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文字数 5,901文字

 期末試験を二週間後に控え、そろそろ六月も終わりそうな蒸し暑い初夏のこと。
 登校するやいなや平子と竹邉に捕まり、理科室へ連れてこられた。中に入れば塩沢さんと稲葉さんが待っていた。平子が稲葉さんの向かいの椅子に座るから、僕は塩沢さんの向かいに腰を下ろした。机を挟んではいるが、塩沢さんとは中庭に呼び出された日から一週間振りだから、顔を合わすのが気恥ずかしくも気まずくもある。まあ、頬杖をついてあくびをかみ殺しているあたり、向こうはそんなことなさそうだけど。
 竹邉は僕と塩沢さんの間の、いわゆる誕生日席で仁王立ちしている。さて、今からなにを始めようというのだ。どうせ平子はすでに内容を知っていて、僕だけが仲間外れなのだろう。ならば聞いた方が早い。
「朝から事件でも起きたわけ?」
 僕の問いに竹邉はコホンとわざとらしく咳をひとつ。そして稲葉さんにアイコンタクトした。まさか、事件の中心人物が稲葉さんだったとは。
「実は高村君達に相談があるの」
 緊張の面持ちで稲葉さんは続ける。
「一年生の頃からずっと箕島君のことが気になってて、その、せめて、と、友達になれたらいいなあと思ってて」
「ちょっと千春ちゃん、そんな弱気じゃ駄目で」「咲記は黙ってろ」
 塩沢さんが竹邉の口を強引に手で塞ぐ。
「えっと、稲葉さんはミノリンと友達になりたいってこと? なんだ、早く言ってくれればよかったのに」
「え、高村読解力なさすぎ」
 引くわー、と言って平子が目を細めて見てくる。どうして引かれなきゃいけない。だって稲葉さんが言ったんだぞ、ミノリンと友達になりたいって。読解力がないなんて平子は失礼なやつだ。そう思った僕は同意を求めて竹邉を見たが、あの竹邉ですら呆れた顔でこちらを見ていた。歪な笑み。竹邉にそんな反応をされた衝撃が思いのほか強くて焦る。
「千春、はっきり言った方がいいよ」
 塩沢さんの冷たい視線はいつものことなので慣れている。でも平子と塩沢さんの視線はどこか似ていて、しかも僕を子どものように扱っている。「あのね、高村君」と優しい声色で話しかけてくれる稲葉さんだけは、僕に対して真剣に向き合ってくれていた。
「私、箕島君のことが好きなの」
 稲葉さんは両手で顔を覆うが、耳まで真っ赤に染まっていた。
 これは朝から事件だ。いや、事件というのは物騒すぎる。春だ、春が来ているのだ。これだよ兄貴、春が来るっていうのはさあ。
「そういうことなので、高村くんと平子刑事に協力を要請します」
 仁王立ちしている竹邉は何故か偉そうだ。警視総監気取りなんだろう。でも話は理解した。つまり、ミノリンと友達以上になりたいのだろう? 稲葉さんのためにひと肌脱ごうじゃないか。
 かくして「頑張れ稲葉ちゃんミノリンにお近付こう大作戦」が始まった。ちなみに作戦の名付け親は悪徳刑事である。
「協力っていっても、なにすればいいのかな?」
 朝のホームルームで窪木先生の話を聞かずに考えたけど、一体なにをすれば稲葉さんの力になれるだろう。一時間目の古典の準備をしながら平子に尋ねてみると、
「わっかんない」
 名付け親のくせに作戦を練っていなかった。
「ちょ、しっかりしてよ。バレないようにこっそりなにかするの得意でしょ?」
「俺のイメージどうなってんの」
「ごめん、言葉のあや」
「ただの失言じゃん。ていうか、バレないようにする必要もないでしょ。別に悪いことしようってわけじゃないんだし」
 確かにそれは一理ある。ようは俺達は恋のキューピッドなわけよ、と笑窪を浮かべながら平子は続けた。僕はキューピッドをイメージして、弓を引く真似をする。すると、ロッカーに教科書を取りに行っていた竹邉と稲葉さんが、後ろの扉から教室に入ってきた。竹邉は僕をじっと見ると「ケンタウロスか!」と救いにならないツッコミを入れてくる。自分で穴を掘るから、誰か上から砂をかけて僕を埋めてほしい。
 でも、今のイメージは結構よかったかもしれない。恥と引き換えにヒントを得ることができた気がする。僕は勝手に探偵になったつもりでいた。人の恋に協力するという経験を今までしたことがないせいで、僕は無意識の内にお近付き大作戦を諜報機関の極秘ミッションに位置付けていたのだ。流石は人の恋の噂を広めたり収集しては笑っている男、平子刑事の考えは僕より何十倍も落ち着いている。そうか、僕は優秀な私立探偵でもジェームズ・ボンドでもなく、キューピッドなのか。
「稲葉さん、絶対に命中させてみせるから、一緒に頑張ろうね」
「あ、ありがとう?」
 ふわりと微笑む稲葉さんの横で、竹邉は唇を尖らせた。命中させるってなんですか、私も一緒に頑張りますよ、と呟いている。竹邉も一緒に頑張ろうな、と声をかければ、ヒマワリみたいにパッと笑顔が咲いた。
「高村、現代文の教科書貸してくれないか」
 高らかにキューピッド宣言をすれば、渦中のミノリンが現れた。狙ったかのようなグッドなタイミングだ。早速キューピッドの出番か、と思わず稲葉さんをちらと見る。しかし突然のミノリンの登場に、稲葉さんは教科書を抱きしめ固まってしまっていた。
「ミノリンって自分のクラスの時間割知らないの?」
 平子がけらけらと笑う。
「知ってるぞ。今日は現代文と古典を間違えただけだ」
「ミノリンはロッカーに教科書置いて帰らないもんね。平子と違って真面目に家で勉強するから」
「はあ? 俺だって教科書持って帰る派なんだけど」
「平子刑事と箕島くんを一緒にするのはどうかと思います」
「竹邉ちゃんは俺の成績超えてからなにか言いなよ」
「不毛な争いはやめろって……ミノリン、現代文でいいんだよね?」
「あー、そういえばー、高村の現代文のきょーかしょー、俺が借りてるままー、家に忘れてきちゃったー、みたいー」
 平子が急にそんなことを口にした。なんて棒読みなんだ。いやいや、僕は平子に現代文の教科書なんて貸していない。僕は置いて帰る派だからロッカーの中にある。いくらミノリンの忘れ物が多いからって意地悪なことを言うなあ。
「ちょっと待っててミノ」リン、ロッカーにあるから。
 と続けようとしたが、平子の手で強引に口を塞がれた。
「ねえ稲葉ちゃん、よかったらミノリンに教科書、貸してあげてくれない?」
 キューピッド平子が引いた白羽の矢が刺さる。
 少しずつ緊張が解けてきたのか、稲葉さんは力強く頷き、「ちょっと待っててね」と再び廊下に出て行った。素直なミノリンはそれについて行く。二人が廊下に出たところで、やっと平子は手を退けてくれた。
「やっぱり読解力ないよね。高村、俺達は誰だ?」
「…………キューピッドだ!」
 今、平子はまさしくキューピッドの役割を全うした。一瞬だけ平子の背中には羽が、頭上には天使の輪が見えた。辞書で調べたら例に出てきそうなほどのキューピッドだった。紛うことなきキューピッドだった。なるほど、キューピッドはさりげなくアシストするのが役目なのか。なかなか奥が深い。
 ちなみに今のは作戦一、共有作戦だ。名付け親はやはり平子である。ただ教科書を貸しただけでどんな命名だよ。稲葉さんは教科書を渡すだけで手が震えており、すぐ目の前にいるミノリンと目を合わすのもやっとだったのに。
 だが、一時間目が終わってすぐに教科書を返しに来たミノリンに話を聞けば、稲葉さんを怖がらせてしまったかもしれない、と鉄仮面のまま心配を寄せていた。どうやらなかなか目を合わせてもらえなかったことが気になるらしい。心配を拭えぬままミノリンは稲葉さんの元へ行き、短いものの二人で会話をしていた。稲葉さんは首を横に振り、必死でなにかを否定している。それにミノリンがまたなにか言い、稲葉さんは安心したような笑みを返していた。
 平子の思惑通りかわからないけど、共有作戦の効果は大いにあったらしい。余談だが、「渡すにせよ渡されるにせよ、物を共有しているという事実が大事なんです」と竹邉が熱弁していた。だからって僕は髪の毛なんて渡したくない。
 この調子でどんどん作戦を実行していこう。
 作戦二、お好み作戦。要はミノリンを好きなもので釣るというものだ。今回はミノリンが好きな無糖の缶コーヒーを、間違えて買ってしまった体で渡すことになっている。放課後に僕達が試験勉強しているところに稲葉さんがやって来るという流れだ。場所は平子と竹邉が窪木先生に頼んで理科室を使えることになった。これで邪魔は入らない。
 の、だが。稲葉さんが様子を窺ってばかりでなかなか来てくれないので、僕と平子は一瞬だけ席を外すことにした。
「早く渡しなよー。せっかく冷たいの買ったんだから」
 平子が意地悪く言う。
「千春のペースでいいだろうが」
「そうですよぉ、いいだろうがぁ」
 どうして塩沢さんと竹邉もいるのだろう、という疑問はひとまず横に置いておこう。稲葉さんは小さく唸り缶コーヒーをぎゅっと握りしめる。そして理科室に入ろうとしては引き返し、廊下をうろうろと歩き出す。理科室を覗き込むと、ミノリンは一人真面目に試験勉強に取り組んでいた。僕達だっていつまでも席を外しているわけにいかない。
「稲葉さん、ここはもう僕達と一緒に理」科室に入ろうか。
「ずっと握ってたら稲葉ちゃんのせいでホットになっちゃうよ、それ」
 キューピッドとして初めての僕の発言を遮り、平子はつまらなさそうに缶コーヒーを顎で指す。どうしてそんな強引な態度しか取れないのだこの悪徳刑事は。心配になり稲葉さんをちらと見れば、耳を赤くしながら「冷たい方がいいよね、夏だもん」と呟いた。言葉で背中を押してくる平子に感化されたらしい。稲葉さんは小さく深呼吸して意気込むと、理科室への一歩を踏み出した。
 箕島君、と呼ぶ声は緊張のせいでか細いけど、確かなぬくもりがある。
 なんだよ、それ。アイスをホットにするほどの熱、だと? その熱って世の中のどの熱よりも熱いものじゃないか。その熱が嫌いな男はいないだろう。そうやって温められたものなら、僕だってぬるいりんごジュースでもなんでも飲むよ。
 作戦三、試験勉強作戦。その名の通りの内容だ。とにかく稲葉さんとミノリンに交流してもらうことに重点を置いたもの。お好み作戦がきっかけとなり、一緒に試験勉強をしようとミノリンから誘ったのを利用したのだ。どうせならと竹邉と塩沢さんも誘い、六人で理科室で勉強をすることになった。
 けど、真面目なミノリンとしっかり者の稲葉さんだから、ただ試験勉強をするだけで早くも三日が経ってしまった。期末試験まであと十日をきっている。同じ空間にいられる口実も試験までだし、そもそも試験が終われば夏休みに入ってしまう。ミノリンの夏休みは確実に部活漬けだから、試験までに稲葉さんの想いを成就させたいというのが我々キューピッドチームの考えだ。まさか最もシンプルな試験勉強作戦に苦しめられるとは。
 この状況を危惧した平子が知恵を振り絞り、僕達はミノリン達を二人きりにさせる作戦を実行することにした。これは作戦四にあたる。それぞれがうまい言い訳をして理科室での勉強会から抜け出した。僕は、兄貴に教えてもらうことになったからと。平子は、俺そもそも成績悪くないしと。竹邉は、手遅れなので飯田先生に数学を教えてもらいますと。塩沢さんは、ヤマを張ると。
 こうしてミノリンと稲葉さんを二人きりにしてからまた三日が経ち、いよいよ期末試験が来週に迫っていた。
 試験前のせいか授業は自習が続き、普段より激しい竹邉の質問攻めから解放された休み時間。癒しを求めてりんごジュースを買いに自動販売機に行くとミノリンに出くわした。ふとミノリンの手元を見れば、いつもの無糖の缶コーヒーと、何故かミルクティーを持っている。中学からの友達だけど、ミノリンが甘いものを持っているのはすごく新鮮だ。
「どうしたの、それ?」
「稲葉に差し入れをしようと思ってな」
 ついミルクティーをじっと見てしまう。稲葉さんへの差し入れとな。目は口ほどにものを言うらしく、この間コーヒーを貰ったからな、とミノリンが答えてくれた。きっとお好み作戦で渡した缶コーヒーのことだろう。ああ、なるほど、ミルクティーは稲葉さんの好みなのね。
 それから、バレーボールが恋しいとか駅前に味噌ラーメン屋ができたとか、そんな他愛もない話をしていると、ミノリンが稲葉さんの話を始めた。微糖のコーヒーですら苦いと感じる甘党だけど、イチゴに練乳をつけるのはイチゴ本来の甘さに対する冒涜だから許せないこと。オムライスはハヤシライスソースよりケチャップをかける方が好きで、シチューはルーをご飯にかけて食べる派だということ。しっかりしているから勉強もできそうだけど、現代文の作者の気持ちを読み取る問題は深読みしすぎてしまうから苦手なこと。
 六人で勉強をしていたときは教え合うくらいしか言葉を交わしていなかったのに、いざ二人きりになれば、なんだ、ずいぶんと楽しそうにしているじゃないか。
「よかったよ、仲よくしてるみたいで。怖がられてるかもって心配してたのに」
「よくわからんが、稲葉は緊張していたらしい。今は普通に話ができるから、俺も嬉しい」
 中学からバレーボール一筋のミノリンからそんな言葉が出てくるなんて。僕達の作戦が見事に作用している証拠だ。キューピッドとして誇らしい。
「高村も竹邉さんに差し入れたらどうだ?」
「なにを?」
「バナナオレだ」
 そう言ってミノリンは紙パックの自動販売機を指さした。この安っぽくていかにも作りものみたいなバナナの味が癖になるらしいぞ、と情報を足してくる。
「あー、うん。今度してみるよ」
 歯切れの悪い僕に、竹邉さん喜ぶと思うぞ、と後押ししてくる。適当に頷くと、ミノリンは満足そうに先に教室へ戻って行く。ミルクティーを稲葉さんに渡すのだろう。それを見て竹邉と平子はどんな反応をするだろう。二人のことだから温かい目で遠くから見守ることだろう。稲葉さんは嬉しさのあまり、ミノリンの顔をまともに見れないだろう。
 はあ、ごめん、今のは全て適当だ。正直、今の僕には稲葉さんとミノリンのことはどうでもいい。全てが「だろう」で終わっている時点で察しはついたと思うけど。
 自動販売機の横にある、いつものベンチに思わず座り込む。そして頭を抱える。 
 どうして、どうして竹邉の好みを、ミノリンが知っているんだ。元から知っているのを装って返事をしたけど、うまく笑って答えられただろうか。自信がない。そりゃあ歯切れも悪くなる。竹邉がバナナオレ好きだったなんて、僕、知らなかったんだけど。
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