、驟を試したいという気持ちがあったのかもしれない。
 茶封筒に10万円を入れ、「非常時は、ここから出していいからね」と、どこに泊まるときにもテレビの横に置いておいた。
〝もしも中身を使ったら、出した札の枚数と日付を封筒の表に書いておき、後日、同じ枚数を戻したときに横線で消す〟
 そういうルールにしておいた。
 驟は、手をつけるだろうか――。
 そうやって、虹子がいわば監視しているのを、驟は気づいていたのか、どうか。封筒の中身を、虹子自身はデリバリーの支払いに使ったりもしたのだが、驟は決して手をつけなかった。

   ***

 西大井の駅が近づくと、夕暮れの空に灰色の雲が増え始める。電車が駅にすべりこむころには、空は泣いていた。
 電車を降り、階段を下りて、改札に向かう。人混みに、虹子の目は無意識のうちに驟を探す。
 毎日、驟は必ず待っているのだ。〝その日の駅〟まで、虹子を迎えにきてくれる。
 あの長傘を持って。
 いた!
 改札の向こうに、驟の姿を発見すると、ほっとする。そして、この気持ちに嘘はない、お金のことなんか気にしている自分はやっぱり小さい、と思うのだった。

 だから、虹子は傘を開かない。
 いつからか、駅からは、相合傘(あいあいがさ)で帰るのが習慣になっている。毎日、そうやって、自分の気持ちを確かめたかった。信じたかったと言ってもいい。
 驟の傘の裏には、いつも、青空があった。
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