第9話 苦汁
文字数 2,293文字
その夜―。
カールは憲兵隊の屯所 の一室に居た。
インダステリアからの報告書を読んで以来、一日おきに足を運んでいる。
憲兵隊を使い、傭兵団と蕃人 の動向を探っている。何とかして両者の接点を見つけたいのだが、今のところ成果は挙がっていない。
差し入れられたコーヒーを一口啜 った。
「蕃人のスパイ活動がこれほど活発な理由は何だろうな?」
「噂ならば聞いたことがあります」
「どんな噂かね?」
「復讐ですな。やつらは戦争で失った領土を奪還すべく、時間をかけて虎視眈々と陰謀をめぐらしている。そういう話は以前からあります」
「まあ、ありそうな話だが、今起きている事象には、もっと確固とした目的があるように思われるのだが… 」
「そうですな。まあ、蕃人だけでなく、西方も活発にやっとりますな。ブラフもそうとうに掴まされておるようです」
などと話していると、新たな報告が舞い込んだ。
「レイ・カヅラキは、ただの留学生ではありません」
レイを尾行していた憲兵であった。
この日起きた出来事を知ると、カールの表情が険しくなった。
「カヅラキは今どこにいる? 」
「カーライル通りの陸橋の下で雨宿りをしています。拘束するならチャンスです」
直ちに命令を出したい、との衝動が走った。だが、そうもゆかない。
「いや、それはできない」
何しろ武官待遇なのだ。チンピラの金を盗んだからと言って無暗に拘束はできない。しかもレイが盗んだという確証はない。あくまで店主と尾行者の憶測なのである。
だが、悠長なことはしていられない。
「明日、私が直接、彼に面会する。誰か、先回りして留め置くようにしてくれ。くれぐれも穏便にな」
そこへ別の報告が入った。
「副市長代理殿!」
「なんだ」
「枢密卿 より命令が届いております」
室内が一瞬で凍り付いた。そんなことは数年に一度あるかどうかのことだ。
「枢密卿だと? なんの命令だ?」
「ヤシマ国籍レイ・カヅラキへの一切の接触を禁ず。監視対象より除外せしこと。とありまして…」
これで憲兵隊は即時撤退となった。
カールだけが事態を飲み込み切れずにいる。長官に説明を求めた。
「文面のとおりです。憲兵隊は誰一人として動かせません。外交問題が絡んでいますので、たとえ市長のご命令でも…」
枢密卿。自由都市サキアスの真の支配者たち。実状は謎。その権力は神聖にして絶対とされる。
「クソッ!」
カールは机を叩いた。
ついさっきまであんなにも協力的だった隊員たちが、たった一本の伝令で、潮が曳くように遠ざかっていった。
やがて部屋には彼一人となった。
「…何が起きた?。」
まだ何も始まっていない。何も分かっていない。寒気と薄気味悪さで眩暈 がしそうだ。
市長の言葉が脳裏に響いた。
「この国の真実を知れば誰もが腰をぬかす」
早く市長の顔を見たい、ソフィーと会いたい。そう強く思った。
翌朝―。
昨夜の雨はあがり、森には薄い靄 がかかっていた。
レイはいつものようにボロを纏い、右わきに本を一冊かかえて歩いていた。
公園前の路地の先に人影が見える。
近づくと、一人の背の高い男であった。
ベレー帽を被り、しゃれたデザインのロングコートをまとっている。昨日の女に続いて、またしても場違いなものに遭遇したと思った。
レイは一瞥 もせず、通り過ぎようとした。
「待て」
男は進路を遮るように立ちはだかった。
「お恵みでも?」
「レイ・カヅラキだな?」
「あなたは? 確か…」
「ほう、俺を知っているとはな」
「名前は知りませんが、顔だけは覚えています。いつだったか、工房に来てましたね?」
「そのとおりだ」
男は近寄って右手を差し出した。
「カール・クラウジニウスだ。しがない役人さ。よろしく」
レイが躊躇 していると、カールが手を取り、半ば強引に握手を交わした。
「女のような、やさしい手だ」
「それはどうも」
レイが歩き始めようとしたところへ、質問が浴びせられた。
「ヤシマとは何だ? この国で何を企てようとしている? 頼む、教えてくれ!」
レイはカールを見た。必死であることは分かる。それ以上のことは分からない。
「そうですね…」
レイは頭を掻いた。埃がぱらぱらと落ちた。
「ヤシマは僕の故郷です。普通に家族が暮らしていますよ…」
もう一つの問いには何と答えればよいのか見当もつかない。
「企て? ですか? ハハ。物騒なお話ですね。僕はただ、画が上手くなりたいから、ここへ来たんですよ」
「そんな話は信じられない。蕃 …君たちは奪われた領土を取り返すために、画策しているのではないのか? このサキアスを我々から奪おうとしているのではないのか? 」
カールが詰め寄った。両者の間合いはごくわずかしかない。
レイは首筋を掻いた。
「仮にですが」
「…」
「ヤシマがそんな馬鹿げたことを企んでいるとしたならば」
「…」
「僕はサキアスを守るためにヤシマと戦いますよ」
「…」
ふざけている、とカールは思った。
こんな子供になめられている…。
「馬鹿にするな! お前に、サキアスを守る理由など、ありはしない!」
「理由ならありますよ」
「なに?」
「この国には大切な友人がいますから。こんな僕を憐れんでくれる本当の友人がね。彼らの生活が壊されるようなことがあったら困りますから。きっと、あなたには、わかりますよね?」
「…」
「では、約束があるんで…」
レイは去った。
カールの体から力が抜け、膝から崩れた。
「友人だと…? 画が上手くなりたいだけだと…? 守ってやるだと…? それじゃ、まるで、俺が、ただの馬鹿みたいじゃないか…」
地面を叩いてみたところで痛みは感じない。ただ虚しさが募るだけであった。
カールは憲兵隊の
インダステリアからの報告書を読んで以来、一日おきに足を運んでいる。
憲兵隊を使い、傭兵団と
差し入れられたコーヒーを
「蕃人のスパイ活動がこれほど活発な理由は何だろうな?」
「噂ならば聞いたことがあります」
「どんな噂かね?」
「復讐ですな。やつらは戦争で失った領土を奪還すべく、時間をかけて虎視眈々と陰謀をめぐらしている。そういう話は以前からあります」
「まあ、ありそうな話だが、今起きている事象には、もっと確固とした目的があるように思われるのだが… 」
「そうですな。まあ、蕃人だけでなく、西方も活発にやっとりますな。ブラフもそうとうに掴まされておるようです」
などと話していると、新たな報告が舞い込んだ。
「レイ・カヅラキは、ただの留学生ではありません」
レイを尾行していた憲兵であった。
この日起きた出来事を知ると、カールの表情が険しくなった。
「カヅラキは今どこにいる? 」
「カーライル通りの陸橋の下で雨宿りをしています。拘束するならチャンスです」
直ちに命令を出したい、との衝動が走った。だが、そうもゆかない。
「いや、それはできない」
何しろ武官待遇なのだ。チンピラの金を盗んだからと言って無暗に拘束はできない。しかもレイが盗んだという確証はない。あくまで店主と尾行者の憶測なのである。
だが、悠長なことはしていられない。
「明日、私が直接、彼に面会する。誰か、先回りして留め置くようにしてくれ。くれぐれも穏便にな」
そこへ別の報告が入った。
「副市長代理殿!」
「なんだ」
「
室内が一瞬で凍り付いた。そんなことは数年に一度あるかどうかのことだ。
「枢密卿だと? なんの命令だ?」
「ヤシマ国籍レイ・カヅラキへの一切の接触を禁ず。監視対象より除外せしこと。とありまして…」
これで憲兵隊は即時撤退となった。
カールだけが事態を飲み込み切れずにいる。長官に説明を求めた。
「文面のとおりです。憲兵隊は誰一人として動かせません。外交問題が絡んでいますので、たとえ市長のご命令でも…」
枢密卿。自由都市サキアスの真の支配者たち。実状は謎。その権力は神聖にして絶対とされる。
「クソッ!」
カールは机を叩いた。
ついさっきまであんなにも協力的だった隊員たちが、たった一本の伝令で、潮が曳くように遠ざかっていった。
やがて部屋には彼一人となった。
「…何が起きた?。」
まだ何も始まっていない。何も分かっていない。寒気と薄気味悪さで
市長の言葉が脳裏に響いた。
「この国の真実を知れば誰もが腰をぬかす」
早く市長の顔を見たい、ソフィーと会いたい。そう強く思った。
翌朝―。
昨夜の雨はあがり、森には薄い
レイはいつものようにボロを纏い、右わきに本を一冊かかえて歩いていた。
公園前の路地の先に人影が見える。
近づくと、一人の背の高い男であった。
ベレー帽を被り、しゃれたデザインのロングコートをまとっている。昨日の女に続いて、またしても場違いなものに遭遇したと思った。
レイは
「待て」
男は進路を遮るように立ちはだかった。
「お恵みでも?」
「レイ・カヅラキだな?」
「あなたは? 確か…」
「ほう、俺を知っているとはな」
「名前は知りませんが、顔だけは覚えています。いつだったか、工房に来てましたね?」
「そのとおりだ」
男は近寄って右手を差し出した。
「カール・クラウジニウスだ。しがない役人さ。よろしく」
レイが
「女のような、やさしい手だ」
「それはどうも」
レイが歩き始めようとしたところへ、質問が浴びせられた。
「ヤシマとは何だ? この国で何を企てようとしている? 頼む、教えてくれ!」
レイはカールを見た。必死であることは分かる。それ以上のことは分からない。
「そうですね…」
レイは頭を掻いた。埃がぱらぱらと落ちた。
「ヤシマは僕の故郷です。普通に家族が暮らしていますよ…」
もう一つの問いには何と答えればよいのか見当もつかない。
「企て? ですか? ハハ。物騒なお話ですね。僕はただ、画が上手くなりたいから、ここへ来たんですよ」
「そんな話は信じられない。
カールが詰め寄った。両者の間合いはごくわずかしかない。
レイは首筋を掻いた。
「仮にですが」
「…」
「ヤシマがそんな馬鹿げたことを企んでいるとしたならば」
「…」
「僕はサキアスを守るためにヤシマと戦いますよ」
「…」
ふざけている、とカールは思った。
こんな子供になめられている…。
「馬鹿にするな! お前に、サキアスを守る理由など、ありはしない!」
「理由ならありますよ」
「なに?」
「この国には大切な友人がいますから。こんな僕を憐れんでくれる本当の友人がね。彼らの生活が壊されるようなことがあったら困りますから。きっと、あなたには、わかりますよね?」
「…」
「では、約束があるんで…」
レイは去った。
カールの体から力が抜け、膝から崩れた。
「友人だと…? 画が上手くなりたいだけだと…? 守ってやるだと…? それじゃ、まるで、俺が、ただの馬鹿みたいじゃないか…」
地面を叩いてみたところで痛みは感じない。ただ虚しさが募るだけであった。