膏雨-2 俺、プロなんだ
文字数 1,899文字
トランクス一枚の姿で、驟は洗面台の下の収納ボックスに、掃除グッズを片付けた。
満足げに息を吐いて立ち上がる。
「じゃ、タオル借りるね。もういっぺん、さっと汗流してすぐ出るから。虹子さんは、ゆっくり風呂入って」
言い終わると、トランクスのウエスト部分に手をかけた。その姿勢で動きを止め、じっと虹子を見る。
「あ、はい」
虹子はすごすごと後ずさりして、ドアを閉めた。拍子抜けしたといったらない。
ほどなくして、驟は服を身につけて、洗面台にかけてあったフェイスタオルで頭を拭きながら、リビングに出てきた。
虹子は買い置きのミネラルウォーターを手渡し、すれ違って洗面室まで歩いて行き、浴室をのぞいて湯をはろうとした。
浴室は、壁も、床も、浴槽も、鏡までピカピカになっている。
勝手に掃除され、「そんなことしなくてよかったのにー」と責め口調で言うつもりだったのが、一目でその気は失せた。
これはむしろ、礼を言うべきレベルではないか。
浴槽に栓をして湯をはり始め、リビングに戻ると、どういうわけか驟のほうがすまなそうな顔で待っていた。
「俺、プロなんだ」
半分ほど飲んだミネラルウォーターのペットボトルを手に、窓にもたれて立っている。虹子の表情を窺うように、「だから、いろんな意味で気にしないでね」と、きまり悪げに語り始めた。
ジブンは清掃業者に登録しているハウスクリーニングのスタッフで、ビルや施設、店舗から一般の住宅まで、派遣された先をあちこち掃除して回っている。それが、自己紹介を兼ねた驟の説明である。
「勤務地が一か所だと、そこばかり雨になってしまうでしょ。転々とするのは俺にとっても都合がいいんだ。雨が続くと、やっぱ、みんな迷惑だろうし。俺も、悪いなぁって気分になるしね。今日は、朝から赤坂見附のオフィスビルを清掃して、ちょうど終わって帰るところだった」
そこで、虹子に出遭ったというわけだ。
「それに、かび対策は俺にとって重要なんです。なんせ、俺は毎日が雨だから」
よどみなく話すところが嘘っぽくもあるけれど、確かに、究極の雨男だというのがほんとうなら、かびは大敵だろうと虹子は自分を納得させた。
驟は、まだなにか言いたそうにして、口を動かしながら、うつむいた。
「鍋、うれしかった」
くぐもった小さな声だった。虹子と目を合わせずに語るところは、本音っぽい。年下らしい照れ方に、つい、気がゆるむ。これが演技だとしたら、そうとうな詐欺師だと虹子は思う。
「それで、鍋のお礼がしたくなった。俺、孤児みたいなもんだから。誰かと鍋、食べたことなくて」
孤児みたいなもの――。
ふたりの関係(というか、まだ関係というほどの関係を結んでいない!)に不似合いな重みのある言葉に、どう応えたらいいか逡巡していると、湯はりの完了を知らせる電子音に救われた。
しかし驟は、うつむいたままだ。虹子の反応を待っているのだろう。
なにか言わなければ。でも、なにを? 虹子はあせり、口を開いた。
「あの」
自分で言おうとしていることに自分で戸惑い、その先を言いよどむ。
「なに?」
聞き返し、驟は顔を上げて虹子を見た。まっすぐな視線に、よけいに先を言えなくなる。
「冷めないうちに、入ったら」
あきらめた口調で、それでも感じよく語尾を上げ、驟はリビングの隅に置いてあったデイパックに近寄ってしゃがんだ。
「あの……」
あきらめたような顔をされたら、どうしても先を言わなければならないという気になった。
「あの、ね」
くり返す虹子に、驟はしゃがんだ姿勢のままふり返る。その首筋に、乾ききっていない髪の毛が、精緻な線描のようにはりついていた。
猫っ気なんだな。ふとそう思ったら、そのはずみで、言おうとしていたことがするりと出た。
「私がお風呂に入ってる間に、帰っちゃったり、しないよね」
「しないよ」
即答だった。
「そんなことしたら虹子さん、すごく悲しいでしょ」
驟は白い歯を見せ、整った鼻梁に皺を寄せる。
反則だ。虹子は思った。ここで〝湯葉の笑顔〟は反則だろう。
年上なのに、いいように転がされている気がして悔しいけれど、悪い気もしなかった。いやむしろ、胸がうきうきしていると言ってもいいくらいだった。しかして、自分はこの男と寝たいのか、寝たくないのか――そんなことを考えながら洗面室に入った虹子だったが、浮ついた気持ちは鏡の前で消し飛んだ。
痛痒さが治まっていたから、忘れていた。
鏡に映っていたのは、ミイラ病まっただなかの、悲惨な自分の顔だった。
満足げに息を吐いて立ち上がる。
「じゃ、タオル借りるね。もういっぺん、さっと汗流してすぐ出るから。虹子さんは、ゆっくり風呂入って」
言い終わると、トランクスのウエスト部分に手をかけた。その姿勢で動きを止め、じっと虹子を見る。
「あ、はい」
虹子はすごすごと後ずさりして、ドアを閉めた。拍子抜けしたといったらない。
ほどなくして、驟は服を身につけて、洗面台にかけてあったフェイスタオルで頭を拭きながら、リビングに出てきた。
虹子は買い置きのミネラルウォーターを手渡し、すれ違って洗面室まで歩いて行き、浴室をのぞいて湯をはろうとした。
浴室は、壁も、床も、浴槽も、鏡までピカピカになっている。
勝手に掃除され、「そんなことしなくてよかったのにー」と責め口調で言うつもりだったのが、一目でその気は失せた。
これはむしろ、礼を言うべきレベルではないか。
浴槽に栓をして湯をはり始め、リビングに戻ると、どういうわけか驟のほうがすまなそうな顔で待っていた。
「俺、プロなんだ」
半分ほど飲んだミネラルウォーターのペットボトルを手に、窓にもたれて立っている。虹子の表情を窺うように、「だから、いろんな意味で気にしないでね」と、きまり悪げに語り始めた。
ジブンは清掃業者に登録しているハウスクリーニングのスタッフで、ビルや施設、店舗から一般の住宅まで、派遣された先をあちこち掃除して回っている。それが、自己紹介を兼ねた驟の説明である。
「勤務地が一か所だと、そこばかり雨になってしまうでしょ。転々とするのは俺にとっても都合がいいんだ。雨が続くと、やっぱ、みんな迷惑だろうし。俺も、悪いなぁって気分になるしね。今日は、朝から赤坂見附のオフィスビルを清掃して、ちょうど終わって帰るところだった」
そこで、虹子に出遭ったというわけだ。
「それに、かび対策は俺にとって重要なんです。なんせ、俺は毎日が雨だから」
よどみなく話すところが嘘っぽくもあるけれど、確かに、究極の雨男だというのがほんとうなら、かびは大敵だろうと虹子は自分を納得させた。
驟は、まだなにか言いたそうにして、口を動かしながら、うつむいた。
「鍋、うれしかった」
くぐもった小さな声だった。虹子と目を合わせずに語るところは、本音っぽい。年下らしい照れ方に、つい、気がゆるむ。これが演技だとしたら、そうとうな詐欺師だと虹子は思う。
「それで、鍋のお礼がしたくなった。俺、孤児みたいなもんだから。誰かと鍋、食べたことなくて」
孤児みたいなもの――。
ふたりの関係(というか、まだ関係というほどの関係を結んでいない!)に不似合いな重みのある言葉に、どう応えたらいいか逡巡していると、湯はりの完了を知らせる電子音に救われた。
しかし驟は、うつむいたままだ。虹子の反応を待っているのだろう。
なにか言わなければ。でも、なにを? 虹子はあせり、口を開いた。
「あの」
自分で言おうとしていることに自分で戸惑い、その先を言いよどむ。
「なに?」
聞き返し、驟は顔を上げて虹子を見た。まっすぐな視線に、よけいに先を言えなくなる。
「冷めないうちに、入ったら」
あきらめた口調で、それでも感じよく語尾を上げ、驟はリビングの隅に置いてあったデイパックに近寄ってしゃがんだ。
「あの……」
あきらめたような顔をされたら、どうしても先を言わなければならないという気になった。
「あの、ね」
くり返す虹子に、驟はしゃがんだ姿勢のままふり返る。その首筋に、乾ききっていない髪の毛が、精緻な線描のようにはりついていた。
猫っ気なんだな。ふとそう思ったら、そのはずみで、言おうとしていたことがするりと出た。
「私がお風呂に入ってる間に、帰っちゃったり、しないよね」
「しないよ」
即答だった。
「そんなことしたら虹子さん、すごく悲しいでしょ」
驟は白い歯を見せ、整った鼻梁に皺を寄せる。
反則だ。虹子は思った。ここで〝湯葉の笑顔〟は反則だろう。
年上なのに、いいように転がされている気がして悔しいけれど、悪い気もしなかった。いやむしろ、胸がうきうきしていると言ってもいいくらいだった。しかして、自分はこの男と寝たいのか、寝たくないのか――そんなことを考えながら洗面室に入った虹子だったが、浮ついた気持ちは鏡の前で消し飛んだ。
痛痒さが治まっていたから、忘れていた。
鏡に映っていたのは、ミイラ病まっただなかの、悲惨な自分の顔だった。