11.忘れ得ぬ人
文字数 5,057文字
姉への疑惑が晴れ、練習に身が入るようになった颯香は、以前より引き締まった体で敏捷性 が高まり、小気味良く技を繰り出し、先輩との勝負でも勝てる力が身に付いてきた。足腰も安定し、相手に隙を見せることなくいつも集中している。この原動力は、コーチや家族に報いたい気持ち、大切な人たちのために目標を成 し遂 げようとする強い思いだった。監督も彼女の成長を実感していた。
「颯香、重心低く保って。あの選手は、足が伸び上がると不利になる。でも、はたき込まれないように気を付けてね」
由希先輩も積極的にアドバイスをくれる。
「そよちゃん、がんばって! 自分の努力を信じて!」
もうひとりの三年生、彩 先輩にも颯香の真剣さが伝わり、頼もしい後輩として信頼を取り戻した。先日の大会では、控え選手として選手登録された。そして、この練習試合は、次期大会の出場権がかかっている。颯香は、この試合で監督に認めて欲しかった。
「はっけよーい、のこった」
下に下に構え、鍛えた足腰で押して行く。廻 しを取った! 寄り切った!
「コーチ、なんとか勝てたけど、背筋力をもう少し鍛えたいです。油断すると反 り返ってしまいそうで」
自分から具体的な提案もできるようになっていた。
颯香が、強く美しく自分の相撲を磨きあげている。努力に裏付けされた、アスリートとしての確固とした自信も育っている。大好きな事に夢中になって成長し輝く、青春真っ只中の颯香が、臣にはとても眩 しく思えた。監督とコーチにとって、それは教え子の理想的な姿ではある。しかし、臣にはある光景が重なっていた。彼の忘れられない記憶の中の女性、松田園 。臣と同じ横浜生まれの彼女とは、高校時代、通う学校は違ったが、テニスの県選抜選手として顔を合わせる機会が何度かあり、ふたりは、その頃から惹 かれ合うようになった。
「臣くん、これ、今度会えたら渡そうと思って、お守り作ったの」
園は、黄色いフェルトで手作りした、テニスボール型のマスコットを手渡した。真ん中には斜めに『Victory』の文字が青い糸で刺繍 されている。
「あぁ、ありがとう。かわいい! 大事にするね。ここに付けるよ」
臣は、ラケットバックにそれを付けてにっこり笑った。
「ありがとうな。大会がんばるよ。園も頑張って!」
ひたむきさと向上心、そして、時折見せる清楚 な女の子らしさに心を鷲掴 みにされた。
それぞれの活躍が認められ、ふたりはやがて、偶然にも同じ大学にスカウトされることになる。ふたりは運命を感じ、お互いを励まし合い、それぞれに自己を鍛 え成績を伸ばしていった。ふたりが共に過ごす時間は、いつもテニスコートの上。特に園は、ストイックなまでに上位を目指しテニス以外の事には目もくれず、自主練習では、男子である臣を相手に過酷な練習を重ねた。
時に、臣が彼女を労 い食事に誘う。
「焼肉でも行くか? 今日はかなり消耗 しただろう? しっかり食べなきゃ」
「うん。でも、生活のルーティン崩したくないな。真っすぐ帰るね」
断られても、自己管理をしっかりできる彼女を尊敬した。自分の主張をはっきりと言える、快活 で聡明 で美しい人だと思った。普段の食事にも気を遣い、温野菜を中心とし、シンプルに調理した肉類や豆類からタンパク質を取り入れる。極力、食品添加物を避け、ドレッシングは自家製のものか岩塩 を振りかける。栄養素の足りないところには、サプリメントを利用して補った。カフェで休憩する時も、糖質のものは全く摂 らない。彼女にとって、食事もまるでトレーニングの一要素かのようだった。そして次第に、ふたりの立場の差は歴然としていった。彼女は連戦連勝を修め、世間の注目を一身に集め一躍時 の人となる。一方、臣は、大会中のハードな試合で膝を痛めてから、十分に力を発揮できなくなった。故障を抱 えながらのプレーは精彩 を欠き、世界レベルには到底及ばなくなってしまった。やがて、園のテニス人生は「第二章」を迎える。海外に留学し、更に腕を磨きプロ選手としての輝かしい未来が開けていった。しかし臣の心は、彼女の傍 にいることにより、次第に劣等感に苛 まれるようになっていく。そして彼女もまた、少しずつ変わっていった。成功と海外留学の経験は彼女に自信をもたらし、絶頂期を迎えている自分にすっかり陶酔 してしまった。臣の愛情さえも、自分の手中にあると信じ切っていた。
「園、おめでとう。無事、プロ契約が決まって、俺もうれしい」
臣は、大きな花束を抱えて園の部屋を訪れた。彼女と彼女の部屋の、シックで落ち着いた雰囲気に合わせて、モーブピンクのバラとユーカリの葉やジャスミンを中心に仕立ててもらった物だった。
「ありがとう! きれいね。いい香り」
園は、受け取った花束を、カウンターキッチンに無 造作 に置いた。マホガニーのテーブルの上には、契約書類や様々な資料のようなものが並べられている。園は、それらに目を通しながら、
「あぁ、臣、所属契約も結んだし、スポンサーも決まったの。やっとスタートラインに立てた。いよいよこれからね、忙しくなるわ。でもね、マネージャーの男の子、頼りなくて困ってたとこよ。私がこれから躾 けるべき? 誰かもっと適任の人がいないものかしら?」
花束の存在は、すでに忘れているようだった。臣は、彼女が真夏の太陽のように眩しく直視できなかった。彼は、瞳を合わせぬままに、そんな彼女を背中からグッと自分の腕の中に抱き寄せてみる。彼女の温もりを感じようとした。そして、自分の気持ちを確かめたかった。園は向き直り、小麦色の細く長い両腕を彼の首に絡 めた。
「私、結婚や育児が、男女の幸せの最終到達点とは思わないわ。愛にはいろいろ形があっていいと思う。だから、臣には、パートナーとして私を支えて欲しい。テニス選手でいられる時間って、実はとても短い。だから、私の出来得 る限り、テニス選手としての人生を極めたいの。そうよ! 臣、あなたがもしもマネージャーを務めてくれたなら・・・・あなたが必要よ。隣にいて欲しいの。私、いつかグランドスラムの地にあなたを連れて行く。世界もあなたに注目するわ。あの素敵な男性は? って。あなたの夢を、私が叶えるわ」
臣は静かに聞いていた。だが次の瞬間、彼は震える手で彼女を突き放した。
「いい加減にしてくれ! 俺に、君の僕 になれとでも言うのか! 俺が君のマネージャーか? マスコットか? 耐えられない。君が俺の夢を叶える? それが一体何になるって言うんだ! 俺の夢はそんなものじゃない。俺だってこの足で、俺の実力で、コートに立ちたかった・・・・。これ以上俺を・・・・辱 めるのはやめてくれ・・・・」
「そんなつもりで・・・・言ったんじゃないわ」
それは、彼女の求める理想だった。臣もテニス選手としての名声も、どちらも手に入れたい。だが彼女は、彼を傷付けていることに全く気付いていなかった。彼女の慢心が吐き出す言葉は、彼の心の傷に塩を塗るようなものだった。
「そういう事だよ。俺には屈辱的 過ぎる。もう俺たち、一緒にはいられないよ・・・・」
臣は、肩を落とし立ち尽くす。握り締めた手に悔しさが滲 む。
「臣、どうしたの? 気に障 ったのなら謝るわ。ねぇ・・・・」
「自分の言ったこと、よく考えてみるんだ。もう無理だよ・・・・。終わりにしよう」
臣は、そのまま部屋を立ち去り、二度と戻ることは無かった。
プロにならずとも、テニスで成功し、父に認めてもらいたかった。しかし、それが実現できなかった今、自分の存在価値とは何なのだろうか。いつか自分も大切な誰かと家庭を持ち父親になり、自分の父とは違う方法で温かく子供を守り育てたいという、ずっと心に抱 いて来た淡い未来図も、園のそれとは方向性が違っている。事実、高卒でプロに転向する選手が多い中、園のような大卒でのプロスタートは、少々後 れを取っている。だから彼女は、出産という体の変化によって、現役選手としてのキャリアに休符が打たれることを快 くは思っていないのだ。
ふたりはお互いの気持ちを十分に理解し合えぬまま、やがて別れを選択した。
その後、臣は大学を卒業すると、スポーツトレーナーとして働くようになった。同時に病院に通い、じっくり膝の治療を受けた。
臣の実家は横浜にあり、父は、祖父から継いだ印刷会社を経営していた。しかし、父の代になると、昨今のインターネット環境の進化や書籍離れといった時代の波に印刷業界も淘汰 されていった。その中でも父は手腕を振るい、いつか臣が後継者となることを踏まえ、今後の印刷業界が担う役割を模索しながら会社を守ってきた。その時代の厳しさを知ってか、臣にはいつも厳しく目標を与え、そしてそれが達成できないと激怒した。勉強でも生活態度でも、厳しく躾けられたのだ。父との外食は数える程度。しかも、高級レストランでテーブルマナーを学ぶ。食べる事を楽しむより、そこに付加価値 を見出 し、学びの場とする。母は必死で幼い臣にテーブルマナーを叩きこむ。父の視線が注がれ、緊張のあまり食事を味わうどころではなかった。和食の席でも、魚の食べ方は、口うるさく指導された。父にとって、やる意味のない行動には興味がない。そして、最善の結果を伴わなければ何の意味もない。「それが何になる?」が父の口癖だ。それでも臣は、中学の部活でテニスと出会い、いつしかテニスの楽しさを知り、テニスにのめり込んでいく。だが、父の希望は、会社経営のノウハウや社会情勢に敏感に対応するスキルとなるよう、大学で経済学や経営学を学んで欲しいというものだった。臣は父に初めて反発し、スカウトを受けた体育大学へ進学し、テニスを続けることを選択する。
「テニス? それが何になるんだ? 何か役に立つのか? それでもどうしてもやると言うのなら、プロになるくらいの気概 で、勉強もテニスもそれ相応の結果を修めなさい」
案 の定 、父は臣に成果を求めた。しかし結局、テニスで成功することなど夢のまた夢で、自分は凡人 でしかなかったことを痛感させられた。
「だから言ったんだ。結局お前に残ったものは何だ? この責任は自分で取りなさい。学費は全部返してもらう。もう親を頼るな!」
母親は、二人のやり取りを悲しい思いで見守ることしかできなかった。父親に意見すれば火に油を注ぐようなもの、ますます息子を苦しめてしまうのが常だった。だが、一人細々と殺風景なアパートの一間で暮らし、落胆の中で生きる息子を、放っておくわけにはいかなかった。母は自分の兄、颯香の大学の監督の立花守夫 に相談した。
「兄さん、臣はもうテニスさえも嫌いになってしまって。ラケットもウエアも全部捨ててしまったの。就職はしたけれど、まるで生きがいを無くしている様なのよ」
「臣くん、僕の相撲には全く興味が無さそうだったが、ひょっとしたら、今こそ『相撲の心』が、今の臣くんの助けになるような気がするなぁ」
そこで立花監督は、大学でのトレーナーの仕事を提案してくれたのだった。
こうして、臣は颯香の大学に手伝いに来るようになる。相撲の事は、伯父 の立ち合いを何度か見たことはあるものの、かじる程度の知識しかなく、初めは全く乗り気では無かった。一生懸命に打ち込んだところで、一流選手として活躍できる者は、ほんのひと握り。才能と時の運次第。それは、人並み外れた努力を以 てしても、そう簡単に叶うものではない。時に一流を目指すことが、その人の人間性を壊してしまう、そんな様子を目の当たりにした臣は、その価値に疑問を抱いていた。もちろん一流で素晴らしい人格者はたくさんいるし、素晴らしい人格者であるからこそ一流になれるのかもしれない。一方で、幼い頃から勝負の世界にいて回りを大人に囲まれ、その外側にあるごく一般的な、「普通」と言われる世界に触れる機会に乏 しく、偏った経験と知識だけが備わると、その人の価値観はその材料だけで作られていくのであろう。
颯香には、カフェでかわいらしく大好きなケーキを食べ、ファッションもメイクも、好きな物を楽しんでいて欲しかった。今、自分にも少しずつ理解できてきた『相撲の心』を、相手への敬意と礼節を、忘れず大切にし続けて欲しかった。自分が、もしや「二人目の園」を育てる結果となってはいないか、そう感じてとても怖かった。
臣は、部員たちの体がある程度できあがったことを理由に、一日おきが三日に一度、一週間に一度、と部活から距離を置くようになっていった。
「颯香、重心低く保って。あの選手は、足が伸び上がると不利になる。でも、はたき込まれないように気を付けてね」
由希先輩も積極的にアドバイスをくれる。
「そよちゃん、がんばって! 自分の努力を信じて!」
もうひとりの三年生、
「はっけよーい、のこった」
下に下に構え、鍛えた足腰で押して行く。
「コーチ、なんとか勝てたけど、背筋力をもう少し鍛えたいです。油断すると
自分から具体的な提案もできるようになっていた。
颯香が、強く美しく自分の相撲を磨きあげている。努力に裏付けされた、アスリートとしての確固とした自信も育っている。大好きな事に夢中になって成長し輝く、青春真っ只中の颯香が、臣にはとても
「臣くん、これ、今度会えたら渡そうと思って、お守り作ったの」
園は、黄色いフェルトで手作りした、テニスボール型のマスコットを手渡した。真ん中には斜めに『Victory』の文字が青い糸で
「あぁ、ありがとう。かわいい! 大事にするね。ここに付けるよ」
臣は、ラケットバックにそれを付けてにっこり笑った。
「ありがとうな。大会がんばるよ。園も頑張って!」
ひたむきさと向上心、そして、時折見せる
それぞれの活躍が認められ、ふたりはやがて、偶然にも同じ大学にスカウトされることになる。ふたりは運命を感じ、お互いを励まし合い、それぞれに自己を
時に、臣が彼女を
「焼肉でも行くか? 今日はかなり
「うん。でも、生活のルーティン崩したくないな。真っすぐ帰るね」
断られても、自己管理をしっかりできる彼女を尊敬した。自分の主張をはっきりと言える、
「園、おめでとう。無事、プロ契約が決まって、俺もうれしい」
臣は、大きな花束を抱えて園の部屋を訪れた。彼女と彼女の部屋の、シックで落ち着いた雰囲気に合わせて、モーブピンクのバラとユーカリの葉やジャスミンを中心に仕立ててもらった物だった。
「ありがとう! きれいね。いい香り」
園は、受け取った花束を、カウンターキッチンに
「あぁ、臣、所属契約も結んだし、スポンサーも決まったの。やっとスタートラインに立てた。いよいよこれからね、忙しくなるわ。でもね、マネージャーの男の子、頼りなくて困ってたとこよ。私がこれから
花束の存在は、すでに忘れているようだった。臣は、彼女が真夏の太陽のように眩しく直視できなかった。彼は、瞳を合わせぬままに、そんな彼女を背中からグッと自分の腕の中に抱き寄せてみる。彼女の温もりを感じようとした。そして、自分の気持ちを確かめたかった。園は向き直り、小麦色の細く長い両腕を彼の首に
「私、結婚や育児が、男女の幸せの最終到達点とは思わないわ。愛にはいろいろ形があっていいと思う。だから、臣には、パートナーとして私を支えて欲しい。テニス選手でいられる時間って、実はとても短い。だから、私の
臣は静かに聞いていた。だが次の瞬間、彼は震える手で彼女を突き放した。
「いい加減にしてくれ! 俺に、君の
「そんなつもりで・・・・言ったんじゃないわ」
それは、彼女の求める理想だった。臣もテニス選手としての名声も、どちらも手に入れたい。だが彼女は、彼を傷付けていることに全く気付いていなかった。彼女の慢心が吐き出す言葉は、彼の心の傷に塩を塗るようなものだった。
「そういう事だよ。俺には
臣は、肩を落とし立ち尽くす。握り締めた手に悔しさが
「臣、どうしたの? 気に
「自分の言ったこと、よく考えてみるんだ。もう無理だよ・・・・。終わりにしよう」
臣は、そのまま部屋を立ち去り、二度と戻ることは無かった。
プロにならずとも、テニスで成功し、父に認めてもらいたかった。しかし、それが実現できなかった今、自分の存在価値とは何なのだろうか。いつか自分も大切な誰かと家庭を持ち父親になり、自分の父とは違う方法で温かく子供を守り育てたいという、ずっと心に
ふたりはお互いの気持ちを十分に理解し合えぬまま、やがて別れを選択した。
その後、臣は大学を卒業すると、スポーツトレーナーとして働くようになった。同時に病院に通い、じっくり膝の治療を受けた。
臣の実家は横浜にあり、父は、祖父から継いだ印刷会社を経営していた。しかし、父の代になると、昨今のインターネット環境の進化や書籍離れといった時代の波に印刷業界も
「テニス? それが何になるんだ? 何か役に立つのか? それでもどうしてもやると言うのなら、プロになるくらいの
「だから言ったんだ。結局お前に残ったものは何だ? この責任は自分で取りなさい。学費は全部返してもらう。もう親を頼るな!」
母親は、二人のやり取りを悲しい思いで見守ることしかできなかった。父親に意見すれば火に油を注ぐようなもの、ますます息子を苦しめてしまうのが常だった。だが、一人細々と殺風景なアパートの一間で暮らし、落胆の中で生きる息子を、放っておくわけにはいかなかった。母は自分の兄、颯香の大学の監督の
「兄さん、臣はもうテニスさえも嫌いになってしまって。ラケットもウエアも全部捨ててしまったの。就職はしたけれど、まるで生きがいを無くしている様なのよ」
「臣くん、僕の相撲には全く興味が無さそうだったが、ひょっとしたら、今こそ『相撲の心』が、今の臣くんの助けになるような気がするなぁ」
そこで立花監督は、大学でのトレーナーの仕事を提案してくれたのだった。
こうして、臣は颯香の大学に手伝いに来るようになる。相撲の事は、
颯香には、カフェでかわいらしく大好きなケーキを食べ、ファッションもメイクも、好きな物を楽しんでいて欲しかった。今、自分にも少しずつ理解できてきた『相撲の心』を、相手への敬意と礼節を、忘れず大切にし続けて欲しかった。自分が、もしや「二人目の園」を育てる結果となってはいないか、そう感じてとても怖かった。
臣は、部員たちの体がある程度できあがったことを理由に、一日おきが三日に一度、一週間に一度、と部活から距離を置くようになっていった。