第13話 昔の話
文字数 3,075文字
レイは久しぶりに深い眠りに就いた。
初めて味わう極上なベッドと高級寝具のおかげであろう。
そして夢の中で懐かしい記憶に触れた。
見慣れた訓練所、山登りの獣 道、よく通った広い道、親しき者たち、嫌いな連中、毎日増えるアザとその痛み、脈絡もなく遷 り変る。
海の水の冷たさ。それと、幼い頃に見た黒ずんだ海の異様な光景。
「おーい! 近寄っちゃいけねーぞ! みんなー、海からあーがれー!」
漁師がそう叫びながら、船を巡回させていた。
場面が変わって、小さな部屋に居る。
十人ほどの大人が、畳の上に、車座になって座り、中心に老師が立っている。
鐘がなると、先ず老師が叫ぶ。
「ヤシマとは如何 !?」
「問う! すなわち修羅の道か!?」
「否!」
「問う! すなわち忠義の道か!?」
「否!」
「問う! すなわち善の道か!?」
「否!」
「問う! すなわち正義か!?」
「否!」
レイの順が回ってきたところで、何か言おうとしたら、暗転した。
兄たちの声。湿った土の臭い。
次は実家の裏山を登ったときの記憶だ。
尾根をひたすら歩く。昔、戦争のときに建てられた物見櫓 が目印であった。茂みを抜けると、櫓の下で兄たちが待っていた。
「遅いぞ。さあ、昇ろうぜ」
この櫓には何度も登ったものだ。その上から見渡す景色は格別であった。
兄が指をさした。
「レイ、あの橋の向こうに入江が見えるだろ?」
「戦争の時はな、敵の大船団が、あの入江が一杯になるくらい集まったんだ。何万もの敵兵が上陸して、あの場所からこっちへ向かって近づいてきたんだぜ。そんな光景を想像できるか?」
レイは目を閉じて想像してみた。そして、恐ろしさのあまり、足が震えた。
再び目を開けたとき、兄たちの姿はなかった。
再び場面が変わる。
自分の右手に短剣がある。
誰かに名を呼ばれ、頭を上げた。そこには、狼をあしらった紋様が染め抜かれた大きな旗が揺らめいている。
「カヅラキ家の歴史は、オオカミの群れを退治することから始まったのだ」
「一匹の手負いのオオカミの如く、いかなる逆境にあっても、不屈でなければならぬ、気高くあらねばならぬ! 」
「ヤシマとは、良心の具現 である」
「ヤシマとは、自由…」
「ヤシマとは、道…」
目が覚めた。
「あら、お目覚めですか? あら、どうなさいました? ご気分がすぐれませんか?」
メイドが部屋の片付けと、寝覚めの茶の準備をしてくれていた。
「いえね、ちょっと嫌~な夢を見てしまいました…」
「それはお気の毒に、すぐに紅茶をお入れしますわ。しばらくお待ちを…」
「はあ、恐れ入ります」
少しづつ状況を思い出した。
窓の外は薄暗く、間もなく日が暮れる。ということは、さほど長時間眠っていたわけでもないようだ。
バルコニーの外へ出て、景色を眺めた。夕暮れの街にはまだ活気が残っている。
頭の中には、まだ少し夢の記憶の断片がある。
「ここは別世界だね。まったく…」
しばらく冷たい風にあたりながら、どうして自分が今こんなところにいるのだろうか、と不思議に思った。昨日の今頃、こうなることなど全く考えついていなかったというのに。
「カヅラキ様、紅茶が入りました。お寒うございますから、中へお入りください。それからお嬢様がお見えでございます」
「え…」
できればもう彼らとは顔を合わせたくない。
部屋の中は灯が入れられ、淹 れたての紅茶の湯気が薄い霧のように浮かんでいた。
とてもよい雰囲気だ。
本を手に取り、紅茶を啜 りながら、字を追う。なんという贅沢だろう、これこそ至高だと思う。
とはいえ、同じ空間にいる他人に、いつまでも黙って突っ立っていられるのは、好ましからざることである。
「用があるなら、早く言ってくれないかな?」
「ごめんなさい。お邪魔だと思って」
「邪魔だよ。ご覧のとおり、僕は今、とても忙しいんだからね」
「…」
「おおかた、兄上に、色仕掛けでも何でもいいから、あのガキを落としてこい、とでも言われた口だろうな」
「…ええ、まあ、そんなところね…」
「…」
若い娘が考えることは分からない。何か用があるなら、そのうち話しを始めるであろう。そう考えることにして、読書に戻った。
しばらくするとリリアが口を開いた。
「ところで、いつも何を読んでいるの?」
レイは本を閉じて差し出した。
リリアはそっと受取り、表紙と最初の数ページをめくってみた。
「なに、これ、私には読めない…。一体、何語なのかしら? 」
「リール文字だよ。アズマ人で読める者がいるとしたら、相当な変わり者に違いないからね。君がこれを読めなくても恥じ入る必要なんてない。読めないのは、ごくあたりまえのことだから安心したまえ」
リリアは微笑みながら、本を返した。
「変な慰め方ね。あなたがマイスターて、本当なのね。すごいわ…」
「すごかないさ。それは戦史研究に限ってのことだからね。この平和になった世界で、我がマイスターの本領を発揮する機会なんて、死ぬまで訪れないだろう。せっかく頑張って勉強したんだけどね」
リリアがやけにおとなしい。それがもどかしい。
レイは本を閉じてテーブルの上に置いた。
「もうね、調子が狂うというか。言いたいことがあれば早く言ってもらえないかな?」
「あ、そうね…。でも、私からあなたに言えることは、ただ、お願いすることぐらいで… 」
「…」
リリアはまた沈黙した。
レイはまた本を開いた。
西の最果てにあるエレネア国に伝わる昔話の考察である。フェルダー博士は、科学者でありながら、フットワークが豹のように軽い。様々な土地を自ら訪問し、すべて自分の目と耳で情報を確認するのである。この姿勢こそ、レイが理想とする真実の追及の仕方なのだ。
エレネア国では、西岸にたびたび黒い物体が流れ着いた。その物体は生き物の生命を吸う、という一風変わった噂がある。たとえば、こういう事例がある云々。
「わたし、つい、半年前まで、さびしい農村にいたの。私は体だけは丈夫で、体力もあったから、親にも奨められて訓練所入りを志願したわ。訓練所は大変な毎日だったけれど、正規の訓練課程を、わりといい成績で終了したの。それから専門兵科課程の看護科と諜報科へ進んで、去年、無事終了した。その後、訓練実習を半年間。それが終わって、ようやく解放されて、次の配属が決まるまで、故郷で過ごすことになった。あのときは、久しぶりの帰郷が楽しみで仕方なかったわ。でも、いざ、家に帰ると…」
リリアは話を止めた。
おそるおそるレイを見た。一瞬目が合うと、すぐに視線を落とした。
レイは紅茶を一口飲んだ。
「それから?」
リリアは、ハッとして、グラスの水で喉を潤した。
「カグヅチ家の人が、私の家に来ていたの。それを私は知らなくて… 。あちらは私の成績を評価してくださって、カグヅチ四家の一つ、式家に養子にほしい、ということだったわ。貧乏な田舎の娘には過分なお話なわけで、もう親類中が大騒ぎだったの。それでも、母は、嫌なら断ればいい、と言うのだけれど、本心は養子になることを望んでいたと思う。私に選択の余地は初めからなかった。家族のためにも、お話を受けるしか道はなかった… 」
「悪くない話だね。いまのところは」
リリアはうなずいた。
「それで、数日後にはもう実家を離れて、カグヅチ式家の領地へ連れてかれて、あっという間に養子にさせて頂いたわ。そして、シャリルという義兄と、その妹の義姉が私の新しい兄妹になった。それからしばらくして、シャリルが一度故郷へ戻ってきた。その時初めて対面して… 」
「…」
「け、結婚を申し込まれたわ…」
初めて味わう極上なベッドと高級寝具のおかげであろう。
そして夢の中で懐かしい記憶に触れた。
見慣れた訓練所、山登りの
海の水の冷たさ。それと、幼い頃に見た黒ずんだ海の異様な光景。
「おーい! 近寄っちゃいけねーぞ! みんなー、海からあーがれー!」
漁師がそう叫びながら、船を巡回させていた。
場面が変わって、小さな部屋に居る。
十人ほどの大人が、畳の上に、車座になって座り、中心に老師が立っている。
鐘がなると、先ず老師が叫ぶ。
「ヤシマとは
「問う! すなわち修羅の道か!?」
「否!」
「問う! すなわち忠義の道か!?」
「否!」
「問う! すなわち善の道か!?」
「否!」
「問う! すなわち正義か!?」
「否!」
レイの順が回ってきたところで、何か言おうとしたら、暗転した。
兄たちの声。湿った土の臭い。
次は実家の裏山を登ったときの記憶だ。
尾根をひたすら歩く。昔、戦争のときに建てられた
「遅いぞ。さあ、昇ろうぜ」
この櫓には何度も登ったものだ。その上から見渡す景色は格別であった。
兄が指をさした。
「レイ、あの橋の向こうに入江が見えるだろ?」
「戦争の時はな、敵の大船団が、あの入江が一杯になるくらい集まったんだ。何万もの敵兵が上陸して、あの場所からこっちへ向かって近づいてきたんだぜ。そんな光景を想像できるか?」
レイは目を閉じて想像してみた。そして、恐ろしさのあまり、足が震えた。
再び目を開けたとき、兄たちの姿はなかった。
再び場面が変わる。
自分の右手に短剣がある。
誰かに名を呼ばれ、頭を上げた。そこには、狼をあしらった紋様が染め抜かれた大きな旗が揺らめいている。
「カヅラキ家の歴史は、オオカミの群れを退治することから始まったのだ」
「一匹の手負いのオオカミの如く、いかなる逆境にあっても、不屈でなければならぬ、気高くあらねばならぬ! 」
「ヤシマとは、良心の
「ヤシマとは、自由…」
「ヤシマとは、道…」
目が覚めた。
「あら、お目覚めですか? あら、どうなさいました? ご気分がすぐれませんか?」
メイドが部屋の片付けと、寝覚めの茶の準備をしてくれていた。
「いえね、ちょっと嫌~な夢を見てしまいました…」
「それはお気の毒に、すぐに紅茶をお入れしますわ。しばらくお待ちを…」
「はあ、恐れ入ります」
少しづつ状況を思い出した。
窓の外は薄暗く、間もなく日が暮れる。ということは、さほど長時間眠っていたわけでもないようだ。
バルコニーの外へ出て、景色を眺めた。夕暮れの街にはまだ活気が残っている。
頭の中には、まだ少し夢の記憶の断片がある。
「ここは別世界だね。まったく…」
しばらく冷たい風にあたりながら、どうして自分が今こんなところにいるのだろうか、と不思議に思った。昨日の今頃、こうなることなど全く考えついていなかったというのに。
「カヅラキ様、紅茶が入りました。お寒うございますから、中へお入りください。それからお嬢様がお見えでございます」
「え…」
できればもう彼らとは顔を合わせたくない。
部屋の中は灯が入れられ、
とてもよい雰囲気だ。
本を手に取り、紅茶を
とはいえ、同じ空間にいる他人に、いつまでも黙って突っ立っていられるのは、好ましからざることである。
「用があるなら、早く言ってくれないかな?」
「ごめんなさい。お邪魔だと思って」
「邪魔だよ。ご覧のとおり、僕は今、とても忙しいんだからね」
「…」
「おおかた、兄上に、色仕掛けでも何でもいいから、あのガキを落としてこい、とでも言われた口だろうな」
「…ええ、まあ、そんなところね…」
「…」
若い娘が考えることは分からない。何か用があるなら、そのうち話しを始めるであろう。そう考えることにして、読書に戻った。
しばらくするとリリアが口を開いた。
「ところで、いつも何を読んでいるの?」
レイは本を閉じて差し出した。
リリアはそっと受取り、表紙と最初の数ページをめくってみた。
「なに、これ、私には読めない…。一体、何語なのかしら? 」
「リール文字だよ。アズマ人で読める者がいるとしたら、相当な変わり者に違いないからね。君がこれを読めなくても恥じ入る必要なんてない。読めないのは、ごくあたりまえのことだから安心したまえ」
リリアは微笑みながら、本を返した。
「変な慰め方ね。あなたがマイスターて、本当なのね。すごいわ…」
「すごかないさ。それは戦史研究に限ってのことだからね。この平和になった世界で、我がマイスターの本領を発揮する機会なんて、死ぬまで訪れないだろう。せっかく頑張って勉強したんだけどね」
リリアがやけにおとなしい。それがもどかしい。
レイは本を閉じてテーブルの上に置いた。
「もうね、調子が狂うというか。言いたいことがあれば早く言ってもらえないかな?」
「あ、そうね…。でも、私からあなたに言えることは、ただ、お願いすることぐらいで… 」
「…」
リリアはまた沈黙した。
レイはまた本を開いた。
西の最果てにあるエレネア国に伝わる昔話の考察である。フェルダー博士は、科学者でありながら、フットワークが豹のように軽い。様々な土地を自ら訪問し、すべて自分の目と耳で情報を確認するのである。この姿勢こそ、レイが理想とする真実の追及の仕方なのだ。
エレネア国では、西岸にたびたび黒い物体が流れ着いた。その物体は生き物の生命を吸う、という一風変わった噂がある。たとえば、こういう事例がある云々。
「わたし、つい、半年前まで、さびしい農村にいたの。私は体だけは丈夫で、体力もあったから、親にも奨められて訓練所入りを志願したわ。訓練所は大変な毎日だったけれど、正規の訓練課程を、わりといい成績で終了したの。それから専門兵科課程の看護科と諜報科へ進んで、去年、無事終了した。その後、訓練実習を半年間。それが終わって、ようやく解放されて、次の配属が決まるまで、故郷で過ごすことになった。あのときは、久しぶりの帰郷が楽しみで仕方なかったわ。でも、いざ、家に帰ると…」
リリアは話を止めた。
おそるおそるレイを見た。一瞬目が合うと、すぐに視線を落とした。
レイは紅茶を一口飲んだ。
「それから?」
リリアは、ハッとして、グラスの水で喉を潤した。
「カグヅチ家の人が、私の家に来ていたの。それを私は知らなくて… 。あちらは私の成績を評価してくださって、カグヅチ四家の一つ、式家に養子にほしい、ということだったわ。貧乏な田舎の娘には過分なお話なわけで、もう親類中が大騒ぎだったの。それでも、母は、嫌なら断ればいい、と言うのだけれど、本心は養子になることを望んでいたと思う。私に選択の余地は初めからなかった。家族のためにも、お話を受けるしか道はなかった… 」
「悪くない話だね。いまのところは」
リリアはうなずいた。
「それで、数日後にはもう実家を離れて、カグヅチ式家の領地へ連れてかれて、あっという間に養子にさせて頂いたわ。そして、シャリルという義兄と、その妹の義姉が私の新しい兄妹になった。それからしばらくして、シャリルが一度故郷へ戻ってきた。その時初めて対面して… 」
「…」
「け、結婚を申し込まれたわ…」