接触
文字数 2,835文字
結論から言うと交渉決裂の日の夜は、特に何事も起きなかった。
人々は内心、安堵のため息を吐くと共に、いつ始まるかが全く読めない状況に、疲労感も感じていた。
「開戦のタイミングを完全に相手に握られているのは辛いな」
一晩中楼台の上で過ごしたレイライムは、妹の入れてくれた気付け成分の含まれたハーブティーを一口のみ、机の上に広げられたままになっている地図を見て言った。
地図の上にはアスティーナが見た範囲で、天幕の位置などが書き込まれている。
状況としては、グルップルのカザード側の全てを相手に抑えられている。
簡単に言えば街の西側に半円状に陣をひかれている状況だということになる。
東側は海に面しており、逃げるには適さないし、南側から脱出を図るとしても、敵の陣の1部に捕捉されるのは目に見えている。
つまり逃げることはほぼ不可能に近い。
かといっていつ戦闘が開始されるか解らないまま、ジリジリと日々を過ごす丁選択肢は悪手でしか無いといえる。
農耕も盛んな地域とは言え、農地のある郊外に向かうということは、敵陣に接近するということに等しく、それは万が一のことを考えるとあまりおすすめできない行為になる。
すなわち、一時的とはいえども農作業を止めることになる。
そしてもう一つの重要な収入源である、貿易と物流。
こちらも街道に近いエリアを相手に抑えられている以上、かなり動きが制限されることになるし、帝国側と事を構えている町に、わざわざ来ようとするような酔狂な商人はいないだろう。
また戦闘に不慣れな民間人は、いつ戦闘が始まるか解らない緊張感の中で、時間を過ごすことに対して弱いと言わざるをえない。
日が過ぎれば過ぎるほどに、感じている緊張がストレスとなり、下手をすればなんとか押さえ込んでいる不満を爆発させることになってしまう。
「じゃあ、軽く陽動を仕掛けてみるっていうのはどう?」
地図をにらみつけて、ずっと唸っているレイライムを見かねたアスティーナが口を開く。
「もし今夜も相手に動きがなかったら、私と少数で相手の天幕に火を付けに行ってみるわ。そうすれば相手さんも何か動きを見せるんじゃない?」
「しかしそれはかなり危険じゃないか。相手だって馬鹿じゃない、見張りを立てたりしているだろう」
「私が雑兵に後れを取るとでも?大丈夫よささっと火を付けてすぐに逃げるから」
自信満々でそういうアスティーナに対して、有効な打開策を持ち合わせていないレイライムは、最終的にはその作戦を承諾した。
-----------------------------------------------------
「ハンス達はここで待機していて、もし敵の哨戒兵に遭遇したら3人で1人を相手にすること、いいわね」
テキパキと指示を出して、自身は腰の袋から着火石 を取り出す。
着火石とは火打ち石よりも大きな火花を出す石で、値段は明らかに火打ち石より高価だが、容易に火種を作ることが出来るため、傭兵や軍で重宝されている石である。
今回も素早く火を付けることが求められるため、アスティーナは着火石の中でも特に品質の高い者を持参していた。
試しに自分の剣の刃の部分に勢いよく着火石をたたきつけると、火打ち石とは比べものにならないほどの大きな火花が散る。
全ての確認作業が終わると、アスティーナはあらかじめ決められたハンドサインでそれぞれの動きの指示を出し、自らは姿勢を低くして、少し先に薄らと見える天幕へと近寄っていく。
ほんの少しの時間で見事に天幕に接近すると、アスティーナは手早く着火石を叩き、用意していた付け木に火を付けて、それを天幕の布に押しつける。
雨対策のために油をしみこませてある天幕は、あっさりと炎に包まれる。
それを3カ所ほど繰り返した頃、異変に気がついた兵達が集まってくるのが見える。
「いたぞ、あそこだ!あの女だ!」
夜とは言え、赤々と燃える炎が近くにあるため、アスティーナの姿は容易に相手に発見された。
「あらら……仕方ないわねぇ」
ちっとも仕方ないと言った感じではないつぶやきを言いながら、アスティーナは腰の両側に吊り下げていた剣を、勢いよく鞘から抜き放って、両手にもって構える。
(こっちは引き受けたから、あんたらも上手くやってよね)
潜ませたままにしてある仲間に祈る様な気持ちでそう考えながら、アスティーナは迫ってきた兵士達の方へと大きく踏み込んでいく。
(軽鎧の兵士が4人、少し遅れて3人。なんとかなりそうね)
先頭にいた兵が手に持った槍を構えて、情けない声で叫ぶ
その様子を見て、それほど練度が高くないことを見抜くと、彼女は少しも躊躇 うことなく兵の懐へ踏み込んでいき、間合いを詰められたせいで対応できなくなって慌てる兵士の鎧の隙間に右手の剣を突き立てる。
ズブリという鈍い感触、抵抗感があるけれどもけして堅くはないものに剣が突き刺さる感触を手に感じながらすかさず、近寄ってきていた別の兵士の剣を持った右手を切り上げる。
悲鳴とも叫びともとれない奇妙な声を上げながら、兵士は切られた右腕の断面をもう片方の手で押さえながら地面の上でのたうち回る。
そうしている間に、突き刺していた剣を兵士から抜き、自分に向かって斬りかかろうとしていた兵士の長剣を刀身で受け止める。
キンッと金属同士がぶつかり合う多角澄んだ音が響き渡る中、アスティーナは切り結んだままで身動きがとれなくなっていた兵士の腹部を狙って、左手の剣を突き刺す。
まさに瞬きをしている間、とでも言いたくなるほどの短時間で3人の兵士が無力化されたのを見て、他の兵士達は、アスティーナを遠巻きに取り囲んだまま、間合いを詰めることなく対峙している。
そんなことをしている間に、騒ぎに気がついた他の兵士達が駆けつけてくるのは火を見るより明らかだなと考えて、アスティーナは逃げるべきという判断を下す。
このまま戦って、兵士達に後れを取ることはないと思うが、数の暴力には抗しがたいのも事実。
そこは戦闘中であっても、場数を踏んでいるアスティーナは冷静だった。
(当初の目的は達成した、ここでひいても何の差し障りもない)
アスティーナは左手の剣を素早く鞘に戻すと、指を丸めて軽く唇で咥えて、指笛で合図を鳴らす。
ピィーという甲高い音が辺りに響き渡る。
この合図は撤収の合図だとあらかじめ徹底しているから、みなも引き上げるはず。
アスティーナは素早く周囲を見て、あっさりときびすを返してその場からの離脱を行った。
最初追いかけようかと逡巡していた兵達も、一瞬で3人を倒したアスティーナの武勇に尻込みをしてしまい、結局彼女を追いかけてくる者はいなかった。
(初戦は頂と言ったところね。このままこちらのペースに出来れば良いんだけどね)
全力で疾走しながらアスティーナは思った。
しかし事態がそう容易く、思い通りに逝かないであろう事は、直感が告げていた。
人々は内心、安堵のため息を吐くと共に、いつ始まるかが全く読めない状況に、疲労感も感じていた。
「開戦のタイミングを完全に相手に握られているのは辛いな」
一晩中楼台の上で過ごしたレイライムは、妹の入れてくれた気付け成分の含まれたハーブティーを一口のみ、机の上に広げられたままになっている地図を見て言った。
地図の上にはアスティーナが見た範囲で、天幕の位置などが書き込まれている。
状況としては、グルップルのカザード側の全てを相手に抑えられている。
簡単に言えば街の西側に半円状に陣をひかれている状況だということになる。
東側は海に面しており、逃げるには適さないし、南側から脱出を図るとしても、敵の陣の1部に捕捉されるのは目に見えている。
つまり逃げることはほぼ不可能に近い。
かといっていつ戦闘が開始されるか解らないまま、ジリジリと日々を過ごす丁選択肢は悪手でしか無いといえる。
農耕も盛んな地域とは言え、農地のある郊外に向かうということは、敵陣に接近するということに等しく、それは万が一のことを考えるとあまりおすすめできない行為になる。
すなわち、一時的とはいえども農作業を止めることになる。
そしてもう一つの重要な収入源である、貿易と物流。
こちらも街道に近いエリアを相手に抑えられている以上、かなり動きが制限されることになるし、帝国側と事を構えている町に、わざわざ来ようとするような酔狂な商人はいないだろう。
また戦闘に不慣れな民間人は、いつ戦闘が始まるか解らない緊張感の中で、時間を過ごすことに対して弱いと言わざるをえない。
日が過ぎれば過ぎるほどに、感じている緊張がストレスとなり、下手をすればなんとか押さえ込んでいる不満を爆発させることになってしまう。
「じゃあ、軽く陽動を仕掛けてみるっていうのはどう?」
地図をにらみつけて、ずっと唸っているレイライムを見かねたアスティーナが口を開く。
「もし今夜も相手に動きがなかったら、私と少数で相手の天幕に火を付けに行ってみるわ。そうすれば相手さんも何か動きを見せるんじゃない?」
「しかしそれはかなり危険じゃないか。相手だって馬鹿じゃない、見張りを立てたりしているだろう」
「私が雑兵に後れを取るとでも?大丈夫よささっと火を付けてすぐに逃げるから」
自信満々でそういうアスティーナに対して、有効な打開策を持ち合わせていないレイライムは、最終的にはその作戦を承諾した。
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「ハンス達はここで待機していて、もし敵の哨戒兵に遭遇したら3人で1人を相手にすること、いいわね」
テキパキと指示を出して、自身は腰の袋から
着火石とは火打ち石よりも大きな火花を出す石で、値段は明らかに火打ち石より高価だが、容易に火種を作ることが出来るため、傭兵や軍で重宝されている石である。
今回も素早く火を付けることが求められるため、アスティーナは着火石の中でも特に品質の高い者を持参していた。
試しに自分の剣の刃の部分に勢いよく着火石をたたきつけると、火打ち石とは比べものにならないほどの大きな火花が散る。
全ての確認作業が終わると、アスティーナはあらかじめ決められたハンドサインでそれぞれの動きの指示を出し、自らは姿勢を低くして、少し先に薄らと見える天幕へと近寄っていく。
ほんの少しの時間で見事に天幕に接近すると、アスティーナは手早く着火石を叩き、用意していた付け木に火を付けて、それを天幕の布に押しつける。
雨対策のために油をしみこませてある天幕は、あっさりと炎に包まれる。
それを3カ所ほど繰り返した頃、異変に気がついた兵達が集まってくるのが見える。
「いたぞ、あそこだ!あの女だ!」
夜とは言え、赤々と燃える炎が近くにあるため、アスティーナの姿は容易に相手に発見された。
「あらら……仕方ないわねぇ」
ちっとも仕方ないと言った感じではないつぶやきを言いながら、アスティーナは腰の両側に吊り下げていた剣を、勢いよく鞘から抜き放って、両手にもって構える。
(こっちは引き受けたから、あんたらも上手くやってよね)
潜ませたままにしてある仲間に祈る様な気持ちでそう考えながら、アスティーナは迫ってきた兵士達の方へと大きく踏み込んでいく。
(軽鎧の兵士が4人、少し遅れて3人。なんとかなりそうね)
先頭にいた兵が手に持った槍を構えて、情けない声で叫ぶ
その様子を見て、それほど練度が高くないことを見抜くと、彼女は少しも
ズブリという鈍い感触、抵抗感があるけれどもけして堅くはないものに剣が突き刺さる感触を手に感じながらすかさず、近寄ってきていた別の兵士の剣を持った右手を切り上げる。
悲鳴とも叫びともとれない奇妙な声を上げながら、兵士は切られた右腕の断面をもう片方の手で押さえながら地面の上でのたうち回る。
そうしている間に、突き刺していた剣を兵士から抜き、自分に向かって斬りかかろうとしていた兵士の長剣を刀身で受け止める。
キンッと金属同士がぶつかり合う多角澄んだ音が響き渡る中、アスティーナは切り結んだままで身動きがとれなくなっていた兵士の腹部を狙って、左手の剣を突き刺す。
まさに瞬きをしている間、とでも言いたくなるほどの短時間で3人の兵士が無力化されたのを見て、他の兵士達は、アスティーナを遠巻きに取り囲んだまま、間合いを詰めることなく対峙している。
そんなことをしている間に、騒ぎに気がついた他の兵士達が駆けつけてくるのは火を見るより明らかだなと考えて、アスティーナは逃げるべきという判断を下す。
このまま戦って、兵士達に後れを取ることはないと思うが、数の暴力には抗しがたいのも事実。
そこは戦闘中であっても、場数を踏んでいるアスティーナは冷静だった。
(当初の目的は達成した、ここでひいても何の差し障りもない)
アスティーナは左手の剣を素早く鞘に戻すと、指を丸めて軽く唇で咥えて、指笛で合図を鳴らす。
ピィーという甲高い音が辺りに響き渡る。
この合図は撤収の合図だとあらかじめ徹底しているから、みなも引き上げるはず。
アスティーナは素早く周囲を見て、あっさりときびすを返してその場からの離脱を行った。
最初追いかけようかと逡巡していた兵達も、一瞬で3人を倒したアスティーナの武勇に尻込みをしてしまい、結局彼女を追いかけてくる者はいなかった。
(初戦は頂と言ったところね。このままこちらのペースに出来れば良いんだけどね)
全力で疾走しながらアスティーナは思った。
しかし事態がそう容易く、思い通りに逝かないであろう事は、直感が告げていた。