膏雨-1 なんで風呂から下着つけて
文字数 1,795文字
バスルームから驟 がなかなか出てこないので、見に行くべきかどうか悩んでいる。
ぐずぐずと悩んでいる間に出てきてくれないものかと願っているのだが、出てこないのだ。
虹子が住んでいるのは、JR根岸線の山手駅から、商店街を歩いて十分あまりの1LDKで、もちろん賃貸だ。築年数はかさんでいるが、バスとトイレは別である。
横浜で生まれ育っていながら、山手駅はそれまであまり降りたことのない駅で、不動産屋に連れられて部屋を見にきたときには、駅前商店街の昭和っぽさに驚いた。
料理でいえば、醤油味。
比較してたとえるなら、実家のある港南台の駅前(高島屋とバーズとダイエーがある!)は、ホワイトソースだ。虹子がよくショッピングに行く元町商店街は、ブイヤベースかミネストローネといったところ。
ホワイトソースで育っていても、醤油味は強かった。
どこか懐かしく感じる和風の味は、じわじわ沁みてくるもので、結局ここに部屋を決め、気に入って住んでいる。元町まで一駅で行けるのもちょうどいい。
大好きな料理はいつでも手が届く環境で、たまに食べるのが幸せだ。
家具や食器のいっさいを、イケアとニトリで揃えた広くもない部屋に、男を入れたのは驟で何人目になるのだか――。
くず男こと、大学時代からつき合っていた道馬 幸人 から数え、驟までの間に何人いたかは考えたくもない。
でも、こんなふうに〝お持ち帰り〟したのは、間違いなくはじめてだった。
「驟くん」
リビングのローテーブルからおそるおそる呼んでみたが、返事はない。
リビングのドアは閉まっているし、ここからでは声が届かないのだ。
ひそやかな雨音が、耳の底を這い続けている。
ときどき湯沸かし器の音が響くから、バスルームで湯を出しているということで、驟は、生きてはいるらしい。
***
「追い焚 き機能はないんだけど、湯船につかると顔が楽になるから、そうしたいんだよね」
部屋に着き、いきなり抱き合うことにはならずに、なぜか手料理をふるまってしまい、しかもよりによって、真夏に鍋にしたのだった。
冷蔵庫を開けたら、鶏肉と白菜とキノコ類のほかは、じゃが芋、人参、玉葱の常備3点セットしかなく、カレーにするか、水炊きにするかの2択で、後者を選んだ。
だって、カレーじゃ芸がない。仮にもアラサー、オトナの女なんだから。そんな気持ちも働いた。
案の定、食べ終わったら汗だくで、虹子のほうから風呂の話をふったのである。
駆け引きといえば、そうだったのかもしれない。服を脱ぐ口実という意味で――。
ところが驟は、
「じゃ、先にシャワー借ります」
とっとと立ってバスルームへ消えた。
一緒に入るとか、そういういやらしい発想は、微塵 も横切る余地がないというほどスムーズに。
それから50分経とうとしている。
***
クスリでもやってるんじゃないの?
帽子をとってマスクを外した――帽子をとった上で、食べるためにはマスクも外してノーガードの顔をさらさなければならないと、食べるときになってびびった。コーヒーショップでは、マスクは外しても帽子はかぶったままだったから――そんな虹子の顔を見ても、驟はたいしてひるまずに、水炊きと白飯を、旺盛に腹におさめた。
「ビールにする?」と聞いたら、「ごはんが食べたい」と言う、その健全さに気を許していたけれど、ヤバイ男だったらどうしよう。
ただでさえミイラ病なのに、この上やっかいごとに巻き込まれるのは御免だった。
「もしもーし。大丈夫? 倒れたりしてない?」
意を決し、洗面室の前まできて、ドアをノックし、開けてみた。一瞬後に、洗面室の奥の浴室のドアが開いて驟が出てきた。
全裸!
と思ったら、トランクスだけはいていた。ブルー系のチェック。フツウだ。じゃなくて、なんで風呂から下着つけて出てくるのよ。
虹子の心の声が聞こえたように、
「ごめん、かびがちょっと気になって」
驟ははにかんだように首をすくめた。
両手にピンク色のゴム手袋をはめ、右手にスポンジ、左手に洗剤のスプレーボトルを持っている。
ゴム手袋は虹子のだから、彼の手には小さくてピチピチだ。
「かび取り剤が見当たらなくてさ、時間がかかっちゃったんだ」
ぐずぐずと悩んでいる間に出てきてくれないものかと願っているのだが、出てこないのだ。
虹子が住んでいるのは、JR根岸線の山手駅から、商店街を歩いて十分あまりの1LDKで、もちろん賃貸だ。築年数はかさんでいるが、バスとトイレは別である。
横浜で生まれ育っていながら、山手駅はそれまであまり降りたことのない駅で、不動産屋に連れられて部屋を見にきたときには、駅前商店街の昭和っぽさに驚いた。
料理でいえば、醤油味。
比較してたとえるなら、実家のある港南台の駅前(高島屋とバーズとダイエーがある!)は、ホワイトソースだ。虹子がよくショッピングに行く元町商店街は、ブイヤベースかミネストローネといったところ。
ホワイトソースで育っていても、醤油味は強かった。
どこか懐かしく感じる和風の味は、じわじわ沁みてくるもので、結局ここに部屋を決め、気に入って住んでいる。元町まで一駅で行けるのもちょうどいい。
大好きな料理はいつでも手が届く環境で、たまに食べるのが幸せだ。
家具や食器のいっさいを、イケアとニトリで揃えた広くもない部屋に、男を入れたのは驟で何人目になるのだか――。
くず男こと、大学時代からつき合っていた
でも、こんなふうに〝お持ち帰り〟したのは、間違いなくはじめてだった。
「驟くん」
リビングのローテーブルからおそるおそる呼んでみたが、返事はない。
リビングのドアは閉まっているし、ここからでは声が届かないのだ。
ひそやかな雨音が、耳の底を這い続けている。
ときどき湯沸かし器の音が響くから、バスルームで湯を出しているということで、驟は、生きてはいるらしい。
***
「追い
部屋に着き、いきなり抱き合うことにはならずに、なぜか手料理をふるまってしまい、しかもよりによって、真夏に鍋にしたのだった。
冷蔵庫を開けたら、鶏肉と白菜とキノコ類のほかは、じゃが芋、人参、玉葱の常備3点セットしかなく、カレーにするか、水炊きにするかの2択で、後者を選んだ。
だって、カレーじゃ芸がない。仮にもアラサー、オトナの女なんだから。そんな気持ちも働いた。
案の定、食べ終わったら汗だくで、虹子のほうから風呂の話をふったのである。
駆け引きといえば、そうだったのかもしれない。服を脱ぐ口実という意味で――。
ところが驟は、
「じゃ、先にシャワー借ります」
とっとと立ってバスルームへ消えた。
一緒に入るとか、そういういやらしい発想は、
それから50分経とうとしている。
***
クスリでもやってるんじゃないの?
帽子をとってマスクを外した――帽子をとった上で、食べるためにはマスクも外してノーガードの顔をさらさなければならないと、食べるときになってびびった。コーヒーショップでは、マスクは外しても帽子はかぶったままだったから――そんな虹子の顔を見ても、驟はたいしてひるまずに、水炊きと白飯を、旺盛に腹におさめた。
「ビールにする?」と聞いたら、「ごはんが食べたい」と言う、その健全さに気を許していたけれど、ヤバイ男だったらどうしよう。
ただでさえミイラ病なのに、この上やっかいごとに巻き込まれるのは御免だった。
「もしもーし。大丈夫? 倒れたりしてない?」
意を決し、洗面室の前まできて、ドアをノックし、開けてみた。一瞬後に、洗面室の奥の浴室のドアが開いて驟が出てきた。
全裸!
と思ったら、トランクスだけはいていた。ブルー系のチェック。フツウだ。じゃなくて、なんで風呂から下着つけて出てくるのよ。
虹子の心の声が聞こえたように、
「ごめん、かびがちょっと気になって」
驟ははにかんだように首をすくめた。
両手にピンク色のゴム手袋をはめ、右手にスポンジ、左手に洗剤のスプレーボトルを持っている。
ゴム手袋は虹子のだから、彼の手には小さくてピチピチだ。
「かび取り剤が見当たらなくてさ、時間がかかっちゃったんだ」