膏雨-4 君は愛に飢えている

文字数 1,920文字

 暗闇が、重かった。沈黙は闇の重さを倍増させる。
 やっぱり、バチがあたったのか――。

   ***

 はじめてミイラ病になった年、自分の顔がとんでもないことになってしまったショック(その時点では、治るとはとても思えなかった)と、くず男こと幸人と破局したこととのダブルショックで、ついふらりと、港南台にある実家を訪ねた。
 それまで、避けていたはずなのに、気弱になったことが原因で、うっかり訪ねてしまったのだ。
 すると――。
「いい気になって生きてきたから、バチがあたったんじゃないの」
 母は、虹子の顔の惨状を見て眉をひそめ、高らかにそう言ったのだった。実の母である。
 そういう人だとわかっていたのに、期待した自分が莫迦(ばか)だったと、虹子はつくづく思い知った。
 (なぐさ)めてほしいときに、慰めてくれるわけがない。弱った人間には、(むち)をふるうのが一番だと、母は信じているのだから。

 虹子が子どものころから、母はずっとそうだった。だから、折り合いは当然のごとく、悪かった。
 父は海運会社に勤務していて、仕事で――あるいは別の理由、たとえば外に愛する人がいたとかだったのかもしれないと、大人になってから虹子は思うようになったけれども――めったに家にいない人だったから、父のサラリーでローンを組んで手に入れた建売住宅は、専業主婦である母の城と化していた。
 4つ年下の妹ばかりを、昔から、母はかわいがった。
 虹子は公立の進学校に通い、都内の有名私立大学に進んで、大手企業に就職した。
 妹は横浜の女子大を出て、高給取りの男をさっさとつかまえ、すでに子を二人も出産している。そして、港南台の隣の駅である洋光台にマンションを買い、毎日のように子連れで実家に入り浸っている。
「お母さんなんて、簡単じゃない」
 妹はいつも、姉の虹子を(さらには母親をも)小馬鹿にしたふうな口をきいた。
「お姉ちゃんも適当に、ご機嫌をとっておけばいいのよ」
 母とはうまくいかない虹子を、妹は茶化すように肩をすくめ、そう評したものだった。
 この妹とも、わかり合えない。どんなに努力しても、わかり合える日は決してこないのだろうと、虹子はその度に確信した。

 幸人にふられてからというもの、寄ってくるのは不倫男ばかりだった。
 一人目のときは、真剣になって深手を負った。
 二人目のときは、「駄目だ、駄目だ」と思いつつも巻き込まれ、さらに重い痛手を負った。
 三人目以降は、感覚が麻痺した。
「妻とは没交渉なんだ。まもなく離婚する」
 彼らの言うその台詞(セリフ)は、確実に嘘であると、おかげで自信をもって言い切れるまでに至ってしまった。
「君は愛に飢えているんだ。愛を求めてる」
 訳知り顔で、(たわ)けたことを言ってきたのは、何人目の男だっただろうか。
 そんなことない! そんなことない! そんなことない!
 百万回くらい言ってやりたかったのに、そのときはひと言も返すことができなかった。情けないことに。

   ***

 暗闇が、ますます重くのしかかってくる。
「すごーい」という空疎な感嘆を、男との会話でやすやすと連発できる母や妹とは、虹子は違う。おかしいのは母や妹のほうだと思ってきたが、まさか、自分のほうだったのか――。
 不意に、鼻をすする音が耳についた。
 驟が泣いているのかと思ったが、そうではなく、泣いているのは自分である。
 まぶたが熱く、目頭が痛く、目尻からしずくがこぼれている。その感覚に気づき、泣いているのを意識したとたん、加速した。
 呼吸が乱れて、しゃくりあげる。鎮めようとすればするほど、壊れた笛のような声が出て、しゃくりあげてしまう。
「もういいよ」
 驟が再び寝返りを打ってこちらを向き、ゆっくりと覆いかぶさってきた。
「なにも、しゃべらなくていい」

 驟の体温の熱さが伝わってくる。
 暗闇に、自分以外の人間がいたのだと思えて、安心した。
 長い指が虹子のくちびるを探り当て、
「口は荒れてないんだね。痛い?」
 と、指そのもののささやきのように、指の主がささやく。すぐ近くに、驟の顔があるのだ。
 首を横にふる。まだ若干しゃくりあげていて、キスなんかできる状態じゃないのに、彼のくちびるは、巧みに、かすかに触れて、去っていく。さらりとした、軽い布のような感触だった。
 首筋から鎖骨をたどり、吐息で驟は言う。
「昔さ、だれも俺を助けてくれなかった」
 指が部屋着のなかに入ってくる。
「だから俺は、助けるよ」
 なにそれ。だけど――。
 雨は静かに降り続き、その雨音に、虹子は抱かれた。
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