第1話 蕃人

文字数 1,953文字

 工房の外に出たとき、すっかり日は暮れて、三日月の(ほの)かな光が降りていた。
 レイ・カヅラキは無職になった。十七のとき、画家を志し、周囲の反対を押し切って故郷を離れ、自由都市サキアスへ来た。それから二年半になる。幾度か運よく工房の仕事にあり付けたが、どれも長くは続かなかった。この工房は今年の春に入所したが、夏が始まる前にクビである。
 今や無職の宿(やど)なし。
 手曳(てび)きの荷台にある全財産は、画材と道具、書籍や資料など。だが、もう使うことはないだろう。
 うら寂しい街路の中、馴染みの宿の、一階の飯屋に入った。
 店主のサムは四十代の陽気な男である。レイがこの町に来てすぐに知り会い、以来、何かと気にかけてくれる。入口に突っ立っていると陽気に声をかけてくれた。
「手が空くまで、座って待っていてくれ」
 レイは一番奥にある半テーブルの席に着いた。荷物の中の本を取り出し、読みかけのページを開いた。数ページ進んだ頃、ようやくサムが来てくれた。
「今日はいい肉があるぜ」
「お金がないので。ええと、パンと水をください」
「…」
 サムの反応が芳しくない。
「肉料理を。ただし、お金の代わりにこれで」
 と言って荷物を指さした。
 サムの顔が曇る。
「お前、また首になったのか」
「才能のない者は淘汰される。それだけのことですから」
「…」
「すみません。お金なら少しはあります。パンをください」
「わかった。片付くまで、くつろいでいてくれ」
 サムは仕事に戻った。だいぶ時間が経ち、客もまばらになった頃、ようやく料理が運ばれてきた。レイはあいかわらず本を読んでいた。
「待たせて悪かったな」
 サムは料理を次々にテーブルへ並べた。大変な量である。
「一緒に晩飯だ。好きなだけ食え!」
 サムはビールをがぶがぶと音を立てながら飲む。感情の(おも)くままに、自由に振る舞うのがサムの流儀であった。
 レイは静かにフォークを口元へ運ぶ。この不遇な青年には、妙な落ち着きと品があり、育ちの良さが窺える。とはいえ、常に金欠であった。以前にその理由を尋ねたところ、実家からの仕送りはなく、仕事も不安定であり、たまの収入のほとんどを画材や資料へつぎ込んでしまうため、手元に残らないらしい。少し余裕が出たときは本を買い、読み終えるとすぐに売るのだという。
 サムの感覚では、一年のうち、半分は無職だ。職がない間は野宿するのが当たり前。画家になるという夢がある、とはいえ、つらい境遇に違いない。
 であるにもかかわらず、悲壮感がないのである。
「お前は変わってるよな」
「そうかな。ああ、でも僕は蕃人(ばんじん)だからね」
「…」
 サムは息を詰まらせた。そういう意味で言ったのではなかったのだ。
 蕃人とは、特定の民族の蔑称であった。
 この大陸では長きに渡り、大きな民族的対立がある。東の蕃人族と西方諸国と、である。
 基本的に、発展した西に比べ、東は貧しく、ただでさえ優劣の意識が芽生えやすい上、千年を超える対立の歴史がある。
蕃人とは、言うまでもなく野蛮人(やばんじん)の意味で、それが民族の呼称として定着していること自体、極めて不健全なことであるのだが、ここ西方圏でそれを気にする者はいない。なぜなら、先の戦争において数々の蛮行(ばんこう)を見たからだ。それに対する憎悪と嫌悪感が今も根強く残っている。
 蕃人には外見の特徴がある。黒い髪と黒い瞳である。この組み合わせは蕃人にしか存在しない。西方諸国の民族は、栗毛、赤毛、金髪がほとんであり、黒い髪は極めてめずらしい。もし黒髪の子が生まれたら髪を染めるのがあたりまえにすらなっている。
 レイの外観はまさにそれであった。
 当然サムも気付いていたが、それを話題にしたことはない。何ら生産的な話にはならないからだ。
 サムはあからさまに話題を()らした。
「それで、これからどうするんだ? 夢をあきらめて故郷へ帰るのか?」
「いいえ。()は終わりにしようかと…。ただし、何か別の仕事を見つけてここに留まろうと思います。無理なら、もっと西へ行きたいと思います」
「…」
 西へゆくほど差別意識は高まる。それなのに、なぜ。
「できるなら、西の大地の果ての、さらにその向こうへ。海を超えて、幻の大陸へ行ってみたいものです。ま、叶わぬ夢ですけどね」
「へえー。幻の大陸ね…」 
 サムがフォークを大きな肉片へぶっ刺す。
「お前がそこまで冒険好きだったとはな。だが、そろそろ現実に向きわないと行き詰まっちまうぞ。とりあえず今は、食うことに集中した方が幸せってもんだ。ちゃんと肉を食え。うまいぞ」
 サムは大きな肉片を口へ放り込んだ。
 レイはフォークを置き、水を少し飲んだ。
「僕は、ただ、この世がどうなっているのか、この目で見たいんですよ。人から聞いた話は、基本、信じませんので」
 そう淡々と言いながら、ただの水を味わっている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み