ロード・トゥ・クラウン 3

文字数 2,839文字

 レースは十八キロメートル地点を過ぎ、残り二キロメートルほど。前方に竜の影なく、追いつくのは難しい。ましてや勝ちなど、誰が願おうか。並の竜であればグレンは諦めていた。けれど、跨がっているのは伝説の竜の魔術使い(ウィザード)だ。逆転を狙わず、引き下がれるものか。

 驀進するジュピターは、あっという間に竜の群れへ追いつき、次々と追い抜かしていった。すれ違うライダーたちの視線がヘルメット越しに突き刺さる。彼らは驚き、困惑しただろう。漆黒の竜は一切、羽ばたいていないのだから。

 ジュピターは古代の力を持って生まれた。そして竜の魔術使い(ウィザード)もまた、古代の力と言われている。よくよく考えてみれば不自然なことではない。ジュピターにも、竜の魔術使い(ウィザード)としての素質があったのだ。ただ、何もしなければ竜の魔術使い(ウィザード)の力は発現しないものだった。もう一つの古代の力である、強靱な肉体で補えていたからだ。だから、ジュピターは己の肉体を削った。削りに削って、追い込んで、命を危機に曝して。漆黒の内で眠る魔力というエンジンを、強制的に起動させたのだ。グレンとジュナは、彼が挑まんとしているものに気づいた。本当に危険な状態になれば即、止めさせることを決めて、彼を信じて待った。その結果、ジュピターは竜の魔術使い(ウィザード)として覚醒したのである。

 同世代の猛者たちを、漆黒の竜が抜き去っていく。追いすがるもついていけず、竜とライダーたちは恨めしそうに見送る。レースは、残り一キロメートル。先頭を快速に任せて飛行する、紅紫色の竜を視界に捉えた。ラストスパート時、竜の飛行速度は時速百キロメートルにも及ぶ。エテルネルグランツがゴールするまで、四十秒足らずの猶予しか与えられない。一瞬の間違いが勝負を決する。

 漆黒の竜が瞳に青い光を滾らせて、更に加速した。紅紫色の竜を猛追する。気配を察知したのか、バルカイトが振り返った。彼の身体が、びくりと跳ねる。ベテランライダーは急いで前を向いた。レースは、残り五百メートル。ついに、グレンとジュピターは、バルカイトとエテルネルグランツの背に目前まで迫った。飛行速度はジュピターが上回っている。しかし、抜かすために進路を変えれば、ゴールまでに間に合わない。

 突然、グレンの脳裏で、ルーキーイヤーステークスの映像が再生された。世界がスローモーションで動く。アウルの手元が映し出され、それを、なぞるようにグレンの腕は手綱を引っ張っていた。漆黒の竜が肢体を捻る。横へ回転し、鋭く槍が射貫くような螺旋を描いて、グレンの視界は上下反転する。ジュピターとエテルネルグランツが背中合わせになった。バルカイトが上を、グレンの姿を見ている。緩徐(かんじょ)に流れる世界の中、刹那だけシールド越しに垣間見たヘーゼルの瞳は恐れと驚愕に塗れていた。

 バレルロールでかわした漆黒の竜は、紅紫色の竜より体一つ分、前へ出た。そのまま決勝線を飛び抜ける。ジュピターは最後の最後でエテルネルグランツを追い抜き、見事、優勝をもぎ取った。

「やったぞ!」

 グレンは歓喜の声を上げながら、喜びが満ちるまま相棒の首筋を叩いた。ジュピターが満足そうに勝利の咆吼を響かせる。竜の瞳から放たれていた青い光が少しずつ消えていく。あれだけ苦しんでいたのが嘘のように、漆黒の竜は力強く羽ばたいて滑空した。

 観客席へ近づく。人々は皆、何が起こったのか理解できないような顔をしている。無理もない。同世代に二頭の竜の魔術使い(ウィザード)がいたなんて、史上初の出来事なのだから。

「…………ジュピター!」

 唐突に、観客の一人が叫んだ。それを皮切りにして疎らに拍手が起こり、やがて大雨のような鳴りがレース場を包む。

「ジュピター! ジュピター!」

 幾人も叫んでいる。新たに生まれた傷だらけの英雄へ、賛辞を贈るように。

「おまえ、すっかり人気者だな」

 グレンは誇らしい心持ちで相棒の首筋を撫でた。ジュピターは上機嫌で、グァグァと鳴いている。

 声援を背に手綱を引き、コース出入り口付近へと進路を向けた。芝生の絨毯(じゅうたん)が敷かれたそこには、待ってくれている人がいる。漆黒の竜は人々の称える声を受けながら、地へ降り立った。グレンは相棒の背から退き、ヘルメットとグローブを外して解放感を味わう。

「ジュピター!」

 黒いスーツ姿のジュナが飛んできて、竜の首へ抱きついた。彼女の頬には涙で濡れた跡が幾筋も残っている。

「頑張ったね! すごい! すごいよ! やったね、ジュピター!」

 子どものように、はしゃぐジュナはジュピターの頭を抱き締めた。褒められて嬉しいのか柔らかな感触が好きなのか、ジュピターは目を細め口元を曲げ、人間が大笑いするのに似た表情を浮かべた。

 漆黒の竜は、ちらりとグレンを見やる。彼の口元が、より一層、見せつけるように曲がる。グレンは勘づいてしまった。ジュナに抱き締められて、いいだろう。憎らしい竜め、相棒であるグレンの密かな想いを知っていて自慢しているのだ。ぐぬぬ、と、嘆きにすらなれない呻きが口から漏れる。まあ、今回の勝利はジュピターの努力によるものだから、大人しく譲ってやるのが出来た相棒というもの。グレンは情けなく揺れ動く心を支えつつ、気にしない素振りで視線を他へやる。

 ジュピターに敗れた竜たちが、続々と飛来していた。ヘルメットを外すライダーたちの顔は一様にして暗い。ルーキーイヤーステークスで、グレンも味わった思いだ。同情してはならない。それは、懸命に戦った彼らを愚弄するものだ。

 紅紫色の竜が飛来してくるのが見えた。着地し、背から降りたバルカイトは竜を預け一人で歩み出す。ヘルメットを被ったままで彼の表情は分からない。話したいことが、あった。バルカイトの身体を気遣いたかったし、自分に夢を与えてくれた礼も言いたかった。だが、敗者である彼に、勝者となった自分が何を言えるのだろう。トップライダーの尊厳を守る術は、今のグレンになかった。

 バルカイトが無言でグレンを通り過ぎる。グレンは振り返り、彼の寂しげな背中を見つめる。あなたは憧れだ。いつまでも。どんなことが、あったって。そう、心の中で語りかけた。

「グレン」

 ジュナに呼びかけられ、グレンは振り向いた。見れば、そっくりで優しい青い瞳が、見守るかのように存在している。グレンは笑い返して、仲間たちの元へ歩んだ。

「俺たちはヴォーダンに勝つ。竜の魔術使い(ウィザード)を倒すのは、竜の魔術使い(ウィザード)だ」

 グレンは拳を二つ、それぞれへ突き出した。ジュナの小さな拳とジュピターの硬い額が、グレンのと合わさる。

 挑む権利は手に入れた。真っ向から交えられるだけの刃も。漆黒と純白の再戦は、海を制する戦いだ。
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