驟雨-2 人は見かけじゃないのだし

文字数 1,625文字

 その男、笹谷(ささや)(しゅう)と出遭ったとき、虹子は青山通りを赤坂見附の駅に向かって歩いていた。
 5年前に、病院を転々とした末に行き着いたクリニックへ、今年も行った帰りだった。

   ***

 ミイラ病――真夏だけ、自分を襲う謎の病を、虹子は勝手にそう呼んでいる。
 5年前、はじめてその症状が現れたときは、顔の変化もショックだったけれど、それよりなにより、尋常ではない痛痒(いたがゆ)さにお手上げだった。
 いらいらして、まともに思考できないのだ。とりあえずネットで調べてみたものの、該当する症状は見当たらず、どうしていいかもわからずに、とにかく会社を休んで皮膚科に行った。
 最初に行った病院では、新手の美容整形の失敗を疑われた。
「原因不明で、明確な治療法はありません」
 冷たくそう言い放たれたときには、仕事も人生もどうでもよくなり、
「世界なんか、破滅してしまえ!」
 と投げやりになって絶望した。
 恋も、失った。
 真剣に結婚を考えていた恋だった。少なくとも、虹子のほうは。

 でも、今年は5年目だ。さすがにもう、うろたえない。
 もはや、「また来ましたかっ! いらっしゃいませ~」の心境である。なかば、やけっぱちではあるけれども。
 昨夜、眠る前に、顔にふわふわと猫の毛のようなものがくっついては離れ、くっついては離れしている感覚が、なんとなくあったから、そろそろくるなと覚悟はしていた。
 ただいま恋は、していない。

   ***

「お中元の挨拶みたいに、年に一度現れるねえ」
 1年ぶりに会ったクリニックの主治医は、眉をハの字にして虹子を迎えた。
「毎年、心配してるんだからね。2か月経ったら、ホントに治ってるの? その状態も見せに来てよ。治りかけとか、治ったところも()させてもらえれば、なにかわかるかもしれないよ」
 初対面のときからトモダチ口調の男性医師だ。 ちょっとオネエっぽい感じの軽妙さに、気が楽になるので、2年目以降もかかっている。
「いや逆に、先生の顔を拝むと今年も〝2か月神話〟を信じられるんです」
 あっけらかんと虹子が返すと、医師は微妙に眉根を寄せた。ただでさえハの字の眉が傾斜を増して、富士山の輪郭(りんかく)のようになる。
「ゲン担ぎかい。まあ、それでも光栄ですけどね」
 その眉を、医師は片方ずつ上げ下げしながら診察し、
「うん、症状は去年と同じだねえ」
 と、ため息まじりにカルテを書いて、ずり下がった眼鏡の上から虹子を見た。
「アトピー性皮膚炎の一種だと思うから。とにかくあなた、悲観しちゃだめだよ」
 だからこの先生には、もとの顔を知られたくないんだよね――。
 医師の言葉に、今年もやはり、虹子は心を温められ、そしてやはり、〝治りかけや治った顔を、診てもらいには来られない〟と、改めて思ってしまうのだった。

 もとの顔を知られたら、せっかくの心地よい距離感が、失われてしまうかもしれない。そうなるのがこわいから、先生にはこの顔(ミイラ病の状態の顔)だけを、見ていてもらいたい。人は見かけじゃないのだし、この状態から、ワタシの中身を知ってもらいたんだよね、と。

「それで、今年も診断書はほしいのかな」
「はい、お願いします」
 それが目当てで来ているようで――実際、それが目当てで来ているのだった。治してもらうことなんて、もはや期待していない。期待を打ち砕かれることに、疲れ果ててしまったからだ――それでもなお、治療しようと努力してくれる医師に申し訳ない気持ちになって、頭を下げた。
 診断書は毎年、会社に提出している。〝体質的なもので、感染はしない〟と証明するためだ。〝ハランバンジョー〟に負け、絶望しきってしまわないためにも、仕事を守ることは、必要だった。

 人は助けてくれないけれど、仕事は自分を助けてくれる。
 笹谷驟に出遭うまで、それが虹子の支えだった。

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