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文字数 2,375文字

 高校二年生になった始業式の放課後、僕は後ろの席の女子生徒から、びっしりと埋め尽くされた履歴書を渡された。
 目を閉じて考える。
 うちの学校は始業式の日から授業があるから、今はもう夕方だ。帰ろうとしたときに後ろから声をかけられ、振り向くとほのかに頬を赤く染めた彼女がいた。話があると言われ、僕はなにかを期待した。放課後に夕暮れの教室で二人きりという、状況的にはとてもくるものがあったのだ。そりゃあ誰だって期待するだろう?
 そして目を開ける。
 やはり僕の手にあるのは履歴書だった。言葉にできない驚きと疑問で思わず彼女を見るが、照れたような笑みを浮かべるだけで、きゅっと結んだ口を開いてくれそうにない。ふと目が合えば逸らされて、でもチラチラとこちらを窺ってくる。視線がくすぐったい。全身を羽根で撫でられているみたいだ。
 はっきり言って、怪しくもある。だって履歴書だぞ? 高校生から高校生に渡すすものじゃあないだろう? だが無言のままの彼女と見つめ合っている状況だ。深く考えたら負けだと思った僕は、軽い気持ちで腹をくくった。履歴書を渡される機会もそう多くはないので、せっかくだしバイトの面接をする店長の気分で目を通すことにした。
 氏名:竹邉咲記(たけべさき)。八月二十日生まれ。写真を貼る場所には、目の前にいる彼女が浮かべるものと同じ柔らかい笑みがある。効果音をつけるなら「ふにゃっ」という音が鳴りそうで、笑うと垂れる目元が柔らかさを引き立てた。その表情で竹邉さんはこちらを見てくる。黒い髪は低い位置で二つに結ばれ、窓から吹き込む風で微かに揺れている。履歴書に関して疑問は残るが、竹邉さんに対して「穏やかそうな子だなあ」という印象を受けた。それでいて向けられている視線は真っすぐで力強い。チラチラと見られるより数倍も気になって、なんだか身体が熱くなっていく。
 平常心を取り戻すため、わざとらしく咳を一つ。
 気を取り直して履歴書の続きを読もうとした。が、僕の目はぴたりと止まる。ご丁寧に、現住所と連絡先が書かれていたからだ。それぞれの欄には異なる住所が書かれている。現住所の方が竹邉さんの家だとして、連絡先の方は誰の住所だ。親戚とか? え、許可とったの? やめてくれよ。加えて電話番号もきっちりと、市外局番から始まる家の番号と、おそらく竹邉さんの携帯に繋がる番号の両方が書かれている。
 今日初めて話したやつにこんな個人情報を教えて大丈夫……なわけがない。どうかしている。僕には他人の個人情報を悪用する趣味はないけど、相手によっては危険すぎる行為だぞこれは。こんなことはやめた方がいいと、注意するように眉をひそめ訴えてみるが、むしろ顎で履歴書を指されてしまう。続きを読めと催促されたのだ。話しかけたところでなにも解決はしないと思ったので、とりあえず次の欄に進もう。
 学歴・職歴の欄はもはや本来の意味をなしていなかった。学校名や会社名を書くスペースの全ての行には、僕に関するエピソードが書かれているのだ。なんだよこれ。それに伴って日付けは「一年生/○○月○○日」となっている。つまり、僕は初対面の女の子から、数多くの自分のエピソードを話されている、という状況に立たされている。なんだよこれ。
 しかし恐ろしいのはこの状況だけでなく、ここに書かれたエピソードが事実ということだ。例えば「一年生/七月五日」を見てみよう。この日の僕は「昼休み、中庭の自動販売機に千円札を入れるが戻ってきてしまう、を三回繰り返していた。結局、飲み物を買うことはできなかった」とある。このことはなんとなく覚えている。確かこの日は財布を忘れ、緊急用に定期入れに忍ばせていた千円札しか持っていなかったのだ。恥ずかしいところを見られた上に、思い出してしまって恥ずかしさが倍になる。書くにせよもっといいエピソードを選抜してほしかった。
 動揺を隠して最後まで読み進める。特に資格は持っておらず、趣味は「栞を作ること」とある。へえ、なんだか可愛らしい趣味だなあ。でも、通勤の所要時間欄には「飛び込む準備はできています」と力強く書かれていて、やっぱりなんだかおかしい。一体どこに飛び込むつもりなんだ。どこでもいいけど無事を祈る。
 そして最後には、志望動機が記されていた。
【あなたの笑顔の理由になりたいです】
 この一文だけがあった。
「えっと……これは、どういう?」
 おそるおそる投げた問いに、彼女は僕の目を見て、
「高村くんが大好きです」
 と言ったのだ。もちろんラブの方で、とつけ加えて。
 予想しなかった返事に呆然とする僕には目もくれず、恥ずかしっ、と竹邉さんは両手で顔を覆う。そして指の隙間からこちらを見てくる。
 生まれて初めての告白に、僕の心臓は過去サイコーに高鳴っている。それは緊張であり興奮であり、ちょっとした恐怖も含まれている。この履歴書はどうすればいい? 竹邉さんをどうすればいい? 面接をしている店長の気分で読むものではなかった。僕には彼女を採用する勇気はない。少し照れてしまったのは事実だけども。
 だからと言って竹邉さんの気持ちを無下にすることもできない。何故なら竹邉さんとは今日からクラスメート、しかも「高村」と「竹邉」だから席は前後なのだ。逃げ場は、完全に途絶えている。
「と、とりあえず、友達から、お願いします」
 自分でもわかるくらいに震えた声が情けない。そんな僕の返事を笑わず、竹邉さんはまた笑顔を浮かべた。ふにゃっとしていてしまりがなく、でも頬は微かに赤い。夕日が差し込んで教室が杏色に照らされていても、それくらい僕でもわかる。
 そんな笑顔を浮かべた彼女を、素敵だと思ってしまった。その笑顔が僕の胸から離れない、離れそうにない。この笑顔の理由が自分である事実が、僕を一瞬で満たしたのだ。
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