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文字数 3,316文字

 ようやく昼休みになった。先生が教室を出たと同時に、僕は机に倒れ込む。勉強が嫌いというわけじゃないけど、僕は皆より疲れる授業を受けている自負がある。
「ねえねえ、高村くん」
 という呼びかけから始まる、竹邉の質問攻めがすごいのだ。竹邉は勉強が大の苦手で、中間試験の結果も散々なものだった。最高得点が日本史の四十六点で、最低が世界史の二十九点だった。あと一問でも正解なら赤点をまぬがれたというのに。まあ、どんな教科でも竹邉にとって苦手なものには変わりない。
 数学の授業では、はなから解く気がないのか真っ先に答えを聞いてくる。ひどいときは十問中八問も僕は解き方と答えを教えているだろう。数学の飯田先生は生徒同士で教え合うことを大切にしているから、僕がいくら振り向いても怒られることはないけど。
 現代文の授業では、難しい単語があると背中をペンでつつかれる。辞書で意味を調べるという行為は選択肢にないらしい。古典の授業では、単語の意味とともに読み方を聞いてくる。でも古典の谷本先生は私語に厳しいから、背中をつつかれることは少ないかな。
 英語の授業では、黒板が見えなくて、と単語のつづりを聞いてくる。反抗するように「本当に見えないのか?」と尋ねると、「ならコンタクトでもしてるか確認します? これでわかります?」と顔をぐいっと近付けてきた。計算外の距離に思わず「わかるわけないだろ!」と大声を出してしまい、僕だけが先生に注意されたことはいまだ納得がいかない。
「高村、平子、待たせたな」
 後方の扉からミノリンが顔を出す。彼は隣のクラスの箕島(みのしま)といって、僕とは中学からの付き合いで、平子とは一年生からの友達だ。所属するバレー部で二年生の代表を務める、真面目で嘘をつかない頼れる存在である。あまり表情が変わらない鉄仮面だから、関わりがない連中にはミノリンを怖がっている人もいるみたいだけど、たまに抜けていたり鈍い面がある愛すべき男だ。
 僕達三人はいつも昼休みを中庭で過ごしている。教室の近くにある階段を降りるとすぐに中庭に出ることができる。中庭の入り口に自動販売機があり、その横のベンチが僕達の定位置だ。僕はいつもと同じ紙パックのりんごジュースを、ミノリンは無糖の缶コーヒーを買う。
「最近はどうなんだ?」
 おにぎりを食べていると、真剣な様子でミノリンが尋ねてきた。左手に菓子パンを右手にペンを持ってクロスワードを解いていた平子も、ミノリンの声に顔を上げる。
「どうって、なにが?」
 と返せば、
「竹邉さんのことだ」
 と当たり前のように言われた。
 僕に対する竹邉の言動は、もちろん平子によってミノリンに筒抜けになっている。しかしミノリンは平子と違い、他人事だからと笑ったりしない。
「進展はあったのか?」
 まあ、どういった内容で平子が話しているかわからないけど、いい伝わり方をしていないのは明らかだった。
 左斜め前の数メートル離れたところにもベンチがあり、そこには竹邉が座っている。稲葉さんと塩沢さんも一緒だ。真ん中に座る竹邉の携帯を三人で覗き込んで、キャッハウフフと楽しそうに話している。
 稲葉千春さんは僕達のクラスで学級委員を務めるしっかり者だ。竹邉と一緒にいると姉妹のようで、無邪気な妹と面倒見のいい姉といった感じだ。塩沢小糸(こいと)さんはミノリンのクラスメートで、竹邉の幼馴染である。話したことはないからどういう人かはよく知らないけど、竹邉といるのを見かけることが多い。ずっと喋っている竹邉の話に時折フフッと小さな笑みを浮かべたている。あと茶色がかった髪とか、右に流している前髪がなんだか大人っぽいなあと思う……思うだけだよ?
 ちなみに三人が座っているベンチの後ろは美術室で、その上は理科室だ。理科室では僕達の担任である窪木先生が亀や熱帯魚を飼っているから、いつもカーテンが閉められている。不惑の独身男なので、亀が恋人なんだろうな、と平子は思いきり馬鹿にしていた。
「竹邉ちゃんが話しかけてこないのは新鮮だよね」
「三人で楽しんでいるんだろう」
 ミノリンの言う通り、確かに竹邉は稲葉さん達と楽しそうに話している。携帯を見ながら唇をかみしめて笑っている。ああやって、笑うこともあるのか。僕の知らない表情だ。教室ではあんなにも構ってくるくせに、まるで僕のことなんて眼中にないみたいに。
「でもさ、こう、竹邉ちゃんも普通にしてたらいいのにね」
「竹邉の普通?」
「だって、こうして見るとわりと可愛いじゃん」
「平子は竹邉さんがタイプなのか?」
「あ、この距離だからか」
 なんて失礼なことを言って平子は豪快に笑い、左頬には笑窪ができた。でも、今朝の僕に同情したときとは打って変わって緩やかな笑みで、竹邉の方を見る目は妙に優しくて。普段の平子とはどこか違う気がして、なんだか勝手に焦りが湧いてくる。
「いいのか?」
 そんな平子を見ながらミノリンがまたも尋ねてくる。ミノリンが僕にどんな答えを求めているのかわからないけど、
「まあ、可愛いかもね」
 僕の口から無意識に、そんな気持ちがこぼれ落ちた。
「こ、この距離だったらね。丁度いいよ、このくらいの距離が!」
 ムキになっているように見えるのでは、と妙に恥ずかしくなる。いやいや、なんでムキになる必要があるんだ。僕はなにを焦っているのだろう。ミノリンは優しい笑みを浮かべ、平子はにやついていた。僕だけが置いて行かれていると感じ、おにぎりにすがった。
 そのあとは、拗ねた僕の機嫌を取るように平子が作った流れにより、三人でクロスワードを解いた。二年生になってからクロスワードを始めた平子は、意外にもクロスワードが苦手だった。趣味ないから作るわ、とコンビニで買ったクロスワードの雑誌にはまったのだが、ことわざや難しい言い回しに苦戦している。だから三人の知識を寄せ集め、僕とミノリンで携帯を駆使して言葉の意味を調べまくった。
 あと、平子のこだわりとして、答えを書くときは必ずボールペンを使用する。書き直せる鉛筆やシャーペンは使わないのだ。間違えたら終わりなのに。
 昼休みが終わる五分前になり、僕達は中庭を後にする。教室の前に着くと、ミノリンが教科書を貸してほしいと頼んできた。ミノリンは「教科書を忘れたんじゃない、時間割の変更を忘れていたんだ」と言う。なんの意地だろうか。廊下のロッカーにある教科書を渡すと、ミノリンはちゃんと礼を言ってから四組へ戻って行った。
 僕も教室に入ろうとすると、何故か平子が扉の前で突っ立っている。どうしたんだろうと思いその視線を追えば、すぐに理解できた。
 先に教室に戻っていた竹邉が、一番後ろの席であるのをいいことに、背面黒板にぴったりつくくらいに机ごと後ろに下がっていた。そのせいで僕と竹邉の席の距離は一メートルほど空いている。冷静に考える。なんで?
 まあ、冷静に考えたところで竹邉の思考を理解できるわけがない。
「授業始まるから机戻しなよ」
 僕は席に座って振り向いた。手招きをするも、嫌ですと言わんばかりに首を横に振られてしまう。駄目だ、こうなった竹邉はどうすることもできない。僕は諦めて前を向いた。小声で「いいのかよ」と平子が聞いてきたが、首を振られては僕にはどうにも。
 机がこのままでも問題はないだろうけど、周りはどうしたんだと思うはずだ。僕が驚いたくらいだしね。でも、机が離れていて困るのは僕じゃない。解き方を尋ねる相手がいない竹邉の方だ。五時間目は化学で担当は窪木先生だから、この異変にもすぐ気付くはずだ。こんなに席が離れていれば、例えペンを使っても僕の背中に手は届かないだろう。
 予鈴が鳴る。そろそろ窪木先生が来てしまう。
 僕は小さくため息を吐いた。そして立ち上がり、竹邉の机の前に立つ。竹邉は頬杖をつきながら、きょとんとした顔で僕を見上げてくる。
「授業、始まっちゃうから」
 僕は竹邉の机を引き、元の位置へ戻した。そして席に座り、再び振り向く。机がすぐそこにある。これで、ペンを使わなくても届くはずだ。驚いている様子の竹邉に、僕はもう一度手招きをする。柔らかな笑顔とともに、竹邉が戻ってきた。
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