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文字数 3,460文字

 中間試験が終わり、五月も下旬を迎えた。
 解き忘れた数学の宿題をするため、いつもより早く登校し、あくびをかみ殺しながら静かな廊下を歩いていた。校内に生徒はまだ少なく、なんだか無機質だ。でも、運動部のかけ声や吹奏楽部の演奏が聞こえてくるのが心地いい。朝から元気だなあと年寄り染みたことを思っていたらまたあくびが漏れた。
 二年三組の前に着き、恒例となった深呼吸をする。教室に入るだけでこんなにも緊張するようになったのはいつからだろう。誰のせいだろう。僕の席は廊下側から三列目、後ろからは二番目に位置する。だから教室後方の扉から入る方が席が近い。開いている扉から教室を覗き込めば、朝の挨拶よりも先にため息が出た。
 何故かというと、
「ずるいぞ、椅子め。高村くんのお尻に堂々と触れやがって」
 いつも僕が座っている椅子を撫でながら、ぶつぶつと文句を言ってしゃがみ込むみ竹邉の姿を確認できてしまったからだ。まだ教室に人が少ないからって怪しいことはしないでくれ。
「おはよう、竹邉」
 僕はしゃがむ背中に挨拶をした。するとその肩が小さく跳ねる。竹邉は肩を震わせながらゆっくり立ち上がり、振り向くと、
「おはようございます、高村くん!」
 それはまあ満面の笑みを返してきた。
 そして何事もなかったかのように自分の、つまり僕の後ろの席へ座る。あまりの変わり身の早さに、文句や疑問を呈することができない。喉まで出ていた言葉をゆっくり呑み込んで、僕も椅子に座る。もう、すっかり慣れた流れだった。
「大丈夫、まだ逮捕の段階じゃないから」
 後ろからの熱視線を浴びながら数学のワークを開くと、右隣の席の平子から明るい声で励まされた。平子は名前が恵司(けいじ)なので「刑事」というあだ名がある。だからよく逮捕だの捜査だのと警察に絡めたことを言っては楽しんでおり、そのあだ名を非常に気に入っている。
 平子刑事が発した大丈夫という言葉に、僕は机に伏して頭をかきむしる。ならば逮捕する段階はいつになったら訪れるのだ。不審な動きをしている時点で状況証拠は充分だし、叩けば埃のごとく余罪が出てくるに違いない。いや、確実に出る。
「捜査が足りないんじゃないの?」
「いやあ、俺もまだまだ新米なもので」
 平子の乾いた笑い声に顔を上げる。平子は笑うと左頬にだけ笑窪ができるけど、今はそれがとても憎らしい。
 僕達は去年もクラスが同じだった。他人事を他人事だとしっかり割りきれる平子の薄情な性格には頭を悩まされたこともあるけど、今年も同じクラスになれて嬉しく思う。五十音の出席番号で並ぶこの席順では、平子は僕の右隣の席になるのだ。平子がいてくれて本当によかった。だって僕一人じゃ太刀打ちできないだろうから。
「そういえば高村くん、昨日の晩ご飯はロールキャベツでしたよね。高村くんはコンソメ派ですか? それともトマト煮込み派ですか?」
 ぐしゃぐしゃになった僕の髪を整えながら、まるで犬派か猫派かを聞くくらいの平然とした態度で尋ねてきた。先に言っておくが、竹邉は我が家に晩ご飯を食べに来てなどいないし、晩ご飯がロールキャベツだと教えてもいない。
「ちょっと竹邉ちゃん、盗聴は控えなさいって言ったでしょうが」
 またも茶化す声がかけられる。さも僕の味方のような発言をする平子だが、その表情にはとてもじゃないが真剣さは見られない。刑事は刑事でも、平子は裏でこそこそ動く悪徳刑事だと思う。裏社会に通じている情報屋を個人で雇っているタイプのね。
「控えましたよ。数、減らしましたもん」
 後ろから聞こえる真剣な回答と、右から聞こえる面白がっているだけの笑い声。この状況になにか言葉を差すのも億劫になり、再び机に伏して小さく唸った。
 そうなのだ、竹邉は僕の日々を盗聴しているのだ。
 僕に対して竹邉は盗聴器を仕掛けている。今みたく、竹邉が知る由もない我が家の晩ご飯について聞いてきたことで、五日前に事件は発覚した。その日の晩ご飯はグラタンで、マカロニかパンかスパゲッティのどのグラタンだったかを聞いてきたのだ。果たして僕の日々はいつから筒抜けになっていたかを考えると恐ろしく、呑気に過ごしていた自分が情けなくなった。
 事件が発覚したときに、僕がいつも通学に使っているリュックの奥底に小さめのを一つ発見したが、こうしてまた筒抜けになっている。だから僕が折れたのだ。実害も出ていないから諦めたのだ。念のため、また後でリュックを確認しておこうかな。仕掛け始めたのは二年生になってからだよ、と本人が言っていたので、それだけは強く信じようと思う。
 体をゆっくり起こすと、竹邉の手が頭から離れていく。チクッとした痛みを感じた。僕はそのまま振り向き、
「我が家のロールキャベツはコンソメ派だよ」
 質問に答えつつ、そっと左手を差し出した。
 僕の手をじっと見た竹邉が、頭上にクエスチョンマークを浮かべたのがわかる。だがすぐに理解してくれたらしく、何故かあの日のような照れた笑みでこちらを見てくる。そして僕の手にゆっくりと、自分の手を重ねてきた。
「高村くん、ついに私と結婚を前提にしたお付き合いを」
「違うから。人の髪の毛ってね、抜いちゃいけないんだよ」
 勘違いも甚だしいことを言うその手を思わず叩いた。すると竹邉は唇を尖らせて、生意気にも不満げな顔を浮かべる。おもちゃを取り上げられた子どもみたいだ。誰がこのタイミングで求婚するか。こんなタイミングでする奴があるか。
「もう、そろそろ私と結婚する意思が固まったんじゃないですか?」
「なんで意思がある前提なんだよ」
「ないとは一度も言ってないですし」
「竹邉ちゃんも懲りないよね。毎日のようにさあ」
 呆れた口調で平子が僕に同情を寄せる。笑窪ができているから信用はできない。
「冗談はよしてください平子刑事」
「それ僕のセリフ」
「毎日のようにって、ちゃんと毎日言ってますから!」
「あら、ごめん。捜査が甘かったみたい」
 ハハハと二人は顔を見合わせて笑う。それに小さな苛立ちを覚え、わざとらしくため息を漏らしてみる。なにが面白いんだ。
 二人の笑い声を背にワークを解き進めていると、後ろから「あ、抜け駆けしてる」と覗き込まれた。耳元で突然声がしたから驚いた、顔がちょっと近くて。竹邉は早くも調子を取り戻したらしく、どうせなら一緒にやりましょうよ、と背中をちょんちょんとついてくる。僕は振り向いて竹邉の机にワークを置き、椅子の背もたれに肘をかけた。
 自惚れているみたいだけど、僕は竹邉咲記に愛されている、と思う。よくも悪くも。
 けど、僕の理想は「静かに恋人をする」ことだ。一生一緒にいようだなんて大袈裟な言葉とか約束はいらなくて、今度一緒に駅前のラーメンでも食べに行こうか、と笑って過ごす方が性に合っていると思う。恋愛ドラマや映画を見ていると意味もなくそわそわしちゃうくらいだし、べたべたするのは恥ずかしいじゃないか。
 それに、言わせてもらうなら、主導権は僕が握りたい。これだけは譲れない点だ。リードされるよりもする方が、なんかかっこいいだろう? 平子には「いらねえプライドだなあ」と笑われたけど。でも元はと言えば僕は告白された側で、つまり返事をする側である。しかも、竹邉が隠しておきたかったであろう盗聴器の存在だって知っている。状況のみを考えれば主導権は僕が握っているはずなんだ。なのに端から見れば、積極的に行動を起こす竹邉が主導権を握っているだろう。実際、僕もそんな気がしているから嫌なんだ。
 それに、僕は恋愛経験がないから、そういったことへの免疫がない。だから素直な竹邉を羨ましく思うことだってあるし、同時にその素直さに胃もたれしているのも事実だ。すぐに好きだと言い過ぎだと思う。これでは好きの株価も大暴落だ、株わからないけど。
 それに、正直なところ、竹邉は当てはまらないのだ。物静かで、大人っぽい雰囲気で、欲を言えば綺麗めな感じ、という僕の理想にだ。だって竹邉は、唇を結んだままフフッと口角を上げて笑うんじゃなくて、ちらっと前歯が見えるふにゃっとした笑顔だから。どちらかというと可愛い感じだし。明るくて元気な子どもっぽいところもよさだけどね。
 まあ、つまりだ。竹邉との関係は、僕の様々な理想と大きくかけ離れている。
「高村くん、高村くん、この解き方で合ってますか?」
「合ってるけど計算ミスしてるよ。ほら、ここ」
 でも、今まで誰かからこんなにも愛を捧げられたことはないから、そんなに悪い気はしていない。
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