淫雨-2 溺れていたい、人肌の眠りに
文字数 2,276文字
木造の古い2階建てのアパートで、鉄製の外階段は錆びていた。1階と2階を合わせても10戸程度の建物の、1階の一番奥が驟の借りている部屋だった。
***
東京メトロ千代田線の終着駅である北綾瀬 駅から、路線の延長方向へ15分。
驟は裏側に青空がプリントされている例の長傘を、虹子は白地にピンク色とグリーンの水玉模様が入った折りたたみ傘をさして、北綾瀬の住宅街――驟のせいで発生したと思われる、にわか雨に、あわてて洗濯物を取り入れている家々――のなかを歩いてきた。
虹子は傘をさしながらも、チャコールグレーのキャップをかぶり、その下に、大判のマスクをして顔をカバーしている。
トタン屋根に雨の跳ねる音が、波音のように響いていた。
1階の一番奥の部屋の前で、驟はデイパックを背から下ろし、表側についているポケットのファスナーを開けて、アパートの鍵を取り出した。
鍵にはキーホルダーのかわりに、真っ赤なお守りがついている。
たしかこういう赤は、猩々緋 というのではなかったか――虹子はぼんやり考えて、朱色ではなく、こんな真っ赤なお守りは珍しいなと、印象に残った。神社のお守りを持っているくらいだから、キリスト教(というか聖書を使う宗教)の信者ではないと言っていたのは、嘘ではないみたいだ、とも。
驟が鍵穴に鍵を刺すと、頼りなく金属の回る音がして、ドアが開いた。
「ね、狭いでしょ」
閉じた傘を玄関の壁に立てかけて、驟は紐 をほどかずにスニーカーを脱ぎ、さっさとなかへ入る。虹子もならって傘を立てかけ、パンプスを脱いだ。わずか15分しか歩いていないのに、傘の先にはしずくが落ち、玄関のたたきに小さな水たまりができていく。
部屋は薄暗く、入って真正面にある四角い窓だけが、ぼんやりと白んでいる。
こもった熱気が、虹子を迎えた。むっとする暑さと湿気に、汗が噴き出す。
驟が素早く、窓ガラスを10cmほど開けると、雨のにおいと雨音が、我がもの顔で室内に踏みこんできた。
汗ばんだ肌をそっとなでていく、ぬるい風。室内の空気をわずかに揺らすその風を、驟みたいだと虹子は思い、心地よくて、マスクを外す。
6畳くらいだろうか。
入ってすぐ右手に台所(といえるほどのものではなく、小さなシンクに一口のコンロ、小さな吊戸棚とシンク下収納があるだけだ)、左手に押し入れと、トイレのドア。コンロの上にはケトルが一つ。
テーブルも、椅子も座布団もない、殺風景な部屋だった。
「狭いけど、広いね」
「なに言ってんの」
荷物がないせいで、ずいぶん広く感じられた。
四隅がすっきり見えていると、6畳ってこんなに広いんだ、と、重ねて虹子は思う。
よけいな荷物の数々が、自分の生きる空間を、どれだけ息苦しくしているのか。
薄い生成 りのカーテンの向こうで、雨だれがひっきりなしに落ちている。
驟の姿は逆光で、シルエットになっている。
やや背を丸め、ちょっと困ったようなポーズに見える。虹子を連れて来たはいいものの、ここでなにをしたらよいのか見当がつかないというふうな。
そういえば、自分はなんのために、ここへ連れて来るようせがんだのだろう――もはや虹子にもわからない。いや、はじめから、わかってなんかいなかったのだ。
「ね? 見るものなんて、なんにもない、つまんない部屋でしょ」
黒いシルエットが、自嘲 気味 に肩をすくめた。
「荷物は?」
一歩、二歩と近寄りながら、虹子は聞いた。軒先にとまっている小鳥に近づくみたいに、慎重に。
「全部、押し入れ。キャンプ道具とか、そういうのだけだから」
「ここで寝る日もあるの?」
「まあ、たまにはね」
驟が答えたときには、息がかかる距離まできていた。
「つかまえた」
驟の首に腕をまわす。
「ちょ、なに」
言葉とは裏腹に、驟もまた虹子の腰に腕をまわして受け止めた。
虹子は気づき、確信する。〝そのため〟に、今日ここへ来たのだということを。
「決めた。今夜はここに泊まる。ね、いいよね」
つま先立ちで顔を寄せると、驟は拒 まず、虹子に応えた。
***
真夜中、電気は消して寝たはずなのに、虹子はまぶしいような気がして目が覚めた。
眠る前は、夢中で抱き合っていたので意に介さなかったが、窓の近くに外灯があり、その青白い光が、薄手のカーテンを難なく透過して射しこんで、室内に奇妙な明るさを与えている。
裸でシュラフに寝るなんて、はじめてだった。
驟は、横で穏やかな寝息をたてている。
冬用のシュラフ(封筒型というタイプだそうだ)を開いて敷き、夏用のシュラフを開いて被り、2枚のシュラフに挟まれて、いい歳の男と女が裸で寝ている。
シュラフ自体、虹子ははじめてだったのだが、この状況に、ふと、自分はいったいなにをしているんだろうという考えが湧き、あわててふり払った。
ミイラ病の期間は、顔が痛痒くていつもろくに眠れないのに、今年は熟睡できている。いまはこの、尊い人肌の眠りに溺れていたい――そう自分に言い聞かせ、かけているほうのシュラフに顔を埋めて、再び、うとうととまどろんだ。
***
ウィークリーマンション、カプセルホテル、キャンプ場、ごくたまに北綾瀬のアパート。驟の本来のローテーションからカプセルホテルを除き、かわりに虹子の部屋を加えて、ふたりの暮らし――放浪生活――は始まった。
***
東京メトロ千代田線の終着駅である
驟は裏側に青空がプリントされている例の長傘を、虹子は白地にピンク色とグリーンの水玉模様が入った折りたたみ傘をさして、北綾瀬の住宅街――驟のせいで発生したと思われる、にわか雨に、あわてて洗濯物を取り入れている家々――のなかを歩いてきた。
虹子は傘をさしながらも、チャコールグレーのキャップをかぶり、その下に、大判のマスクをして顔をカバーしている。
トタン屋根に雨の跳ねる音が、波音のように響いていた。
1階の一番奥の部屋の前で、驟はデイパックを背から下ろし、表側についているポケットのファスナーを開けて、アパートの鍵を取り出した。
鍵にはキーホルダーのかわりに、真っ赤なお守りがついている。
たしかこういう赤は、
驟が鍵穴に鍵を刺すと、頼りなく金属の回る音がして、ドアが開いた。
「ね、狭いでしょ」
閉じた傘を玄関の壁に立てかけて、驟は
部屋は薄暗く、入って真正面にある四角い窓だけが、ぼんやりと白んでいる。
こもった熱気が、虹子を迎えた。むっとする暑さと湿気に、汗が噴き出す。
驟が素早く、窓ガラスを10cmほど開けると、雨のにおいと雨音が、我がもの顔で室内に踏みこんできた。
汗ばんだ肌をそっとなでていく、ぬるい風。室内の空気をわずかに揺らすその風を、驟みたいだと虹子は思い、心地よくて、マスクを外す。
6畳くらいだろうか。
入ってすぐ右手に台所(といえるほどのものではなく、小さなシンクに一口のコンロ、小さな吊戸棚とシンク下収納があるだけだ)、左手に押し入れと、トイレのドア。コンロの上にはケトルが一つ。
テーブルも、椅子も座布団もない、殺風景な部屋だった。
「狭いけど、広いね」
「なに言ってんの」
荷物がないせいで、ずいぶん広く感じられた。
四隅がすっきり見えていると、6畳ってこんなに広いんだ、と、重ねて虹子は思う。
よけいな荷物の数々が、自分の生きる空間を、どれだけ息苦しくしているのか。
薄い
驟の姿は逆光で、シルエットになっている。
やや背を丸め、ちょっと困ったようなポーズに見える。虹子を連れて来たはいいものの、ここでなにをしたらよいのか見当がつかないというふうな。
そういえば、自分はなんのために、ここへ連れて来るようせがんだのだろう――もはや虹子にもわからない。いや、はじめから、わかってなんかいなかったのだ。
「ね? 見るものなんて、なんにもない、つまんない部屋でしょ」
黒いシルエットが、
「荷物は?」
一歩、二歩と近寄りながら、虹子は聞いた。軒先にとまっている小鳥に近づくみたいに、慎重に。
「全部、押し入れ。キャンプ道具とか、そういうのだけだから」
「ここで寝る日もあるの?」
「まあ、たまにはね」
驟が答えたときには、息がかかる距離まできていた。
「つかまえた」
驟の首に腕をまわす。
「ちょ、なに」
言葉とは裏腹に、驟もまた虹子の腰に腕をまわして受け止めた。
虹子は気づき、確信する。〝そのため〟に、今日ここへ来たのだということを。
「決めた。今夜はここに泊まる。ね、いいよね」
つま先立ちで顔を寄せると、驟は
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真夜中、電気は消して寝たはずなのに、虹子はまぶしいような気がして目が覚めた。
眠る前は、夢中で抱き合っていたので意に介さなかったが、窓の近くに外灯があり、その青白い光が、薄手のカーテンを難なく透過して射しこんで、室内に奇妙な明るさを与えている。
裸でシュラフに寝るなんて、はじめてだった。
驟は、横で穏やかな寝息をたてている。
冬用のシュラフ(封筒型というタイプだそうだ)を開いて敷き、夏用のシュラフを開いて被り、2枚のシュラフに挟まれて、いい歳の男と女が裸で寝ている。
シュラフ自体、虹子ははじめてだったのだが、この状況に、ふと、自分はいったいなにをしているんだろうという考えが湧き、あわててふり払った。
ミイラ病の期間は、顔が痛痒くていつもろくに眠れないのに、今年は熟睡できている。いまはこの、尊い人肌の眠りに溺れていたい――そう自分に言い聞かせ、かけているほうのシュラフに顔を埋めて、再び、うとうととまどろんだ。
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ウィークリーマンション、カプセルホテル、キャンプ場、ごくたまに北綾瀬のアパート。驟の本来のローテーションからカプセルホテルを除き、かわりに虹子の部屋を加えて、ふたりの暮らし――放浪生活――は始まった。