17.集大成の時
文字数 7,861文字
颯香の実力は安定し、四年生の先輩たちと共に、何度も大会代表としての活躍の機会を得た。そしてとうとう、十月の全国女子学生相撲競技会への出場が叶う。京都府で行われるこの大会には、両親と姉妹と一緒に、壱も観戦しに来ていた。栄一は、颯香の教員になる決心を聞いて、一年早い引退をとても残念に思ったが、颯香が描く未来もまた応援したかった。家族は皆、今日の颯香がベストを尽くせるよう手を合わせて祈る。
会場には、多くの女性力士たちが全国から集まった。高校生チーム、大学生チーム、県選抜チームで争われる。団体戦は、三人無差別、個人戦は、階級ごとに競われる。
まずは団体戦、先鋒 が颯香、中堅 が彩先輩、大将 由希先輩だ。交代選手、補助選手として同級生の信子と結衣がいる。
団体戦リーグ一回戦、清城学園の滑り出しは順調だった。あっという間に、優位に難なく3―0で勝利した。リーグは勝敗数が鍵となる。次も何とか三人勝利を修めたい。しかし、次の二回戦は大阪の強豪校、手強 い相手だ。自分より遥 かに体格のいい相手と勝負しなければならない。
「東、東京都、清城学園、澤田選手! 西、大阪府、勇星 学園、小林選手!」
アナウンスを受け、土俵に上がる。足の裏で、土の感触を確かめる。
「手をついて、待ったなし! はっけよい!」
小気味よい女性行司 の掛け声で、両者、突進する。
「のこったのこった!」
上手 を取られた颯香は、寄り切られそうになりながら、土俵際ギリギリで体勢を持ち堪 え、そこから下手 を取った右手に力を込めて勝負に出る。大きい。重い。だが、颯香の上腕二頭筋だって、ただの飾り物ではない。
(今だ!)
なんとか勝利した。ヒヤッとした。息が荒くなり心臓もドキドキしている。
「只今の勝負、下手出 し投 げで、東、澤田選手の勝利!」
続く先輩たちも無事勝利し、ここも3―0だ。次も自信を持って取り組みたい。そして、由希先輩に勝利を繋げたい。
「颯香なら大丈夫。落ち着いて。練習思い出して」
由希先輩に励まされる。
三回戦、筋力は互角、颯香は全力で相手と組み、粘り強く押し出した。颯香の見せた気合に、続く彩先輩も集中して相手の隙を狙う。寄 り切りで勝利。そして由希先輩の相手は、予想通り、彼女よりひと回り大きな重量級の選手だった。持久戦になれば不利だ。「よし!」と自分を鼓舞 する。相手の胸を突く。そして相手がバランスを崩した一瞬に、突 き落 としで勝利した。このリーグ、勝敗数で石川県の強豪校と同率1位通過したため、優勝決定戦進出となる。二勝した方が優勝だが、相手チームは三人揃って体が大きく筋肉隆々 だ。だが、この試合は絶対に落とせない。先輩たちの花道、私が飾る!
「力 み過ぎるな! 足元崩されないよう気を付けるんだ!」
監督もこの勝負に賭 けている。選手たちの両肩を叩き、気合を入れた。
(そうだ! 力み過ぎてはいけない!)
自分をコントロールできるのは自分だけ。土俵に立ったら、信じられるのは自分だけだ。颯香は、肩の無駄な力を抜いて構える。
「手を着いて待ったなし。はっけよい!」
両者が踏み出す。
「のこったのこった! のこったのこった!」
お互い張り手の攻防、素早く左手を差したのは颯香だった。廻しを取り一気に寄り切る。拍手が沸き起こる。スピードによる安定の勝利だ。頼もしい後輩の気迫に、彩先輩の闘志にも再び本気スイッチが入る。がっぷり四 つで組み合う。腰をしっかり落として粘り強くジリジリと攻める。やっとのこと押し出して、勝利した!
そして、続く由希先輩との対戦相手は、やはり重量級のひと際大きな選手だった。だが、怖気付くことなく果敢 に懐 に入り込む。相手がバランスを崩した一瞬の隙をついて、思い切って蹴倒しを仕掛ける。だが、そう簡単に勝たせてくれる相手ではない。だが、日頃の筋トレで培 った体幹の強さは裏切らなかった。諦めずに一瞬のチャンスを待つ。寄 り倒 し。勝利! 機転を利かせ、自分の相撲を力強く取ることができた。清城学園は団体戦、見事、この大会初優勝を飾った。
団体戦が終わると、信子と結衣がそれぞれの個人戦に参加し、力を十二分に発揮した。信子は中量級三位入賞。周りの選手よりも少し小柄な結衣も、苦戦しながらも諦めず、軽量級四位入賞した。二人には、更に来年という目標がある。就活をがんばりながら、それぞれ、次の目標に向かってますます技を磨き、走り続ける覚悟を決めていた。
そして、続く颯香の個人軽重量級一回戦、颯香は難なく押し出しで勝つ。二回戦は、強豪京都の選手、颯香より長身の選手だった。
まず颯香は、相手の左肩に頭を付けた。相手が颯香の廻しを掴もうとするが、颯香は身をかわし、腰を落として距離を取る。先に颯香の右手が相手の廻しを掴んだ。瞬時にぐっと引き寄せ、そのまま上手 投 げで勝利した。
準々決勝は、がっちりとした大阪の選手。お互い廻しを取られまいとする。颯香は、思わずバランスを崩しそうになり、一瞬、監督たちをヒヤッとさせた。しかし、しっかり立て直し、組み合って膠着 状態となる。ここからは我慢比べだ。だが、女子の試合は勝敗がつかないまま三分経過すれば取り直しとなるため、ここは踏ん張り、体力を温存するためにも再試合は避けたい。鍛え抜いた足腰で一歩前に出る。相手の姿勢が少し伸び上がったところですかさず押していった。すると相手がバランスを崩し、そのまま土俵の外へ倒れた。颯香は、準決勝ベスト4へ進出した。
「今日の颯香は、集中してるな。全く隙を見せない」
栄一は手に汗を握り、娘と一緒に取り組みをしている心地だった。壱も女子相撲の迫力に圧倒されていた。それは男子顔負けの力強さだった。美紗子も舞香も花香も、どうか無事に勝ち進むようにと祈る。
いよいよ準決勝。常連の岐阜県の選手。体格は互角だ。これに勝てば決勝進出。
(欲張ったら負けだ。先を考えたら油断する。この一戦に集中しよう。この選手と戦える貴重な機会に集中しよう)
何度も自分に言い聞かせる。
「構えて、手を付いて待ったなし。はっけよい! のこった!」
恐れず頭からぶつかっていく。押す。互角の戦い。どちらも低い姿勢で粘るが、お互い右手の手の平を掴み合う体勢となり、どちらもその手を離そうとしない。
「手の平、掴まれてるな。難しい形だ」
栄一も壱も、共に心配そうに試合を見守る。だがその時、土俵際ギリギリのところで、颯香が寄り倒し、相手は倒れこんだ。同時に颯香も倒れた。
「痛っ‼」
勝利した。しかし、倒れた時に肩を捻 ってしまった。だが、すぐ立ち上がり痛みに耐え、礼儀正しくお辞儀をして土俵を下りた。
「捻ったか?」
「颯香大丈夫か⁈」
監督と臣が、颯香のただならぬ様子に気付いて近寄った。家族たちも応援席から、痛みをこらえる颯香の姿に、何らかのアクシデントがあったことを理解する。
「監督、すみません。倒れこんだ時に、捻ったみたいです・・・・」
「掴み合っていた右腕だな。肩痛むか。とにかく冷やせ」
監督の指示で、臣は氷嚢 で肩をアイシングするが、激しい痛みに颯香の表情が歪 む。
「颯香、決勝出れるか? 無理するな。すぐ病院へ行った方がいいんじゃないか?」
「コーチ、私、最後までこの舞台に立ちたい」
「颯香! 無理はするな。大事な体だぞ!」
監督も心配し語気を強めた。颯香の目に悔し涙が滲 む。
「でも・・・・それが私の相撲だから。諦 めず前へ進みます。この大会、やり切りたい。相手も不戦勝 なんて嫌なはずです。監督、お願いです。土俵に立たせて下さい!」
「臣、テーピングしてやれ。颯香、今日のお前は、よく集中できていた。団体戦も見事だったし、十分、集大成を見せてもらったぞ。お前の気の済むようにしなさい。だが無理はするな。自分の体とよく対話するんだ」
「はい。監督、ありがとうございます」
臣は彼女の肩に、念入りにテーピングを施 した。気休めにしかならないことは、重々分かっていたが、目の前の颯香には、強い痛みをこらえながらも、『棄権 』の二文字は無いのだ。誰も彼女を遮 ることはできなかった。
いよいよ決勝の舞台、颯香を迎え撃つのは、昨年の優勝者、鳥取県の選手だ。
「構えて、手をついて待ったなし。はっけよい! のこった!」
最初からがっぷり四つ。右肩の弱さを、左手に力を込めてカバーする。しかし、廻しを掴んだ右手にうまく力を込めることができない。
(諦めたくない!)
だが、次の瞬間、相手の上手投げ。颯香は、土俵の外に投げ出された。敗退した。
皆、息をのんだ。一瞬の静寂の後、会場は選手を称 え盛大な拍手に包まれた。家族も怪我を押して出場する颯香の雄姿を見守り、健闘する姿に感動し、涙をこらえることができなかった。
この後、大事な、先輩方の重量級の試合が続く。颯香も肩を冷やしながら応援した。その間に両親と臣は、この京都の地で受診できる病院を探した。
由希先輩たちも、颯香の状態が気になりながら、とりあえず目の前の自分の取り組みに集中する。一回戦では軽く勝利し、二回戦に進んだ。由希先輩は安定の取り組みで寄り切り勝利。彩先輩は、団体戦の二回戦で颯香を苦しませた大阪の小林選手と当たり、惜しくも敗退した。個人戦はここで終わった。一方、由希先輩は、ベスト4の常連、石川県の選手と粘り強く取り組み合い、もう少しのところで押し出されそうになる。しかし、土俵内になんとか留まり、一進一退の末、先輩の根気が勝 り相手を押し出した。さあ、いよいよ決勝。重量級の決勝では、必ずこの選手を倒さなければならない。新潟の体格の大きな有名選手だ。山のように立ちはだかる相手に、由希先輩は、懸命に廻しを取ろうとするが、あと少しのところで手が届かない。吊 り上げられてしまった・・・・。由希先輩の最後の試合は、準優勝。それでも悔いはなかった。最後まで決して諦めずに戦い抜いた。先輩たちの雄姿は、後輩たちの心に印象深く刻まれた。由希先輩は、これから社会人になっても、相撲人生、まだまだ楽しみ活躍したいと決意を新たにする。そして彩先輩は、保育士として勤めながら、相撲の楽しさを子供たちに伝えられたら、と夢みる。
先輩たちの試合を見届けるとすぐ、颯香は壱のレンタカーで家族と共に救急病院へと向かった。
レントゲンを撮り、そして超音波検査で肩の組織を慎重に見ていく。結果、肩の腱板 を痛めていることがわかった。もしも重傷であれば、若い彼女の今後を見据 えると手術が第一選択とのことで、入院期間は一、二週間程度、重労働が可能になるまでには少なくとも約六か月程度はかかるという。だが、医師は、
「娘さんは、大丈夫でしょう。幸い、損傷は小さいです。この鍛えた背筋や肩の筋肉が、肩関節の動きを助けてくれるので、手術しなくても、リハビリでなんとかなるでしょう。無理はできませんが、様子を見ていきましょう。お相撲はちょっとお休みだね」
颯香も両親も、ほっと胸を撫でおろした。
美紗子が会計をしている間、栄一が颯香の肩をそっと抱いて、健闘を労 う。
「颯香、大丈夫か? こんな状態で・・・・最後まで、よくやったなぁ」
颯香は、怪我にそれ程落ち込んではいなかったが、少しだけ、目にじんわりと涙が浮かぶ。
「お父さん、私、やり切った。なんか清々 しい気持ち。でもね、ちょっと痛い! 痛み止め、まだ効かなくて・・・・」
そう言って、心配させまいと父に作り笑いを見せる。
「手術にならずに済んだ。それこそ、努力の賜物 だ。颯香、ありがとうな。お父さんも颯香に夢を見させてもらった。一緒に、青春やり直した気分だ。ありがとうな」
栄一にも、娘の負傷に心配と不安は抱えつつも、どこか充足感があった。
数日、颯香は安静を保った。初め、着替えの動作もままならなかったが、家族が日常生活を支えた。とりわけ、花香は献身的だった。湿布を張り替えたり、寝る時には、体勢が辛 くならないよう、タオルやクッションを脇の下に挟んでくれたりした。痛みに波はあるものの、時に薬を服用しながら学校へ通う。通学は、壱と舞香が車で送ってくれた。キャンパス内では、友人たちや信子と結衣が、協力してくれ、心強かった。
同時に、京都の医師が書いてくれた紹介状を持って都内の病院を受診した。しばらくの間、リハビリテーションと投薬や注射のために、通院が必要だった。
部活は引退したものの、颯香が部活に顔を出すと、皆、大歓迎だ。今日も、見学しながら後輩に口頭で指導をしていると、臣の姿を見付けた。
「コーチ!」
「颯香、大丈夫か?」
「ありがとうございます。大丈夫です。コーチ、今日は、部活にいらしてたんですね」
「うん。リハビリはどうだ?」
「順調です。少しずつ、可動域が広がってきました。ちょっぴり通院が不便で。いい病院を紹介していただいたんですけど、遠くて、それだけが大変です」
臣は少し考えた。
「もし、基礎的な治療が終わって、医師の許可が得られるなら・・・・颯香、うちのジムに通ってみないか? 理学療法士が在籍しているから、力になれると思うが」
とても魅力的な提案だ。
「それなら、電車の乗り換えも要りませんね。今度、先生に相談してみます」
しばらくして、医師の許可が下りると、颯香は、臣の勤めるフィットネスジムで、リハビリトレーニングを受けるようになった。いつも臣が傍にいるわけではないが、痛めた箇所の訓練と一緒に、これまで培った筋力も併せて維持できるのはありがたかった。ジムのスタッフは、皆、優しく親切に指導してくれる。
「体は使わないと拘縮 するから、継続して無理なく使うのが大切です。運動をしていた人が、運動を急にやめてしまうのも体によくない。そして、痛い患部をかばう動作が、他の部分に無理をきたしてしまうので、健康な部分も、併せて動かしていきましょう」
ある日は、臣が直接担当してくれた。
お弁当の一件以来、コーチは自分とわざと距離を置いているのかと感じていたが、トレーニング中のコーチは優しかった。
「颯香、落ち込んでないか? しばらく思いっきりの相撲は無理だろう?」
「コーチ、私、実はそんなに落ち込んでないです。この怪我は勲章かな、くらいに思っているんです。だって、最後まで土俵に立つことができて、私、本当にうれしかった。いつも『この一戦に集中!』って思いでやってきたから。どの一戦もその時だけ、二度と訪れることのない瞬間じゃないですか。満足してます」
「颯香には、教えられることが多いな」
臣はふっと息を吐いて「俺よりもずっと、颯香は大人だ」とつぶやく。颯香は、その憂いの表情に、
(今ならコーチ、打ち明けてくれるかもしれない・・・・)
そう感じて、勇気を出して尋ねてみる。
「コーチの抱えているもの、教えてくれませんか? 今度は、コーチが話す番です」
「えっ? 俺が話す番?」
「例えば、コーチは何かスポーツされていたんですか? コーチの青春時代のお話、聞きたいです」
「うん・・・・」
臣は、生徒に打ち明けるべきことか、またどこから話せば良いか少し悩んだ。だが、颯香になら聞いて欲しい。そして、彼女なら何と答えをくれるだろうか?
「俺は、中学時代からテニスをやっていた。高校で伸びて、大学にスカウトされて、順調に強くなってプロへの憧れも芽生えて、これで生きて行こうと思った。父の会社を継ぐ話もあったが、その時初めて父に反発して、テニスの道を選んだ」
「あっ、家族会議を開いてくれないお父さん!」
「そうだ。その父の反対を押し切った。それで・・・・その時付き合っていた彼女が、今、プロで活躍している、園、松田園 だ」
「えっ⁉︎ あの世界ランキングこの前も更新してた選手?」
周囲を気にして、颯香はとっさに小声になる。臣は、颯香の肩を回しながら、ただ淡々と、身の上を語る。
「そうだ。俺は、膝の怪我が原因で、だんだんランキングを落としていった。父親への手前、病院にもすぐ行かずに、我慢して悪化させてしまったんだ。彼女はあの通り、順風満帆だった。第一線を退くしかなかった俺は、彼女に嫉妬 し劣等感を味わった。いや、それは、俺の思い過ごしだったのかもしれないんだが・・・・当時の彼女には、傲慢 さを感じたんだ。テニスも俺のことも自分の手の中に治めたつもりになっていた。俺の人生は、誰の物でもないのに。だから別れた。情けないことに、それから俺は腐りきって・・・・、このざまだ」
颯香はいつの間にか泣いていた。
「おい、お前が泣くなよ。ん? 傷、痛いか?」
「胸・・・・が痛みます・・・・」
慌てて、涙を拭う。
「でも、寄り添ってくれなかったんですか? 彼女」
「そうか、颯香なら、そんな時、寄り添ってくれるんだな」
「当たり前じゃないですか!」
「でも、自分の名声や地位を守りたい、って思ったら? 自分のことで精一杯になるだろう? 自分のキャリアを守り抜きたいと思うだろう? 彼女がプロで活躍できるなんて、喜ばしいことなのに。彼女が必死で叶えた夢を、応援してあげられたら良かったのに。俺は未熟で、そんな気持ちにはなれなかった。俺にも欲しいものがあったんだ。そこを譲 れなかった」
「欲しいもの?」
「うん。ただ普通に、彼女との穏やかな、颯香の家族のような、幸せな家庭生活。俺自身、自分のことで精一杯だった。父親を納得させたかったし、見返してやりたかった。だから、彼女が望む、結婚せずただパートナーとして彼女のマネージャーや付き人に成り下がるということを、俺は決して受け入れられなかったんだ。身勝手な俺は、園を恨 んだ。そして、テニスを恨んだ」
颯香は答える。
「私は、母に似たのかな。きっと、大好きな人と共に歩める道を選びます。父が怪我した時、母はモデルの仕事を辞めて父に寄り添った。私もそんな生き方がしたい。大好きな人と家庭を築いて、ずっとそばにいたい。普通でしょ。私も、普通なんです。でも、園さんの生き方も有りですよね。それも憧れます。それだけの実力があったなら、まだ見ぬその先の景色も見たくなります。その時、その一瞬のプロへのチャンスを逃したら、今の名声は無かったのかもしれないから、そしてコーチのこと、愛していたから、園さんもきっと苦渋の決断だったんです。自分の人生を守っただけなんです。だけど、もしも私が園さんだったなら、劣等感も寂しさも感じさせたくないな。むしろ、切磋琢磨して過ごした彼への感謝でいっぱいになる! あっ、何か私、生意気なこと言いました。私ったら、恋愛の『れ』の字も知らないくせに・・・・」
臣は、思わず颯香の頭に優しく手を置き、二回そっとポンポン叩いて微笑んだ。園のことさえも、そんな風に愛情を持って捉 える、颯香がとても愛おしかった。ふんわりとまるでウサギのように柔らかく温かい感触を、臣は手の平に感じた。しかし次の瞬間、ハッと自分のしたことに恥ずかしくなった。
「ごめん。傷に、障 るな。つまらない話をしてしまった・・・・。あぁ、この手は・・・・師弟愛の表現だ。さぁ、次、あのマシーンで足の鍛錬だ」
そそくさと臣は、次のマシーンの場所に移動した。
颯香は、ロマンチックなドキドキの光景を掻 き消すように慌てて立ち去る彼を見て、思わず吹き出して笑った。今やっと、臣の心の傷を知った。知ることができて良かったと感じた。頭にはまだ、彼の大きな手の温もりが残っている。
(彼を支えてあげたいな・・・・)
思いが募 る。
会場には、多くの女性力士たちが全国から集まった。高校生チーム、大学生チーム、県選抜チームで争われる。団体戦は、三人無差別、個人戦は、階級ごとに競われる。
まずは団体戦、
団体戦リーグ一回戦、清城学園の滑り出しは順調だった。あっという間に、優位に難なく3―0で勝利した。リーグは勝敗数が鍵となる。次も何とか三人勝利を修めたい。しかし、次の二回戦は大阪の強豪校、
「東、東京都、清城学園、澤田選手! 西、大阪府、
アナウンスを受け、土俵に上がる。足の裏で、土の感触を確かめる。
「手をついて、待ったなし! はっけよい!」
小気味よい女性
「のこったのこった!」
(今だ!)
なんとか勝利した。ヒヤッとした。息が荒くなり心臓もドキドキしている。
「只今の勝負、
続く先輩たちも無事勝利し、ここも3―0だ。次も自信を持って取り組みたい。そして、由希先輩に勝利を繋げたい。
「颯香なら大丈夫。落ち着いて。練習思い出して」
由希先輩に励まされる。
三回戦、筋力は互角、颯香は全力で相手と組み、粘り強く押し出した。颯香の見せた気合に、続く彩先輩も集中して相手の隙を狙う。
「
監督もこの勝負に
(そうだ! 力み過ぎてはいけない!)
自分をコントロールできるのは自分だけ。土俵に立ったら、信じられるのは自分だけだ。颯香は、肩の無駄な力を抜いて構える。
「手を着いて待ったなし。はっけよい!」
両者が踏み出す。
「のこったのこった! のこったのこった!」
お互い張り手の攻防、素早く左手を差したのは颯香だった。廻しを取り一気に寄り切る。拍手が沸き起こる。スピードによる安定の勝利だ。頼もしい後輩の気迫に、彩先輩の闘志にも再び本気スイッチが入る。がっぷり
そして、続く由希先輩との対戦相手は、やはり重量級のひと際大きな選手だった。だが、怖気付くことなく
団体戦が終わると、信子と結衣がそれぞれの個人戦に参加し、力を十二分に発揮した。信子は中量級三位入賞。周りの選手よりも少し小柄な結衣も、苦戦しながらも諦めず、軽量級四位入賞した。二人には、更に来年という目標がある。就活をがんばりながら、それぞれ、次の目標に向かってますます技を磨き、走り続ける覚悟を決めていた。
そして、続く颯香の個人軽重量級一回戦、颯香は難なく押し出しで勝つ。二回戦は、強豪京都の選手、颯香より長身の選手だった。
まず颯香は、相手の左肩に頭を付けた。相手が颯香の廻しを掴もうとするが、颯香は身をかわし、腰を落として距離を取る。先に颯香の右手が相手の廻しを掴んだ。瞬時にぐっと引き寄せ、そのまま
準々決勝は、がっちりとした大阪の選手。お互い廻しを取られまいとする。颯香は、思わずバランスを崩しそうになり、一瞬、監督たちをヒヤッとさせた。しかし、しっかり立て直し、組み合って
「今日の颯香は、集中してるな。全く隙を見せない」
栄一は手に汗を握り、娘と一緒に取り組みをしている心地だった。壱も女子相撲の迫力に圧倒されていた。それは男子顔負けの力強さだった。美紗子も舞香も花香も、どうか無事に勝ち進むようにと祈る。
いよいよ準決勝。常連の岐阜県の選手。体格は互角だ。これに勝てば決勝進出。
(欲張ったら負けだ。先を考えたら油断する。この一戦に集中しよう。この選手と戦える貴重な機会に集中しよう)
何度も自分に言い聞かせる。
「構えて、手を付いて待ったなし。はっけよい! のこった!」
恐れず頭からぶつかっていく。押す。互角の戦い。どちらも低い姿勢で粘るが、お互い右手の手の平を掴み合う体勢となり、どちらもその手を離そうとしない。
「手の平、掴まれてるな。難しい形だ」
栄一も壱も、共に心配そうに試合を見守る。だがその時、土俵際ギリギリのところで、颯香が寄り倒し、相手は倒れこんだ。同時に颯香も倒れた。
「痛っ‼」
勝利した。しかし、倒れた時に肩を
「捻ったか?」
「颯香大丈夫か⁈」
監督と臣が、颯香のただならぬ様子に気付いて近寄った。家族たちも応援席から、痛みをこらえる颯香の姿に、何らかのアクシデントがあったことを理解する。
「監督、すみません。倒れこんだ時に、捻ったみたいです・・・・」
「掴み合っていた右腕だな。肩痛むか。とにかく冷やせ」
監督の指示で、臣は
「颯香、決勝出れるか? 無理するな。すぐ病院へ行った方がいいんじゃないか?」
「コーチ、私、最後までこの舞台に立ちたい」
「颯香! 無理はするな。大事な体だぞ!」
監督も心配し語気を強めた。颯香の目に悔し涙が
「でも・・・・それが私の相撲だから。
「臣、テーピングしてやれ。颯香、今日のお前は、よく集中できていた。団体戦も見事だったし、十分、集大成を見せてもらったぞ。お前の気の済むようにしなさい。だが無理はするな。自分の体とよく対話するんだ」
「はい。監督、ありがとうございます」
臣は彼女の肩に、念入りにテーピングを
いよいよ決勝の舞台、颯香を迎え撃つのは、昨年の優勝者、鳥取県の選手だ。
「構えて、手をついて待ったなし。はっけよい! のこった!」
最初からがっぷり四つ。右肩の弱さを、左手に力を込めてカバーする。しかし、廻しを掴んだ右手にうまく力を込めることができない。
(諦めたくない!)
だが、次の瞬間、相手の上手投げ。颯香は、土俵の外に投げ出された。敗退した。
皆、息をのんだ。一瞬の静寂の後、会場は選手を
この後、大事な、先輩方の重量級の試合が続く。颯香も肩を冷やしながら応援した。その間に両親と臣は、この京都の地で受診できる病院を探した。
由希先輩たちも、颯香の状態が気になりながら、とりあえず目の前の自分の取り組みに集中する。一回戦では軽く勝利し、二回戦に進んだ。由希先輩は安定の取り組みで寄り切り勝利。彩先輩は、団体戦の二回戦で颯香を苦しませた大阪の小林選手と当たり、惜しくも敗退した。個人戦はここで終わった。一方、由希先輩は、ベスト4の常連、石川県の選手と粘り強く取り組み合い、もう少しのところで押し出されそうになる。しかし、土俵内になんとか留まり、一進一退の末、先輩の根気が
先輩たちの試合を見届けるとすぐ、颯香は壱のレンタカーで家族と共に救急病院へと向かった。
レントゲンを撮り、そして超音波検査で肩の組織を慎重に見ていく。結果、肩の
「娘さんは、大丈夫でしょう。幸い、損傷は小さいです。この鍛えた背筋や肩の筋肉が、肩関節の動きを助けてくれるので、手術しなくても、リハビリでなんとかなるでしょう。無理はできませんが、様子を見ていきましょう。お相撲はちょっとお休みだね」
颯香も両親も、ほっと胸を撫でおろした。
美紗子が会計をしている間、栄一が颯香の肩をそっと抱いて、健闘を
「颯香、大丈夫か? こんな状態で・・・・最後まで、よくやったなぁ」
颯香は、怪我にそれ程落ち込んではいなかったが、少しだけ、目にじんわりと涙が浮かぶ。
「お父さん、私、やり切った。なんか
そう言って、心配させまいと父に作り笑いを見せる。
「手術にならずに済んだ。それこそ、努力の
栄一にも、娘の負傷に心配と不安は抱えつつも、どこか充足感があった。
数日、颯香は安静を保った。初め、着替えの動作もままならなかったが、家族が日常生活を支えた。とりわけ、花香は献身的だった。湿布を張り替えたり、寝る時には、体勢が
同時に、京都の医師が書いてくれた紹介状を持って都内の病院を受診した。しばらくの間、リハビリテーションと投薬や注射のために、通院が必要だった。
部活は引退したものの、颯香が部活に顔を出すと、皆、大歓迎だ。今日も、見学しながら後輩に口頭で指導をしていると、臣の姿を見付けた。
「コーチ!」
「颯香、大丈夫か?」
「ありがとうございます。大丈夫です。コーチ、今日は、部活にいらしてたんですね」
「うん。リハビリはどうだ?」
「順調です。少しずつ、可動域が広がってきました。ちょっぴり通院が不便で。いい病院を紹介していただいたんですけど、遠くて、それだけが大変です」
臣は少し考えた。
「もし、基礎的な治療が終わって、医師の許可が得られるなら・・・・颯香、うちのジムに通ってみないか? 理学療法士が在籍しているから、力になれると思うが」
とても魅力的な提案だ。
「それなら、電車の乗り換えも要りませんね。今度、先生に相談してみます」
しばらくして、医師の許可が下りると、颯香は、臣の勤めるフィットネスジムで、リハビリトレーニングを受けるようになった。いつも臣が傍にいるわけではないが、痛めた箇所の訓練と一緒に、これまで培った筋力も併せて維持できるのはありがたかった。ジムのスタッフは、皆、優しく親切に指導してくれる。
「体は使わないと
ある日は、臣が直接担当してくれた。
お弁当の一件以来、コーチは自分とわざと距離を置いているのかと感じていたが、トレーニング中のコーチは優しかった。
「颯香、落ち込んでないか? しばらく思いっきりの相撲は無理だろう?」
「コーチ、私、実はそんなに落ち込んでないです。この怪我は勲章かな、くらいに思っているんです。だって、最後まで土俵に立つことができて、私、本当にうれしかった。いつも『この一戦に集中!』って思いでやってきたから。どの一戦もその時だけ、二度と訪れることのない瞬間じゃないですか。満足してます」
「颯香には、教えられることが多いな」
臣はふっと息を吐いて「俺よりもずっと、颯香は大人だ」とつぶやく。颯香は、その憂いの表情に、
(今ならコーチ、打ち明けてくれるかもしれない・・・・)
そう感じて、勇気を出して尋ねてみる。
「コーチの抱えているもの、教えてくれませんか? 今度は、コーチが話す番です」
「えっ? 俺が話す番?」
「例えば、コーチは何かスポーツされていたんですか? コーチの青春時代のお話、聞きたいです」
「うん・・・・」
臣は、生徒に打ち明けるべきことか、またどこから話せば良いか少し悩んだ。だが、颯香になら聞いて欲しい。そして、彼女なら何と答えをくれるだろうか?
「俺は、中学時代からテニスをやっていた。高校で伸びて、大学にスカウトされて、順調に強くなってプロへの憧れも芽生えて、これで生きて行こうと思った。父の会社を継ぐ話もあったが、その時初めて父に反発して、テニスの道を選んだ」
「あっ、家族会議を開いてくれないお父さん!」
「そうだ。その父の反対を押し切った。それで・・・・その時付き合っていた彼女が、今、プロで活躍している、園、
「えっ⁉︎ あの世界ランキングこの前も更新してた選手?」
周囲を気にして、颯香はとっさに小声になる。臣は、颯香の肩を回しながら、ただ淡々と、身の上を語る。
「そうだ。俺は、膝の怪我が原因で、だんだんランキングを落としていった。父親への手前、病院にもすぐ行かずに、我慢して悪化させてしまったんだ。彼女はあの通り、順風満帆だった。第一線を退くしかなかった俺は、彼女に
颯香はいつの間にか泣いていた。
「おい、お前が泣くなよ。ん? 傷、痛いか?」
「胸・・・・が痛みます・・・・」
慌てて、涙を拭う。
「でも、寄り添ってくれなかったんですか? 彼女」
「そうか、颯香なら、そんな時、寄り添ってくれるんだな」
「当たり前じゃないですか!」
「でも、自分の名声や地位を守りたい、って思ったら? 自分のことで精一杯になるだろう? 自分のキャリアを守り抜きたいと思うだろう? 彼女がプロで活躍できるなんて、喜ばしいことなのに。彼女が必死で叶えた夢を、応援してあげられたら良かったのに。俺は未熟で、そんな気持ちにはなれなかった。俺にも欲しいものがあったんだ。そこを
「欲しいもの?」
「うん。ただ普通に、彼女との穏やかな、颯香の家族のような、幸せな家庭生活。俺自身、自分のことで精一杯だった。父親を納得させたかったし、見返してやりたかった。だから、彼女が望む、結婚せずただパートナーとして彼女のマネージャーや付き人に成り下がるということを、俺は決して受け入れられなかったんだ。身勝手な俺は、園を
颯香は答える。
「私は、母に似たのかな。きっと、大好きな人と共に歩める道を選びます。父が怪我した時、母はモデルの仕事を辞めて父に寄り添った。私もそんな生き方がしたい。大好きな人と家庭を築いて、ずっとそばにいたい。普通でしょ。私も、普通なんです。でも、園さんの生き方も有りですよね。それも憧れます。それだけの実力があったなら、まだ見ぬその先の景色も見たくなります。その時、その一瞬のプロへのチャンスを逃したら、今の名声は無かったのかもしれないから、そしてコーチのこと、愛していたから、園さんもきっと苦渋の決断だったんです。自分の人生を守っただけなんです。だけど、もしも私が園さんだったなら、劣等感も寂しさも感じさせたくないな。むしろ、切磋琢磨して過ごした彼への感謝でいっぱいになる! あっ、何か私、生意気なこと言いました。私ったら、恋愛の『れ』の字も知らないくせに・・・・」
臣は、思わず颯香の頭に優しく手を置き、二回そっとポンポン叩いて微笑んだ。園のことさえも、そんな風に愛情を持って
「ごめん。傷に、
そそくさと臣は、次のマシーンの場所に移動した。
颯香は、ロマンチックなドキドキの光景を
(彼を支えてあげたいな・・・・)
思いが