私雨-1 過去と新手が、心の隙に

文字数 2,678文字

 メールの着信音で目を覚まし、虹子は枕元のスマホに飛びついた。
 土曜の深夜2時である。心臓が大きく弾けたが、時刻と同時に目に入った送り主の表示に、がっくりと突っ伏す。
 驟ではない。
 真夜中にSMSを送ってきたのは、知らない(少なくとも現在はアドレス帳に登録していない)電話番号の相手だった。
 消去しかけて、はっと指を止め、開封してみた。
《虹? 虹はいま、どうしてる? ユキト》
 やっぱりだ。
 記憶の片隅で、なんとなく数字の並びに見覚えのあるような気がしたその番号の主は、道馬(みちば)幸人(ゆきと)――虹子が心のなかで「くず男」と呼んでいる男。かつて虹子が結婚まで考えた、憎むべきモト彼――であった。
「なによ、いまさら!」
 5年前、はじめて〝ミイラ〟になった自分をあっさり捨てて、逃げ去ったくせに。いけしゃあしゃあと、昔どおり「虹」なんて呼びやがって――。
 スマホをあやうく壁に投げつけそうになり、ぐっとこらえる。もう一度、画面に目を落とし、しばらく無言で眺め入った。
 はじめは呆れ、それから怒りがこみ上げてきて、やがて少し怖くなる。
 ココロボソイ。
 女のひとり暮らしって、こんなに心細いものだったっけ。
 驟と暮らす前よりも、驟がいなくなってからのほうが五割増し、いや六割増しで心細く感じている自分に気づき、少なからず驚いた。

   ***

「本当に、おきれいですねぇ」
 シャンプーが終わり、スタイリングチェアに座った虹子の背後に立って、美容師がため息まじりにつぶやいた。はじめて会う美容師である。
 朝起きて、昨夜のメール以来の(いや)な気分から抜け出せず、ふり払いたくて家を出た。山手駅のベンチに座ってスマホで美容室を検索し(行ったことのない、ほどほど遠い美容室まで出かけようとなぜか思った)、中目黒にあるこの店を見つけた。
 今時珍しく『雨のち晴れ』などというふざけた店名だったのと(他の店は横文字ばかりだ)、〝はじめてのお客様はもれなく10%引き〟のキャッチコピーに惹かれてやって来た。
「ご予約はなしですか? あ、いえ、大丈夫です。どうぞ! ご案内いたします」
 日曜だというのに、ホームページを見て来たと言ったらすんなり入れた。大通りの一本裏の通り沿い、古い一軒家を改装した、地味だがセンスのいい店だった。
 そしていま、 虹子は美容師とスタイリングチェアの前にある大きな鏡のなかで目を合わせている。
 彼女は、タオルドライだけでまだしっとりと濡れている虹子の髪をうやうやしく両手にとり、ほんの数秒思案したあと、まとめて耳の後ろに隠して見せた。
「お客様のようなエレガントなお顔の方は、このようにシンプルなボブや、ショートカットにすると、美しさが引き立って素敵なんですよ。きっと、お似合いになると思います」
 自らもボーイッシュなショートヘアにして、アッシュカラーに染めている年若い美容師は、並びのいい白い歯を見せて口角を上げた。
 あ、湯葉……。
 つぶやきかけて、呑みこんだ。

 銀色の(はさみ)が軽やかに踊るたび、ばさり、ばさりと床に落ちていく黒い髪。見ていると、その髪がのびるのに費やした月日を無下に破棄しているようで、膝の上に開いている女性誌をひたすら読んだ。
 同世代向けのファッション誌である。
 巻頭特集は、〝この秋、オトコ抜きで、オンナを磨く〟。
 不倫スキャンダルで干されたあと、トレードマークだったロングヘアをベリーショートにして復帰した有名タレントのインタビューが載っていて、〝さみしさと上手につき合えるのが大人の女〟と書いてあった。

《虹、どうしてる? 俺は最近、虹を思い出してるよ。ユキト》
《虹? 俺の気持ち、届いてる? 虹に届きますように。ユキト》
 美容室を出たら、くず男こと道馬から2通もSMSが届いていた。
 ひさしぶりの短髪に、ただでさえ涼しくなった首元を、冷たい手で触れられた気がして、虹子はトートバッグから麻のストールを引っ張り出し、二重にして巻きつけた。
 中目黒の駅で電車を待っていると、
「あの、モデルさんか女優さんですよね?」
 見知らぬ中年女性に尋ねられた。ツイードのジャケットに大ぶりのイヤリング。そこそこめかしこんでいる。
「いいえ」
「じゃあ、女子アナさん?」
「違います。一般人です」
「イッパンジン? まあ、あら、そう」
 中年女性は目をぱちくりさせ、小声で「なーんだ」と言いながら離れて行った。
 なかば茫然として、虹子はなんなんだろう、と考える。たとえばこれから友達か、離れて住む娘か誰かとの待ち合わせがあり、「途中で有名人に会ったー」などと土産話でもしたかったとか?
 けたたましい音を立て、横浜方面へ行く電車がきた。
 無意味な想像を巡らしながら乗りこんで、自分が髪をのばしていたのはミイラ病の間の顔を隠すためだけじゃなく、元の顔を隠すためでもあったというのを思い出した。
 すっかり忘れていたのだが、そういえば後者の目的がむしろ強かったくらいだ。
 顔が目立つといろんな球が飛んでくる。それを未然に防ぐため、髪をのばしていたのだと。

   ***

 切った髪は戻らない。
 月曜に出社すると、赤木(あかぎ)圭介(けいすけ)が寄ってきた。そして、職場の空気を凍らせる。
「いやあ久しぶりに会ったけど、田原さんってゼッセイの美女だよね。言われるだろ、みんなに」
 9月の人事異動で、上海支店から6年ぶりに本社に戻ってきた男だ。大学入試で一浪している赤木は、社歴では虹子より1年後輩だが、歳は同じだ。彼が新人だった時代に、面識もある。
 入社当時は生真面目で内気な男だった。それが上海で社交性を開花させたらしく、本社に移動してきてからは、虹子に気安くアプローチしてくる。昇進して虹子より上のポジションになっていることと、ミイラ状態の虹子を知らないことが、多分に関係しているのだろうだけれど――。
 とにかく、赤木が〝美女〟と騒ぐたび、職場の空気が凍るのだ。
 しかして、赤木が虹子を落とすかどうか、社内の一部の男たち(女も数名含まれているらしい)が賭けをし始めたとの噂も聞こえてきた。
 メンドクサイ。
 声に出そうものなら「生意気だ」と炎上しかねないから、胸の内でぼやいている。
《虹、まだあの部屋に住んでる? 会いたいな。ユキト》
 無視しているのに、道馬からはSMSが届き続ける。
 メンドクサイ!
 大声で叫びたかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み