セトル・ゴッド・ノウズ 2
文字数 2,466文字
建物が、人々の集約された力で揺れ動いている。聞こえるのは歓声、叫声、怒号。感じるのは熱気、狂気、緊張。栄誉と伝統が空気に満ち、重圧で押し潰そうとしてくる。その重みさえ、身を包む充実感には勝てやしないだろう。自分は帰ってきたのだ、神竜賞 という舞台へ。
グレンはコース出入り口から大平原へと踏み出した。太陽の光が降り注ぎ、たくさんの観客席やレース映像を映すため設置された巨大スクリーンが見える。背の低い草が青々と茂るフェルジャー大平原、それをぐるりと囲むブルスタッド山脈は、なだらかだったり切り立っていたりする斜面が組み合わさり雄大な壁のように広がっている。神竜賞では、その山脈を一直線に突き抜ける。
「グレン」
いつか聞いた覚えのある、変に上擦った声音で呼ばれた。振り向けば出会ったときと同じ黒いスーツを着たジュナが、レース用装具を身に纏うジュピターを引いている。彼女は初レースのときのように緊張して硬くなっていた。遠い昔のようで、なんだか懐かしくてグレンは笑ってしまう。
「あなた、やっぱり緊張しないのね」
ジュナが恨みがましい視線をよこすのに、グレンは片眉をつり上げ心外だと示す。あのときのように。
「俺だって緊張する。でも、今は独りじゃないからな。心強いよ」
グレンはジュナを見て、それからジュピターを見た。漆黒の竜は三週間のうちに体が大きくなっていた。それも筋肉が付いたという単純なものでなく、骨格そのものが成長して逞しくなっていた。引き締まるところは引き締まり、筋肉が必要なところは申し分ないくらいに隆々で。彼は一流の雰囲気を備えていた。
「よう、相棒」
グレンは手を伸ばし、ジュピターの額を撫でる。竜は気持ち良さそうに目を細めた。
「スタート地点へ移動しまーす!」
係員の号令が響き渡る。神竜賞は直線のコースだ。ゴール地点はグレンたちのいる観客席の近くなので、スタート地点へ行くためには二十四キロメートルを移動しなければならない。それでは準備運動どころでなくレースへ影響してしまうので、スタート地点への移動は竜運搬車 だった。これも神竜賞の名物である。
大平原からの風が頬を撫で、草と土と竜の匂いが混ざり合っていく。変わらない匂いに、心臓の脈動が力強さを増していく。不思議と、身体の痛みはなかった。憎しみも今は消えていた。最高の舞台で勝ちたいという欲だけが、心を突き動かしていた。
「行ってくる」
グレンは、ジュナへ勝ち気に微笑む。
「無理しない……いいえ、思いきり、やってきて」
彼女も強気で返してくるが、青い瞳には早くも涙が溜まっていた。グレンはジュナの頭へ手を置き、ぽんぽんと軽く叩いた。子ども扱いしないでよ、と不服そうな彼女から手綱を預かる。
グレンは笑顔を残して、相棒と共に芝生を踏みしめ歩き出した。
**********************
ドルド・ルイジ・ピシティアーノは、ハティア・レース場で自分のために作られた特別室にいた。秘書は下がらせ、ドルドの他に人はいない。豪勢なソファーに、ぽつんと取り残されているようで、ドルドは自分が滑稽なもののように思えた。
何が滑稽なものか。ドルドは思い直す。ドラゴンレース協会の半数以上が、ドルドに従うだけの駒だ。ここまで到達するのに多くの年月を要した。多くの犠牲もあった。そんな自分が滑稽でいいはずがない。
顔をしかめるドルドの耳をノックの音が打った。誰も訪れないはずの扉からである。秘書を呼ぼうとして、下がらせたのを思い出した。仕方なく、ドルドは立ち上がり来訪者を出迎える。
それは、予期せぬ人だった。
「……ばあさん」
ドルドは老女を呼んだ。輝かしい紫のドレスを身に纏い、社交界の貴婦人がごとく華やかな彼女は、ふんわりと微笑んで会釈する。
「たまには、一緒にレースを観ない? 今日は神竜賞だもの」
ドルドが答えを言う間もなく、マリーは巨体を押し切って入室する。問いかけられたようで、実は答えが一つしかなかったらしい。ドルドは溜め息を吐いた。この老女には敵わない。二人、それぞれにソファーへ腰を下ろし、豪勢な部屋に似付かわしい大きく立派なスクリーンを眺めた。
「ドルドちゃん。アタシ、怒っているのよ」
唐突に、マリーが呟いた。彼女の表情は穏やかで口調は柔らかい。怒っているようには見受けられないだろう。しかし、ドルドには、彼女から発せられる怒気が感じられる。一年や二年の付き合いでない、もっと長い時間を共に過ごしたのだ。彼女の感情は手に取るように分かる。
何が、とは言えなかった。彼女が示しているものは、汚れたドルド自身であったのだから。
「アナタ、なにをしようとしているの?」
マリーは優しい口調で、怒りを投げつけてくる。
なにを、だなんて。そんなものは、ドルド自身が知りたかった。
スクリーンに映像が映し出される。神竜賞の開始時刻が迫っていた。同世代の中から選ばれし竜たちが、勝負のときを待っている。漆黒の竜へ、レース場のカメラが向く。その背に乗るのは帰ってきた天才。この間の事故で満身創痍だろうに、なぜ、命を懸けてまで出場したのだ。
「ジュピターでは勝てんだろうに。生まれ持ったものは覆しようがない」
ドルドは吐き捨てるように言った。思うよりも苛立ちが含まれていたことに自身が動揺する。どうして、これほどまでに胸が騒ぐのか。漆黒の竜を見る度、身体の内で煮えたぎるものが広がっていく。
「それは、アナタがライダーになれなかったように?」
老女が問うた。彼女の糾弾するような眼差しが、より一層、胸中を掻き乱す。
「……そんな昔のことは、忘れた」
ドルドは呟いた。嘘だと騒ぎ立てる心中を無視して、スクリーンを睨みつける。
映像は、準備運動のため空を飛翔する竜たちを映していた。
グレンはコース出入り口から大平原へと踏み出した。太陽の光が降り注ぎ、たくさんの観客席やレース映像を映すため設置された巨大スクリーンが見える。背の低い草が青々と茂るフェルジャー大平原、それをぐるりと囲むブルスタッド山脈は、なだらかだったり切り立っていたりする斜面が組み合わさり雄大な壁のように広がっている。神竜賞では、その山脈を一直線に突き抜ける。
「グレン」
いつか聞いた覚えのある、変に上擦った声音で呼ばれた。振り向けば出会ったときと同じ黒いスーツを着たジュナが、レース用装具を身に纏うジュピターを引いている。彼女は初レースのときのように緊張して硬くなっていた。遠い昔のようで、なんだか懐かしくてグレンは笑ってしまう。
「あなた、やっぱり緊張しないのね」
ジュナが恨みがましい視線をよこすのに、グレンは片眉をつり上げ心外だと示す。あのときのように。
「俺だって緊張する。でも、今は独りじゃないからな。心強いよ」
グレンはジュナを見て、それからジュピターを見た。漆黒の竜は三週間のうちに体が大きくなっていた。それも筋肉が付いたという単純なものでなく、骨格そのものが成長して逞しくなっていた。引き締まるところは引き締まり、筋肉が必要なところは申し分ないくらいに隆々で。彼は一流の雰囲気を備えていた。
「よう、相棒」
グレンは手を伸ばし、ジュピターの額を撫でる。竜は気持ち良さそうに目を細めた。
「スタート地点へ移動しまーす!」
係員の号令が響き渡る。神竜賞は直線のコースだ。ゴール地点はグレンたちのいる観客席の近くなので、スタート地点へ行くためには二十四キロメートルを移動しなければならない。それでは準備運動どころでなくレースへ影響してしまうので、スタート地点への移動は
大平原からの風が頬を撫で、草と土と竜の匂いが混ざり合っていく。変わらない匂いに、心臓の脈動が力強さを増していく。不思議と、身体の痛みはなかった。憎しみも今は消えていた。最高の舞台で勝ちたいという欲だけが、心を突き動かしていた。
「行ってくる」
グレンは、ジュナへ勝ち気に微笑む。
「無理しない……いいえ、思いきり、やってきて」
彼女も強気で返してくるが、青い瞳には早くも涙が溜まっていた。グレンはジュナの頭へ手を置き、ぽんぽんと軽く叩いた。子ども扱いしないでよ、と不服そうな彼女から手綱を預かる。
グレンは笑顔を残して、相棒と共に芝生を踏みしめ歩き出した。
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ドルド・ルイジ・ピシティアーノは、ハティア・レース場で自分のために作られた特別室にいた。秘書は下がらせ、ドルドの他に人はいない。豪勢なソファーに、ぽつんと取り残されているようで、ドルドは自分が滑稽なもののように思えた。
何が滑稽なものか。ドルドは思い直す。ドラゴンレース協会の半数以上が、ドルドに従うだけの駒だ。ここまで到達するのに多くの年月を要した。多くの犠牲もあった。そんな自分が滑稽でいいはずがない。
顔をしかめるドルドの耳をノックの音が打った。誰も訪れないはずの扉からである。秘書を呼ぼうとして、下がらせたのを思い出した。仕方なく、ドルドは立ち上がり来訪者を出迎える。
それは、予期せぬ人だった。
「……ばあさん」
ドルドは老女を呼んだ。輝かしい紫のドレスを身に纏い、社交界の貴婦人がごとく華やかな彼女は、ふんわりと微笑んで会釈する。
「たまには、一緒にレースを観ない? 今日は神竜賞だもの」
ドルドが答えを言う間もなく、マリーは巨体を押し切って入室する。問いかけられたようで、実は答えが一つしかなかったらしい。ドルドは溜め息を吐いた。この老女には敵わない。二人、それぞれにソファーへ腰を下ろし、豪勢な部屋に似付かわしい大きく立派なスクリーンを眺めた。
「ドルドちゃん。アタシ、怒っているのよ」
唐突に、マリーが呟いた。彼女の表情は穏やかで口調は柔らかい。怒っているようには見受けられないだろう。しかし、ドルドには、彼女から発せられる怒気が感じられる。一年や二年の付き合いでない、もっと長い時間を共に過ごしたのだ。彼女の感情は手に取るように分かる。
何が、とは言えなかった。彼女が示しているものは、汚れたドルド自身であったのだから。
「アナタ、なにをしようとしているの?」
マリーは優しい口調で、怒りを投げつけてくる。
なにを、だなんて。そんなものは、ドルド自身が知りたかった。
スクリーンに映像が映し出される。神竜賞の開始時刻が迫っていた。同世代の中から選ばれし竜たちが、勝負のときを待っている。漆黒の竜へ、レース場のカメラが向く。その背に乗るのは帰ってきた天才。この間の事故で満身創痍だろうに、なぜ、命を懸けてまで出場したのだ。
「ジュピターでは勝てんだろうに。生まれ持ったものは覆しようがない」
ドルドは吐き捨てるように言った。思うよりも苛立ちが含まれていたことに自身が動揺する。どうして、これほどまでに胸が騒ぐのか。漆黒の竜を見る度、身体の内で煮えたぎるものが広がっていく。
「それは、アナタがライダーになれなかったように?」
老女が問うた。彼女の糾弾するような眼差しが、より一層、胸中を掻き乱す。
「……そんな昔のことは、忘れた」
ドルドは呟いた。嘘だと騒ぎ立てる心中を無視して、スクリーンを睨みつける。
映像は、準備運動のため空を飛翔する竜たちを映していた。