24.しあわせのかたち
文字数 6,043文字
「向こうに温泉施設があるそうです。行きますか?」
夕食の後で男性陣は、臣 の誘いに乗って、「皆でひとっ風呂 浴びよう!」ということになった。
後片付けが終わり、美紗子と三姉妹は、長いソファーに横並びに座り、コーヒーや紅茶を飲みながら寛 いだ。
「あとね、これは、お母さんとお姉ちゃんたちに」
花香がそう言って手渡したのは、蝶 の結び目のメドゥプ。
「夫婦円満と子宝祈願の意味があるの。そよ姉は、元気な赤ちゃん産んでね。まい姉も、ずっと壱さんと幸せに」
「花香、ありがとう!」
「ありがとう、花ちゃん。ほんとに素敵! 大事にするね」
「そして、お母さんもずっとお父さんと仲良くね」
「花香の祈りが届いて、きっとみんなずっと、夫婦円満ね」
美紗子が、舞香と颯香の肩を抱く。
「お姉ちゃんたちずるい! お母さん私も!」
「花香もおいで!」
美紗子は、舞香の隣に座った花香の肩にも腕をうんと伸ばして、三人をぎゅっと抱いた。
「ねえ、お母さん」
颯香は、ふと思い出す。
「前に、私が臣さんと、園 さんの試合を見に行くって決めた時、『一緒に困難を乗り越えた経験は、元カノを凌駕 するのよ』って言ってくれたよね」
「そうだった?」
「うん。お母さんには、そういう経験があった、っていうこと?」
「思い出した。うん、そうよ。聞きたい?」
「聞きたい、聞きたい!」
颯香だけでなく、三姉妹は、興味津々に母を見つめる。
「あれは、いつだったかな・・・・。お父さんが前頭 に昇進したときね」
関取 とは、十両以上の幕内力士 のことを言う。幕内力士になると、給料がもらえるようになるため、実質、経済力を持ち結婚も可能になる。タニマチ(力士の後援者・個人スポンサー)により、女性を紹介されることもあるし、部屋の親方 やおかみさん筋から、縁談を勧 められることもあるという。
「お父さんには、実はお相手がいたのよ。そしてね、お父さんもその方をとても気に入っていたの」
「へえ~?」
力士の嫁は、力士の生活を全面サポートし、ゆくゆくは、親方になって部屋を持ち弟子たちを育てる役割を持つことになるであろう力士を、縁 の下で支える度量が求められる。それ故 に、力士が負ければ嫁が責められることもある。挨拶や言葉遣い、料理や着物の着付けや化粧の仕方、立ち居振る舞いなど、おかみさんにきっちり指導を受け、部屋を切り盛りしていつの日か次代の後継者にそれを継承するという役割を担 っているのだ。
「その方は、当時の豪傑道関 の目覚ましい活躍に、将来を信じたのね。親方公認の、彼女だったってわけ」
「でも、お父さんは怪我をして、お相撲できなくなったのよね」
と舞香が尋ねる。
「そうね。その頃は、うまく故障と付き合いながら、前頭の順位を上げていった。けれど段々、体が言うことをきかなくなってきたみたいで、お母さんにも、それがわかったわ。お母さん、豪傑道関の追っかけだったから」
「おぉ!」と、三姉妹は感激の表情だ。
「そしてとうとう、そのお相手の方、お父さんを見限ったのかしらね。花嫁修業、自分には務まらないと言って、結局、破談 になって。でも、お父さん、しばらくその人のこと忘れられなかった」
美紗子と栄一は、千秋楽 パーティーなどで顔を合わせていた。栄一も、その時は、「モデルさんが来てくれている」くらいの認識だったが、ふたりの距離を縮めたのは、ある東京を一望できる展望カフェでの出来事。
「お待たせしました。チョコバナナパフェでございます」
運んできた店員に、美紗子は言った。
「私が頼んだのは、アイスコーヒーですが」
「あっ、失礼いたしました」
店員がキョロキョロしていると、
「そのパフェ、僕です・・・・」
そう言って手を挙げたのは、栄一 、つまり豪傑道関だった。快晴の日の街の展望に感動するあまり、彼に気付かず席に着いた。しかし彼は、すぐそばの席にいた。
「豪傑道さん?」と、思わず美紗子から声を掛ける。
「あれ? どこかでお会いしたことありますね?」
「ええ、先日の千秋楽 パーティーで」
「あぁ、モデルの・・・・」
「はい。辻井美紗子 です」
「どうも。あぁ、奇遇ですね。あっ、これ、力士とパフェ、彼女を悩ませてしまったみたいです」と、栄一は笑って、パフェを指さす。
「先入観 ・・・・ですね」
「よければ、こちらの席に」
「あ、はい。では・・・・」
「それからね、話がはずんで、連絡先を交換したの。お父さん、なんでも話を聞いてくれる存在が欲しかったのかな? って、当時、そんな風に感じた」
「でも、お相撲さんとモデルさんの交際って、目立っちゃうよね」と、颯香。
「うん。だから慎重に。力士は着物姿だし、ふたりともテレビへの露出は少なめだけど、見る人が見たら気付かれるからね」
それからふたりは、そっと待ち合わせ、街を展望しながら語らう時間を持ったのだった。
「独り、心を「無」にしたい時、高い所へ登って下界を眺めるの。そうすると、自分を含めて人間なんてちっぽけで。それでも、ひとりひとりが小さな役割を一生懸命に務めることで、この世界は回っているんだなって実感する。お父さんも、そうだったの。ふたりともそれが気分転換になってた。だから、会うのはいつも高層階。それから、お父さん少し復調したんだけどね、結局、お相撲をやめる決心をしたの」
当時の栄一は、自暴自棄になり、美紗子に別れを告げた。
「『こんな自分、一緒にいても君と釣り合わないし、ちゃんこ屋が軌道に乗らなければ、君に迷惑をかけるだけだ。君にはまだまだモデルとしての可能性があるし、いい出会いだってたくさんあるだろう』って、お父さん、涙を流して・・・・」
だが、美紗子は、輝かしいモデルとしてのキャリアよりも、彼のそばにいて彼を支えることを選ぶ。表舞台からは退き、ファッションライターとしての仕事だけは請け負い、彼を支えることを決めたのだった。
「そこで、お母さんから、この名言が生まれたのよ! 『力士にしてもモデルにしても、いつか賞味期限を迎えるけれど、栄一と美紗子の賞味期限は、これから何十年あると思う? これから熟成して味わい深くなっていくのよ。後悔しても知らない!』って。『力士の妻の度量は無いけれど、ちゃんこ屋のおかみさんの度量ぐらいは持ち合わせてるわ!』って」
「お母さん、かっこいい! 断然、元カノを超えてる。それはお父さん、ゾッコンだね」
颯香は、感動していた。
「モデルやめて、後悔してない? お母さん」と花香。
「全然、後悔なんてないわ。選択は間違っていなかった。あなたたちと出会えたんだもの。そして、今日の結婚式! 最高に幸せだわ!」
母は、栄一から送られた指輪を見つめた。
「お父さんのちゃんこ屋の準備をしながら、ふたりで岩手の三陸を旅して、その時に恵美 の状況を知ることになったわ・・・・。そして、舞香に出会った。出会えて、本当に良かった!」
森のコテージに、夜の帷 が下り、穏やかな時間が流れる。
栄一と美紗子は、テラスの二つ並んだ椅子に腰かけて、星空を眺めていた。
「夜はちょっと肌寒いな。掛けるか?」
栄一が部屋から毛布を持ってきて、美紗子の肩に掛けた。
「ありがとう」
「美紗子・・・・俺と一緒になって良かったか? あの時、モデルを続ける選択だってできたのに・・・・」
美紗子は、自分だけに掛かっている毛布を、栄一の肩にも広げる。
「栄一さん、今日はありがとう。私、こんな未来が待ってるなんて、あの時は考えられなかった。ただ、目の前のあなたとの生活がうれしくて、その日その日を暮らしていたけど、こんな大きな幸せに続く道だったなんてね。今しみじみ、良かった、あの時の選択は間違いじゃなかった、って思ってるわ」
「でもな、苦労かけたよな。だいぶ白髪増えたんじゃないか? ほら、ここに皺もあるぞ」
美紗子の顔を指差して、ふざけてみせる。
「お互い様よ! 栄一さんも、ここ、ほら皺できてる。娘たちの学費たくさん稼いでくれて、頑張ってくれてありがとう」
「まだまだ頑張らなくちゃな。おじいちゃんとおばあちゃん気分も楽しまなくちゃ。美紗子、元気でいような。健康で、長生きしよう」
「ずっと一緒に、年を重ねましょう」
静かに語らう両親の背中に、ふたりは声を掛ける。
「お父さん、お母さん」
「あら、花香、ジョンミンさん」
「僕たちから、少しお話、いいですか」
「どうした?」
ふたりは、両親のそばにお行儀よく正座した。
「あの・・・・お父さん、お母さん、僕は先日、花香さんにプロポーズさせていただきました。そして、花香さんから、いいお返事をいただきました。僕たちの結婚を、正式に許していただけないでしょうか?」
「あら、どうしましょう⁈」
美紗子は、笑顔でいっぱいだ。栄一も、微笑んでいる。
「いいんじゃないか? 君は、僕らの家族の一員だ。今日は、楽しかったなぁ」
花香とジョンミンは、顔を見合わせ、手と手を合わせて喜んだ。
「ジョンミンさんのご両親にも、ご挨拶に伺 わなくちゃね。これからも、よろしくね」
美紗子はそう言って、ジョンミンと握手を交わした。
「ありがとうございます! 花香さんをずっと、大切にします」
「お父さん、お母さん、ありがとう。私、がんばる!」
「なに、十分、がんばってるさ。そのまんまの花香でいいんだ。いろいろ心配したが、良かった。ジョンミンくんは、いい青年だ」
「お父さん・・・・」
「うん、ふたり力を合わせて、幸せになれ。ここ少し冷えるだろう? 風邪ひくぞ。明日、みんなに報告しよう。暖かくして休みなさい」
「はい! おやすみなさい」
ふたりは、部屋に戻って行った。
「栄一さん、ありがとう!」
「美紗子がプロポーズされたみたいだな」
「だって、娘の笑顔が何より一番うれしいんだもの。お守り無くしちゃダメよ」
「メド・・・・メプ・・・・あれ? 何だったかな?」
「メドゥプよ」
「そうそう、それだ」
「あれだな。花香の結婚式までに、韓国語勉強しとかないと」
「そうね・・・・結婚式の前に、ご両親とお会いするでしょう。それまでに、なんとかしないと、ってことね」
「そうか。そりゃ急務だな!」
「そうね」
「美紗子、みんなこうして巣立っていくんだ。お前も何かやりたいことがあったら、遠慮なくやっていいんだぞ。仕事でも趣味でも、これからの自分時間、大切にして欲しい」
「ありがとう栄一さん。何か、私にもできることあるかしら?」
「たくさんあるだろう。店は何とかなるから、大丈夫だ」
「考えてみる。なんだかワクワクしてきたわ。今夜はいい夢見れそう」
あの日、花香の喫茶店『ポラリス』で初めて花香に出会った記念日、ソウルの夜景が見えるレストランで、ジョンミンは花香にプロポーズした。
「花・・・・僕たち、結婚しよう」
「はい」
これまでふたりが紡いできた道のりのその先にどんな幸せを描こう? 花香とジョンミンは、希望に胸を膨らませる。そしてあとは、正式に両親の許しを得るだけだったのだ。
「ジョンミンさん、私、あの日から眠れなかった。今夜は、やっとぐっすり眠れそう」
「花、よかった。早速、ふたりの新居を探そう。僕もますますがんばらなくちゃ」
「ジョンミンさん!」
「ん?」
「大好き!」
壱と舞香は、ふたりベッドに並んで座り、今日を振り返っていた。そして、
「舞ちゃん、実はこれ、さっき、栄一お父さんから預かったんだけど・・・・・」
壱は舞香に、くしゃくしゃに皺 の寄った茶封筒を見せた。中身を覗いてみると、現金数万円と、白い便せんが一枚入っている。
「これ・・・・お父さん?・・・・」
『舞香へ
元気か? 幸せに暮らしているか?
お父さん、何もしてあげられないどころか、辛い思いばかりさせて悪かった。
お母さんにもひどいことをしたと反省している。許してもらえないこともわかっている。
それでも、父親の資格のない私の心の片隅に、ずっと、舞香がいたのは確かだ。
だから、舞香が、結婚をしたと耳にして、安心した。祝ってあげたいと思った。
わずかばかりだが、何かの役に立ててくれ。
これからも、舞香の幸せだけを遠くから祈っている。
小林 学 』
「栄一お父さん、実のお父さんと接触があったそうだ。『邪魔するつもりも、娘に会わせろと言うつもりもない、純粋に祝いたい』と、この封筒を渡されたと言っていた。舞ちゃんに渡すかどうかは僕に任せると、栄一お父さんから託された。僕は、舞ちゃんに渡すべきだと判断した」
「うん・・・・。壱さん、ありがとう。二歳の頃だもの、お父さんの顔、はっきり思い出せない。だから、きっと会ってもわからない・・・・。大きな怒鳴る声と怖さだけのトラウマが残っていて、ずっと、どこかにその人が存在している、連れ戻されたりしないかなって、見えない不気味な不安があったの。だけど、父の気持ち、わかって良かった。私は安心して、これからも澤田の家族、そして壱さんの家族でいていいってことよね・・・・」
「うん。これからもずっと、本当の家族はここにいる。舞ちゃん、おいで」
舞香は壱にしがみつく。
「壱さん、ずっと、私を離さないでね・・・・。ねえ! 今度はふたりでテント泊してみたい!」
「賛成! あったかいモーニングコーヒー、一緒に飲みたいな。海辺もいいね」
「海、行きたい!」
「僕、今日ね、本当の男兄弟ができたみたいでうれしかったな。楽しかったね」
「うん。私もとっても楽しかった。また、みんなで来ようね」
「うん。また、みんなで・・・・。ねえ・・・・舞ちゃん・・・・、僕たちもそろそろ『親』になってもいい頃かなぁ・・・・。子供って責任も覚悟も大きいけれど、今の僕たちなら、しっかり育ててあげられる気が・・・・ん? 舞ちゃん? 寝ちゃった?」
「・・・・ふ~~」
「平和な顔して寝てる。おやすみ。また明日」
「颯香、俺、すごく簡単に考えてた」
臣は、颯香の肩と背中を解 しながら言った。
「結婚して家庭を持って自分の子供を育てたいなんて、自分の気持ちだけでどうにかなることじゃないのに・・・・。女性はこんなにも大きな体の変化が起こるのに。つわりも辛いし、大きなお腹でいろいろ制限されるだろ。食事も気を付けて、コーヒーや紅茶も我慢して。お産も痛みを伴う。お前がいてくれるから、俺は父親になれるんだよな。颯香のことも子供のことも、ずっと大切にするからな。いい父親になるから」
「私、臣さんがお父さんしてるところ、早く見たい。すっごく楽しみ。あなたのためなら、何人でも産むよ。野球チームでも作る? でも、臣さんがずっとずっと元気でいてくれないと。家族でたくさん、楽しい思い出を積み重ねていきましょう」
「うん。颯香とどこまでもいつまでも一緒だ」
「はい! どこまでも、ついて行きます!」
そしてまた、それぞれの新しい朝が始まる。
そしてまた、それぞれのしあわせのかたちを、ささやかに紡いでいく。皆の健康と日々の平穏を願いながら。
おわり
夕食の後で男性陣は、
後片付けが終わり、美紗子と三姉妹は、長いソファーに横並びに座り、コーヒーや紅茶を飲みながら
「あとね、これは、お母さんとお姉ちゃんたちに」
花香がそう言って手渡したのは、
「夫婦円満と子宝祈願の意味があるの。そよ姉は、元気な赤ちゃん産んでね。まい姉も、ずっと壱さんと幸せに」
「花香、ありがとう!」
「ありがとう、花ちゃん。ほんとに素敵! 大事にするね」
「そして、お母さんもずっとお父さんと仲良くね」
「花香の祈りが届いて、きっとみんなずっと、夫婦円満ね」
美紗子が、舞香と颯香の肩を抱く。
「お姉ちゃんたちずるい! お母さん私も!」
「花香もおいで!」
美紗子は、舞香の隣に座った花香の肩にも腕をうんと伸ばして、三人をぎゅっと抱いた。
「ねえ、お母さん」
颯香は、ふと思い出す。
「前に、私が臣さんと、
「そうだった?」
「うん。お母さんには、そういう経験があった、っていうこと?」
「思い出した。うん、そうよ。聞きたい?」
「聞きたい、聞きたい!」
颯香だけでなく、三姉妹は、興味津々に母を見つめる。
「あれは、いつだったかな・・・・。お父さんが
「お父さんには、実はお相手がいたのよ。そしてね、お父さんもその方をとても気に入っていたの」
「へえ~?」
力士の嫁は、力士の生活を全面サポートし、ゆくゆくは、親方になって部屋を持ち弟子たちを育てる役割を持つことになるであろう力士を、
「その方は、当時の
「でも、お父さんは怪我をして、お相撲できなくなったのよね」
と舞香が尋ねる。
「そうね。その頃は、うまく故障と付き合いながら、前頭の順位を上げていった。けれど段々、体が言うことをきかなくなってきたみたいで、お母さんにも、それがわかったわ。お母さん、豪傑道関の追っかけだったから」
「おぉ!」と、三姉妹は感激の表情だ。
「そしてとうとう、そのお相手の方、お父さんを見限ったのかしらね。花嫁修業、自分には務まらないと言って、結局、
美紗子と栄一は、
「お待たせしました。チョコバナナパフェでございます」
運んできた店員に、美紗子は言った。
「私が頼んだのは、アイスコーヒーですが」
「あっ、失礼いたしました」
店員がキョロキョロしていると、
「そのパフェ、僕です・・・・」
そう言って手を挙げたのは、
「豪傑道さん?」と、思わず美紗子から声を掛ける。
「あれ? どこかでお会いしたことありますね?」
「ええ、先日の
「あぁ、モデルの・・・・」
「はい。
「どうも。あぁ、奇遇ですね。あっ、これ、力士とパフェ、彼女を悩ませてしまったみたいです」と、栄一は笑って、パフェを指さす。
「
「よければ、こちらの席に」
「あ、はい。では・・・・」
「それからね、話がはずんで、連絡先を交換したの。お父さん、なんでも話を聞いてくれる存在が欲しかったのかな? って、当時、そんな風に感じた」
「でも、お相撲さんとモデルさんの交際って、目立っちゃうよね」と、颯香。
「うん。だから慎重に。力士は着物姿だし、ふたりともテレビへの露出は少なめだけど、見る人が見たら気付かれるからね」
それからふたりは、そっと待ち合わせ、街を展望しながら語らう時間を持ったのだった。
「独り、心を「無」にしたい時、高い所へ登って下界を眺めるの。そうすると、自分を含めて人間なんてちっぽけで。それでも、ひとりひとりが小さな役割を一生懸命に務めることで、この世界は回っているんだなって実感する。お父さんも、そうだったの。ふたりともそれが気分転換になってた。だから、会うのはいつも高層階。それから、お父さん少し復調したんだけどね、結局、お相撲をやめる決心をしたの」
当時の栄一は、自暴自棄になり、美紗子に別れを告げた。
「『こんな自分、一緒にいても君と釣り合わないし、ちゃんこ屋が軌道に乗らなければ、君に迷惑をかけるだけだ。君にはまだまだモデルとしての可能性があるし、いい出会いだってたくさんあるだろう』って、お父さん、涙を流して・・・・」
だが、美紗子は、輝かしいモデルとしてのキャリアよりも、彼のそばにいて彼を支えることを選ぶ。表舞台からは退き、ファッションライターとしての仕事だけは請け負い、彼を支えることを決めたのだった。
「そこで、お母さんから、この名言が生まれたのよ! 『力士にしてもモデルにしても、いつか賞味期限を迎えるけれど、栄一と美紗子の賞味期限は、これから何十年あると思う? これから熟成して味わい深くなっていくのよ。後悔しても知らない!』って。『力士の妻の度量は無いけれど、ちゃんこ屋のおかみさんの度量ぐらいは持ち合わせてるわ!』って」
「お母さん、かっこいい! 断然、元カノを超えてる。それはお父さん、ゾッコンだね」
颯香は、感動していた。
「モデルやめて、後悔してない? お母さん」と花香。
「全然、後悔なんてないわ。選択は間違っていなかった。あなたたちと出会えたんだもの。そして、今日の結婚式! 最高に幸せだわ!」
母は、栄一から送られた指輪を見つめた。
「お父さんのちゃんこ屋の準備をしながら、ふたりで岩手の三陸を旅して、その時に
森のコテージに、夜の
栄一と美紗子は、テラスの二つ並んだ椅子に腰かけて、星空を眺めていた。
「夜はちょっと肌寒いな。掛けるか?」
栄一が部屋から毛布を持ってきて、美紗子の肩に掛けた。
「ありがとう」
「美紗子・・・・俺と一緒になって良かったか? あの時、モデルを続ける選択だってできたのに・・・・」
美紗子は、自分だけに掛かっている毛布を、栄一の肩にも広げる。
「栄一さん、今日はありがとう。私、こんな未来が待ってるなんて、あの時は考えられなかった。ただ、目の前のあなたとの生活がうれしくて、その日その日を暮らしていたけど、こんな大きな幸せに続く道だったなんてね。今しみじみ、良かった、あの時の選択は間違いじゃなかった、って思ってるわ」
「でもな、苦労かけたよな。だいぶ白髪増えたんじゃないか? ほら、ここに皺もあるぞ」
美紗子の顔を指差して、ふざけてみせる。
「お互い様よ! 栄一さんも、ここ、ほら皺できてる。娘たちの学費たくさん稼いでくれて、頑張ってくれてありがとう」
「まだまだ頑張らなくちゃな。おじいちゃんとおばあちゃん気分も楽しまなくちゃ。美紗子、元気でいような。健康で、長生きしよう」
「ずっと一緒に、年を重ねましょう」
静かに語らう両親の背中に、ふたりは声を掛ける。
「お父さん、お母さん」
「あら、花香、ジョンミンさん」
「僕たちから、少しお話、いいですか」
「どうした?」
ふたりは、両親のそばにお行儀よく正座した。
「あの・・・・お父さん、お母さん、僕は先日、花香さんにプロポーズさせていただきました。そして、花香さんから、いいお返事をいただきました。僕たちの結婚を、正式に許していただけないでしょうか?」
「あら、どうしましょう⁈」
美紗子は、笑顔でいっぱいだ。栄一も、微笑んでいる。
「いいんじゃないか? 君は、僕らの家族の一員だ。今日は、楽しかったなぁ」
花香とジョンミンは、顔を見合わせ、手と手を合わせて喜んだ。
「ジョンミンさんのご両親にも、ご挨拶に
美紗子はそう言って、ジョンミンと握手を交わした。
「ありがとうございます! 花香さんをずっと、大切にします」
「お父さん、お母さん、ありがとう。私、がんばる!」
「なに、十分、がんばってるさ。そのまんまの花香でいいんだ。いろいろ心配したが、良かった。ジョンミンくんは、いい青年だ」
「お父さん・・・・」
「うん、ふたり力を合わせて、幸せになれ。ここ少し冷えるだろう? 風邪ひくぞ。明日、みんなに報告しよう。暖かくして休みなさい」
「はい! おやすみなさい」
ふたりは、部屋に戻って行った。
「栄一さん、ありがとう!」
「美紗子がプロポーズされたみたいだな」
「だって、娘の笑顔が何より一番うれしいんだもの。お守り無くしちゃダメよ」
「メド・・・・メプ・・・・あれ? 何だったかな?」
「メドゥプよ」
「そうそう、それだ」
「あれだな。花香の結婚式までに、韓国語勉強しとかないと」
「そうね・・・・結婚式の前に、ご両親とお会いするでしょう。それまでに、なんとかしないと、ってことね」
「そうか。そりゃ急務だな!」
「そうね」
「美紗子、みんなこうして巣立っていくんだ。お前も何かやりたいことがあったら、遠慮なくやっていいんだぞ。仕事でも趣味でも、これからの自分時間、大切にして欲しい」
「ありがとう栄一さん。何か、私にもできることあるかしら?」
「たくさんあるだろう。店は何とかなるから、大丈夫だ」
「考えてみる。なんだかワクワクしてきたわ。今夜はいい夢見れそう」
あの日、花香の喫茶店『ポラリス』で初めて花香に出会った記念日、ソウルの夜景が見えるレストランで、ジョンミンは花香にプロポーズした。
「花・・・・僕たち、結婚しよう」
「はい」
これまでふたりが紡いできた道のりのその先にどんな幸せを描こう? 花香とジョンミンは、希望に胸を膨らませる。そしてあとは、正式に両親の許しを得るだけだったのだ。
「ジョンミンさん、私、あの日から眠れなかった。今夜は、やっとぐっすり眠れそう」
「花、よかった。早速、ふたりの新居を探そう。僕もますますがんばらなくちゃ」
「ジョンミンさん!」
「ん?」
「大好き!」
壱と舞香は、ふたりベッドに並んで座り、今日を振り返っていた。そして、
「舞ちゃん、実はこれ、さっき、栄一お父さんから預かったんだけど・・・・・」
壱は舞香に、くしゃくしゃに
「これ・・・・お父さん?・・・・」
『舞香へ
元気か? 幸せに暮らしているか?
お父さん、何もしてあげられないどころか、辛い思いばかりさせて悪かった。
お母さんにもひどいことをしたと反省している。許してもらえないこともわかっている。
それでも、父親の資格のない私の心の片隅に、ずっと、舞香がいたのは確かだ。
だから、舞香が、結婚をしたと耳にして、安心した。祝ってあげたいと思った。
わずかばかりだが、何かの役に立ててくれ。
これからも、舞香の幸せだけを遠くから祈っている。
「栄一お父さん、実のお父さんと接触があったそうだ。『邪魔するつもりも、娘に会わせろと言うつもりもない、純粋に祝いたい』と、この封筒を渡されたと言っていた。舞ちゃんに渡すかどうかは僕に任せると、栄一お父さんから託された。僕は、舞ちゃんに渡すべきだと判断した」
「うん・・・・。壱さん、ありがとう。二歳の頃だもの、お父さんの顔、はっきり思い出せない。だから、きっと会ってもわからない・・・・。大きな怒鳴る声と怖さだけのトラウマが残っていて、ずっと、どこかにその人が存在している、連れ戻されたりしないかなって、見えない不気味な不安があったの。だけど、父の気持ち、わかって良かった。私は安心して、これからも澤田の家族、そして壱さんの家族でいていいってことよね・・・・」
「うん。これからもずっと、本当の家族はここにいる。舞ちゃん、おいで」
舞香は壱にしがみつく。
「壱さん、ずっと、私を離さないでね・・・・。ねえ! 今度はふたりでテント泊してみたい!」
「賛成! あったかいモーニングコーヒー、一緒に飲みたいな。海辺もいいね」
「海、行きたい!」
「僕、今日ね、本当の男兄弟ができたみたいでうれしかったな。楽しかったね」
「うん。私もとっても楽しかった。また、みんなで来ようね」
「うん。また、みんなで・・・・。ねえ・・・・舞ちゃん・・・・、僕たちもそろそろ『親』になってもいい頃かなぁ・・・・。子供って責任も覚悟も大きいけれど、今の僕たちなら、しっかり育ててあげられる気が・・・・ん? 舞ちゃん? 寝ちゃった?」
「・・・・ふ~~」
「平和な顔して寝てる。おやすみ。また明日」
「颯香、俺、すごく簡単に考えてた」
臣は、颯香の肩と背中を
「結婚して家庭を持って自分の子供を育てたいなんて、自分の気持ちだけでどうにかなることじゃないのに・・・・。女性はこんなにも大きな体の変化が起こるのに。つわりも辛いし、大きなお腹でいろいろ制限されるだろ。食事も気を付けて、コーヒーや紅茶も我慢して。お産も痛みを伴う。お前がいてくれるから、俺は父親になれるんだよな。颯香のことも子供のことも、ずっと大切にするからな。いい父親になるから」
「私、臣さんがお父さんしてるところ、早く見たい。すっごく楽しみ。あなたのためなら、何人でも産むよ。野球チームでも作る? でも、臣さんがずっとずっと元気でいてくれないと。家族でたくさん、楽しい思い出を積み重ねていきましょう」
「うん。颯香とどこまでもいつまでも一緒だ」
「はい! どこまでも、ついて行きます!」
そしてまた、それぞれの新しい朝が始まる。
そしてまた、それぞれのしあわせのかたちを、ささやかに紡いでいく。皆の健康と日々の平穏を願いながら。
おわり