凍雨-3 嘆きの谷と、祝福の
文字数 2,685文字
蒸気の弾ける音はしないのに、コーヒーの香りが漂っていた。
寝床から起き出した虹子 がリビングに行くと、いつも使っている電気式のコーヒーメーカーは沈黙している。
かわりに、キッチンでは驟 が、片手で琺瑯 のケトルをゆっくりと回しながら、ガラス製のデカンタの上に重ねたドリッパーに、細く湯を注いでいる。
コーヒーを飲むのは虹子だけだ。
出逢った日に、有名コーヒーチェーン店のカウンターで、「珈琲も紅茶も苦手なんですよ」と言い放った驟である。いまも毎朝、虹子はコーヒーを飲むが、彼は野菜ジュースだ。
蒸された豆から湯気が立ち、ふくよかな香りを空中に放って消えていく。慈しむように湯気の奥へと向けられた驟のまなざしに、虹子はそれを悟った。
驟は今日、去ろうとしている。
そしてもう、戻ってこない。
不思議なことに、さみしさを覚えるより先に心のどこかがほっとして、このところずっと張り詰めていたなにかがほどけていく。
私は彼を利用している?
利用されているのは私のほう?
お互いに、ホントにこの人じゃなきゃだめなの?
そういうことを、もう考え続けなくてもいいのだと思うと、楽になった。
トーストが焼けるにおいが漂ってくる。
驟が顔を上げ、寝起きの恰好 の虹子に視線を止めてほほ笑んだ。
「きれいだよ」
間違いなく彼はそう発音したのだが、なぜか、遠い海の彼方で鳴っている波の音のように虹子には思えた。
「うん」
薄いリアクションを返し、ぼんやりとその波音に耳を澄ます。驟の言葉が、言葉とは別の意味を含んで寄せては返し、虹子の心に触れていく。
「座っててよ。もうできるよ。朝食」
うん。
虹子は素直に従った。
***
「イッテラッシャイ」と、見たことのない笑顔で送り出されたとき、それは確信になった。
カレハ、サル。モドッテコナイ。
だから、仕事帰りに山手駅に着いたとき、雨が降っていなくても驚かなかった。
改札口の向こうに、いつも待っていてくれる驟の姿は当然なかったが、それにも別段、驚かなかった。
駅を出ると、暮れた空に、一等星が輝いていた。
デネブ、アルタイル、ベガ。
夏の大三角をつくる一等星の名を口のなかで繰り返し、虹子は下を向いて家路についた。山手の駅前商店街の、濡れていない路面をひさしぶりに見た。
下を向いて歩いていても、雨が降っていないことは、わかってしまうんだな。
そう考え、「あたり前か」と声に出してつぶやいた。
マンションが遠い。
ひとりで黙って歩いていると、距離って長く感じるんだな。
そしてまた、「あたり前か」と、笑いながらつぶやいた。
自分で鍵を開け、暗い部屋に一人で入る。
照明をつけると、驟の荷物――と言っても、いつもテレビのそばの床に置いていた、デイパックだけだけれど――は、なくなっていた。
和室に入ってバッグを置き、通勤着を脱いで、Tシャツとハーフ丈のイージーパンツを身に着ける。脱いだ服をハンガーにかけ、ふと手を止めた。
今日は、驟に出逢った日と同じサマーワンピースをわざわざ出して、リネンのカーディガンを羽織っていたのだ。はたして彼は、気づいてくれたのか、どうだろうか――数秒間、手をとめたまま考えて、いまさらそんな無意味なことを気にしている自分を虹子は笑った。
リビングに戻ると、ローテーブルに目が留まった。ぶ厚い本が置いてある。驟の聖書だ。
忘れていった? まさか。
一瞬、疑って、瞬時に否定し、テーブルの脇に腰を下ろす。
驟が、聖書を忘れるわけがない。毎日、読んでいたのだから。彼が去ったあと、この本がここにあるということは、故意に置いていかれたと考えるべきなのだ。
そう自分に言い聞かせる。
静けさがやけに強いリビングで、虹子はおそるおそる聖書に触れた。驟が読んでいる姿を見ていたが、虹子が触ってみるのははじめてだった。
なんだか、おそろしかったのだ。
触れてはいけない驟の大切な部分に触れてしまう気がして。
聖書の表紙はざらざらしていた。黒い革に似た素材はこれまでに何度も濡れて乾いたのだろう、あちこちひび割れ、かたくなって劣化している。
片手で持ち上げようとしたら、重かった。そのまま手元に引き寄せて、ぱらぱらとページをめくる。
やっぱり――。
二つ折りにされた紙片が挟まっていた。
ページを開いたままにして、紙片を手にとり、なかを見る。
《だれも俺を助けてくれなかったって言ったけど、あれはウソ。》
細い雨のような驟の字が並んでいた。
《子どものころ、よく雨宿りさせてもらった教会があって(いや、正直に言うと、雨宿りってことにして、実は逃げこんでた)、そこの牧師さんがこれをくれた。》
これまで断片的に聞いてきた、驟の生い立ちのエピソードを、頭のなかでかき集める。虹子からすればあり得ないほど孤独な生い立ちで、それを飄々 と話す彼の態度に戸惑ったのを覚えている。
《俺、暇だったから、一人でこれを何度も読んだ。でも、読んでいるときは一人じゃないんだ。そんな気持ちになれるんだよ。うまく説明できないけど。》
なにを言いたいのだろう。
虹子はため息をつく。別れの言葉、あるいは、さよならの理由が書かれているのを予想していた。しかし、そんな文言は一つもない。
あとは最後に、
《俺がいちばん好きなのは、ここ。詩編84章の6節から7節。このページだよ。》
そう書いてあるだけだ。
虹子の目は、テーブルの上に開かれた聖書の上をさまよった。
大きく〝84〟と見出しのついた章がある。
本文の行頭に、2、3、4……と、番号がふってある。
6の行から7の行を、目でなぞった。
〝いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。〟
6の行から7の行には、そうあった。
「なんだっていうのよ。私に、なにをどう理解しろっていうの?」
さっぱりわからない。
そのことに腹が立ち、うっかり腹を立ててしまった勢いで泣きそうになり(せっかく気持ちが揺れないよう努めていたのに!)、涙をこらえるはめになった。
「莫迦 !」
とりあえず叫び、立ち上がる。
テレビの横に置いていた、〝非常時のお金〟の茶封筒も、なくなっていた。
寝床から起き出した
かわりに、キッチンでは
コーヒーを飲むのは虹子だけだ。
出逢った日に、有名コーヒーチェーン店のカウンターで、「珈琲も紅茶も苦手なんですよ」と言い放った驟である。いまも毎朝、虹子はコーヒーを飲むが、彼は野菜ジュースだ。
蒸された豆から湯気が立ち、ふくよかな香りを空中に放って消えていく。慈しむように湯気の奥へと向けられた驟のまなざしに、虹子はそれを悟った。
驟は今日、去ろうとしている。
そしてもう、戻ってこない。
不思議なことに、さみしさを覚えるより先に心のどこかがほっとして、このところずっと張り詰めていたなにかがほどけていく。
私は彼を利用している?
利用されているのは私のほう?
お互いに、ホントにこの人じゃなきゃだめなの?
そういうことを、もう考え続けなくてもいいのだと思うと、楽になった。
トーストが焼けるにおいが漂ってくる。
驟が顔を上げ、寝起きの
「きれいだよ」
間違いなく彼はそう発音したのだが、なぜか、遠い海の彼方で鳴っている波の音のように虹子には思えた。
「うん」
薄いリアクションを返し、ぼんやりとその波音に耳を澄ます。驟の言葉が、言葉とは別の意味を含んで寄せては返し、虹子の心に触れていく。
「座っててよ。もうできるよ。朝食」
うん。
虹子は素直に従った。
***
「イッテラッシャイ」と、見たことのない笑顔で送り出されたとき、それは確信になった。
カレハ、サル。モドッテコナイ。
だから、仕事帰りに山手駅に着いたとき、雨が降っていなくても驚かなかった。
改札口の向こうに、いつも待っていてくれる驟の姿は当然なかったが、それにも別段、驚かなかった。
駅を出ると、暮れた空に、一等星が輝いていた。
デネブ、アルタイル、ベガ。
夏の大三角をつくる一等星の名を口のなかで繰り返し、虹子は下を向いて家路についた。山手の駅前商店街の、濡れていない路面をひさしぶりに見た。
下を向いて歩いていても、雨が降っていないことは、わかってしまうんだな。
そう考え、「あたり前か」と声に出してつぶやいた。
マンションが遠い。
ひとりで黙って歩いていると、距離って長く感じるんだな。
そしてまた、「あたり前か」と、笑いながらつぶやいた。
自分で鍵を開け、暗い部屋に一人で入る。
照明をつけると、驟の荷物――と言っても、いつもテレビのそばの床に置いていた、デイパックだけだけれど――は、なくなっていた。
和室に入ってバッグを置き、通勤着を脱いで、Tシャツとハーフ丈のイージーパンツを身に着ける。脱いだ服をハンガーにかけ、ふと手を止めた。
今日は、驟に出逢った日と同じサマーワンピースをわざわざ出して、リネンのカーディガンを羽織っていたのだ。はたして彼は、気づいてくれたのか、どうだろうか――数秒間、手をとめたまま考えて、いまさらそんな無意味なことを気にしている自分を虹子は笑った。
リビングに戻ると、ローテーブルに目が留まった。ぶ厚い本が置いてある。驟の聖書だ。
忘れていった? まさか。
一瞬、疑って、瞬時に否定し、テーブルの脇に腰を下ろす。
驟が、聖書を忘れるわけがない。毎日、読んでいたのだから。彼が去ったあと、この本がここにあるということは、故意に置いていかれたと考えるべきなのだ。
そう自分に言い聞かせる。
静けさがやけに強いリビングで、虹子はおそるおそる聖書に触れた。驟が読んでいる姿を見ていたが、虹子が触ってみるのははじめてだった。
なんだか、おそろしかったのだ。
触れてはいけない驟の大切な部分に触れてしまう気がして。
聖書の表紙はざらざらしていた。黒い革に似た素材はこれまでに何度も濡れて乾いたのだろう、あちこちひび割れ、かたくなって劣化している。
片手で持ち上げようとしたら、重かった。そのまま手元に引き寄せて、ぱらぱらとページをめくる。
やっぱり――。
二つ折りにされた紙片が挟まっていた。
ページを開いたままにして、紙片を手にとり、なかを見る。
《だれも俺を助けてくれなかったって言ったけど、あれはウソ。》
細い雨のような驟の字が並んでいた。
《子どものころ、よく雨宿りさせてもらった教会があって(いや、正直に言うと、雨宿りってことにして、実は逃げこんでた)、そこの牧師さんがこれをくれた。》
これまで断片的に聞いてきた、驟の生い立ちのエピソードを、頭のなかでかき集める。虹子からすればあり得ないほど孤独な生い立ちで、それを
《俺、暇だったから、一人でこれを何度も読んだ。でも、読んでいるときは一人じゃないんだ。そんな気持ちになれるんだよ。うまく説明できないけど。》
なにを言いたいのだろう。
虹子はため息をつく。別れの言葉、あるいは、さよならの理由が書かれているのを予想していた。しかし、そんな文言は一つもない。
あとは最後に、
《俺がいちばん好きなのは、ここ。詩編84章の6節から7節。このページだよ。》
そう書いてあるだけだ。
虹子の目は、テーブルの上に開かれた聖書の上をさまよった。
大きく〝84〟と見出しのついた章がある。
本文の行頭に、2、3、4……と、番号がふってある。
6の行から7の行を、目でなぞった。
〝いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。〟
6の行から7の行には、そうあった。
「なんだっていうのよ。私に、なにをどう理解しろっていうの?」
さっぱりわからない。
そのことに腹が立ち、うっかり腹を立ててしまった勢いで泣きそうになり(せっかく気持ちが揺れないよう努めていたのに!)、涙をこらえるはめになった。
「
とりあえず叫び、立ち上がる。
テレビの横に置いていた、〝非常時のお金〟の茶封筒も、なくなっていた。