驟雨-4 信じた先は彼じゃなく
文字数 2,230文字
ジブンの周りには、いつも雨が降っている。降り続けている。生まれてからずっと。
そんな不思議な話を、まったく不思議ではないという様子で彼は語り、桃色の液体が入ったペットボトルを口に運んだ。
赤坂見附駅に近い、有名コーヒーチェーン店のカウンターで、「珈琲も紅茶も苦手なんですよ」と悪びれずに言い放った彼に、店員が笑顔ですすめてくれたものである。ペットボトル入りのフルーツミックスジュースだ。
「お、うま」
ひと口飲んでボトルを掲げ、彼は横から下から眺めている。
虹子には信じられないことだった。コーヒーショップで珈琲が苦手と言い切るなんて――しかし、若い女の店員は慣れた笑顔で応対したから、イマドキ珍しくはないのだろうか。
店内は、雨宿り客で混んでいた。
29と23。
窓際の窮屈 な2人掛けテーブルで向かい合い、虹子は帽子をかぶったままアイスラテをすすって、年の差のことばかり考えていた。考えるべき他のことから意識をそらすためである。
でもいくら、〝6歳下のオトコの子をナンパしたワタシ〟に意識を向けても、考えるべきことは考えてしまうのだった。
窓の外は、思ったより暗くはないが、路面はしっかり濡れている。
天気雨の様相だ。
もう一度アイスラテをすすって店内に目を戻し、結局、ある考えに至って虹子は納得した。
目下の問題は、究極の雨男だとうそぶく〝不思議ちゃん〟な驟の話――実は不思議ちゃんではなく、女を口説く、もしくはなんらかの目的で嘘をついている? と思わないこともないけれど――を信じるかどうか、ではない。
自分の直感を、信じられるかどうかの問題なのだと。
だったら、簡単だ。
「職場でね、ヘンな噂を流されちゃって。『子どもの頃から美容整形を重ねてきたから、後遺症が出てるんだ』とか。そんなこと、全然ないのに」
ミイラ病に襲われる地獄の2か月は、勘が異常に冴え渡る――横断歩道を渡るとき、青信号なのに危ないと感じて立ち止まったら、目の前を信号無視の車が横切って行ったこともある――だから、少なくとも今日の直感は、信じる価値があると虹子は心得ていた。
それに、なにより信じたかった。
だって、ほんとうに楽だから。驟の近くにいると、痛痒 さがやわらいで、呼吸が楽になるのだった。
単なる雨男というんじゃない。驟の肉体そのものが、言わば〝清々しい湿気〟のようなものを発しているかのようだった。
グレーのTシャツに、ベージュのカーゴパンツを着て、黒のデイパックを足元に置いている。見た目は別段、清々しくはないのだが。
「全然ない、って?」
驟が突然、顔を上げた。人を射抜く、まっすぐな視線だ。至近距離で目が合ってどきりとしたが、平静を装って答えた。
「整形なんて、してないってこと」
ふうん。
と、興味なさそうにハミングし、彼は再び桃色の液体を飲みこんだ。
咽喉仏が上下に動く。ひょろりと背が高く、線の細い体つきなのに、咽喉仏 は意外とごつい。ペットボトルの残量はもう半分以下になっている。
虹子はあわてた。
「あ、あの、なんでお茶に誘ったかというと、あなたといるとわわ私の顔が楽だからで。顔ってあの痛痒いんです、ものすごく。いや感染とか伝染とかそういうのじゃないですからだいじょうぶなんですけど私のまったく自分のための都合でお時間いただいちゃってすみません……しかもアラサー、いやあの、もうすぐミソジだってことでまだ20代ではあるんですけど、それでもなんかこんな話し方になっちゃって」
我ながらしどろもどろで恥ずかしくなり、尻すぼみになった。
ふだん、仕事ではこんなんじゃないのにどうしたんだよ私! と、情けなくなる。
「いい人ですね、虹子さんは」
また、あの風だ。虹子は思った。小雨の町を吹き抜けていく春の風。この男、天然なのか、あざといのか、どちらにしても降参だった。
騙 されたとしても、裏切られたとしても、信じた自分の責任である。
そもそも信じた先は彼じゃなく、自分の直感のほうなのだし。虹子は大きく息を吐いた。胸の底に碇 のようにたまっていた重いものの数々が、ため息に連なって浮上してくる。
「〝ふつうの生き方〟は、願っても与えられない。それはもう、わかってる。でも、わかっていたって、へこんでないわけ、ないんだよね」
どこからどう話し、どこまでしゃべってしまったのか。
5年前に唐突に襲ってきた真夏のミイラ病と、仕事のこと、失った恋――当時の恋人は、虹子の顔がミイラになったとたん、指一本触れなくなり、家に寄りつかなくなり、電話にも出ず、メールも無視して、別れ話もせずに去って行った。虹子が結婚まで考えていたその男を、いまは心のなかで「くず男」と呼んでいることなど――と、加えて、顔面ミイラ状態はなにをしてもしなくても、毎年きちんとやってきて、二か月経ったらきれいさっぱり治ること。
それらを、まとまりなく話し続けた。
そして、通り雨が過ぎるのを待っていた他の客が、あきらめて帰り始めたころ。
「あなた、家はどこ?」と虹子は尋ね、驟は「うーん」と言いよどみ、まったく自分らしくなく、虹子は「ウチニクル?」などと聞いてしまい、驟はあっさり「うん」と答えた。
自分でも心底驚いたことに、虹子は彼を〝お持ち帰り〟したのだった。
そんな不思議な話を、まったく不思議ではないという様子で彼は語り、桃色の液体が入ったペットボトルを口に運んだ。
赤坂見附駅に近い、有名コーヒーチェーン店のカウンターで、「珈琲も紅茶も苦手なんですよ」と悪びれずに言い放った彼に、店員が笑顔ですすめてくれたものである。ペットボトル入りのフルーツミックスジュースだ。
「お、うま」
ひと口飲んでボトルを掲げ、彼は横から下から眺めている。
虹子には信じられないことだった。コーヒーショップで珈琲が苦手と言い切るなんて――しかし、若い女の店員は慣れた笑顔で応対したから、イマドキ珍しくはないのだろうか。
店内は、雨宿り客で混んでいた。
29と23。
窓際の
でもいくら、〝6歳下のオトコの子をナンパしたワタシ〟に意識を向けても、考えるべきことは考えてしまうのだった。
窓の外は、思ったより暗くはないが、路面はしっかり濡れている。
天気雨の様相だ。
もう一度アイスラテをすすって店内に目を戻し、結局、ある考えに至って虹子は納得した。
目下の問題は、究極の雨男だとうそぶく〝不思議ちゃん〟な驟の話――実は不思議ちゃんではなく、女を口説く、もしくはなんらかの目的で嘘をついている? と思わないこともないけれど――を信じるかどうか、ではない。
自分の直感を、信じられるかどうかの問題なのだと。
だったら、簡単だ。
「職場でね、ヘンな噂を流されちゃって。『子どもの頃から美容整形を重ねてきたから、後遺症が出てるんだ』とか。そんなこと、全然ないのに」
ミイラ病に襲われる地獄の2か月は、勘が異常に冴え渡る――横断歩道を渡るとき、青信号なのに危ないと感じて立ち止まったら、目の前を信号無視の車が横切って行ったこともある――だから、少なくとも今日の直感は、信じる価値があると虹子は心得ていた。
それに、なにより信じたかった。
だって、ほんとうに楽だから。驟の近くにいると、
単なる雨男というんじゃない。驟の肉体そのものが、言わば〝清々しい湿気〟のようなものを発しているかのようだった。
グレーのTシャツに、ベージュのカーゴパンツを着て、黒のデイパックを足元に置いている。見た目は別段、清々しくはないのだが。
「全然ない、って?」
驟が突然、顔を上げた。人を射抜く、まっすぐな視線だ。至近距離で目が合ってどきりとしたが、平静を装って答えた。
「整形なんて、してないってこと」
ふうん。
と、興味なさそうにハミングし、彼は再び桃色の液体を飲みこんだ。
咽喉仏が上下に動く。ひょろりと背が高く、線の細い体つきなのに、
虹子はあわてた。
「あ、あの、なんでお茶に誘ったかというと、あなたといるとわわ私の顔が楽だからで。顔ってあの痛痒いんです、ものすごく。いや感染とか伝染とかそういうのじゃないですからだいじょうぶなんですけど私のまったく自分のための都合でお時間いただいちゃってすみません……しかもアラサー、いやあの、もうすぐミソジだってことでまだ20代ではあるんですけど、それでもなんかこんな話し方になっちゃって」
我ながらしどろもどろで恥ずかしくなり、尻すぼみになった。
ふだん、仕事ではこんなんじゃないのにどうしたんだよ私! と、情けなくなる。
「いい人ですね、虹子さんは」
また、あの風だ。虹子は思った。小雨の町を吹き抜けていく春の風。この男、天然なのか、あざといのか、どちらにしても降参だった。
そもそも信じた先は彼じゃなく、自分の直感のほうなのだし。虹子は大きく息を吐いた。胸の底に
「〝ふつうの生き方〟は、願っても与えられない。それはもう、わかってる。でも、わかっていたって、へこんでないわけ、ないんだよね」
どこからどう話し、どこまでしゃべってしまったのか。
5年前に唐突に襲ってきた真夏のミイラ病と、仕事のこと、失った恋――当時の恋人は、虹子の顔がミイラになったとたん、指一本触れなくなり、家に寄りつかなくなり、電話にも出ず、メールも無視して、別れ話もせずに去って行った。虹子が結婚まで考えていたその男を、いまは心のなかで「くず男」と呼んでいることなど――と、加えて、顔面ミイラ状態はなにをしてもしなくても、毎年きちんとやってきて、二か月経ったらきれいさっぱり治ること。
それらを、まとまりなく話し続けた。
そして、通り雨が過ぎるのを待っていた他の客が、あきらめて帰り始めたころ。
「あなた、家はどこ?」と虹子は尋ね、驟は「うーん」と言いよどみ、まったく自分らしくなく、虹子は「ウチニクル?」などと聞いてしまい、驟はあっさり「うん」と答えた。
自分でも心底驚いたことに、虹子は彼を〝お持ち帰り〟したのだった。