第6話 カールの不安

文字数 2,532文字

 秋から冬へ変わる時節。
 レイ・カヅラキは再び職を失い、市内へ戻っていた。
 主人とアレフからは、そのまま農場に残ってほしいと頼まれたのだが、有難く思いながらも断った。農場の仕事は嫌いではないが、工房でのことを思えば、いずれ何らかの形で迷惑をかけるであろうし、アレフとは良好な間柄のまま別れたいと思ったのだ。
 何よりも、久々に絵筆を握りたい衝動に駆られていた。
 しかし、いざ市内へ戻ってみるとそれどころではなかった。まず寝泊りする場所が見つからない。画材の値上がりがえげつない。食べ物も入手がままならない。
 サキアスの都市部は好景気に湧き、経済面ではインフレーションが加速していた。一方で、持つものと持たざる者との間の格差もさらに拡大して行く。
 ようやく見つけた下宿先は、入居まで二か月待ちと言われ、それまでの間、公園近くの森の中で野宿することにした。結局、日銭を稼ぎながら、その日をしのぐだけの生活が続き、絵筆を握るどころではなくなった。
 やることがないため毎日のように、町を歩いた。
 毎度の尾行者の影は、さほど気にならないが、逆に気の毒にすら思えた。
 ときどき組合事務所へ立ち寄り、掲示板を眺めたり、工房の仕事を探すふりをした。たとえ目ぼしい情報があっても応募する気などないのではあるが。
 エレーナはそんな彼を二、三度見かけた。

 首都庁舎内―
 その頃、カール・クラウジニウスは慌ただしい日々を送っていた。
 外遊中の市長に代わって執務をこなしていたのである。
 市長は、彼を臨時の副市長に任命すると、自身は悠々と娘の留学先を含む外遊先へと旅立った。
「なにせ人材不足でな。君しか任せられる者がおらん。土産は期待しておけ。では頼んだ!」
 何としても市長の期待に応たい。彼はその一心である。
 商業も工業、貿易も好調で、喫緊の大きな課題はとくにない。だが、膨大な書類の山は減らず、会議から戻ると倍になっていることもあった。部屋に(こも)り、書類に目を通しているうちに日が暮れてゆく。
 とにかく、人材がいない。業務執行上の課題を身をもって知る、よい機会であった、と考えるべきであろうか。
 ぐったりしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「市長より手紙です。それから、インダステリアからも副市長宛に一通届いています」
「ご苦労」
 先に市長からの手紙に目を通した。簡単な状況報告と激励の言葉、最後に、年明けにソフィーを連れて帰国する旨が書かれていた。
 それだけで心が踊る。
 ソフィーとは一度、社交の場で挨拶を交わしただけだ。市長の奥様は社交界でも美人で有名であったが、ソフィーもそれに劣らぬ美貌の持ち主で、一目で恋に落ちたのだ。すでに再会が待ち遠しい。思わず笑みがこぼれた。
 ささやかな幸福にひたりつつ、もう一つのメールを手に取った。
「これは?」
 普通のメールではない。これは軍関係のルートで送られてきたもので、機密に触れる可能性がある。
 数か月前、軍関係の知人に調査を依頼したが、最初の報告がこれであった。なお、これは速報であり、全容はあらためて送付する、とある。
 彼が依頼したのは、蕃人(ばんじん)の諜報活動状況とヤシマに関するあらゆる情報の入手であった。そのために手付金として大金を渡し済だ。
 報告によれば、この一、二年、彼らの活動が捕捉された事例が増加傾向にあり、とくに西方諸国で活発化しているという。その真の目的は不明だが、要人への接触や、軍関係者から情報を引き出すために広範囲に渡って工作を行っているようだ。それから具体的事例がつらつらと続く。
「まさか、これほど活発であったとは… 」
 一つ一つ見てゆくと、サキアスに関係するケースが出てきた。サキアスに駐屯している傭兵組織に関する報告である。
「…においては、蕃人側機関との間で、密かに何らかの情報交換が行われている可能性を示唆するものである、だと!」
 思わず机を叩いた。
 不安と怒りが(あふ)れてくる。
 細かく書かれた一字一句を漏らさぬように目を通した。すると、最後のページに、ようやくヤシマに関する記述が出てきた。
「少なくとも、この二年の間に、ヤシマの活動が捕捉されたことはない。なお、現在確認されているヤシマのエージェントと思しき人物はインダステリアに四十二名、ペイザール王国に七名、自由都市サキアスに二名…」
 カールはレイのことを思い出した。
「彼の他にもいたのか…」
 ベルを鳴らした。すぐに補佐官が現れた。
「明日の朝の予定をすべてキャンセルしてくれ。憲兵本部へ行く」
「かしこまりました」
 それにしてもヤシマの捉えどころのなさは流石だと思った。
 他の機関の活動はかなり捕捉されている。にもかかわらず、ヤシマだけまったく痕跡を残さない。それとも諜報は管轄外なのか。
「いや、それはない。目的もなくエージェントを()る必要はない。しかし…」
 あの、レイ・カヅラキはエージェントと言えるのか。実質は留学生ではないか。それとも、やはり巧妙な偽装なのか。いや、そうではないだろう。偽装だとすればあまりに杜撰(ずさん)すぎる。思いつく解釈のどれもが成り立たない。
 報告書の最後にヤシマに関する彼らの見解がまとめられていた。
 ヤシマとは、蕃人民族の守護を目的として、およそ三百年前に創設された傭兵集団を起源とする軍事組織である。その後、変遷を遂げつつ、およそ百二十年前に現在の組織形態が固まり、以後、現在におよぶまで、その理念、運営形態に変化は認められない。
 しかしながら、その実態はほとんどが不明で、以下は情報の分析結果を踏まえた憶測に基づく内容となる。
 ヤシマは仮想国家である。
 蕃人諸国から選抜された貴族らが運営し、家ごとに職責や権限が定められている。代表的な名跡は次のとおり…。
「カヅラキ家は、組織創設時から存在している最古参の一つで、参謀本部の役割を担い、先の大戦においては、優れた作戦を立案、遂行し、西方諸国連合軍に多大なる損害を与えた、最も注意すべき名跡である…」
 カールは肩にずっしりとした重みを感じた。
「レイ・カヅラキ… 」
 何とかして彼を、あわよくば拘束し、ヤシマの実態を聞き出したい。
 サキアスを守るためには、それが最善だ。
 との結論に至った。
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