第11話:新潟転勤の準備完了

文字数 1,782文字

 授業料はと、TK部長が聞くので、そんなの要りません、ただ、腹減るから、夕食とビールを少々、できれば、その晩、泊れせていただければ、充分ですと答えると、TK部長が、お安い御用と言い、笑顔になった。データベースの勉強について困っていたので、大助かりだわと、村下の肩をたたいて、喜んでくれた。

 その後、月に1回、泊まり込みで、データベースの講義をした。実際に作成したデータベースを作り、どの因子が、一番重要なのかを聞いた。最初は、単独の因子の優位差を調べる方法。最終的には、複数の因子の優位性を調べる方法まで、彼らの希望する事を約1年かけて、教えることができた。

 彼らは、喜んでくれ、そのリハビリテーションセンターと近くにあった、高齢者や脳卒中を中心にリハビリをする、脳血管センターの2つ病院での村下の業績は、信じられない程、向上した。この話を知った、数人の先生も村下に対する目が変わった。ある日、気難しい羽田先生が、お前、いつもボケーしてるように見えたが、すごいんだってなと英顔になった。

 この話が、リハビリ部から各科の先生方に知れ渡ると、冷やかされるようになり、反面、信頼性が高まり、仕事がしやすくなったのは、言うまでもない。そのうちに、データベース、教えてと質問する先生も出てきた。当病院は、紹介のみで一般診療をしていない事もあり、先生方が、多忙という事もなく仕事のしやすい病院だった。

 特に、ちょっと変わり者の羽田医師とは、馬が合い、親しくしてもらい、仕事にも貢献していただいた。また違う大学出身の向田医師とも非常に親しくしていただいた。彼の情報は、気むずかしく、入り込みにくいとの事で、我が社でも、親しくしている者が、一人もいないという難しい医師だった。

 しかし、私の性格も、ちょっと変わっている所があるのか、こういった個性的な性格の先生に好まれる傾向がある。それを生かして業績も以前の数倍に伸ばす事ができた。仕事も好調で、昨年の新人賞に続き、今年は業績で全国表彰の栄誉に輝いたのだった。こんな人生で最も好調な時に、意外な事が起こるのが常である。

 私も、例外ではなかった。それは、1984年度末、3月の新潟への転勤辞令である。これには納得いかず、営業所長に何故ですかと、抗議した。すると君の実績が評価され、欲しがる営業所が多くなったの、だから栄誉だと思うべきだと反論された。

 これは、後でわかった事だが、札幌営業所から、強烈なオファーがあった様だった。しかし新婚早々、可愛そうだからと営業所長の判断で、お誘いのあった中で、一番近い、新潟にしてくれたそうだった。

 そして、新潟営業所、転勤が決まった翌週の月曜、横浜の自宅を朝7時前に出て、東京から上越新幹線で新潟へ向かい10時過ぎ新潟到着。その足で新潟営業所へ行き、新任の挨拶をした。その後、営業所長から、担当地域を聞かされた。

 その話によると、長岡、小千谷、十日町、津南、六日町、小出と新潟南東部の山深い地域。そこの大型県立病院、厚生連病院と数件の開業医を3泊4日の出張で訪問する様に申し渡された。この地域は、県内1、2の豪雪地帯なので、くれぐれも交通事故には、注意して慎重な運転を心がける様に言われた。

 所長から家族構成を聞かれ、4、5歳の娘と奥さんが、現在、妊娠6ケ月であることを告げた。そして、早速、今週火曜日から担当交代を始めてくれる様に依頼され同意した。
今週は、ホテルを予約していると告げられた。

 その後、良く朝、9時に新潟営業所に出て、すぐに、長岡に出かけ、小千谷、中越、十日町、津南、六日町、小出病院を訪問して、担当交代の挨拶をし始めた。また、出張先の夕食の旨い店、飲み屋の情報もしっかり聞いた。

 翌週と翌々週、横浜営業所での担当病院を後任の担当者にじっくりと引き継ぎ、3週間後、村下は、奥さんが身重なので、単身で新潟に赴任して、家探しを始めた。子供3人の5人の大家族なので、なかなか大きな家の賃貸が見つからずに困っていた。

 しかし、営業所からバイパスを走って20分言った海沿いの地域に新築戸建てが見つかった。そして月7万円で2階建ての4Kの戸建てを借りられることが決まって、村下は奥さんいに報告した。これで、転勤の用意が完全に終了し、3週間後の3月下旬、最初は、単身で横浜から新潟へ転勤した。
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