第6話:看護婦と同じ試験と山下選手の入院

文字数 1,727文字

 山田先生が、彼は、看護婦さんと同じ試験を受けた話や、その時に、彼の姿を見た看護婦が2~3人が彼、素敵と言っていた話などをした。よかったら、つき合ってみたら良いのではとまで、言ってくれたのだった。病室で、村下が、その話を聞いていて、営業マンは、転勤があるので、看護婦さんに迷惑掛けたくないと述べた。

 そのため結構ですと言ってしまった。母は、そんな事を言うもんだじゃない。看護婦さんなんて、なかなか、つき合ってくれるもんじゃないし、話にのってみたらと、村下に奨めた。しかし、男が、一度、口に出した事を撤回するのは、嫌な、村下は、ハイとは言えなかった。

 翌日、山田先生が、彼女たちの写真を持って、病室に来たのである。母は、それを見て、きれいな人じゃないか、看護婦さんだから頭も良いし、一度、つき合ったらと言いだした。山田先生も一度会ってみたらどうだと言うので退院の日、近くの喫茶店で会う事にした。退院の当日、昼食時、3人の看護婦と会った。

 看護婦さんたちが、村下さん柔道やってたのね。文武両道という訳ですねと笑った。営業の人が、看護婦の試験を受けのは、勇気のいることですよね。でも、よく頑張って勉強しましたね。その時、きれいな女性を目の前にして、緊張し、あまり話せなかった。その後、仕事に戻り、時間に追われる毎日となった。

そして、この美人看護婦さん達とは、つきあえなかった。後で、もしかしたら逃がした魚は、大きかったのかも知れないと後悔する村下だった。やがて入社3年目に入り、大学病院1つと県立病院4件、市立病院5件、中小病院6件、開業医10件と合計26件を担当する事になった。

 最初に、MS大学病院から話を始めよう。この病院は、ライバルメーカーの攻勢が強く我が社は常に劣勢に、立たされていた。そこは、とにかく、我が社に好意的な先生づくりをめざして、行動した。最初、テニスの上手な木下先生とテニス仲間の吉崎助教授、石田講師が、週一回程度、テニスの試合をしている事を突き止め、仲間入りをめざした。

 そして木下先生と吉崎助教授を核に、攻略の糸口が見えてきた。それに医局長、講師、助教授で教授でパソコンに興味を持つ先生を捜した。意外な事に岩下教授と宇都宮講師が興味をもっている事がわかった。特に宇都宮講師は、米国の学会で米国人の友人が多く、最先端の情報をもっていた。

 宇都宮講師は、村下がパソコンをやっているのに驚いて多くの情報をくれた。特にDBⅡ「データベースⅡ」のデモソフトを見せてくれて、その概略を教えてくれた。それから、村下のデータベースとのつきあいが始まった。その後、MS大学病院に医療情報センターが開設された。

 宇都宮講師が、そこのスタッフ達と、つながりがあり村下を紹介してくれた。それが、さらにパソコンの知識を深める上で非常に役立った。その他、我が社はスポーツ医学に関連している関係で医療用の学習のため16ミリ映画を作成していた。スポーツ医学の日本の黎明期、MS大学は、先進的なスポーツ医学を実践していた。

 その勉強のために定期的にパラメディカル「医療関連従事者」のスポーツコーチ、リハビリ、理学療法士、作業療法士の勉強会を実施していた。その責任者が、尼崎助教授だった。勉強会時の食事の差し入れをしするのが、習わしだった。持ち帰り寿司が、お好みであり、両手に持っていくのだが、重くて大変だった。

 MS大学は、スポーツに科学的トレーニングを取り入れ競技スポーツに医学を包括的に取り入れた最初の施設だ。スポーツ選手とスポーツ障害のリハビリとか練習直後のアイシングの具体的な方法を研究していた。1980年に全日本選抜体重別選手権で、山下泰裕選手が、決勝で遠藤純男選手の「蟹挟み」という技で、下肢「腓骨」を骨折してMS大学病院に入院した。

 その時、尼崎助教授が、村下に、お前、以前、柔道やってなと聞くので、はいと答えると山下に会いたいかと笑いながら言うのでもちろんですと答えた。すると、何と、こっそり病室で、会わせてくれたのだ。そして色紙にサインまで、しっかりもらった。天にも昇る気持ちというのは、こういう気持ちを言うのだろうと思う位、舞い上がってしまった。
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