メイク・ワンズ・デビュー ２
文字数 5,974文字
早朝から始めた調教場での穴埋め作業は、昼頃に完了した。作業服や用具を管理人へ返却し、グレンたちは一息吐く。
作業服を返却したとはいえグレンもジュナも、ジャージにウインドブレーカーというトレーニングウェア満載の出で立ちだ。元より、それが竜に乗る人間の正装みたいなものなので仕方ない。ジュナが着ているジャージは彼女本来のサイズより大きいようで、緩い感じが可愛く見える。このあたりは女性らしい服装への気遣いだろう。面倒だから、と同じデザインの服を買い続けるグレンを見たら、卒倒するかもしれない。
調教場へ戻ってみれば、何頭かの竜が上空を飛んでいた。昼頃までには大体の竜が調教を終えるので、今が最終組だろう。デビューを控えた年若い竜が最終組になることが多い。ならば、あれはジュピターのライバルとなり得る竜たちだ。グレンは陽光を手で遮りながら空を眺めた。
「クリンガー先輩じゃないですか」
空を仰ぐグレンの背後から嫌な響きがあった。直感が、振り返りたくないと言っている。このまま気づかないふりでやり過ごせないものか。
「無視しないでくださいよ。掃除で忙しいんですかぁ？」
反応するまで話し続けるタイプかな。グレンは諦めて声の方へ振り向いた。
緑色の竜に乗った若い男がいる。ちょうど調教帰りなのだろう、フルフェイスヘルメットを被っている。シールドは上げられ、卑しく曲がった目がグレンを捉えていた。着用しているウインドブレーカーには有名スポーツブランドのロゴが入っており、一目で高価なものだと分かる。彼自身それを自慢したいのか、不自然に胸を張る姿勢が珍妙だった。
グレンは首を傾げる。見覚えのない男だ。
「誰だ？」
竜に乗った男は驚きで仰け反った。彼は負けじと体勢を直す。
「昨日！ 掃除してる先輩と会ったでしょうが！」
「昨日……」
グレンは記憶を掘り起こしてみた。昨日といえば神竜賞 があった日。様々な出来事があったように思う。同期に会ったし、ジュナとも再会したし、ジュピターにも出会えた。その中に、あんな無礼そうな若者いただろうか。
無礼。そういえば、はらわたが煮えくり返るような記憶があった。思い至ったグレンは手を叩いた。
「ダストボックスを蹴ったヤツだ。ん、二人一組じゃなかったか？」
「芸人みたいに覚えるな！」
新人ライダーは憤慨した。その大げさなリアクションが芸人ぽいのは追及しないでおこう。面倒だし。
「ボレトさん！」
離れた位置から呼ぶ声があった。どこかの竜舎 スタッフが駆け寄って来る。グレンの知らない顔だ。新人ライダーが乗る緑色の竜を担当しているスタッフだろう。
「調教、ありがとうございました！」
大仰に頭を下げる竜舎スタッフを制して、ボレトは軽薄に笑う。
「うん、やっぱり血統が良いのは乗っていて楽しいね。僕の父も期待している竜だし、デビューが待ちきれないな」
彼は、こちらをチラチラと見た。明らかに挑発している。
竜は優秀な血を次代へ繋げるべく、考え抜かれて生み出される生き物だ。優秀な遺伝子を残すためレースで活躍した竜を選ぶ傾向があるし、多くの強者を生み出した血筋は、やはり尊重される。そうして積み重なっていくのが竜の血統である。レースで活躍した竜が強い竜を生むかと問われれば、必ずしもそうではない。全く飛ばなかったメス竜が、良き母として名竜を送り出すことは多々ある。ゴルトの母親が、そうだった。竜の生産に正解はない。その奥深さが人々を虜にするのだろう。
血統の良し悪しを判断材料の一つにすることはある。だからといって、グレンの選ぶ基準には関係なく、ましてや親しくもない他のライダーがどれに乗ろうが興味はない。ボレトの挑発は空振りだ。
「いやホントに、オーナーであるお父様には良くしていただいて。調教師の先生も、それはそれは感謝しております」
竜舎スタッフはテレビで観たことのある郷土品のように、ぺこぺこと何度も頭を下げた。オーナーは竜舎にとって、お客様だ。機嫌を損ねては竜を引き上げると言われかねず、死活問題になる。どの竜舎もオーナーに対しては気を遣うものだ。
「うふ、父には、よろしく言っておくよ。血統の良い竜をガンガン買って、たくさん預けるようにってね」
ボレトは薄気味悪い笑顔を形作った。
竜の血統は関係ない。よく知らないライダーが何に乗るかも興味がない。しかし、彼と竜舎スタッフのやり取りは、とても醜悪に感じられ目を逸らしたくなった。
竜をよく知りもしないオーナーが無闇に買い、実力を全て引き出せるかも分からない調教師やライダーへ任せる。人が権力を誇示したいがために媚を売りたいばかりに、犠牲になるのは竜である。竜を預けるのもライダーへ依頼するのも、決め手は実力と信頼だ。それを度外視して、金に物を言わせ人を従わせるやり口がグレンは嫌いだった。それを見せつけられる方が、挑発よりも確実なる精神への有効打だ。
不意に、隣から怒りの気配が漂ってきた。身を震わせる雰囲気にビクついて視線を滑らせれば、ジュナの頬が引きつっている。しまった、媚の嫌いな人間が他にもいたことを忘れていた。ボレトはグレンを侮辱するつもりで血統の話を持ち出したようだが、血統的に平凡であるジュピターを酷評する結果となっていたのだ。大切な竜を馬鹿にされて、彼女が黙っているはずはない。
「なによ、血統、血統って」
ジュナは前へ進み出て、ボレトを睨みつける。意図とは別の人物が挑発に引っかかった驚きか、鬼の剣幕へ触れてしまった後悔か、ボレトの表情に畏怖が混じる。
止めなくば、怪我人が出るかもしれない。
「あの、ジュナさん、落ち着いて……」
「血統なんて関係ないの！ 親が有名じゃなくても良い竜は生まれるの！ その子をどれだけ理解して、どれだけ能力を発揮させてやれるかが調教師の仕事！ それに応えるのがライダー！ 血統だけで判断なんて素人のすることよ！」
グレンの制止は意味を成さず、ジュナは食ってかかった。同調したジュピターも低く唸って威嚇する。体が大きい分、ジュピターが凄むと迫力があった。竜舎スタッフは後ずさり、ボレトは、ひぃ、と情けない声を発する。
「で、でも、そこの黒い竜を見てみろよ！ デカいだけじゃないか！ 僕のプリマクラッセの足元にも及ばないね！」
青ざめて顔色は冴えないながらもボレトは言い返す。ジュナは、ぐぅ、と言葉を呑み込んだ。
ボレトの竜は確かに、均整の取れた体つきで雰囲気も悪くなかった。ジュピターの威嚇にも動じていない。プリマクラッセの根幹には良い血統であるという誇りだけでなく、それだけの実力もあるということだ。それを見抜いてしまったのだろう、ジュナは悔しそうに押し黙る。
形勢逆転と見たのか、ボレトの顔色が良くなった。彼の口元は愉快そうに歪む。
「血統の悪い竜には落ちぶれたライダーがお似合いだね！ ああ、僕たちの邪魔はしないでくれよ！ まっ、デカいから飛んでるだけで邪魔かぁ！」
ボレトは浅ましく笑った。ジュナの握り締めた拳が震えている。ジュピターも愚弄されたことを理解しているのか、牙を剥き出して低く唸り続けていた。
グレンは静観するつもりだった。五年間、こういう手合いからの嫌がらせは日常茶飯事だったし、窮地を脱するため我が身を守るため耐えるという選択肢しかないのを分かっていた。仕方ないものだと受け入れていた。それはゴルトを死なせ、ザムやジュナたちを傷つけてしまった咎なのだから。
だが、それは今日で終わりだ。自分には戦うべき理由も、守りたいものもできた。
「おい、新人」
グレンは腹の底から低い声を出していた。身体の奥から熱いものが込み上がってくるのを知覚していた。
「プリマクラッセのデビュー戦、いつだ」
ボレトへ鋭い視線を向ける。彼の口から、また悲鳴が漏れ出た。
「来月、六月の第三週にある新竜戦 だけど……」
「なら俺たちも、そのレースに出る」
一同が驚愕の眼差しでグレンを見た。ジュナは口を開けて呆け、ボレトと竜舎スタッフは酔狂かとでも言いたげに瞬く。
「な、なんで、僕に負けるとわかってて……」
「俺は後輩指導なんて興味ないが、急にやりたくなってな。礼儀も技術も教えてやらなかったのを後悔してるんだ。レースを一勝もできずに引退なんて可哀想だからな」
グレンは不敵に笑んだ。ボレトは怒りで顔を真っ赤にする。ライダーとして初勝利をあげられていないのを気にしているらしい。
「言ったな！ 言いやがったな！ 負かして恥をかかせてやる！ グレン・クリンガーは、もう天才じゃないってね！」
ボレトは怒りに任せて吐き捨て、プリマクラッセの頭を竜舎の方へ向け引き上げていった。竜舎スタッフが慌てて後を追う。
騒がしいのが去り、調教場に残されたのはグレンたちのみ。絡まれている間に、他の竜は調教を終え戻っていったようだ。グレンは言いたいだけ口を開き、清々しい心持ちだった。こんな感覚、どれくらいぶりだろう。
隣を見ればジュナが放心して佇んでいた。グレンは気づく。もしや、周りを顧みず暴走してしまったのか。
「ごめん、勝手に決めて」
「え？ あ、ああ……」
ジュナはグレンの方へ目を向け、気の抜けた表情を浮かべていたことを自覚したのか、はっと息を呑んだ。彼女はすぐ表情を和らげ、ゆっくり首を振る。
「あなたが、あそこまで言ったのが珍しくて驚いただけ。人に対しては、感情を見せないイメージがあったから……」
「俺も、そう思ってた。あんなに怒ること、あるんだな」
グレンが肩を竦ませると、ジュナは楽しげに笑いを零した。後先考えずに言ってしまったが、彼女は大して気にしていないようだった。彼女の笑顔でグレンは安堵する。
「挑発してきたのは、あっちなんだし。返り討ちにしてやりましょ」
「もちろんだ。どんな顔してパパに泣きつくのか楽しみだな」
グレンはジュナと片手同士で拳を合わせる。こつん、と軽く触れ合うだけで気力をもらった気がした。
やるべきことは決まっている。ライダーは、レースで誰よりも上手く乗って勝つだけ。そのためにはジュピターから相棒として認められなければ。
「ジュピター、おまえも……」
漆黒の竜へ振り向いたとき、グレンの言葉が詰まった。
ジュピターは竜舎の方角を見つめていた。威嚇するのでない、ただ睨んでいるのでもない。悔しさに佇むでもない、怒りに身を支配されるでもない。静かな闘志を燃やして時を待つ、熟練の戦士みたいな雰囲気だった。
グレンは、この空気を知っている。精悍な顔つきに見覚えがある。
「ジュナ、竜の装具を持ってきてくれないか」
「今？」
「そう、早く、頼む」
訝しむジュナを走らせて、グレンは竜の正面に立った。ジュピターの視線が向く。青い瞳がグレンの双眸を捉えている。
初めから違和感はあった。ジュピターはグレンの言動に笑い、怒り、悪戯や無視など多彩な反応を見せてきた。人の言葉をよく理解しているということだが、それは竜にとって普遍的なものだろうか。竜の知能は人間でいう三歳児相当で、大まかに分類すれば犬と変わらないぐらいだ。簡単な言葉であれば理解できるだろう。しかし、言葉の内容や文脈まで把握し、感情豊かな反応まではできないはずだ。
そもそも、悪戯ができるのは知能が高い証拠だ。相手の状況を踏まえ手段を考えて実行へと移すことは、高度な思考能力によって生まれるものだから。
「俺は、勝つために全てを懸ける。だから、おまえも力を貸してほしい」
グレンは対等な仲間へ言うように言葉を選んだ。ジュピターは、じっと見据えてくる。彼に拒絶は見られない。頷いてくれている気配があった。
「グレン！」
ジュナが装具を抱え走ってくる。それを受け取り、ジュピターに手早く装着した。漆黒の竜は暴れず大人しくしている。グレンは、さっと飛び乗った。嫌がる素振りはない。ジュナが驚きで口を開けるのが見えた。
「どういうこと？」
問いかけてくる彼女へ、グレンは満足げに笑む。考えが正しかったという安心より、これで戦えるという興奮に包まれていた。
「こいつは、とんでもなく頭が良いんだ。自分の置かれている環境を知り、学べるほどに。竜牧場から竜舎へ来たばかりだから、今までは遊んでる気分だったんだろ。それが、倒すべき敵を見つけた。本気にならなくては勝てないと学んだ。さっき、ジュピターの戦うためのスイッチが入ったんだ」
全ては勝つために。グレンは敵を打倒する協定を持ちかけた。それを了承した漆黒の竜は、もう、グレンを振り落とすことはないだろう。
説明に納得した様子でジュナが頷く。
「頭の良い子だとは感じていたけれど、目的意識まであるなんて」
「こんな竜は初めてだよ。ゴルトも自分でレースを組み立てられるくらい頭の良いヤツだったが、ジュピターはそれ以上かもな。人の言葉をわかってるし、そのうち喋りだすんじゃないか」
「古代の竜みたいね」
ジュナの表情が柔らかい。穏やかな空気が流れ、冗談が弾む。
古代の竜とは、実際に存在する竜でなく伝説上の生き物のことだ。人へ知恵を与えるほど知能が高く環境を変化させるほどの魔力を持ち、大地を裂く強靱な体躯を有していたとされる。それらは伝説に過ぎないがドラゴンレースでは魔力の高い竜が生まれることがあり、偶発的に古代の血が色濃く出るのではないかとする説もあった。案外、本当の話が伝説として残っているのかもしれない。
「古代、か」
グレンは、その言葉に引っかかった。知能が高い。魔力。強靱な体躯。並べた単語に胸中がざわつく。何かが閃きそうだ。あと、もう一つ何か材料が欲しい。
辺りを見回すグレンの視界へ、調教場の地面が映り込んできた。一点だけ土の色が違うそこを凝視する。ジュピターに初めて乗ったときの衝撃を思い出す。
そのときグレンは、思考を平手で叩かれるような刺激を味わった。目が覚めたような心持ちでジュピターから飛び降り、ジュナの正面から細い両肩を掴む。顔を紅くしたジュナが、じっと見つめ返してきた。
「なぁ、馬鹿な話かもしれないが聞いてほしい」
「な、なに？」
「勝てるかもしれない」
グレンは自信と興奮に満ちた顔で告げた。
作業服を返却したとはいえグレンもジュナも、ジャージにウインドブレーカーというトレーニングウェア満載の出で立ちだ。元より、それが竜に乗る人間の正装みたいなものなので仕方ない。ジュナが着ているジャージは彼女本来のサイズより大きいようで、緩い感じが可愛く見える。このあたりは女性らしい服装への気遣いだろう。面倒だから、と同じデザインの服を買い続けるグレンを見たら、卒倒するかもしれない。
調教場へ戻ってみれば、何頭かの竜が上空を飛んでいた。昼頃までには大体の竜が調教を終えるので、今が最終組だろう。デビューを控えた年若い竜が最終組になることが多い。ならば、あれはジュピターのライバルとなり得る竜たちだ。グレンは陽光を手で遮りながら空を眺めた。
「クリンガー先輩じゃないですか」
空を仰ぐグレンの背後から嫌な響きがあった。直感が、振り返りたくないと言っている。このまま気づかないふりでやり過ごせないものか。
「無視しないでくださいよ。掃除で忙しいんですかぁ？」
反応するまで話し続けるタイプかな。グレンは諦めて声の方へ振り向いた。
緑色の竜に乗った若い男がいる。ちょうど調教帰りなのだろう、フルフェイスヘルメットを被っている。シールドは上げられ、卑しく曲がった目がグレンを捉えていた。着用しているウインドブレーカーには有名スポーツブランドのロゴが入っており、一目で高価なものだと分かる。彼自身それを自慢したいのか、不自然に胸を張る姿勢が珍妙だった。
グレンは首を傾げる。見覚えのない男だ。
「誰だ？」
竜に乗った男は驚きで仰け反った。彼は負けじと体勢を直す。
「昨日！ 掃除してる先輩と会ったでしょうが！」
「昨日……」
グレンは記憶を掘り起こしてみた。昨日といえば
無礼。そういえば、はらわたが煮えくり返るような記憶があった。思い至ったグレンは手を叩いた。
「ダストボックスを蹴ったヤツだ。ん、二人一組じゃなかったか？」
「芸人みたいに覚えるな！」
新人ライダーは憤慨した。その大げさなリアクションが芸人ぽいのは追及しないでおこう。面倒だし。
「ボレトさん！」
離れた位置から呼ぶ声があった。どこかの
「調教、ありがとうございました！」
大仰に頭を下げる竜舎スタッフを制して、ボレトは軽薄に笑う。
「うん、やっぱり血統が良いのは乗っていて楽しいね。僕の父も期待している竜だし、デビューが待ちきれないな」
彼は、こちらをチラチラと見た。明らかに挑発している。
竜は優秀な血を次代へ繋げるべく、考え抜かれて生み出される生き物だ。優秀な遺伝子を残すためレースで活躍した竜を選ぶ傾向があるし、多くの強者を生み出した血筋は、やはり尊重される。そうして積み重なっていくのが竜の血統である。レースで活躍した竜が強い竜を生むかと問われれば、必ずしもそうではない。全く飛ばなかったメス竜が、良き母として名竜を送り出すことは多々ある。ゴルトの母親が、そうだった。竜の生産に正解はない。その奥深さが人々を虜にするのだろう。
血統の良し悪しを判断材料の一つにすることはある。だからといって、グレンの選ぶ基準には関係なく、ましてや親しくもない他のライダーがどれに乗ろうが興味はない。ボレトの挑発は空振りだ。
「いやホントに、オーナーであるお父様には良くしていただいて。調教師の先生も、それはそれは感謝しております」
竜舎スタッフはテレビで観たことのある郷土品のように、ぺこぺこと何度も頭を下げた。オーナーは竜舎にとって、お客様だ。機嫌を損ねては竜を引き上げると言われかねず、死活問題になる。どの竜舎もオーナーに対しては気を遣うものだ。
「うふ、父には、よろしく言っておくよ。血統の良い竜をガンガン買って、たくさん預けるようにってね」
ボレトは薄気味悪い笑顔を形作った。
竜の血統は関係ない。よく知らないライダーが何に乗るかも興味がない。しかし、彼と竜舎スタッフのやり取りは、とても醜悪に感じられ目を逸らしたくなった。
竜をよく知りもしないオーナーが無闇に買い、実力を全て引き出せるかも分からない調教師やライダーへ任せる。人が権力を誇示したいがために媚を売りたいばかりに、犠牲になるのは竜である。竜を預けるのもライダーへ依頼するのも、決め手は実力と信頼だ。それを度外視して、金に物を言わせ人を従わせるやり口がグレンは嫌いだった。それを見せつけられる方が、挑発よりも確実なる精神への有効打だ。
不意に、隣から怒りの気配が漂ってきた。身を震わせる雰囲気にビクついて視線を滑らせれば、ジュナの頬が引きつっている。しまった、媚の嫌いな人間が他にもいたことを忘れていた。ボレトはグレンを侮辱するつもりで血統の話を持ち出したようだが、血統的に平凡であるジュピターを酷評する結果となっていたのだ。大切な竜を馬鹿にされて、彼女が黙っているはずはない。
「なによ、血統、血統って」
ジュナは前へ進み出て、ボレトを睨みつける。意図とは別の人物が挑発に引っかかった驚きか、鬼の剣幕へ触れてしまった後悔か、ボレトの表情に畏怖が混じる。
止めなくば、怪我人が出るかもしれない。
「あの、ジュナさん、落ち着いて……」
「血統なんて関係ないの！ 親が有名じゃなくても良い竜は生まれるの！ その子をどれだけ理解して、どれだけ能力を発揮させてやれるかが調教師の仕事！ それに応えるのがライダー！ 血統だけで判断なんて素人のすることよ！」
グレンの制止は意味を成さず、ジュナは食ってかかった。同調したジュピターも低く唸って威嚇する。体が大きい分、ジュピターが凄むと迫力があった。竜舎スタッフは後ずさり、ボレトは、ひぃ、と情けない声を発する。
「で、でも、そこの黒い竜を見てみろよ！ デカいだけじゃないか！ 僕のプリマクラッセの足元にも及ばないね！」
青ざめて顔色は冴えないながらもボレトは言い返す。ジュナは、ぐぅ、と言葉を呑み込んだ。
ボレトの竜は確かに、均整の取れた体つきで雰囲気も悪くなかった。ジュピターの威嚇にも動じていない。プリマクラッセの根幹には良い血統であるという誇りだけでなく、それだけの実力もあるということだ。それを見抜いてしまったのだろう、ジュナは悔しそうに押し黙る。
形勢逆転と見たのか、ボレトの顔色が良くなった。彼の口元は愉快そうに歪む。
「血統の悪い竜には落ちぶれたライダーがお似合いだね！ ああ、僕たちの邪魔はしないでくれよ！ まっ、デカいから飛んでるだけで邪魔かぁ！」
ボレトは浅ましく笑った。ジュナの握り締めた拳が震えている。ジュピターも愚弄されたことを理解しているのか、牙を剥き出して低く唸り続けていた。
グレンは静観するつもりだった。五年間、こういう手合いからの嫌がらせは日常茶飯事だったし、窮地を脱するため我が身を守るため耐えるという選択肢しかないのを分かっていた。仕方ないものだと受け入れていた。それはゴルトを死なせ、ザムやジュナたちを傷つけてしまった咎なのだから。
だが、それは今日で終わりだ。自分には戦うべき理由も、守りたいものもできた。
「おい、新人」
グレンは腹の底から低い声を出していた。身体の奥から熱いものが込み上がってくるのを知覚していた。
「プリマクラッセのデビュー戦、いつだ」
ボレトへ鋭い視線を向ける。彼の口から、また悲鳴が漏れ出た。
「来月、六月の第三週にある
「なら俺たちも、そのレースに出る」
一同が驚愕の眼差しでグレンを見た。ジュナは口を開けて呆け、ボレトと竜舎スタッフは酔狂かとでも言いたげに瞬く。
「な、なんで、僕に負けるとわかってて……」
「俺は後輩指導なんて興味ないが、急にやりたくなってな。礼儀も技術も教えてやらなかったのを後悔してるんだ。レースを一勝もできずに引退なんて可哀想だからな」
グレンは不敵に笑んだ。ボレトは怒りで顔を真っ赤にする。ライダーとして初勝利をあげられていないのを気にしているらしい。
「言ったな！ 言いやがったな！ 負かして恥をかかせてやる！ グレン・クリンガーは、もう天才じゃないってね！」
ボレトは怒りに任せて吐き捨て、プリマクラッセの頭を竜舎の方へ向け引き上げていった。竜舎スタッフが慌てて後を追う。
騒がしいのが去り、調教場に残されたのはグレンたちのみ。絡まれている間に、他の竜は調教を終え戻っていったようだ。グレンは言いたいだけ口を開き、清々しい心持ちだった。こんな感覚、どれくらいぶりだろう。
隣を見ればジュナが放心して佇んでいた。グレンは気づく。もしや、周りを顧みず暴走してしまったのか。
「ごめん、勝手に決めて」
「え？ あ、ああ……」
ジュナはグレンの方へ目を向け、気の抜けた表情を浮かべていたことを自覚したのか、はっと息を呑んだ。彼女はすぐ表情を和らげ、ゆっくり首を振る。
「あなたが、あそこまで言ったのが珍しくて驚いただけ。人に対しては、感情を見せないイメージがあったから……」
「俺も、そう思ってた。あんなに怒ること、あるんだな」
グレンが肩を竦ませると、ジュナは楽しげに笑いを零した。後先考えずに言ってしまったが、彼女は大して気にしていないようだった。彼女の笑顔でグレンは安堵する。
「挑発してきたのは、あっちなんだし。返り討ちにしてやりましょ」
「もちろんだ。どんな顔してパパに泣きつくのか楽しみだな」
グレンはジュナと片手同士で拳を合わせる。こつん、と軽く触れ合うだけで気力をもらった気がした。
やるべきことは決まっている。ライダーは、レースで誰よりも上手く乗って勝つだけ。そのためにはジュピターから相棒として認められなければ。
「ジュピター、おまえも……」
漆黒の竜へ振り向いたとき、グレンの言葉が詰まった。
ジュピターは竜舎の方角を見つめていた。威嚇するのでない、ただ睨んでいるのでもない。悔しさに佇むでもない、怒りに身を支配されるでもない。静かな闘志を燃やして時を待つ、熟練の戦士みたいな雰囲気だった。
グレンは、この空気を知っている。精悍な顔つきに見覚えがある。
「ジュナ、竜の装具を持ってきてくれないか」
「今？」
「そう、早く、頼む」
訝しむジュナを走らせて、グレンは竜の正面に立った。ジュピターの視線が向く。青い瞳がグレンの双眸を捉えている。
初めから違和感はあった。ジュピターはグレンの言動に笑い、怒り、悪戯や無視など多彩な反応を見せてきた。人の言葉をよく理解しているということだが、それは竜にとって普遍的なものだろうか。竜の知能は人間でいう三歳児相当で、大まかに分類すれば犬と変わらないぐらいだ。簡単な言葉であれば理解できるだろう。しかし、言葉の内容や文脈まで把握し、感情豊かな反応まではできないはずだ。
そもそも、悪戯ができるのは知能が高い証拠だ。相手の状況を踏まえ手段を考えて実行へと移すことは、高度な思考能力によって生まれるものだから。
「俺は、勝つために全てを懸ける。だから、おまえも力を貸してほしい」
グレンは対等な仲間へ言うように言葉を選んだ。ジュピターは、じっと見据えてくる。彼に拒絶は見られない。頷いてくれている気配があった。
「グレン！」
ジュナが装具を抱え走ってくる。それを受け取り、ジュピターに手早く装着した。漆黒の竜は暴れず大人しくしている。グレンは、さっと飛び乗った。嫌がる素振りはない。ジュナが驚きで口を開けるのが見えた。
「どういうこと？」
問いかけてくる彼女へ、グレンは満足げに笑む。考えが正しかったという安心より、これで戦えるという興奮に包まれていた。
「こいつは、とんでもなく頭が良いんだ。自分の置かれている環境を知り、学べるほどに。竜牧場から竜舎へ来たばかりだから、今までは遊んでる気分だったんだろ。それが、倒すべき敵を見つけた。本気にならなくては勝てないと学んだ。さっき、ジュピターの戦うためのスイッチが入ったんだ」
全ては勝つために。グレンは敵を打倒する協定を持ちかけた。それを了承した漆黒の竜は、もう、グレンを振り落とすことはないだろう。
説明に納得した様子でジュナが頷く。
「頭の良い子だとは感じていたけれど、目的意識まであるなんて」
「こんな竜は初めてだよ。ゴルトも自分でレースを組み立てられるくらい頭の良いヤツだったが、ジュピターはそれ以上かもな。人の言葉をわかってるし、そのうち喋りだすんじゃないか」
「古代の竜みたいね」
ジュナの表情が柔らかい。穏やかな空気が流れ、冗談が弾む。
古代の竜とは、実際に存在する竜でなく伝説上の生き物のことだ。人へ知恵を与えるほど知能が高く環境を変化させるほどの魔力を持ち、大地を裂く強靱な体躯を有していたとされる。それらは伝説に過ぎないがドラゴンレースでは魔力の高い竜が生まれることがあり、偶発的に古代の血が色濃く出るのではないかとする説もあった。案外、本当の話が伝説として残っているのかもしれない。
「古代、か」
グレンは、その言葉に引っかかった。知能が高い。魔力。強靱な体躯。並べた単語に胸中がざわつく。何かが閃きそうだ。あと、もう一つ何か材料が欲しい。
辺りを見回すグレンの視界へ、調教場の地面が映り込んできた。一点だけ土の色が違うそこを凝視する。ジュピターに初めて乗ったときの衝撃を思い出す。
そのときグレンは、思考を平手で叩かれるような刺激を味わった。目が覚めたような心持ちでジュピターから飛び降り、ジュナの正面から細い両肩を掴む。顔を紅くしたジュナが、じっと見つめ返してきた。
「なぁ、馬鹿な話かもしれないが聞いてほしい」
「な、なに？」
「勝てるかもしれない」
グレンは自信と興奮に満ちた顔で告げた。
