7.アイスアメリカーノ
文字数 6,677文字
春、花香は、念願の外国語学科に無事合格し、晴れて大学生となった。同時に、いつか海外に行くための貯金をしたいという思いから、大学近くの小さな喫茶店『ポラリス』でアルバイトも始めた。キャンパス内でも、花香に言い寄る男子学生はたくさんいたが、心がときめくような出会いはまだない。
そんなある日、花香のアルバイト先の喫茶店に一人の青年が訪れると、店の一番奥の席に腰掛けた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
花香は笑顔で注文を伺 う。接客にも大分慣れた頃だった。
「ええと、アイスアメリカノ、ありますか?」
『アメリカーノ』とは発音を伸ばさない。
(この人は韓国人かしら? あれ? アメリカンコーヒーはあるけれど、『アメリカノ』ってメニューにあったかなぁ?)
それにしても、美しい白い肌をしている。髪はサラサラで顎先 がほっそりしていて、爽やかで柔らかい柑橘系 の香りもふんわりと漂ってくる。ふと、その場から動こうとしない店員の顔を見上げる彼と目が合い、花香はハッと我に返った。
「あっ、少々お待ち下さい」
慌てて注文をマスターに伝えに行く。
「マスター、あの・・・・アイスアメリカーノってお願いできますか? あちらのお客様、韓国の方のようで。韓国ではアメリカノがカフェの定番なんです」
花香は、韓流アイドルが、これをよく飲んでいるのを知っていた。
「エスプレッソを水で割ったものだね。スッキリした飲み口の中に、エスプレッソのコクが楽しめる。OK! 氷水とエスプレッソ3対1もしくは4対1・・・・」
マスターは、抽出したての香り高いエスプレッソを、氷水の入ったグラスに注いだ。そしてたった今から、メニューに『アイスアメリカーノ』を追加した。
「さすがマスター! ありがとうございます」
「お待たせ致しました。アイスアメリカーノでございます。本日からメニューに加えさせて頂きました」
花香は、彼の席へグラスを置いた。
「もしかして、僕のために? ありがとうございます。お店の雰囲気に惹 かれて、初めて来ました。来てよかった」
彼のキラキラ輝く瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
「マスターの計らいです。どうぞごゆっくりお寛 ぎください」
レンガの壁にこげ茶色の木枠 の格子窓 が並ぶ外観。少し薄暗い店内には、静かにジャズが流れている。一席ごと形の違うおしゃれな傘の照明は、暖かみのあるオレンジ色の電球色を放ち、より一層お店のレトロ感を醸し出している。彼は、コーヒーを味わい、本を読み始めた。
ゆったりと、コーヒーと読書の時間を楽しんだ彼を、マスターがレジ前で待ち受ける。
「アメリカーノはいかがでしたか? お口に合いましたか?」
「マスター、とても美味しかったです。ご親切ありがとうございます。また来ます」
それから時々、彼は店を訪れた。花香は、シフトに入る機会を増やして、彼が来るのを期待するようになった。彼を目の前にすると心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
ある日の夕方、一人の若いスーツ姿の男性客が、レジでの支払いの後、花香に近付いてなれなれしく話しかけてきた。ツンときつい香水の香り、ブランド物の財布に、高そうなゴールドの腕時計と厚みのある指輪、片足に重心を置き体軸 を斜めに立って上目遣 い・・・・。五感 から得る情報をもとに、瞬時に花香は警戒した。
「君さ、彼氏いるの? 大学生? 良かったらLINE交換しない?]
「あの、いいえ、お断りします。すみませんが、仕事中ですので・・・・」
「交換するくらいいいじゃん。だめ? じゃあさ、バイト何時まで? 今夜食事するのはどう? 美味しいフレンチご馳走するけど」
男はしつこかった。
「お客様、困ります。もう一度言いますが、お断りします!」
花香は、毅然 とした態度できっぱりと言い放った。マスターも心配して花香のそばに駆け寄って来たので、
「何だよ! 馬鹿にしてんのかこのやろう! スカしてんじゃねえよ」
と男は急に態度を変え、小声で捨て台詞 を吐き、舌打ちしてそそくさと店を出て行った。その背後に思いっきりパンチを食らわしてやりたい気持ちを抑えて、花香は大きくため息をついた。するとちょうど男とすれ違いに、『アイスアメリカノ』の彼が店内に現れた。そのただならぬ様子を、彼は目撃していた。助けに入ろうかと思ったところで花香が見せた毅然とした立ち振る舞いにとても感心し、彼女の真っ直ぐな眼差 しが強く凛 として美しいと思った。だが、その細い体は、小さく震えている。きっと心の内は、とても怖かったに違いない。ふと花香と目が合い、思い出したように注文を伝える。
「・・・・あぁ、アイスアメリカノ、ください」
「はい、かしこまりました」
花香は、いつもの笑顔を作り、彼を迎える。
いつものコーヒーが席に運ばれると、彼は声を掛けずにはいられなかった。
「さっき、大丈夫でしたか? あの男、何か、暴言を?」
「あっ、見てました? 大丈夫です。慣れてますから。ありがとうございます」
「とても怖かったんじゃないですか? 次に何かあったら、僕が力になりますから」
「あ、ありがとうございます!」
花香は、自分の耳が、かぁっと熱く赤くなるのを感じた。彼の方も、彼女に声を掛け、思わずそんなことを口走った自分に少し恥ずかしくなり、頬を赤らめ慌てて本を開く。そんな彼の姿を、ちょっぴりかわいらしいと花香は思った。
「本、お好きなんですね」
「はい。エッセイとか・・・・推理小説が好きです」
「素敵ですね。おすすめの本があったら是非教えてください。ごゆっくりどうぞ」
そう言って、花香が戻ろうとすると、彼は急いで鞄 の中からごそごそと一冊の本を取り出した。
「あ、あのこれ、おもしろかったんだ。僕読み終わったから、読みますか?」
彼から手渡された本を静かに開いて見る。全てハングル文字で書かれている。花香は本を閉じ、はにかみながら微笑んで言った。
「読みたいけれど・・・・読めません」
数秒の沈黙の後、思わず、ふたりは吹き出した。
「あぁ、そうか、韓国語」
「そう! 読みたいのに! あ~、たくさん勉強しなくちゃ」
ふたりは笑い合った。彼のきゅっと口角の上がったくったくのない笑顔に、花香の心はすっかり晴れ渡った。
花香たちの大学生活も四か月ほど経過した、真夏の頃だった。絵理からの久々の電話。
「ええっ、合コン? 明日? 急だなぁ」
「うちの大学の男子たち連れて行くから、花香お願い! 人数足りないの。いい出会いがあるかもしれないしさ」
「わかった。まぁ、バイト休みだし、了解。場所とか時間とか、後でLINEしといて。そうだ、真梨子も行けるんだよね? うん、じゃあね」
あまり乗り気ではなかったが、親友の頼みだ。行ってみることにした。
「合コンあるの? 変な男に捕まらないようにね。何かあったら連絡して。お姉ちゃん助けに行くから」
近くで聞いていた舞香が、緑茶を入れながら心配そうに言った。
「大丈夫だよ。真梨子も来るし。ねえねえ、そよ姉は合コンの経験ある?」
「ないよ、そんなもの」
花香は、会話のきっかけのつもりで、何気なく尋ねてみただけだったのだが、颯香はテーブルの上の『南部 せんべい』(甘く香ばしいピーナッツの方ではなく、素朴なごませんべいの方)を噛み締めながら、興味のない様子でぶっきら棒に言い放った。今夜もどこか機嫌が悪い。花香は、これは失言だったと反省した。姉も「余計な事は言わずそっとしておいて」とばかりに眉間 に皺 を寄せ、小さく首を振る。颯香は大学二年目に突入し、部活も少しずつ復調の兆しを見せ始めていた。以前よりも大分体が引き締まり、他校との交流試合などでは、実戦に参加し勝利できるようになったが、公式戦では、まだまだ先輩たちがその座を譲らなかった。
今回の合コンは、絵理の大学の友人たちがセッティングしたものだった。花香と絵理と真梨子は、待ち合わせをして合コン会場に向かった。
多国籍料理店の長テーブルに一人また一人と参加者が現れ席に着く。すると、花香は突然ハッと気付いて、ある人を指差した。
「アイスアメリカノの彼!」
彼もまた、花香に気付いて驚いている。
「あの『ポラリス』の!」
「えっ、ふたり知り合い? うそぉ!」
絵理も驚いて思わず叫んだ。
「えっ、ちょっと花香、素敵な人じゃん。どこで知り合ったの?」
真梨子も、興奮気味に花香の腕を叩く。
「うん。よく私のバイト先に来てくれる、お客様なの・・・・」
男女五人ずつ今日の参加者が集まったところで、とりあえず乾杯し、その後自己紹介タイムが始まった。
韓国人の彼の名前は、ユン・ジョンミン。花香と同い年で、絵理と同じ大学の留学生である。彼もまた、友人に誘われるがままこの会に参加したようだ。残念ながら席は離れてしまい、花香の対角に座っている。そして彼女の目の前には、陽気だけが取 り柄 そうな、声の大きい男性が座っている。花香が一番苦手とするタイプだった。
「俺はさぁ、おやじが車屋だからぁ、後継ぎ後継ぎ、次期社長。社長夫人募集中~っす!」
(やばい。やばいやつだな・・・・)
花香は、あまり関わりを持たないように視線を逸 らした。トークやちょっとしたゲームをしながら、二十歳以上の者はお酒が進み、まだ二十歳未満の花香たちは、ソフトドリンクで我慢した。席をシャッフルするうちに、酔っぱらった陽気男が花香の隣に座り、まとわりついてきた。絵理と真梨子が必死で防御に入り、花香の肩に乗せられた彼の重い腕を払い除ける。しかし段々、花香は気分が悪くなった。
「大丈夫?」
真梨子が、青ざめた彼女の顔色に気付く。
「ちょっと頭痛くて。私、トイレ行ってそのまま帰ろうかな。ごめんね。すみません」
花香は、参加者たちに挨拶をして絵理に会費を手渡すと、さっさと会場を後にした。
(ジョンミンさんとゆっくりお話ししたかったなぁ。せっかくのチャンスだったのに)
それが心残りだった。だが、店を出るとそこに待っていたのは他でもない、ジョンミンその人だった。
「あっ、花香さん、家どちらですか。僕、送ります。心配だから」
声を掛けられるも目を疑った。そして、思いがけない申し出に驚きつつ、ふたり一緒に最寄り駅までゆっくりと歩き出す。
「ジョンミンさん、友達とゆっくりすればよかったのに」
「僕も少し疲れました。花香さん、頭痛大丈夫ですか?」
「少し良くなってきました。大丈夫です」
彼の専攻は経済学。韓国では、留学経験や日本語や英語などの外国語を身に着けることが、就職に有利に働く。そのために、日本への留学を選んだのだという。また、大学ではダンスサークルに所属しているそうだ。外の新鮮な空気を吸ったせいか、彼の優しさに触れたお陰なのか、お互いの境遇や将来の夢を語り合ううちに、花香の頭痛は何処 かに飛んで行ってしまっていた。
「講義の後、アルバイトの前とか、君の喫茶店で少し休憩してリフレッシュするんです」
「読書タイムにちょうどいいんですね」
「大学から自転車ですぐ来れるから。あっ、韓国語勉強したいなら僕が教えましょうか? 花香さんならきっと、すぐに本も読めるようになります」
花香の夢を知って、彼がまたまたこの上ない提案を申し出る。
「うれしいです! いつか本も読めるようになりたいし、日常会話も。是非よろしくお願いします。私、がんばります」
「はい。一緒にがんばりましょう。僕も、あの素敵なお店で、『アア』がいつでも飲めるなんて感激です。君の親切のお陰です」
「『アア』ですか?」
「『アイスアメリカノ』のことです。韓国の人は、略して『アア』って言うんです」
「そうなの? じゃあ、次回からのご注文は『アア』で。まるで合言葉みたいですね!」
「あいことば? ええと・・・・意味は・・・・?」
「ふたりのキーワードって言ったらいいかしら? 暗号とか?」
「あぁ、そういうことか。いいですね!」
ふたりは別れ際にLINEを交換した。彼にIDを教えることには、少しの戸惑いもなかった。彼の人柄は知っている。言葉の裏に、嘘偽 りは感じられない。これで、いつでも韓国語レッスンの連絡が取れる。お互いの距離が、一気に近くなった気がした。頭痛もすっかり良くなった花香は、帰る方向が違う彼と、駅でさよならした。
「じゃあ、またね」
「花香さん、気を付けて。また」
(運命の人に、出会ってしまったのかな・・・・)
ふたりの共通する『予感』だった。
それからというもの、ふたりは時々図書館やカフェで会い、韓国語と日本語を互いに教え合った。花香の韓国語はめきめきと上達していったし、ジョンミンにとっては、花香が生活の一部となった。今日食べた夕飯の事や今日の出来事、実家の家族の事など、小さな話題でも何でも、細やかに連絡を取って花香に伝えるジョンミン。次第に、お互いが愛おしい存在となっていった。
数日後、パジャマに着替えて花香の部屋を訪ねた颯香は、しょんぼりと床の座布団に座って言った。
「花香、この前ごめん。私、もう一回相撲に本気出すから。私、花香の気持ち忘れてた。喘息ひどくなって入院したりさ、悔しい思いもして、大変な時を乗り越えてきたのに」
生成 り色のファブリックを基調とした落ち着いた部屋。ベッドの上に、花香はクッションを抱いて座っている。カーテンレールに飾られた小さな一連の電球たちが、オレンジ色にキラキラと輝いている。
「私、そよ姉がどんどん強くなっていくのをいつもワクワクして見てたよ。お父さんとの練習を見るのも楽しかったし、そよ姉がもりもりたくさん食べるのも頼もしくて。それが、最近ずっと元気ないし食欲も無さそうだから、まい姉と心配してたんだ。練習、大変なの?」
「練習は、きついけど大丈夫。トレーニングになんとか付いて行けてるし。でも、なかなか、先輩たちは追い越せないな。うちの先輩強いから。花香の分までがんばりたいのにな。ところでさ、この前の合コンどうだったの? 彼氏できた?」
「うん。好きな人はできたよ」
「えっ、どんな人? 告白された?」
「告白はされてないんだけど。別の大学の人でね、同い年で、私の喫茶店の常連さん。アイスアメリカーノが好きで本が好きで、経済勉強していて、ダンスも上手なんだって」
まだ、韓国人であることは何となく言い出せず、伏せておいた。
「ふ~ん。行ってよかったね」
「そよ姉こそ、最近元気ないの、もしかして!恋煩 いとか⁈」
「ううん。そんなんじゃないよぉ」
颯香は首を振って否定した。本当は気になる人がいることを妹に伝えたかったが、同級生でも先輩後輩でもない、相手はコーチだ。そしてまだ、姉との関係も確認できていない。しかし、やっぱり気になるものは気になる。花香は何か知っているだろうか?
「ねぇ、まい姉ちゃんはさぁ、誰か好きな人いるのかな?」
花香に探 りを入れるように尋ねてみる。
「どうかな? ・・・・謎だね」
「謎だね」
「高校の時は、バレンタインデーのチョコ作ったり、クッキー焼いたりしてたけど、彼氏いたのかな? でも最近のまい姉、いつも家の事と仕事とお店で忙しくしてるからなぁ。デートする暇なくない?」
「だよね、そうだよね。出かける時も、私たちのご飯、いつもちゃんと準備して。少しくらい手を抜いてもいいのに・・・・」
「そうそう。たまに『友達とコンサート行ってくる~!』って出かけるね。映画とかさ」
「・・・・実はね、最近、何かうちのコーチと親しいんだよ。よく電話してるし、この前は、学校の練習場にまでお姉ちゃん来てたの」
颯香はやっと、本題にたどり着いた。
「へぇ~。でもさ、付き合ってるとかじゃないんじゃない? そよ姉の様子見に行っただけなんじゃないの? ・・・・あれ? もしかして気になってるの?」
「いやいや、別にそうじゃなくて・・・・」
明らかに、さっきまでの表情と違う。
「もしかして、そよ姉、コーチのこと好きなの?」
花香は颯香の顔を覗 き込み、わざと囁 き声で問いかけた。
「違うよぉ! 違うから。おやすみぃ。花香は恋愛がんばってね」
「何かむきになってない?」
「むきになってない。なってない!」
「そう? そよ姉も次の大会、絶対応援行くからがんばってね」
花香の洞察力は、颯香の不機嫌の原因に何となく気付いてしまった。
(原因は、コーチを巡るお姉ちゃんとの三角関係か・・・・)
一方、颯香は自分の部屋に戻ると、ベッドに寝転がり強く目をつむった。
(花香ったら、勘が鋭いんだよ。やだ、ばれちゃったかなぁ? もう、早く寝よう)
そんなある日、花香のアルバイト先の喫茶店に一人の青年が訪れると、店の一番奥の席に腰掛けた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
花香は笑顔で注文を
「ええと、アイスアメリカノ、ありますか?」
『アメリカーノ』とは発音を伸ばさない。
(この人は韓国人かしら? あれ? アメリカンコーヒーはあるけれど、『アメリカノ』ってメニューにあったかなぁ?)
それにしても、美しい白い肌をしている。髪はサラサラで
「あっ、少々お待ち下さい」
慌てて注文をマスターに伝えに行く。
「マスター、あの・・・・アイスアメリカーノってお願いできますか? あちらのお客様、韓国の方のようで。韓国ではアメリカノがカフェの定番なんです」
花香は、韓流アイドルが、これをよく飲んでいるのを知っていた。
「エスプレッソを水で割ったものだね。スッキリした飲み口の中に、エスプレッソのコクが楽しめる。OK! 氷水とエスプレッソ3対1もしくは4対1・・・・」
マスターは、抽出したての香り高いエスプレッソを、氷水の入ったグラスに注いだ。そしてたった今から、メニューに『アイスアメリカーノ』を追加した。
「さすがマスター! ありがとうございます」
「お待たせ致しました。アイスアメリカーノでございます。本日からメニューに加えさせて頂きました」
花香は、彼の席へグラスを置いた。
「もしかして、僕のために? ありがとうございます。お店の雰囲気に
彼のキラキラ輝く瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
「マスターの計らいです。どうぞごゆっくりお
レンガの壁にこげ茶色の
ゆったりと、コーヒーと読書の時間を楽しんだ彼を、マスターがレジ前で待ち受ける。
「アメリカーノはいかがでしたか? お口に合いましたか?」
「マスター、とても美味しかったです。ご親切ありがとうございます。また来ます」
それから時々、彼は店を訪れた。花香は、シフトに入る機会を増やして、彼が来るのを期待するようになった。彼を目の前にすると心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
ある日の夕方、一人の若いスーツ姿の男性客が、レジでの支払いの後、花香に近付いてなれなれしく話しかけてきた。ツンときつい香水の香り、ブランド物の財布に、高そうなゴールドの腕時計と厚みのある指輪、片足に重心を置き
「君さ、彼氏いるの? 大学生? 良かったらLINE交換しない?]
「あの、いいえ、お断りします。すみませんが、仕事中ですので・・・・」
「交換するくらいいいじゃん。だめ? じゃあさ、バイト何時まで? 今夜食事するのはどう? 美味しいフレンチご馳走するけど」
男はしつこかった。
「お客様、困ります。もう一度言いますが、お断りします!」
花香は、
「何だよ! 馬鹿にしてんのかこのやろう! スカしてんじゃねえよ」
と男は急に態度を変え、小声で捨て
「・・・・あぁ、アイスアメリカノ、ください」
「はい、かしこまりました」
花香は、いつもの笑顔を作り、彼を迎える。
いつものコーヒーが席に運ばれると、彼は声を掛けずにはいられなかった。
「さっき、大丈夫でしたか? あの男、何か、暴言を?」
「あっ、見てました? 大丈夫です。慣れてますから。ありがとうございます」
「とても怖かったんじゃないですか? 次に何かあったら、僕が力になりますから」
「あ、ありがとうございます!」
花香は、自分の耳が、かぁっと熱く赤くなるのを感じた。彼の方も、彼女に声を掛け、思わずそんなことを口走った自分に少し恥ずかしくなり、頬を赤らめ慌てて本を開く。そんな彼の姿を、ちょっぴりかわいらしいと花香は思った。
「本、お好きなんですね」
「はい。エッセイとか・・・・推理小説が好きです」
「素敵ですね。おすすめの本があったら是非教えてください。ごゆっくりどうぞ」
そう言って、花香が戻ろうとすると、彼は急いで
「あ、あのこれ、おもしろかったんだ。僕読み終わったから、読みますか?」
彼から手渡された本を静かに開いて見る。全てハングル文字で書かれている。花香は本を閉じ、はにかみながら微笑んで言った。
「読みたいけれど・・・・読めません」
数秒の沈黙の後、思わず、ふたりは吹き出した。
「あぁ、そうか、韓国語」
「そう! 読みたいのに! あ~、たくさん勉強しなくちゃ」
ふたりは笑い合った。彼のきゅっと口角の上がったくったくのない笑顔に、花香の心はすっかり晴れ渡った。
花香たちの大学生活も四か月ほど経過した、真夏の頃だった。絵理からの久々の電話。
「ええっ、合コン? 明日? 急だなぁ」
「うちの大学の男子たち連れて行くから、花香お願い! 人数足りないの。いい出会いがあるかもしれないしさ」
「わかった。まぁ、バイト休みだし、了解。場所とか時間とか、後でLINEしといて。そうだ、真梨子も行けるんだよね? うん、じゃあね」
あまり乗り気ではなかったが、親友の頼みだ。行ってみることにした。
「合コンあるの? 変な男に捕まらないようにね。何かあったら連絡して。お姉ちゃん助けに行くから」
近くで聞いていた舞香が、緑茶を入れながら心配そうに言った。
「大丈夫だよ。真梨子も来るし。ねえねえ、そよ姉は合コンの経験ある?」
「ないよ、そんなもの」
花香は、会話のきっかけのつもりで、何気なく尋ねてみただけだったのだが、颯香はテーブルの上の『
今回の合コンは、絵理の大学の友人たちがセッティングしたものだった。花香と絵理と真梨子は、待ち合わせをして合コン会場に向かった。
多国籍料理店の長テーブルに一人また一人と参加者が現れ席に着く。すると、花香は突然ハッと気付いて、ある人を指差した。
「アイスアメリカノの彼!」
彼もまた、花香に気付いて驚いている。
「あの『ポラリス』の!」
「えっ、ふたり知り合い? うそぉ!」
絵理も驚いて思わず叫んだ。
「えっ、ちょっと花香、素敵な人じゃん。どこで知り合ったの?」
真梨子も、興奮気味に花香の腕を叩く。
「うん。よく私のバイト先に来てくれる、お客様なの・・・・」
男女五人ずつ今日の参加者が集まったところで、とりあえず乾杯し、その後自己紹介タイムが始まった。
韓国人の彼の名前は、ユン・ジョンミン。花香と同い年で、絵理と同じ大学の留学生である。彼もまた、友人に誘われるがままこの会に参加したようだ。残念ながら席は離れてしまい、花香の対角に座っている。そして彼女の目の前には、陽気だけが
「俺はさぁ、おやじが車屋だからぁ、後継ぎ後継ぎ、次期社長。社長夫人募集中~っす!」
(やばい。やばいやつだな・・・・)
花香は、あまり関わりを持たないように視線を
「大丈夫?」
真梨子が、青ざめた彼女の顔色に気付く。
「ちょっと頭痛くて。私、トイレ行ってそのまま帰ろうかな。ごめんね。すみません」
花香は、参加者たちに挨拶をして絵理に会費を手渡すと、さっさと会場を後にした。
(ジョンミンさんとゆっくりお話ししたかったなぁ。せっかくのチャンスだったのに)
それが心残りだった。だが、店を出るとそこに待っていたのは他でもない、ジョンミンその人だった。
「あっ、花香さん、家どちらですか。僕、送ります。心配だから」
声を掛けられるも目を疑った。そして、思いがけない申し出に驚きつつ、ふたり一緒に最寄り駅までゆっくりと歩き出す。
「ジョンミンさん、友達とゆっくりすればよかったのに」
「僕も少し疲れました。花香さん、頭痛大丈夫ですか?」
「少し良くなってきました。大丈夫です」
彼の専攻は経済学。韓国では、留学経験や日本語や英語などの外国語を身に着けることが、就職に有利に働く。そのために、日本への留学を選んだのだという。また、大学ではダンスサークルに所属しているそうだ。外の新鮮な空気を吸ったせいか、彼の優しさに触れたお陰なのか、お互いの境遇や将来の夢を語り合ううちに、花香の頭痛は
「講義の後、アルバイトの前とか、君の喫茶店で少し休憩してリフレッシュするんです」
「読書タイムにちょうどいいんですね」
「大学から自転車ですぐ来れるから。あっ、韓国語勉強したいなら僕が教えましょうか? 花香さんならきっと、すぐに本も読めるようになります」
花香の夢を知って、彼がまたまたこの上ない提案を申し出る。
「うれしいです! いつか本も読めるようになりたいし、日常会話も。是非よろしくお願いします。私、がんばります」
「はい。一緒にがんばりましょう。僕も、あの素敵なお店で、『アア』がいつでも飲めるなんて感激です。君の親切のお陰です」
「『アア』ですか?」
「『アイスアメリカノ』のことです。韓国の人は、略して『アア』って言うんです」
「そうなの? じゃあ、次回からのご注文は『アア』で。まるで合言葉みたいですね!」
「あいことば? ええと・・・・意味は・・・・?」
「ふたりのキーワードって言ったらいいかしら? 暗号とか?」
「あぁ、そういうことか。いいですね!」
ふたりは別れ際にLINEを交換した。彼にIDを教えることには、少しの戸惑いもなかった。彼の人柄は知っている。言葉の裏に、
「じゃあ、またね」
「花香さん、気を付けて。また」
(運命の人に、出会ってしまったのかな・・・・)
ふたりの共通する『予感』だった。
それからというもの、ふたりは時々図書館やカフェで会い、韓国語と日本語を互いに教え合った。花香の韓国語はめきめきと上達していったし、ジョンミンにとっては、花香が生活の一部となった。今日食べた夕飯の事や今日の出来事、実家の家族の事など、小さな話題でも何でも、細やかに連絡を取って花香に伝えるジョンミン。次第に、お互いが愛おしい存在となっていった。
数日後、パジャマに着替えて花香の部屋を訪ねた颯香は、しょんぼりと床の座布団に座って言った。
「花香、この前ごめん。私、もう一回相撲に本気出すから。私、花香の気持ち忘れてた。喘息ひどくなって入院したりさ、悔しい思いもして、大変な時を乗り越えてきたのに」
「私、そよ姉がどんどん強くなっていくのをいつもワクワクして見てたよ。お父さんとの練習を見るのも楽しかったし、そよ姉がもりもりたくさん食べるのも頼もしくて。それが、最近ずっと元気ないし食欲も無さそうだから、まい姉と心配してたんだ。練習、大変なの?」
「練習は、きついけど大丈夫。トレーニングになんとか付いて行けてるし。でも、なかなか、先輩たちは追い越せないな。うちの先輩強いから。花香の分までがんばりたいのにな。ところでさ、この前の合コンどうだったの? 彼氏できた?」
「うん。好きな人はできたよ」
「えっ、どんな人? 告白された?」
「告白はされてないんだけど。別の大学の人でね、同い年で、私の喫茶店の常連さん。アイスアメリカーノが好きで本が好きで、経済勉強していて、ダンスも上手なんだって」
まだ、韓国人であることは何となく言い出せず、伏せておいた。
「ふ~ん。行ってよかったね」
「そよ姉こそ、最近元気ないの、もしかして!
「ううん。そんなんじゃないよぉ」
颯香は首を振って否定した。本当は気になる人がいることを妹に伝えたかったが、同級生でも先輩後輩でもない、相手はコーチだ。そしてまだ、姉との関係も確認できていない。しかし、やっぱり気になるものは気になる。花香は何か知っているだろうか?
「ねぇ、まい姉ちゃんはさぁ、誰か好きな人いるのかな?」
花香に
「どうかな? ・・・・謎だね」
「謎だね」
「高校の時は、バレンタインデーのチョコ作ったり、クッキー焼いたりしてたけど、彼氏いたのかな? でも最近のまい姉、いつも家の事と仕事とお店で忙しくしてるからなぁ。デートする暇なくない?」
「だよね、そうだよね。出かける時も、私たちのご飯、いつもちゃんと準備して。少しくらい手を抜いてもいいのに・・・・」
「そうそう。たまに『友達とコンサート行ってくる~!』って出かけるね。映画とかさ」
「・・・・実はね、最近、何かうちのコーチと親しいんだよ。よく電話してるし、この前は、学校の練習場にまでお姉ちゃん来てたの」
颯香はやっと、本題にたどり着いた。
「へぇ~。でもさ、付き合ってるとかじゃないんじゃない? そよ姉の様子見に行っただけなんじゃないの? ・・・・あれ? もしかして気になってるの?」
「いやいや、別にそうじゃなくて・・・・」
明らかに、さっきまでの表情と違う。
「もしかして、そよ姉、コーチのこと好きなの?」
花香は颯香の顔を
「違うよぉ! 違うから。おやすみぃ。花香は恋愛がんばってね」
「何かむきになってない?」
「むきになってない。なってない!」
「そう? そよ姉も次の大会、絶対応援行くからがんばってね」
花香の洞察力は、颯香の不機嫌の原因に何となく気付いてしまった。
(原因は、コーチを巡るお姉ちゃんとの三角関係か・・・・)
一方、颯香は自分の部屋に戻ると、ベッドに寝転がり強く目をつむった。
(花香ったら、勘が鋭いんだよ。やだ、ばれちゃったかなぁ? もう、早く寝よう)