イン・ザ・パスト 9

文字数 3,302文字

 あの神竜賞(しんりゅうしょう)から、五年。かつて、ゴルトの瞳にあった空の色が目の前で蘇っていた。二度と会えないと諦めていたものが、手を伸ばせば触れられる距離にいた。

 漆黒の竜は呆けた顔のグレンを見つめる。記憶を辿れば辿るほど、精悍(せいかん)な顔つきは兄そっくりだ。

「こいつの、名前は?」

 グレンは無意識に問いかけていた。漆黒と黄金の姿が重なる。ゴルトの名を訊いたときにも、無想であった気がする。

「ジュピターよ。雷を操る神様の名前」

 黒いスーツの女はグレンの隣へ並び、竜の頭に手を添えた。漆黒の竜は嬉しそうに目を細め、細い指へ甘える。ゴルトと出会ったときの記憶が思い浮かんだ。甘え方も、そっくりだ。グレンの頬が緩む。

 黄金色の竜を思考で描けば、胸へ去来するのは痛みだけだと思っていた。穏やかな感情の中で相棒を思い出すことは今後、ないのだろうと諦めていた。けれど実際、グレンは温かな空気に触れていた。それが意外で嬉しかった。

 ジュピター。ゴルトの弟。雷を操る神の名を与えられた、漆黒の竜。

「神様の名前とは、大変なのをもらったな」

 グレンが茶化し気味に言えば、黒いスーツの女は()ねたように唇を尖らせる。

「大変なのでも、いいの。この子が生まれる前から決めてたんだから」

 彼女は漆黒の竜へ同意を求め、柔らかい表情で竜を撫でた。よく知らない彼女だが、そういう表情の方が似合っている気がする。勝ち気で不敵なものを浮かべるより、余程。

 グレンの内で興味が生じた。珍しいことに、人へ対するものだ。

「名前、まだ聞いてなかったな」

「え? 言ったじゃない、ジュピターだって」

「違う、あんたの名前」

 彼女は目を見開き、顔を赤らめた。その反応は予想外で、もしや秘密のままでいたかったのかとグレンは考える。訊かない方が良かっただろうか。

 黒いスーツの女は大きく咳払いした。まだ頬は紅く、視線は右へ左へと忙しそうだ。彼女は気を取り直すように再度、咳払いした。

「ジュナ・ウォーディ。調教師よ」

 芯の強そうな声音が耳を打つ。青い瞳が、しっかりと見据えてくる。彼女が手を差し出すのに応じて握手すれば、照れたような微笑みが向けられた。やはり、彼女は笑顔が似合うと思う。

 しかし、何かが引っかかる。ジュナ・ウォーディ。その名は聞き覚えがあった。

「ん、ウォーディ…………」

 呟いた瞬間、怒濤(どとう)のごとき勢いで記憶が押し寄せてきた。あ、と大声を発しそうになったが堪える。彼女の姿に見覚えがあって、名に聞き覚えがあって当然だ。

「そうか、ゴルトの生産者だ。確か、ウォーディ竜牧場」

「そう。ゴルトを生産したのは両親ね」

 ジュナが頷くのに、胸の奥にある痛みが(うず)いた。

 神竜賞でゴルトは暴れた。それを制御できなかったグレンへ批判が噴出した一方、ウォーディ竜牧場へも疑念の目が向けられたのだ。ゴルトが暴れたのは、劣悪な飼育環境が招いた潜在的なものだった、と。世間に見放された両者が、転落するのは避けられなかった。事故を起こしたグレンはドラゴンレース関係者から干され、ウォーディ竜牧場は融資を凍結され経営が成り立たず潰れてしまったと聞く。家族経営の小さな竜牧場であったから、風評被害を受けて立て直すのは難しかったのだろう。

 神竜賞で事故を起こしてしまったのは、間違いなくグレンの非だ。しかし、ウォーディ竜牧場に非があったのかといえば、ない、とグレンは断言できた。ゴルトは優しく、人を愛する竜だった。劣悪な環境下では、けして育たない博愛だった。どこかの三流ゴシップ誌がネタにするための捏造に違いなかった。

 ウォーディ竜牧場の倒産はグレンの巻き添えだ。ゆえに、責任を感じている。謝って許されるものでない。何をして償えばいいのか分からない。

「俺は、あんたに……」

「ジュピターに乗って」

 ジュナが強い声音で言う。グレンの心情を把握したように、背後まで忍び寄っていた過去を追い払うように。

「あなたには、この子に乗る義務がある。活躍できない、諦めろって言われた、この子を勝たせる責任がある。私も、それを望んでる」

 相棒の中に見た空をそのまま流し込んだような瞳が、真っ直ぐグレンの姿を捉えていた。

 グレンは奥歯を噛み締める。心の奥で、思考の片隅で、許されることを許しはしないと叫ぶ自分がいた。ゴルトを思い出さないようにしていたのと同じで、そんな機会は訪れやしないと諦めてもいた。一生、罪悪感を抱えて生きるものと決めていた。それが、どうしたことか(あがな)いの機会が差し出された。心で引っかかったまま抜けない棘を抜く好機だった。眼前で広げられた救いだった。

 グレンは顔をしかめる。自分は、泣きそうな表情をしているのだと思った。

「わかった」

 グレンは短く応えてジュピターと向き合う。涙は必死になって堪えた。

「今日から俺が、おまえの相棒だ」

 漆黒の鼻に掌を置く。ふんふん、と匂いを嗅ぐ仕草はゴルトと同じだ。懐かしさで、堪えていた涙腺が緩む。また、こうして相棒となる竜に出会えるとは思わなかった。ゴルトの弟だから、きっと良いヤツだ。漆黒の竜に乗って飛ぶ世界は、どんなに素晴らしいのだろう。期待が膨らむ。

「あっ、それは」

 唐突にジュナが慌てた声を発した。なんだ、と言う前にジュピターが大口を開ける。ぱくり。グレンの手は漆黒の竜に食われた。

「は? あ、いってぇ! おい、こら!」

 くわえる顎を、グレンは残った片手でバシバシ叩く。竜の牙は鋭く、顎は人間の何倍も強靱だ。怒った竜に本気で噛まれ、手をちぎられたなんて話も聞く。感傷とは違う意味の涙が出そうになる。早く脱出しなければ。

「その子、あまり人には懐かないって……もう! ジュピター!」

 ジュナが叱りつけ、漆黒の竜はようやく口を開けた。急いで引き抜いた手の甲には立派な歯形が付いている。恨みがましい視線を向ければ、なんと、ジュピターは愉快そうに口元を曲げた。人間が意地悪く笑むのと変わりない。こいつは確信犯だ。人をからかって遊んだのだ。なんて性格の悪さだろう。

 本当にゴルトの弟なのか、こいつ。センチメンタルな気持ちを返してほしい。

「前言撤回だ! 誰が、おまえの相棒になってやるものか!」

 グレンは反撃とばかり、ジュピターの喉元に腕を巻いて絞め上げた。驚いた竜は一瞬だけ停止したが、すぐに目をつり上げて怒り、グアアアと鳴く。振り払おうと首をぶん回すが、意地になっているグレンは放さなかった。

「ちょっと! 喧嘩しないでよ!」

 ジュナは声を荒げるが、いがみ合う一人と一頭には届かない。

「ねえ、ちょっと!」

 グレンとジュピターは取っ組み合いを始めた。止めようとするジュナを完全に置いてきぼりにして。

「いいかげんにしなさい!!!」

 ジュナの口から激怒が響き渡った。今すぐ止めなければ殴ってでも止める。そういう物騒な脅迫が、襲ってくるかのようだった。あまりの迫力にグレンとジュピターは取っ組み合ったまま、恐怖で動きを静止させる。

「あの…………」

 遠慮がちな声が、かけられた。ジュナが振り向くのに、グレンとジュピターも視線をやる。

 茶色の作業服を着た老年の男だった。竜舎(りゅうしゃ)や調教場の管理をしている人物だ。

「あれ、直してもらえるんでしょうね?」

 管理人は言って、ある一点を指す。普通に常識の範囲内で利用していれば、まず空かないだろう大穴が地面にあった。まるで激しい落雷が抉ったかのように窪み割れている。あれはそう、ジュピターが空けた穴だ。

 グレンたちは、それぞれで顔を見合わせた。公共施設の利用は大事に。昔、聞いたことのある一節が脳裏を掠める。

「はい、すみません……」

 三者は佇まいを直し、大人しく頭を下げた。

 なんとも情けない、新たな船出だった。
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