セトル・ゴッド・ノウズ 6
文字数 3,387文字
一歩、漆黒の竜が踏みしめるごとに、意識が飛んでしまいそうになる。グレンに進んでいる方向は分からなかった。残りの距離も覚えていなかった。アウルも、ヴォーダンの姿も見えなかった。しっかりと手綱を握れているのかも、相棒の背に乗っているのかも分からない。身体の感覚は、とうの昔になくなり、骨はとっくに砕けてしまったようで、痛みの限界を超え何も感じなくなっている。呼吸をしているか、どうかも怪しい。今、どこまで走ったのだろう。あと、どれくらいなのだろう。分からない。分からないこと、だらけだ。ただ、眼下に黒い影が見えているから。相棒が傍にいてくれていることだけは分かった。
現実味がない。自身が存在しているかも分からない。夢の中にいるようだ。本当は、とっくに気を失っているのかもしれない。視界に、ぼやりとグローブが浮かんできた。黒い稲妻が描かれているから、身に付けているものだろう。眼下の黒い影が躍動する度、ふるふると動いている。ふと、グローブが手綱を放そうとしているのが見えた。足が、あぶみから外れたがっている。失ってしまった感覚の中から脱力だけが浮き上がってきた。力を入れようにも、その感覚は失われている。
突然、この状況が辛いものだと脳が認識した。身体の痛みが蘇る。息ができなくて胸を掻きむしりたくなる。今すぐ楽になりたい。グローブが、また浮かんできた。そうか、これを放せばいいのか。そうしたら、楽になれるかもしれない。
『ねぇ、帰ってきたら、なにがしたい?』
誰かの声がした。帰る。どこへ。自分は、どこへ帰るというのか。声の主へ問いかけようにも、姿は見えないし見つけられない。
『約束する。絶対、帰ってくる』
別の声がした。自分の声に似ていた。約束。誰としたっけ。覚えていない。そもそも自分にできる約束なんて、あったのだろうか。
ぐい、と。夢想を漂う中で、いきなり手綱を引っ張られた。なんだ、と思って顔を上げる。前を向いた瞬間、シールドに、ぽつりと水滴が付いた。雨なんて降っていただろうか。水滴がやってきた、その先を見つめる。目を見開いた。そんなことが、あるのか。
水滴は漆黒の竜から来ていた。青い眼から生じた、それは衝撃に押され風に流され、グレンまで到達する。相棒は泣いていた。ハミ部分を強く噛んで堪えようとしながらも、我慢できなかった涙が目尻から溢れていた。グレンは息を呑む。竜が泣くところなんて、初めて見たからだ。
『お願いよ、グレン。ちゃんと帰ってきて』
さっきと同じ声が聞こえる。顔が思い浮かぶ。そうだ。自分は相棒と駆け抜け、帰るのだ。失わせてはならない。あの悲しみを他の者に与えてはならない。
グレンは叫んだ。叫びながら力を込めて、しっかりと手綱を握り締めた。漆黒の首を押し、共に駆ける。あと、何メートルでゴールかは分からない。必死に押す。自分には大切にしたいものがあって、帰りたい場所もあって、約束もしたのだから。
ふわり、風が吹き抜けた。グレンの視界へ黄金色が飛び込んできて、優雅に舞って追い抜き顔を向ける。空の青さを、そのまま流し込んだような瞳。均整の取れた素晴らしい肢体の、美しい竜。
「ゴルト」
驚愕のまま呟く。ジュピターも驚いた顔で前方を見つめていた。もしかしたら、同じものを見ているかもしれなかった。
ゴルトは口元を曲げ、挑戦的に青い瞳を輝かせる。追い抜けるものなら、やってみろ。かつての相棒が勝負を挑んでいる。
「ずいぶん余裕じゃないか。おまえの弟は速いんだぞ」
グレンは不敵に笑った。
弾き飛ばされないよう、力を入れて踏ん張る。姿勢を正す。ジュピターの動きに合わせて首を押す。手綱で翼の向きを調整して、大平原を疾走する。ジュピターが地面を抉るごとにゴルトへ近づいた。一歩、また近づく。尻尾へ追いついて、後ろ足を過ぎて、胴体を越え、鼻っ面が並び。ジュピターが豪然と地面を蹴り上げた。漆黒の体躯が、ぐんと伸び、頭一つだけゴルトより先へ行く。
急に決勝線のホログラムが浮かんできた。グレンとジュピターは、ゴールを駆け抜ける。ジュピターが飛び上がり、羽ばたいて減速していった。黄金色の竜は、もう、いない。グレンの意識が遠退き、身体が傾く。ジュピターは慌てて鳴くが抵抗敵わず、そのまま漆黒の体躯からずり落ちて。
純白の頭に身体を支えられていた。
「あ、危なかった」
アウルの声が聞こえる。ヴォーダンが身体を押し上げ、ジュピターの背へ戻してくれた。純白の竜は、礼をしろとでも言いたげに鼻を鳴らす。
「どっちが、勝ったんだ……?」
グレンは荒い息混じりに問いかけた。アウルはシールドを上げ、緑色の瞳を細める。
「なんだ、聞こえないのか? 仕方ない、ヘルメット取るよ」
アウルは身を一杯に乗り出し、グレンのヘルメットを取った。彼は笑顔で、それを手渡す。
吹き抜ける風がグレンの髪を揺らしていく。爽やかな風が痛みを和らげてくれるのに深く呼吸をして、耳を澄ませて。
「ジュピター! グレン! ジュピター! グレン!」
観衆が自分たちの名を叫んでいた。グレンは両目を、しっかりと開く。
「最後、頭一つ、かわされたよ。僕たちも頑張ったんだけどね」
アウルは微笑んで、ヴォーダンの首筋を撫でた。純白の竜は不満げに口元を曲げる。
「おまえに勝ったら満たされると思っていた。勝たないと前へ進めないと思っていた。けど、不思議だな。今、とても気分が良いんだ。よく、わかったよ。僕は強いグレンと大舞台で戦いたかっただけなんだ」
彼は満足そうに笑った。六年前と何一つ変わらない、親友の顔だった。
アウルは手を伸ばして、ジュピターの首を押した。漆黒の竜が観客席へ顔を向け、滑空を始める。
「行ってこいよ!神竜賞 を勝ったのは、おまえたちだ!」
アウルと純白の竜が離れていく。彼は手を振って見送っている。
グアグア、と、ジュピターが上機嫌で鳴いた。行こう、と語りかけているのだ。
「ああ、そうだな。行こう」
グレンは口元を綻ばせ、青いヘルメットを抱えたまま手綱を握った。
観客席まで近づいて、渦巻くような歓声に突き上げられる。グレンは傷だらけで上空で姿勢を保つのが、やっとだった。それでも精一杯の力強さで拳を突き上げた。グレンに合わせ、地上の人々も拳を突き出す。ジュピターが勇猛に吼えれば、人々は喜んで飛び跳ねた。
観衆の中から一際、熱い視線を感じた。自然とそれを追った目で、見知らぬ少年の顔と出会う。彼は大口を開け、きらきらと音が鳴りそうなほど煌めく瞳で、じっと見つめていた。グレンは彼だけに微笑み、拳を突き出してみせる。ぱぁっと少年の表情に花が咲いた。それは幼き日、ショーウィンドウに映り込んでいた自分の顔に似ているようだった。
あの日の神竜賞に、何を置いてきてしまったのか思い出せなかった。忘れ物があったような気がしているのに、何を探せばいいのか分からなかった。グレンは、きっと、ドラゴンライダーとしての誇りを探していたのだ。自分を憧れのまま見つめる幼い瞳に胸を張って応えられるだけの。相棒と一緒に、自信を持って戦えるだけの。
今、自分は、全てを取り戻したのだ。
グレンは観衆に応えながら手綱を操り、ジュピターを降下させて芝生へ着地させる。相棒の体から降りて地を踏みしめる。ヘルメットを脇で挟みグローブを外していた視界へ、飛び込んできたものがあった。自然と身体が反応して、ヘルメットとグローブを放り投げる。
黒いスーツを身につけて、しゃんとしているのに。神竜賞という最高の栄誉を手に入れた、凄腕の調教師だろうに。彼女は子どものように泣きじゃくっていた。
「ただいま」
思いきり抱きすくめて、グレンは呟く。本当の望みが、いきなり叶ってしまった。まさか夢であるまいな、と、何度も抱き締め直す。
「おかえり」
ジュナは涙声で応えてくれた。グレンの首へ回した腕に力を込めて、離れたくないと伝えてくるように。
彼女の体温に安心する。意識が遠くなる。グレンは心底から息を吐いて、そっと瞼を下ろした。
現実味がない。自身が存在しているかも分からない。夢の中にいるようだ。本当は、とっくに気を失っているのかもしれない。視界に、ぼやりとグローブが浮かんできた。黒い稲妻が描かれているから、身に付けているものだろう。眼下の黒い影が躍動する度、ふるふると動いている。ふと、グローブが手綱を放そうとしているのが見えた。足が、あぶみから外れたがっている。失ってしまった感覚の中から脱力だけが浮き上がってきた。力を入れようにも、その感覚は失われている。
突然、この状況が辛いものだと脳が認識した。身体の痛みが蘇る。息ができなくて胸を掻きむしりたくなる。今すぐ楽になりたい。グローブが、また浮かんできた。そうか、これを放せばいいのか。そうしたら、楽になれるかもしれない。
『ねぇ、帰ってきたら、なにがしたい?』
誰かの声がした。帰る。どこへ。自分は、どこへ帰るというのか。声の主へ問いかけようにも、姿は見えないし見つけられない。
『約束する。絶対、帰ってくる』
別の声がした。自分の声に似ていた。約束。誰としたっけ。覚えていない。そもそも自分にできる約束なんて、あったのだろうか。
ぐい、と。夢想を漂う中で、いきなり手綱を引っ張られた。なんだ、と思って顔を上げる。前を向いた瞬間、シールドに、ぽつりと水滴が付いた。雨なんて降っていただろうか。水滴がやってきた、その先を見つめる。目を見開いた。そんなことが、あるのか。
水滴は漆黒の竜から来ていた。青い眼から生じた、それは衝撃に押され風に流され、グレンまで到達する。相棒は泣いていた。ハミ部分を強く噛んで堪えようとしながらも、我慢できなかった涙が目尻から溢れていた。グレンは息を呑む。竜が泣くところなんて、初めて見たからだ。
『お願いよ、グレン。ちゃんと帰ってきて』
さっきと同じ声が聞こえる。顔が思い浮かぶ。そうだ。自分は相棒と駆け抜け、帰るのだ。失わせてはならない。あの悲しみを他の者に与えてはならない。
グレンは叫んだ。叫びながら力を込めて、しっかりと手綱を握り締めた。漆黒の首を押し、共に駆ける。あと、何メートルでゴールかは分からない。必死に押す。自分には大切にしたいものがあって、帰りたい場所もあって、約束もしたのだから。
ふわり、風が吹き抜けた。グレンの視界へ黄金色が飛び込んできて、優雅に舞って追い抜き顔を向ける。空の青さを、そのまま流し込んだような瞳。均整の取れた素晴らしい肢体の、美しい竜。
「ゴルト」
驚愕のまま呟く。ジュピターも驚いた顔で前方を見つめていた。もしかしたら、同じものを見ているかもしれなかった。
ゴルトは口元を曲げ、挑戦的に青い瞳を輝かせる。追い抜けるものなら、やってみろ。かつての相棒が勝負を挑んでいる。
「ずいぶん余裕じゃないか。おまえの弟は速いんだぞ」
グレンは不敵に笑った。
弾き飛ばされないよう、力を入れて踏ん張る。姿勢を正す。ジュピターの動きに合わせて首を押す。手綱で翼の向きを調整して、大平原を疾走する。ジュピターが地面を抉るごとにゴルトへ近づいた。一歩、また近づく。尻尾へ追いついて、後ろ足を過ぎて、胴体を越え、鼻っ面が並び。ジュピターが豪然と地面を蹴り上げた。漆黒の体躯が、ぐんと伸び、頭一つだけゴルトより先へ行く。
急に決勝線のホログラムが浮かんできた。グレンとジュピターは、ゴールを駆け抜ける。ジュピターが飛び上がり、羽ばたいて減速していった。黄金色の竜は、もう、いない。グレンの意識が遠退き、身体が傾く。ジュピターは慌てて鳴くが抵抗敵わず、そのまま漆黒の体躯からずり落ちて。
純白の頭に身体を支えられていた。
「あ、危なかった」
アウルの声が聞こえる。ヴォーダンが身体を押し上げ、ジュピターの背へ戻してくれた。純白の竜は、礼をしろとでも言いたげに鼻を鳴らす。
「どっちが、勝ったんだ……?」
グレンは荒い息混じりに問いかけた。アウルはシールドを上げ、緑色の瞳を細める。
「なんだ、聞こえないのか? 仕方ない、ヘルメット取るよ」
アウルは身を一杯に乗り出し、グレンのヘルメットを取った。彼は笑顔で、それを手渡す。
吹き抜ける風がグレンの髪を揺らしていく。爽やかな風が痛みを和らげてくれるのに深く呼吸をして、耳を澄ませて。
「ジュピター! グレン! ジュピター! グレン!」
観衆が自分たちの名を叫んでいた。グレンは両目を、しっかりと開く。
「最後、頭一つ、かわされたよ。僕たちも頑張ったんだけどね」
アウルは微笑んで、ヴォーダンの首筋を撫でた。純白の竜は不満げに口元を曲げる。
「おまえに勝ったら満たされると思っていた。勝たないと前へ進めないと思っていた。けど、不思議だな。今、とても気分が良いんだ。よく、わかったよ。僕は強いグレンと大舞台で戦いたかっただけなんだ」
彼は満足そうに笑った。六年前と何一つ変わらない、親友の顔だった。
アウルは手を伸ばして、ジュピターの首を押した。漆黒の竜が観客席へ顔を向け、滑空を始める。
「行ってこいよ!
アウルと純白の竜が離れていく。彼は手を振って見送っている。
グアグア、と、ジュピターが上機嫌で鳴いた。行こう、と語りかけているのだ。
「ああ、そうだな。行こう」
グレンは口元を綻ばせ、青いヘルメットを抱えたまま手綱を握った。
観客席まで近づいて、渦巻くような歓声に突き上げられる。グレンは傷だらけで上空で姿勢を保つのが、やっとだった。それでも精一杯の力強さで拳を突き上げた。グレンに合わせ、地上の人々も拳を突き出す。ジュピターが勇猛に吼えれば、人々は喜んで飛び跳ねた。
観衆の中から一際、熱い視線を感じた。自然とそれを追った目で、見知らぬ少年の顔と出会う。彼は大口を開け、きらきらと音が鳴りそうなほど煌めく瞳で、じっと見つめていた。グレンは彼だけに微笑み、拳を突き出してみせる。ぱぁっと少年の表情に花が咲いた。それは幼き日、ショーウィンドウに映り込んでいた自分の顔に似ているようだった。
あの日の神竜賞に、何を置いてきてしまったのか思い出せなかった。忘れ物があったような気がしているのに、何を探せばいいのか分からなかった。グレンは、きっと、ドラゴンライダーとしての誇りを探していたのだ。自分を憧れのまま見つめる幼い瞳に胸を張って応えられるだけの。相棒と一緒に、自信を持って戦えるだけの。
今、自分は、全てを取り戻したのだ。
グレンは観衆に応えながら手綱を操り、ジュピターを降下させて芝生へ着地させる。相棒の体から降りて地を踏みしめる。ヘルメットを脇で挟みグローブを外していた視界へ、飛び込んできたものがあった。自然と身体が反応して、ヘルメットとグローブを放り投げる。
黒いスーツを身につけて、しゃんとしているのに。神竜賞という最高の栄誉を手に入れた、凄腕の調教師だろうに。彼女は子どものように泣きじゃくっていた。
「ただいま」
思いきり抱きすくめて、グレンは呟く。本当の望みが、いきなり叶ってしまった。まさか夢であるまいな、と、何度も抱き締め直す。
「おかえり」
ジュナは涙声で応えてくれた。グレンの首へ回した腕に力を込めて、離れたくないと伝えてくるように。
彼女の体温に安心する。意識が遠くなる。グレンは心底から息を吐いて、そっと瞼を下ろした。