ドミネイト・ジ・オーシャン　１

　雨粒が窓へ全力で当たり、弾けていった。暴風が遠征用の竜舎(りゅうしゃ)事務所を揺らし、簡素な造りを笑っていく。

　四月第二週。海竜賞(かいりゅうしょう)を翌日に控えたハクアーナは、猛烈な暴風雨に曝されていた。陽の光は雲によって遮られ、木々が揺れ、瓦礫や壊れた家具が地面を転がる様は終末のようで不安感を煽る。春の時期、ハクアーナでは強風が吹く。荒天にも、なりやすい。それにしたって、近年、稀に見る強烈すぎる雨風だった。

「はい……はい……わかりました、ありがとうございます」

　携帯電話を手にするジュナが礼を言って通話を切る。窓から外を眺めていたグレンは振り返り、彼女へ視線を向けた。

「レースの運営は、なんだって？」

「予報では明日になれば雨風が落ち着くから、現状、海竜賞は開催予定だって。朝になってから最終的な判断をするらしいわ」

　ジュナは眉間にシワを寄せ答える。陣営の指揮官である調教師からすれば開催するか、しないかも不透明な状況は、やきもきするだろう。ジュピターを案ずる想いだって、あるのだ。

　唐突にマリーが、あらぁ、と緊張感のない驚き声を上げた。見れば、彼女は事務机に新聞紙を広げている。

「漁船が転覆して大破だって。乗組員は……無事みたいねぇ。よかったわぁ」

　彼女は、のんびりとして、乗組員の親族であるかのように安堵の表情を浮かべた。昨日から何隻もの船が突風によって転覆させられている。テレビでも誌面でも、それらのニュースは絶えることがなかった。

　ハクアーナは漁業を生業とする者たちが中心となって栄えた町だ。その漁師の間で話し継がれてきたものがある。

『この時期、命が惜しくば海へ出るな。何者も屈服するしかない。乗り越えられない。それは、ハクアーナで春の間にだけ猛威を振るう。海上を薙ぎ払い、船を転覆させる悪魔の突風、デヴィリッシュ・ゲイル。空の竜さえ撃ち落とす、海竜の怒り』

　古くから存在する言い伝えだ。竜を撃ち落とすことは、さすがにない。漁師たちの間で話し継がれているうちに誇張されたのだろう。しかし、他の地域にない突風が行く手を阻むのは事実。海竜賞とは、デヴィリッシュ・ゲイルとの戦いだった。

「ねぇ、グレンちゃん、ジュナちゃん。こんなに酷い海竜賞は初めてよ。出場は危ないんじゃないかしら」

　いつの間にか新聞紙を折りたたみ、グレンとジュナを交互に見据えてマリーは言った。彼女の瞳には強い仁徳が滲んでいる。それだけでない、オーナーとして安全を考慮しての冷静な意見であった。

　グレンは窓際から離れ、マリーの元へ歩む。彼女の正面で顔が向き合うよう屈み込んだ。

「俺は、出たい。アウルとヴォーダンが出るなら、戦いたいんだ」

　グレンは伝えられるだけの熱を込めて言う。ドラゴンレースは年内に同一レースが開催されることはなく、次というのは来年となってしまう。クラウンレースは四歳の竜のみが出場できるレースであり、すなわち、海竜賞も神竜賞(しんりゅうしょう)も鋼竜賞(こうりゅうしょう)も竜の生涯で一度しか挑戦できないということだ。アウルたちと戦える海竜賞は今にしかない。次なんて存在しないのだ。

　老女は眉を曲げ、困ったような顔になった。彼女へ、ジュナが寄り添う。

「明日になって無理そうなら、私が諦めさせます。だから、お願いします。戦える望みがあるうちは諦めないでください。ジュピターも、そう言うと思います」

　ジュナの瞳に、相棒と似た青い炎が揺らめいていた。グレンも漆黒の竜を思う。相棒は今、雨風から避難して頑丈な屋根があるレース場屋内で留まっている。彼も闘志を滾らせているはずなのだ。終生の好敵手と決めた純白の竜と、同じ竜の魔術使い(ウィザード)として堂々と戦えるのだから。

　困り顔のマリーは、うーん、うーん、と悩んでいる様子だった。グレンとジュナは顔を近づけ、マリーを見つめ続ける。こうなったら折れるまで傍にいてやる気持ちだった。

「…………仕方ないわねぇ」

　ぽつり。マリーが降参宣言を零した。

「いい？　危なくなったら、すぐに帰ってくるのよ？　約束ね」

　マリーはジュナというより、グレンへ向け言い聞かせる。彼女は不満げに、けれど温かみのある微笑みを浮かべた。グレンは一生懸命、何度も頷く。ジュナも嬉しそうに応じた。

「それじゃあ、作戦会議かしらねぇ」

　マリーが両手を、ぱんと叩いた。身が引き締まる思いでグレンは着席する。綻ばせていた表情を真剣なものへ切り替えたジュナは、これまでのようにホワイトボードの前へ立った。

「知っての通り、海竜賞での敵はヴォーダンだけでないわ。デヴィリッシュ・ゲイル。これを、どう攻略していくのかが鍵ね」

　ジュナがホワイトボードに黒ペンを走らせる。ヴォーダンに、デヴィリッシュ・ゲイル。かつてない強敵の名が記された。

「デヴィリッシュ・ゲイルを乗り越えるには、やっぱり群れの中でじっとしているしかないと思うの。他の竜を風除けにして終盤まで我慢して、ゴール付近で一気に抜け出す。常套(じょうとう)すぎて、みんな狙うやり方だけれど」

「体が戻ったジュピターなら、スタートダッシュができる。他のライダーも群れの中へ潜り込みたいだろうが、こちらの方が速い。最初の位置取りは問題ないと思う」

「と、なると、一番の問題は……」

　皆の目が一点へ集中した。ジュナが、そこへ赤丸を描き込む。ヴォーダン。やはり、最大の敵は純白の竜ということだ。

「なぁ、ウォーディ先生、ヴォーダンに弱点とかないのか？」

　グレンは縋る思いで、ジュナの方へ身体を乗り出した。

　ルーキーイヤーステークス後、ヴォーダンは予選レースに出場することなく海竜賞へ直行した。現四歳世代で唯一、グレード・ワンを勝っていて、賞金も協会からの推薦も得ていたのだし無理に出場させる必要がなかったのだろう。弱点といえば久々のレース出場であることが突破口になるかもしれないが、竜のタイプは様々で、本番前に肩慣らしが必要な竜もいれば長い休養でリフレッシュした方が実力を発揮する竜もいる。ヴォーダンが久々を苦にしないタイプであれば、攻め入る隙はないという悲観だけがあるのだが。

「弱点、あるかもしれない」

　ジュナが顎へ手をやりながら、ぼそりと呟いた。僅かな希望に縋りながらも答えに期待していなかったグレンは、がたりと椅子を鳴らして驚く。

「ほ、本当か！」

「たぶんね」

　ジュナは細い指で黒ペンを取り、ホワイトボードへ書き込んでいく。

「ヴォーダンの出場したレースを、もう一度、観てみたの。デビュー戦、それから第二戦目については竜の魔術使い(ウィザード)の力を使っていなかった。ルーキーイヤーステークスの戦い方を見るに力の使い方は慣れているようだったから、直前で覚醒したのでもないと思う。勝つため秘密にしておきたかったのかもしれないけれど竜の魔術使い(ウィザード)の力は絶対的なものよ、知られたところで対策されようがない。じゃあ、どうしてだろうって考えたとき、ある仮説を思いついたのよ」

　ホワイトボードに新たな文字が書き加えられた。

　デビュー戦、十月。

　第二戦目、十一月。

　ルーキーイヤーステークス、十二月。

「これを見て。ヴォーダンのデビューは遅めで秋頃だった。デビュー勝ち後、十一月のレースに出場して優勝、十二月のルーキーイヤーステークスへ駒を進めた」

「ん？　それ、一ヶ月間隔だな」

「そう、短い間隔よね。だから、こう考えたの。ヴォーダンは竜の魔術使い(ウィザード)の力を

使わなかったんじゃなくて、使えなかったんじゃないかな

」

　ヴォーダンが竜の魔術使い(ウィザード)の力を使えなかった。首を傾げるグレンを察してか、ジュナはペンで指しながら口を開く。

「推測だけれど、ヴォーダンには、なにかの欠陥があるんじゃないかしら。一ヶ月の間隔では短すぎて、竜の魔術使い(ウィザード)の力が使えなくなるようなものが。私ね、それは身体面での問題だと考えているの」

「身体面？」

「ええ。おそらく、ヴォーダンは身体能力に関しては平凡よ。デビュー戦と第二戦目、ヴォーダンは二着と差のない辛勝だった。そのときの二着は、予選レースにも出られない平凡な竜よ。もし、ジュピターのように強靱な体躯を持っていたなら楽勝だったはず。仮に手を抜いていたと考慮しても、その理由はやっぱり身体的に無理がきかないから次戦のため温存したとしか考えられない」

　グレンは頷きながら話を聞く。ドラゴンレースに確定した勝利など、ありえない。絶対という言葉はない。戦略的思考なく酔狂で手を抜いていて勝てる世界ではないのだ。オーナーのマジュローは冷徹そうな男ではあったが、常軌を逸脱しているふうではなかった。真面目優等生なアウルが酔狂に付き合うとも思えない。

「これまで、ヴォーダンが出場したレースは短距離のみ。どれだけ高性能の魔力エンジンを持っているのかはデータが少なすぎて未知数だけれど、今回は二十キロメートルよ、最後まで保たなければ付け入る隙になるわ。ジュピターが勝負するなら、身体能力の差でヴォーダンに勝てるかもしれない」

　ジュナは勝ち気に笑む。今度はマリーが何度も頷いた。

「なるほどねぇ。身体的な問題を抱えているなら、レース出場間隔は、できるだけ空けたいわよねぇ。だからルーキーイヤーステークスから海竜賞まで、どこにも出なかったのねぇ」

「その通りです。予選レースから本番の海竜賞まで、夢見月賞(ゆめみつきしょう)からと考えても二ヶ月ないですから、ヴォーダン陣営はその間隔も嫌ったのでしょう。そう考えていくと、無理にルーキーイヤーステークスへ出場したのも頷けます。予選レースを回避するためには三歳で挑める唯一のグレード・ワンで優勝して、協会の推薦を得なければなりませんから」

　すらすらと言葉を並べていくジュナに、グレンも、マリーも頷いてばかりだった。彼女は一流の調教師だ。鬼のルクソールにも豪傑ザムにも認められた実力は凄まじい。味方に絶対的軍師が存在する頼もしさだろうか、美しいとさえいえる論理に希望と活力が漲(みなぎ)ってくる。

「今回、ジュピターの作戦は『二段式エンジン』よ。レース中盤までは群れの中にいてデヴィリッシュ・ゲイルをやり過ごす。終盤になったら体を動かすエンジンと魔力を生み出すエンジン、そのどちらかをフル回転させて群れを脱出。片方のエンジンが切れたら、もう片方のエンジンを回して飛行速度を維持しつつゴールを目指す。どちらのエンジンを先に始動させるかは状況を見てだから、ライダーに委ねるわ」

「わかった。俺の役目だな」

　グレンは二人へ、胸を張って剛毅に笑った。ヴォーダンの位置取りによっても臨機応変に対応しなければならないが、勝つための光明は見えた。完全無欠の強敵と思っていたヴォーダンに手が届きそうな感覚があった。

　けして沈まない陽はなく、また昇らない陽もない。完全など、ありえないのだ。

「ねぇ、グレン。ジュピターの体は、見た目は元通りよ。でも、急に肉を増やした負担は確実にあるの。無理はできないわ。気をつけてね」

　ジュナが心配そうに呟くのに、グレンは大きく頷いてみせた。

　そのとき、事務所の壁から衝突音が響いた。三人の身体が驚きで跳ねる。グレンは急いで、窓から外を確認した。飛ばされてきたのだろう、所々が欠けてボロボロになった木製椅子が転がっていた。グレンは眉をひそめ、それを見つめる。自分たちは勝利へ手をかけている。勝ち目も希望もある。なのに、どうして胸騒ぎがするのだろう。

　外では雨風が荒れ狂っていた。それは、まるで困難な旅路を暗示しているかのようで、グレンの心を掻き乱していった。