エイブル・リポーター ２
文字数 2,312文字
「グレンが悪いんだからね。勝手に部屋、入って」
ジュナは気まずさを含めたように零し、朝食のパンをかじった。
彼女は困った顔で、ちらり、ちらりとグレンを見ている。そこにはプロレスラー真っ青の張り手を受け、赤く腫れ上がる頬があった。本当は申し訳なく思っているのか、言葉とは裏腹にジュナの表情は暗い。
「ごめん、俺が悪かった」
グレンは本心から謝った。申し訳ないのは、こちらも同じだ。
頬の痛みは凄まじいが、彼女の寝姿を見てしまったこと、それに対して僅かでも興奮を覚えてしまった罪悪感が頭から離れなかった。彼女は妹のような存在で、グレンが一生をかけてでも贖うべき相手だ。彼女の幸せを願えど、己の満足を得てはならない。
ジュナは落ち込んだ雰囲気でパンをかじった。竜に関することは勝ち気で喧嘩っ早いくせに、実の彼女は他人のせいにしきれない生真面目さと根の優しさがある。謙虚さも根底にあるのだろう、一方的に勝ちっぱなしでは居心地が悪いのかもしれない。
ふむ、とグレンは考える。これは貸し借りを公平にするのが得策だ。
グレンはジュナの方へ手を伸ばした。気落ちする頬へ、親指で押さえた中指を軽く弾き当てる。彼女は咄嗟に、頬を掌で押さえながら見開いた瞳でグレンを見た。
「仕返し。これで、おあいこな」
グレンは、にっと笑ってやった。大口を開けてパンを噛み切り頬を膨らませて詰め、余裕の表情で顎を動かして何でもないと示す。もちろん、痛い。後でマリーに塗り薬をもらおう。
目を瞬かせていたジュナが、ふっと表情を和らげた。彼女の内にあった罪悪感が薄れたのを察する。グレンの罪悪感も溶けていくようで清々しい心持ちだ。
「仲が良いわねぇ」
マリーが、のんびりした声音で言って微笑んだ。グレンは急に気恥ずかしくなって、どうにも、じっとしていられなくなり体勢を変え座り直す。感情の変化を気取られないようジュナから視線を逸らした。痛む頬が、熱い。
「マリーさん別に、仲が良いとか……」
「あらぁ、いいじゃない。ライダーと調教師は仲良しが大切よぉ」
マリーは上機嫌でスープを口へ運ぶ。今朝はトマトスープだ。ほんのりコショウが利いていてパンと合い、たくさんの野菜も摂取できる優れ物だ。トマトスープを味わって、マリーは目を細める。
「このスープ、美味しいわぁ。ジュナちゃん、料理上手よねぇ」
「いえ、それほどでも……」
ジュナは嬉しそうに、けれども控えめに口端を緩ませる。
グレンも感心したのだが、彼女の調理スキルは一級品であった。主菜も副菜も菓子も飲み物さえも、どれを食しても美味しかった。食事に気を遣わないグレンが、そう感じるのだから間違いなく美味しい。栄養も考慮されているのは、食材の知識を勉強したのだと思う。仕事熱心な彼女のこと、竜の食事へ応用できると考えたのかもしれない。
「グレンちゃんもジュナちゃんの料理、好きよねぇ？」
話を振られて思わず硬直してしまう。女性に対して、家事に関する話題はデリケートなのだとコクから聞いたことがあった。言葉を選ばねばなるまい。
美味しいのだから、素直に美味しいでいいんじゃないか。いやでも素直に答えるのは恥ずかしいし、まあまあ、と言うか。いやいや、謙遜しているときの女性は大半が、実は心の中で納得して満足げに喜んでいると聞いたことがある。まあまあ、は失望感があり失礼だろう。うん、やはり、ここは素直に美味しいと答えよう。恥より、殴られない保障が欲しい。
「美味し」
「グレンには料理とか、わからないですよ。だって、お昼をサプリメントと健康食品で済ませちゃうんですよ」
「あら、そうなのねぇ」
グレンが小さな音量で発した回答はジュナの笑い声で掻き消され、女性二人の和気あいあいとした会話に居場所を取られる。思考を総動員させて答えを練ったが、その遅れを突かれてしまった。
自分にだって味覚はあるのに。グレンは心の中で、ひっそり反論した。女性の会話へ踏み込む勇気はなかったので、口には出さなかった。
「そうだ、グレン。食材がないから、今日、買い物に付き合ってね」
会話の途中、ジュナが思い出したように言う。これは拒否権がない命令だ。グレンは無抵抗で頷く。
「お昼、好きなもの作ってあげるから」
ジュナが、はにかみながら呟いた。グレンの機嫌が急上昇する。
グレンの昼食を目にして、ジュナは呆れつつ怒った。ライダーも立派なアスリートなんだから食事には気を遣え、とか、なんとか。そう言われても気遣う知識はないし必要性も感じない、と応えれば彼女は深い深い溜め息を吐いて。明日から私が作る、迫力たっぷりの表情でそう言った。これにも拒否権はなかったように思う。
けれど嫌ではなかった。彼女が自分のためを考えて食事を用意してくれるのは、どこか心地良さがあったし嬉しくもあって。献立の要望も、ちゃんと聞いてくれる。グレンの感情を蔑 ろにはしなかったのだ。そういった気分的な影響もあるのだろうか、最近、体調が良い。食生活の改善は必要だったみたいだ。
グレンにとってジュナの料理は今や、すっかり日々の楽しみだ。次は何を作ってもらおうかな。思案するグレンの口元が、勝手に緩んでいく。
「仲が良いわねぇ」
マリーが、のんびりした声音で言って微笑んだ。それは、ほんの十数分前に聞いたものと同じだった。
グレンとジュナは黙り込む。指摘が二度目とあっては反論する気力は削がれ、二人揃ってパンにかじり付くしかなかった。
ジュナは気まずさを含めたように零し、朝食のパンをかじった。
彼女は困った顔で、ちらり、ちらりとグレンを見ている。そこにはプロレスラー真っ青の張り手を受け、赤く腫れ上がる頬があった。本当は申し訳なく思っているのか、言葉とは裏腹にジュナの表情は暗い。
「ごめん、俺が悪かった」
グレンは本心から謝った。申し訳ないのは、こちらも同じだ。
頬の痛みは凄まじいが、彼女の寝姿を見てしまったこと、それに対して僅かでも興奮を覚えてしまった罪悪感が頭から離れなかった。彼女は妹のような存在で、グレンが一生をかけてでも贖うべき相手だ。彼女の幸せを願えど、己の満足を得てはならない。
ジュナは落ち込んだ雰囲気でパンをかじった。竜に関することは勝ち気で喧嘩っ早いくせに、実の彼女は他人のせいにしきれない生真面目さと根の優しさがある。謙虚さも根底にあるのだろう、一方的に勝ちっぱなしでは居心地が悪いのかもしれない。
ふむ、とグレンは考える。これは貸し借りを公平にするのが得策だ。
グレンはジュナの方へ手を伸ばした。気落ちする頬へ、親指で押さえた中指を軽く弾き当てる。彼女は咄嗟に、頬を掌で押さえながら見開いた瞳でグレンを見た。
「仕返し。これで、おあいこな」
グレンは、にっと笑ってやった。大口を開けてパンを噛み切り頬を膨らませて詰め、余裕の表情で顎を動かして何でもないと示す。もちろん、痛い。後でマリーに塗り薬をもらおう。
目を瞬かせていたジュナが、ふっと表情を和らげた。彼女の内にあった罪悪感が薄れたのを察する。グレンの罪悪感も溶けていくようで清々しい心持ちだ。
「仲が良いわねぇ」
マリーが、のんびりした声音で言って微笑んだ。グレンは急に気恥ずかしくなって、どうにも、じっとしていられなくなり体勢を変え座り直す。感情の変化を気取られないようジュナから視線を逸らした。痛む頬が、熱い。
「マリーさん別に、仲が良いとか……」
「あらぁ、いいじゃない。ライダーと調教師は仲良しが大切よぉ」
マリーは上機嫌でスープを口へ運ぶ。今朝はトマトスープだ。ほんのりコショウが利いていてパンと合い、たくさんの野菜も摂取できる優れ物だ。トマトスープを味わって、マリーは目を細める。
「このスープ、美味しいわぁ。ジュナちゃん、料理上手よねぇ」
「いえ、それほどでも……」
ジュナは嬉しそうに、けれども控えめに口端を緩ませる。
グレンも感心したのだが、彼女の調理スキルは一級品であった。主菜も副菜も菓子も飲み物さえも、どれを食しても美味しかった。食事に気を遣わないグレンが、そう感じるのだから間違いなく美味しい。栄養も考慮されているのは、食材の知識を勉強したのだと思う。仕事熱心な彼女のこと、竜の食事へ応用できると考えたのかもしれない。
「グレンちゃんもジュナちゃんの料理、好きよねぇ？」
話を振られて思わず硬直してしまう。女性に対して、家事に関する話題はデリケートなのだとコクから聞いたことがあった。言葉を選ばねばなるまい。
美味しいのだから、素直に美味しいでいいんじゃないか。いやでも素直に答えるのは恥ずかしいし、まあまあ、と言うか。いやいや、謙遜しているときの女性は大半が、実は心の中で納得して満足げに喜んでいると聞いたことがある。まあまあ、は失望感があり失礼だろう。うん、やはり、ここは素直に美味しいと答えよう。恥より、殴られない保障が欲しい。
「美味し」
「グレンには料理とか、わからないですよ。だって、お昼をサプリメントと健康食品で済ませちゃうんですよ」
「あら、そうなのねぇ」
グレンが小さな音量で発した回答はジュナの笑い声で掻き消され、女性二人の和気あいあいとした会話に居場所を取られる。思考を総動員させて答えを練ったが、その遅れを突かれてしまった。
自分にだって味覚はあるのに。グレンは心の中で、ひっそり反論した。女性の会話へ踏み込む勇気はなかったので、口には出さなかった。
「そうだ、グレン。食材がないから、今日、買い物に付き合ってね」
会話の途中、ジュナが思い出したように言う。これは拒否権がない命令だ。グレンは無抵抗で頷く。
「お昼、好きなもの作ってあげるから」
ジュナが、はにかみながら呟いた。グレンの機嫌が急上昇する。
グレンの昼食を目にして、ジュナは呆れつつ怒った。ライダーも立派なアスリートなんだから食事には気を遣え、とか、なんとか。そう言われても気遣う知識はないし必要性も感じない、と応えれば彼女は深い深い溜め息を吐いて。明日から私が作る、迫力たっぷりの表情でそう言った。これにも拒否権はなかったように思う。
けれど嫌ではなかった。彼女が自分のためを考えて食事を用意してくれるのは、どこか心地良さがあったし嬉しくもあって。献立の要望も、ちゃんと聞いてくれる。グレンの感情を
グレンにとってジュナの料理は今や、すっかり日々の楽しみだ。次は何を作ってもらおうかな。思案するグレンの口元が、勝手に緩んでいく。
「仲が良いわねぇ」
マリーが、のんびりした声音で言って微笑んだ。それは、ほんの十数分前に聞いたものと同じだった。
グレンとジュナは黙り込む。指摘が二度目とあっては反論する気力は削がれ、二人揃ってパンにかじり付くしかなかった。
