6.姉とコーチの急接近

文字数 8,265文字

「颯香か。こんばんは。お姉さんいるか?」
 木村コーチからの電話だった。
「あっ、はい。今()わります」
「もしもし、お電話代わりました。颯香の姉です。この前はありがとうございました。はい、お世話になっております・・・・」
 舞香は夕飯の後片付けの手を止め、受話器を持ってリビングから出て行った。しばらくして戻った姉に、颯香が尋ねる。
「お姉ちゃん、コーチどうしたの? 何の用だった?」
「そよちゃんの足、心配してた。家での様子を聞かれたよ。そう言えば、この前コーチが店にいらしてね、お父さんのちゃんこ食べて『美味しい!』ってすごく感動してたの」
 だが、コーチとの詳しい話の内容は、まだ颯香に伝える訳にはいかなかったのだ。舞香はその場をうまく誤魔化(ごまか)し、キッチンへと消えた。
 また数日後、コーチからの電話が鳴る。今日は、舞香のスマホに掛かってきた。
「はい、もしもし、コーチ、お疲れ様です」
 また、姉は廊下に出て行く。颯香は、ふたりの会話が気になって仕方がなかった。
「まい姉ちゃん、コーチ何て言ってたの?」
「そよちゃん、すごく部活がんばってるってね。『応援して下さい』だって。私もご飯作り、ますますがんばるね」
(お姉ちゃん、何か誤魔化した? コーチ、お姉ちゃんに度々電話かけてくるの、何で?)
 颯香は、もやもやする気持ちを抑えきれない。そんな、どこかぎくしゃくする姉妹の様子を、花香は不思議に思って眺めていた。
 そしてまたある日は、学校近くのコーヒーショップの窓越しに、向かい合って座る姉とコーチの姿があった。A4サイズの冊子のような物を、二人で真剣に見ている。
(お姉ちゃん、どうしてコーチとこんなところで会ってるの⁉ 急接近して意気投合して、二人は付き合ってるの⁉ 何あれ? まさか結婚式場のパンフレット⁉)
 颯香は苛立(いらだ)ちを感じながら、その場を足早に通り過ぎた。

 部活の無い日曜日。颯香はこっそり家を抜け出し、ある場所へと向かった。実は密かに楽しみにしている休日の過ごし方がある。それは、母と訪れたあのカフェに行くこと、あのワンピースを着て、美味しい特別なケーキを食べることだった。値段が高めだから、お小遣い生活の彼女にとっては月に一度行けるかどうかの贅沢(ぜいたく)。こっそりこの店に通っていた。
 真夏の炎天下の空気をすっかり忘れてしまうほど、店内は空調が効いていてとても涼しく快適だ。あの時のかっこいい男性店員は、最近見かけることがない。今日は、かわいらしい女性店員が、ケーキと紅茶を運んで来てくれた。至福の時が流れる。しかし次の瞬間、颯香は目を疑った。見覚えのある男性が、店内に入って来るではないか。
(やばっ! 木村コーチだ)
 いつもジャージ姿しか見たことがなかったが、今日は真っ白いワイシャツに青いネクタイを締め、グレーの細身のスラックスが足の長さを強調している。店の入口付近に座ると何かを注文し、足を組んでタブレットパソコンを起動した。ふと、その瞳が窓側を向く。颯香と目が合う。そしてすぐに、彼は彼女に気付いたようだった。
(これはまずい! どうする?)
 颯香はドキドキし、(うつむ)いて目を()らす。しかし時すでに遅し。臣は店員に「コーヒーをあちらへ運んで欲しい」と頼むと、タブレットを手にこちらに向かって来るではないか。これが、もし彼氏とデート中だったりすれば、気付かない振りをしたかもしれない。だが、一人きりの颯香を見て気付いたのに気付かない振りは、その時の彼の選択肢には無かったようだ。
(叱られたらどうしよう。でも、何も悪い事してないよね。こんな姿を見られるなんて恥ずかしいよ! メイク濃すぎてない?)
 距離にして五、六メートル程しか離れていなかった。だが、まるで、コーチがその何倍もの距離をスローモーションでゆっくりと近付いて来るかのように感じられた。そして、
「やっぱり颯香だ。いつもと雰囲気違うな。見違えたよ」
 全く予想外の言葉を掛けられた。
「ここ、いいか? 誰かと約束か?」
「あっ、いいえ、そういうんじゃないです・・・・」
 そしてコーチは、颯香の斜め向かい側に座ると、
「部活はどうだ? 大変か?」
 そう柔らかい口調で言った。そして、店員が運んでくれた真夏のホットコーヒーを一口含む。
「うん。今日も美味い。ここは涼しくていいな」
 気が動転し過ぎて何も言い返せない。まずは、絶対に馬鹿にされると思っていたのだ。体格のいい自分に、こんなワンピース、本当は似合わないに決まっている。化粧も数々のメイク動画を参考に練習しているが、全然自信がない。どうせ「こんな所をふら付いてないで、さっさと帰って筋トレでもしてろ!」、と言われるのがオチだと思った。
「・・・・大変です。でも、がんばってます」
「うん。みんな、よくがんばってる」
 颯香は、物静かで大人な物腰のコーチに、目の前にいながらとても大きな(へだ)たりを感じた。だが、ずっと見つめていたい素敵な男性は、手を伸ばせば届く、すぐそこにいるのだ。
「・・・・これ、かわいいですよね」
 コーチが近付いてきた目的はわからないが、会話のきっかけを得たくて、何気に颯香はお皿の上にあしらわれたエディブルフラワーを指差した。
「スミレだ。かわいいな。颯香、よくここ来るのか?」
「ここ、最初、母に連れられて来たんです。それから、月に一度程度・・・・」
 颯香は大切な記憶を思い起こし、彼に話し始めた。いつもはあまり笑顔を見せることがなく、どこか冷たさも感じるが、今日のコーチは優しい表情をしていて、一言一言を大事に聞き取ってくれている、そう感じた。
「多分、私がお相撲を惰性(だせい)で続けていると心配していたのかもしれません。小さい頃から続けてきたから、お父さんの期待とか周りを裏切りたくない義務感も確かにあるけれど、でも何より、自分が楽しくて。母にもそれを伝えました」
「そうか・・・・。やりたいことをやれるのが一番いい。おしゃれもな」
「そうですよね。私は、恵まれてますね」
「うん。颯香の家族は、みんな、あったかいな・・・・」
 ところが、その何でもないコーチの一言が、妙に心にひっかかる。
「・・・・姉もですか・・・・? 舞香お姉ちゃんも、『あったかい』ですか?」
「ん? お姉さんか?」
「あっ、いえ。何でもありません」
 颯香は慌てて首を振り、言葉を()き消そうとする。
「妹思いのいいお姉さんじゃないか? ん? ケンカでもしたか?」
「そういう訳では・・・・」
 颯香の意味深な言動を不思議に思いながら、臣はコーヒーを飲み干すと、
「よしっ。これから、ジムに出勤なんだ。また学校で。大切な時間を邪魔してしまったな」
と、申し訳なさそうに言って席を立った。
「いえ、そんなことないです! 声かけてくださってありがとうございます」
 すると、臣は二枚の注文伝票を持ち、
「今日は俺の(おご)りだ。みんなには秘密な」
 そう言って微笑み、レジへと向かった。
「ごちそうさまでした!」
 颯香は立ち上がり、臣の背中に一礼した。
(コーチ、あんな優しい表情するんだ・・・・)
 彼の後ろ姿を視線で追いながら、(つか)()の夢のような時間を名残惜しく感じていた。

 次の日からまた、颯香はコーチのためにトレーニングメニューに取り組み、コーチのために練習に力を注ぐ。指導者としての彼は、またもクールで厳しかったが、颯香はその向こう側の、自分にだけ見せてくれた柔らかい表情を思い出していた。
「颯香~、きついよぉ。疲れたぁ」
 同級生部員の結衣(ゆい)が、筋トレのノルマをクリアし、エアロバイク中の颯香の隣で床にぺたっと座り込む。
「結衣ちゃん・・・・よく・・・・やった! 私も・・・・あと少し・・・・終・・・・了!」
「お疲れ~。あんなにかっこいいのにさ、実はかなりの鬼コーチだよね」
「ふう~、きつかったぁ。でもさ・・・・厳しいふりして実は、優しいところ隠してるんじゃないかなぁ。コーチのお陰で、効果は出てきてる。ほら見て! 私のこの筋肉!」
 颯香は、ボディビルダーのような決めポーズをして、結衣を笑わせた。
「颯香、もしやコーチに惚れてるなぁ?」
「え~、そういうんじゃないよ! 違うよ!」
 そこへ信子(のぶこ)も、トレーニングを完了して加わった。
「颯香、ああいう人好きなの? いいところ顔だけじゃん! スパルタだし、納豆と玄米食べろって言うしさぁ。私、苦手なんだよね」
「だから、好きとかじゃないって! でも、コーチ、いろいろ考えてくれてるじゃん。納豆で食べる玄米ご飯最高だよ。体にいいし」
 颯香は、山盛りご飯を思い出してゴクリと(つば)を飲み込んだ。
「でも、あれは美味しいと思うよ。野菜のグリル焼き。簡単だし、手作りソースがめっちゃ美味しい」と信子が言うと、
「それ『食に気を配れ』ってコーチが配ってくれたプリントのレシピでしょ? 私も好き。信ちゃん自炊だから、あれは手軽でいいよね。あと、ナス料理とか、豆腐ハンバーグとかも美味しいよね。うちのお母さんは、いつもレシピ助かるって言ってありがたがってる」
と結衣も共感し、慌てて「やばい! ストレッチしなきゃ」とふくらはぎの裏を伸ばし始めた。颯香も信子も肩回りをほぐし始める。
「確かにどれもヘルシーで美味しいよね。そうだった! 信ちゃんの好みの男性は、大谷翔平くんだったね!」
「そうだよ、颯香! 私にとっては、大谷くんしか勝たんのよ!」

 ある日、今度は、学校の練習場に姉の姿があった。単に妹の練習風景を見に来た訳ではないらしい。コーチに駆け寄り、何やら談笑している。そしてコーチは、颯香にだけ見せたと思っていた表情を、姉にも見せているではないか。颯香を初めての感情が襲う。その感情は、何を隠そう姉への嫉妬心(しっとしん)だ。ふたりの姿に気を取られた一瞬の(すき)を、由希先輩は見逃さなかった。次の瞬間、颯香はあっけなく蹴倒(けたお)された。
「颯香! 集中しろ! 気が(ゆる)んでるぞ」
 監督からも(かつ)を入れられる。しかし、それからの颯香は、全く練習に身が入らなくなってしまった。臣と目が合うだけで赤面し、練習中もどこか(うわ)の空で集中できていない。監督にも、臣にも、彼女の変化は容易に見て取れた。先輩との取り組みにも勝てなくなった。先輩たちを軽々と(しの)ぎ、レギュラーの座を射止めるかと期待されていたが、夏の選手権大会の選手に、そんな彼女が選ばれるはずもない。
「颯香どうしたの? 身が入ってないし、動きにいつものキレがない。私たちみんな真剣に取り組んでるの。颯香の強さ知ってるから、選手の座を奪われないように必死なんだよ。そんな態度じゃみんなに失礼だよ。真剣にやらないと、私たちは追い越せないよ」
 由希先輩も、あえて厳しい口調で彼女に忠告する。ずっと妹みたいに思いながら、一緒に切磋琢磨(せっさたくま)してきたのだ。期待しているからこそ、強さを知っているからこそ、彼女の変化を心配していた。颯香は、不甲斐ない自分に腹が立った。そして、当のコーチにさえも、
「お前、集中できてないぞ。怪我の原因になる。練習中も取り組み中も、油断するな」
と言われる始末だ。言われて当然のことなだけに、余計にむしゃくしゃした。

 一週間ぶりに帰宅し、部屋でスーツケースの荷物を片付けている母の姿を見て、颯香の苦悩は(せき)を切ったように(あふ)れ出す。
「お母さん、どうしよう・・・・。何だか私、変なの」
 母は、娘の瞳からポロポロと涙が流れ落ちるのを、親指で(ぬぐ)いながら向き合った。
「何があったの? 落ち着いて。ゆっくり話してごらん」
 美紗子は、颯香の背中を()でながら、彼女の周囲で起こった最近の出来事について話を聞いた。颯香は絞り出すように言葉を吐き出した。姉とコーチの様子、カフェでの出来事、部活のこと・・・・。
「・・・・それで、お姉ちゃんといると素直になれなくて・・・・。なんだか心がもやもやして、訳もなく腹が立って。コーチの顔、まともに見れなくなったの。練習も苦しいし、気が散ってふわふわして力が入らない。全然先輩にも勝てないし、このままじゃ、選手にも選んでもらえない」
「それで、颯香はどうしたいの? 今回は、ただの憧れではなさそうね」
 母の冷静な問いかけに、颯香はハッとした。どうしたいか? 実際、コーチは八歳も年上で、外部コーチと言えども教育者だ。告白? お付き合い? 自分はどうしたいというのだろう? 姉の方が当然、コーチと釣り合いが取れていてお似合いなことくらい、承知している。
 小中学校時代、男子より大きくて強くて、男子よりたくさん食べる颯香は、よく「クラスのお母さんみたい」と言われた。それだけならまだしも、時に心無い男子に「デブ」や「大根足」とからかわれ、傷付き悲しい気持ちになったことが何度もある。だから、同級生の男子は苦手だ。自分を特異な目で見る学校内の男子なんて皆、初めから恋愛対象外だった。男子に告白された経験もなく、自分の魅力なんてものに全く自信がない。本気で誰かを好きになったのは・・・・そんな男子たちから優しくかばってくれた、学級委員の常田(ときた)くんくらいか。それでも、その時の『好き』という感情は、少女漫画のようにもっとふんわりピンク色をした、ハッピーなときめきのようなイメージだった。そして、恥ずかしくてそれっきり、ろくな会話もできなかった。ところが今は、こんなにも胸が痛く苦しく、激しい感情が自分の中に渦巻いている。そして、どう考えても、この恋は叶うはずがない!
「いつも、コーチ、お団子ヘアが稽古でボサボサに乱れてるところしか見てないのに、なんで私に気付いた? 気付かれなきゃよかった!」
 泣きはらした目を拭いながら、颯香は吐き捨てるように言った。
「きっと元々、あなたの仕草とか雰囲気とか、颯香が醸し出す内側のかわいらしさに気付いていたからこそ、ワンピース姿のあなたに気付けたのね」
(なぐさ)めなくていい! 絶対無理だもん」
「コーチ、それだけ一生懸命、あなたたち相撲部員を観察して、戦略を練っているのね」
「じっと観察してるなんて、キモイやつじゃん! そうだ! キモイ!」
 そう思ってこの恋を諦められたら、どんなに楽だろうか。
「お姉ちゃんだってさ、何度もコーチから電話掛かって来るし、その度いつも楽しそうに話していて・・・・。きっと私を利用して、コーチに近付いたんだよ」
「ねえ颯香、本当にそう思う? お姉ちゃん、家族より男性を優先するかしら? 颯香のその恋心は大事にしていいのよ。誰かを本気で好きになるって、実はそうそう起こることではないの。貴重なことよ。でも、それで人を傷付けてはいけないわね。舞香がコーチとお付き合いしているのかどうか、本人には確認してないのよね? あなたの勘違いってこともあるわ。そして、今の颯香の本分は? 何だっけ?」
 母の言った言葉が、頭をぐるぐると渦巻いた。その通りだと思った。これは自分の勝手な憶測で、勝手に自分の中のコーチと姉を傷付けているだけなのかもしれない。そして、今の自分にとっての本分は、(まぎ)れもなく相撲だった。だが、本人たちに事実を確認する勇気も無い。
「少し様子を見てみようか。それとも、お母さん、舞香に確かめようか?」
「・・・・いい。聞かなくていい」
 真実を知るのもまた、怖いのも事実だ。どうせ、なるようにしかならない。
「お母さん・・・・私、お母さんみたいにきれいになりたい。もう少し痩せてスタイル良くなって、もっとおしゃれになりたい。今、私、性格もブス。酷いことばっかり言って」
「本心じゃないことくらい、わかってるわ。颯香はそのままできれいよ。お肌もピチピチで一番美しい時ね。そしてお相撲って、取り組みにその人の心や品格が表れるじゃない。相撲に打ち込んでいるあなた、十分魅力的よ。ワンピース姿もね、ほんとかわいい。お母さん、あなただけが持ってる、あなたが醸し出すかわいらしさと品格を、大切にして欲しいなぁ」
 だが、颯香はコーチにこそ、そう思って欲しかった。叶わないとはわかっていても、彼を思う気持ちはどんどん膨らんでいく。でも今は、その気持ちに一旦蓋(ふた)をして見ない振りをしなければならない。蓋を開けると、たちまち恋する気持ちを切なく(うた)うメロディーが流れ始める。颯香が大切にしている、『エリーゼのために』のオルゴールのように。

 気持ちの整理がつかぬまま、調子もなかなか上がらぬままに、いよいよ一年の集大成、十月の全国女子学生相撲競技会を迎えた。颯香は悔しい気持ちを抱えながら、先輩たち選手団の応援をすることとなった。

「花ちゃんは、今日も図書館で勉強かな? 遅いね。そよちゃん、先に食べてようか」
 食卓にナスの揚げびたしと白菜の漬物を並べながら舞香が言うと、ソファーに横たわりスマホで漫画を読んでいた颯香は、起き上がり無言で食卓に着いた。未だ姉に対して、とても素っ気ない態度が続いている。食事もまるでやっつけ仕事のように、とりあえず口に運ぶ。玄米と雑穀を入れて炊いたご飯を、黙々と噛み締める。
(そよちゃん、大会に出られなかったのが、よっぽど悔しかったのね。練習で大分疲れも溜まっているだろうし。疲労回復に効く食材・・・・そうだ、レシピ考えなきゃならないんだった!)
 舞香は、妹の態度が何故そうなのか、本当の理由をまだ知らずにいた。
 そこへ玄関のベルが鳴る。アルバイトの太一(たいち)だった。
「舞香さん、これ、大将の作ったちゃんこの新作です。颯香さんに食べさせてくれ、って言ってました」
「太一くん、いつもありがとう。今日は何かな?」
「チゲ鍋風です。味見させてもらったら、最高に美味(うま)かったんで、気に入ると思います」
こうして栄一は、太一に創作ちゃんこ鍋を託し、姉妹の食卓へ運ぶことがある。夕食時は、ちゃんこ屋も夜の部の営業時間だ。父の料理は評判がよく、しかも盛りが良いので、店は男性客を中心に賑わい繁盛していた。鍋を届け、太一は急いで立て込む店に戻った。いつもの颯香ならば、『待ってました!』とばかりに玄関へ鍋を出迎えに行き、食卓に運んで蓋を開けるなり歓声を上げる。
「うまっ! ご飯進む~!」とちゃんこ鍋に舌鼓を打つと、すかさずご飯を口の中いっぱいに掻き込むので、
「そよちゃん、ゆっくりよく噛んで。よく噛まないと、胃に負担がかかるよ」
と姉に度々注意されていた。しかし今夜は、それ程の量を食べないままに席を立つ。
「あら、もういいの?」
「もういらない。ごちそうさま」
 颯香は二階の部屋に上がり、閉じこもった。

「ただいま」
 花香が、参考書のいっぱい入った(かばん)を重そうに担いで帰って来た。
「おかえり。受験勉強お疲れ様。お父さんのちゃんこ食べる? チゲ鍋風だって」
「うん、食べる! わぁ、美味しそうだね! あれ? そよ姉どうしたの? こんなにたくさん残ってるじゃん!」
 鍋のふたを開けて驚く。近頃の姉たちのいつもと違う様子を気に掛けていた花香は、この状況をどうにか解決したかった。急いで二階に上がると、そっと颯香の部屋のドアを開け、姉を気遣い優しく語り掛けてみる。
「そよ姉、どうしたの? 最近変だよ。ちゃんこ、食べなくていいの? 何かあった?」
「別に・・・・どうもしないよ」
 颯香はベッドに寝そべり、スマホを見ながらぼそっと言った。
「嘘だ。ご飯もあんまり食べないし、大会にも・・・・結局出られなかったじゃん。あんなに強かったのに。何か変だよ。心配だよ」
「先輩が強いんだから、一年生が大会出られなくたって当然でしょ! 私の事はほっとい
て!」
 颯香はそう叫ぶと、布団を頭から被った。姉の態度に、花香もいよいよ感情が高ぶる。
「私だって、お相撲本当はやりたかったんだよ。そよ姉は恵まれてるんだよ! どうしたの? そよ姉らしくないよ!」
 しかし姉は、布団を被ったまま何も返事がない。「話にならない!」と花香は強くドアを閉めた。
 颯香は忘れていた。体が弱かった小さい花香は、本当は人一倍大好きだった相撲を、自分には見込みが無いときっぱり諦め、姉に夢を託した。あの日、妹から託された思いの分までがんばる約束をしたはずだった。
(私、何腐ってるんだろう! 恋だとか何だとか言って、もやもやしてる場合じゃない! 相撲をするためにこの学校に入ったんだから)
 頭では理解できた。ここでもう一度気持ちを入れ替えて奮起しないと、毎日こんな風にふてくされて、只々(ただただ)時間を無駄に過ごしてしまうだけだ。自分のこれまで積み上げてきた経験や努力が何のためだったのか、もう一度思い出す必要があった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

澤田颯香《さわだそよか》

澤田三姉妹の次女。小さい頃から、父の影響で女子相撲に打ち込んでいる。食べることと可愛いものが好き。



澤田舞香《さわだまいか》

澤田三姉妹の長女。忙しい両親やがんばる妹たちを支えながら、病院の管理栄養士として働いている。

澤田花香《さわだはなか》

澤田三姉妹の三女。大学で語学を学びながら、喫茶「ポラリス」で働いている。その美貌から、男性によく言い寄られる。

澤田栄一《さわだえいいち》

澤田三姉妹の父。埼玉県出身の元力士で、現在はちゃんこ鍋屋「豪傑ちゃんこ」を経営している。

澤田美紗子《さわだみさこ》

澤田三姉妹の母。岩手県出身の元ファッションモデル。現在は、夫のちゃんこ屋を手伝う傍ら、雑誌のコラムの執筆をしている。

木村臣《きむらじん》

清城学園大学女子相撲部のトレーニングコーチ。女子相撲部監督の甥。普段は、スポーツジムのインストラクターとして働いている。

川井壱《かわいいち》

舞香の大学の先輩。石川県金沢市の出身。大学時代は、軽音楽同好会でボーカルとして活動。舞香と同様、病院の管理栄養士として働く。

ユン・ジョンミン

韓国人留学生。花香の友人である絵理と同じ大学に通う。

森山裕太《もりやまゆうた》

花香の高校の先輩。高校時代はバレーボール部に所属。ジョンミンと同じ大学で、一つ上の先輩として世話をしている。

松田園《まつだその》

臣の元カノ。高校時代の実力を評価され、大学のテニス部にスカウトされる。やがてプロテニスプレイヤーとして活躍する。

吉田太一《よしだたいち》

栄一のちゃんこ屋のアルバイト店員。花香の幼馴染。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み