わたしたちが祈っている場所

文字数 26,547文字

    1


 僕は聖堂のなかにいた。最奥の祭壇のほとりに、一人で。そしてそこから、彼女が入ってくるのを見ていた。
 彼女も一人だった。開け放たれてある(おもて)大扉(おおど)のあいだから玄関に入り、拝廊(はいろう)(すみ)の方にいったん退避すると、彼女はそこで心臓を両手で押さえて呼吸を落ち着けた。それから、石柱が粛然(しゅくぜん)と立ちならぶ身廊(しんろう)を、まるで湖面に張った薄い氷のうえに足を置くように、そっと、慎重に、歩きだした。
 日課の祈りを終えて外へ出ようとしていたところだった僕は、そのままその場に棒立ちになって、彼女の姿を目で追った。美しい人だった。これまで、見たこともないくらいに。でも今は、そのことを褒めたたえるよりも、その端整な(おもて)に浮かぶ顔色への心配が先立(さきだ)った。それは、なんて言うか、

青白さだった。胸の底に巣食う空虚によって、健全な血の色が抜き取られてしまっているのだ。身に覚えのある者には、それが手に取るようにわかる。わからない人にはわからない。決して。
 不穏な予感めいたものに背を押され、僕は移動を始めた。建物中央のドーム部分と身廊が交わるところまで、足早(あしばや)に一気に進んだ。その(かん)ずっと、視界の内に彼女を収めていた。壁際の薄闇のなかに身を浸し、黙りこくって腕を組むと、僕は人を待っているかのようによそおって彼女を眺めつづけた。
 土曜の午後だった。秋の澄んだ太陽が、ステンドグラスを輝かせていた。聖堂のなかはいつにもまして混雑していた。観光客の集団が詰めかけているせいだ。旅行業者の案内つきの、団体旅行のようだった。中年から壮年の夫婦連れが大半で、ひそひそとではあるけれど、誰もかれもよく喋る。神さまやお祈りのことなんかより、ここを出たあとでどんな名所を回って、どんな土産(みやげ)を買い集めて、どんな店で夕食をとることになるのか、みんなそういうことばかり気にかけているのが見え見えだ。
 そんななかにあって、彼女はまるで、酒場の棚にならぶ派手派手(はではで)しい酒瓶(さかびん)の列にまぎれこんだ一本の空き瓶みたいに見えた。無色透明の、なかになにも入っていない、空白の存在。まわりの誰も、その存在に目を留めることはない。それがそこに()ることに気付くのは、やはり、おなじようにからっぽの者だけだ。
 身廊の両脇に均等な間隔をたもって立つ柱の一本一本を、彼女は順に巡っていった。一つの柱から、もう一つの柱へ。そして、また次へ。彼女はなにかを探しているようだった。でも同時に、その探しているものから、逃げようともしているようだった。なぜだか僕には、そんなふうに感じられた。新しい柱のもとを訪れるたびに、まるでそれを直視することで瞳が焼けてしまいやしないか怖れるみたいにして、おずおずと、上目づかいに、彼女は柱を見あげた。
 このタヒナータの町から、僕はほとんど出たことがない。ほかの国に旅行したこともない。生まれてこのかた、そんな余裕があったためしがない。だから余所(よそ)の国の聖堂がどんな(つく)りになってるのかよく知らないけど、ともかくこの町の聖堂には、こうしてたくさんの柱が堂内に立っていた。ちょうど僕(25歳の平均的な体格の男だ)が両腕を思いきり伸ばして抱きしめて、ぎりぎり左右の指先どうしがくっつくくらいの太さの円柱だ。どの柱も柔らかな白い石材でできている。そしてどの柱にも、キャンドルをならべるための浅い(ほら)が段々状に彫ってある。まるで蛇腹(じゃばら)みたいに。
 すべての柱の高いところには、人の名前が彫りこまれてある。もちろん、もうこの世に存在しない人たちの名前だ。これらの柱はすべて、公国がその国家の名を()って(いた)む各界の偉人や功労者たちのための、いわゆる鎮魂碑(ちんこんひ)だった。
 やがて彼女の足が止まった。ある柱の前で。
 彼女はそこに刻まれた名前を、三度くり返して確認した。そして頭をのけぞらせて、深々と息を呑みこんだ。全身が、まるで氷塊(ひょうかい)の狭間に囚われてしまったみたいに、固まった。そろそろ助けが必要になりそうだった。
 一直線に、僕は彼女のもとへ歩み寄った。彼女は呆然とした面持ちで、眼前の柱に供えてあるいくつかのキャンドルを見おろした。いずれも分厚いコインのようなかたちをしたそれらには、ちりちりと震える小さな火が灯っている。凍りついた手を懸命に持ちあげて、彼女もまた、コートのポケットからキャンドルを一つ取り出した。続いて、マッチの小箱も。でもかちこちにこわばった指先では、うまく火が(おこ)せない。
 わずかに距離をあけて、僕は彼女の隣に立った。
 近くで見ると、一つに束ねられた彼女の長い白金色(プラチナ)の髪は、まるで朝焼けに照り光る新雪みたいだった。瞳は、いつかなにかの絵画で見たオーロラにそっくりの、無垢(むく)で豊かな緑。胸が痛くなるほど透きとおった真っ白な肌には、今にも消え入りそうなそばかすの名残りが、うっすらと浮かんでいる。横顔の輪郭は、美術の技法書に載っている黄金比を用いた実例そのものだ。とても痩せていて身長が高く、僕の背丈とほとんど変わらない。それにたぶん年齢も、僕とおなじくらいじゃないかと思われる。
 身に着けているものは、スカーフも、裾長(すそなが)のコートも、小さな肩かけ(かばん)も、のっぺりとした平底の靴も、すべてが黒。髪をまとめる細いリボンも黒。ただ、小さな正三角形のイヤリングだけが、淡く青くきらめいている。くたびれた普段着の格好の僕は、正直ちょっと怖気(おじけ)づく。
「あの」しかし僕は意を決して自分のマッチを擦り、それを彼女に差し出す。「これ、よかったら」
 まるで壁に映る影でも見やるみたいにして、彼女はこちらを振り向いた。目と目が合う。まったく、言葉にならないほど透明な瞳だ。でもやっぱり、

透明さだ。
「どうぞ」僕は彼女の手もとに火を近づけた。さりげなく、でも丁重に。
「ありがとう」ささやくように言って、彼女はそれを受けた。そして鎮魂碑に供えた。ひどく震える手で。
 それから彼女は――両目を閉じた。まるで、深い水の底に潜る覚悟を決めた人みたいに。
 僕は後ろにさがった。
 そして彼女が両手をそっと組みあわせ、一心不乱に祈りはじめるのを見ていた。知らぬ間に、僕も自分の胸の前で軽く両手を組んでいた。ただし目は閉じなかった。
 そのまま数分が経過した。とても静かで、深くて、遠い数分間だった。陽射(ひざ)しが窓から降り注ぐ音さえ、その気になったら聴きとれそうに思えた。もう、気楽な旅行者たちの声は一切、僕の耳に入らなくなっていた。彼女の呼吸と、心臓の鼓動だけを、僕の耳は探っていた。
 ふいに、彼女の背中の震えの振幅(しんぷく)が、大きくなった。
 一歩、僕は前進する。
 だがまだ、どうにか大丈夫みたいだ。もう少しだけ、立っていられそうだ。本当なら、今すぐ安静にできる場所へ連れていくべきだということは、明らかではあった。しかし人には、たとえ瀬戸際まで踏み留まってでも、やるべきことをやりとげてしまわなければいけない時がある。そのために、彼女はここにいるのだ。


 息を潜めて、僕は柱を見あげた。そして死者の名と碑文(ひぶん)を読んだ。

〈 テンシュテット・レノックス

    1723 ―― 1748

   竜の牙より民を(まも)りし異邦の騎士 その勇敢と献身を我ら永遠に(たた)え悼む 〉

「48年」僕は口のなかで音にせずつぶやく。「つい最近じゃないか」
 今はちょうど顕世暦(けんせいれき)1750年だから、48年といったら、本当に

という感じだ。たった二年前だ。
 二年前。よく覚えてる。公国にとって、なにかと騒がしかった年だ。といっても、その騒ぎのほとんどが、西の隣国〈ホルンフェルス王国〉とのあいだの関係悪化に起因するものだったが。その年を最後に、百年ものあいだ毎年続けられていた二国合同軍事演習も取り止めになったし、いろんな条約やら協定やらも次々と破棄されたし、両国間の人や物の流れも目に見えて減った。でもまぁ、仕方のないことだ。誰もが、いつかこうなると予想していた。なにしろ僕らの祖父たちの、そのまた祖父たちの時代から、あちらさんの国とは犬猿の仲だったっていうんだから。
「テンシュテット・レノックス」
 唇は閉じたまま、僕はその名を口にした。誰だったろう。初めて聞く名前じゃないことはたしかだ。ここ以外のどこかで、確実に目か耳が触れたことのある名だ。どこでだったろう……。
 彼の名をじっと睨んで、僕は記憶を辿った。
 でもすぐに中断した。
 彼女に限界が来ていた。
「大丈夫ですか」
 後ろ向きによろめいた彼女の背中を、僕はすんでのところで受けとめた。ひるがえった彼女の髪が、ささやかな風を起こした。柱の(ほら)に居並ぶ小さな火たちが、(おのの)くようにぶるっと揺れた。
「すみません、ちょっと道を開けて」
 僕は周囲の人たちに声をかけ、彼女の肩を抱えて身廊の脇の方へ連れていった。
「ゆっくり、息を、吐いてください」荒く浅い呼吸をくり返す彼女の耳もとで、僕は明瞭に言葉をならべた。「深くは、吸わなくて、いいです。ただ、ゆっくり、ゆっくり、吐いて」
 彼女はそれに従った。
「ごめんなさい」前のめりに身をかがめていた彼女は、一瞬だけ僕の顔を見あげた。「あの、大丈夫。私は、大丈夫ですから」
「医者は要りませんか」彼女の言うことは無視して、僕はたずねた。
 彼女は小さく首を振った。
「横になりますか」
 また首を振った。
「では、少し座りましょう。今、椅子――」
「いいえ」今度ははっきり拒否した。「ここは、私、ここには……」
「わかりました」僕はうなずき、彼女の身体を支えたまま脇目もふらず出口へ向かった。「ここには、もういたくないですね」
 彼女はこくりと――いや、もっと正確に描写するなら、

――首を落とし、ついでに、涙も一粒、床に落とした。


    2


 すぐ近くにあるカフェに僕は彼女を連れていった。街の広場に面した、僕の馴染みの店だ。土曜の午後とあって、客の入りは上々みたいだ。昼食どきの慌ただしさの余韻も、まだかすかに残っている。
 なるべく静かな席を探して、僕らは屋外席の片隅に置かれたテーブルに落ち着いた。ちょうど頭上に、(はば)のたっぷりとした(ひさし)が張り出している。それは深紅の布地でできていて、そこを通過した太陽が彼女の頬をほのかに赤く照らした。でも言うまでもなく、本物の血の色には及ばない。それは外側から付与されるべきものじゃない。それはあくまで内側に灯らなくては意味がない。
 湯気の立つコーヒーを()めるように飲み、じっくりと時間をかけて呼吸を(しず)めると、ようやく彼女のなかに生者の熱が(よみがえ)ってきた。彼女はそうしながら、何度も顔をあげて僕になにかを言おうとした。でもそのたびに、僕は無言で首を振った。こちらのことは気にしないで、ご自分の調子を取り戻されてください。目でそう伝えた。彼女はこうべを垂れて、その意思を()みとってくれた。
 彼女の復調を見守りながら、僕は窓に映る自分の姿をちらりと眺めた。それから、広場を行き交う人々の視点を借りて、傍目(はため)には自分たちがどんなふうに見えているか想像した。きっと誰もが、あの男と女性はたまたま相席することになっただけの人たちだろうと思うにちがいない。それくらい僕と彼女とは、さっぱり釣りあいのとれない取り合わせだった。(すす)けた煉瓦(レンガ)色の上着に、色褪(いろあ)せた灰色のデニム。靴紐(くつひも)さえきちんと結ばれていない、()き潰した運動靴。栄養不足のキツネみたいな毛色の荒い髪は、適当に後ろに()でつけられているだけ。それが僕だ。ふだんの、いつもどおりの。身だしなみにほとんどこだわりがないとはいえ、とくに自分のことを不潔な人間だと見なしたこともなかったけれど、今は心から、こんなに小汚(こぎたな)い男は見たことがないと思った。
 カップがソーサーに降ろされる音がした。僕は我に返った。テーブルの向こうから、彼女がこちらをじっと見ていた。
「ありがとうございました」両手を膝のうえにそろえて置いて、彼女は言った。「おかげさまで、だいぶ落ち着きました」
 僕はこっそりすばやく深呼吸をして、笑顔をつくった。
「よかった」僕は言った。「寒かったり、苦しかったり、どこか痛かったり、していませんか?」
 彼女は首を振った。イヤリングがりんりんと揺れた。「平気です。もう少し休んだら、すっかり良くなると思います。あの……」
 僕は黙って待った。
「申し訳ありませんでした。とつぜん、ご迷惑をおかけしてしまって」彼女は頭をさげた。
「いいえ」僕はあっさりと言った。
「なにか、ご予定がおありだったのではないですか」頭をあげながら、彼女は()いた。
「いいえ」僕はくり返した。そしてふっと吹き出した。「いや、そうですね、予定というほどのものじゃないけど、それらしきものは、一つありました」
 彼女は不安げに眉根を寄せた。
「ほぼ毎日、僕はあの聖堂で祈ります」僕は言う。「そしてそのあと、仕事に行く前に小一時間ほど、いつもこの店でのんびり過ごします。それが僕の、十年来の習慣です」
「え……」彼女はぱちっと(まばた)きをした。「それじゃあ」
「そう」僕はうなずく。「なのでまさに今、予定どおりのことをしているわけです」
 ほっとしたように彼女は微笑した。白くて小さな八重歯が唇のあいだにのぞいた。僕は自分の頬が火照(ほて)るのを感じた。
「僕はセディっていいます」唐突に僕は名乗った。「セディ・クローデル。旧市街の酒場で働いています」
 彼女は居ずまいを正した。そして改めて深く一礼した。
「セディさん」彼女は言った。「助けてくださって、ほんとうにありがとうございました。あのままあそこで一人倒れていたらと思うと、ぞっとします。私の名前は、ルチア。ルチア・レノックスです。ホルンフェルス王国で政治学を学んでいます」
 僕は頬からすっと熱が引いていくのを感じた。あぁ、そうか、と僕は思い至った。二年前の新聞記事やラジオの報道を、この瞬間にはっきりと思いだした。
 彼女は僕の表情を遠慮がちにのぞきこんで、そこになにかを読み取り、薄く口を開いた。
「私は、王都から……王都ヨアネスから、来ました」
「お一人で?」僕はたずねた。
「はい」彼女はうなずいた。「私、一人です。昨日の夜の列車で、こちらに着きました」
「そうですか」僕は自分のコーヒーカップを手に取った。そして音を立てずにひとくち飲んだ。「僕はまだ王都へ行ったことがないのですけど、けっこうな長旅なのでしょう」
「まぁ、はい、そうですね」彼女もまたカップの取っ手に指をかけた。「ほとんど丸一日、かかります」
「きっとその疲れもあったのではないですか」
「ええ」彼女は緩慢(かんまん)な挙動で空を見あげた。「それも、あると思います」
 おなじ空を僕も仰いだ。見事なまでに、底抜けの青さだ。あんまり青すぎて、長く見つづけていたら青という概念そのものが消失してしまいそうに思えるほどだ。
「私の兄のことをご存知ですか」
 いつのまにかこちらに視線を戻していた彼女が、(しず)やかにたずねた。
「先ほど、あなたのお名前をうかがった時に、思いだしました」僕はこたえた。「二年前の、おそろしく寒い冬のことでしたね」
 彼女は浅くうなずいた。
「早いものですね。あれからもう二年か」僕は言った。「とても胸の痛む出来事でした。お悔やみ申しあげます」
「痛み入ります」彼女はわずかに顔を伏せた。
 しんとした()が空いた。その隙を見計らうようにして、給仕係の若い女性が追加の注文はないかと訊きに来た。僕たちは首を振った。若い女は了解して去っていったが、もとから注文をとるつもりなんてなかったのは

だ。いつも一人でぼおっとしている冴えない常連客がとびきりの美人を連れてきたものだから、それの偵察に来ただけだ。まったく。
「もちろん、ちゃんとしたお墓は、私たちの故郷である王都にあります」手のひらをなにげなくカップの側面に添えながら、彼女は話した。「けれど、ご存知のように、兄はこの町の郊外で命を落としました。公国は、兄のために鎮魂碑を建ててくださいました。彼が、他国の軍人であったにもかかわらず」
 僕はうなずいた。小さな灯火がいくつも供えられた白い柱を想い描きながら。
「私、そのことがとても嬉しかったんです」彼女は目を細めた。「兄も私も、このタヒナータの町が大好きでしたから。私たち、それぞれの都合で、ちょうどおなじ時期にこの町に長く滞在していたことがあるんです。そのあいだ私たちは、たくさんの楽しい時間を一緒に過ごしました。私にとって、格別に大切な思い出です」
 彼女は背筋を伸ばして息継ぎをした。僕は身動き一つせず、じっと耳を澄ませていた。
「……でも、だからこそ、怖かった」彼女はぽつりと言った。「この町を再び訪れて、この町で兄と再会するのが、ものすごく怖かったんです。兄が逝ってしまってから今日までずっと、いつかきちんと公国にお参りに行かなくちゃって、思いつづけてきました。結局、その覚悟を決めるのに、二年もかかってしまいました」
 僕はまたうなずいた。胸の内で、わかります、と言った。でも決して口には出さなかった。
昨夜(ゆうべ)は、うまく眠れなかったのではないですか」声と表情をゆるめて、僕はたずねた。
 彼女は苦笑した。「実は、一睡もしていません」
「胸中、お察しします」僕は言った。そして小さくかぶりを振った。「ですが、あまりご無理をなさってはいけません。誰よりもお兄さんが、あなたに元気であってほしいとお望みのはずです」
「はい」彼女はにこりとした。でもそこに笑顔はなかった。
 コーヒーカップで口もとを隠して、僕は重い息を吐いた。それからもう一度、空の青さを見やった。それはさっきから少しも変わらず青いままだけど、()は確実に西へ傾きつつあった。僕はそれを肌身に感じることができた。じきになにもかも茜色(あかねいろ)に染まり、お馴染みの夜の黒がすべてを呑みこんでしまう。今日の夕焼けは綺麗だろうし、星だってよく見えるだろう。
「……なんだか、ごめんなさい」こめかみのあたりを爪の先でこそこそと()きながら、彼女は恥じ入るように言った。「初めてお会いしたかたに、いきなりこんな湿っぽい()上話(うえばなし)なんか、あれこれお聞かせしてしまって」
「あ、いえ」とっさに僕は首を振った。しかし続く言葉がうまく出てこない。「その、ぜんぜん……」ちくしょう。「あの、なんていうか……、とんでもないです。僕は、嬉しかったですよ」
 まっすぐにこちらを彼女は見ている。静かで、透明なまなざしで。
「……いろいろ、お話ししていただけて」(いさぎよ)く肩の力をぜんぶ抜いて、僕は最後まで言い切った。
「どうもありがとう」彼女はほほえんだ。心のある笑みだった。
 やがて二人ともカップを(から)にすると、一緒に席を立った。顔なじみの従業員たちにじろじろ見られながら(まったくもう)、僕と彼女は店をあとにした。彼女の顔色は、聖堂を出た時と比べるとかなり改善されていた。足取りも目つきも、しっかりしている。けれどまだいささかの心配が(ぬぐ)いきれなかったので、僕は彼女が逗留(とうりゅう)しているというホテルまで送っていくことにした。
「なにからなにまで、ありがとうございました」豪奢(ごうしゃ)なホテルの門の前で、彼女は腰を二つに折って礼をした。
「いいえ」僕は首を振った。「くれぐれも、今夜はちゃんと栄養のある食事をとって、早めに休まれてくださいね」
「ええ」彼女は顔をあげ、片手でさらりと髪をかきあげた。「きっとそうします」
 僕はうなずいた。「じゃ、僕はこれで失礼します」
「あの、セディさん」彼女が僕を呼び止めた。
「はい」僕は振り返った。
「もし差し支えなかったら、セディさんがお勤めになられているお店の名前、教えていただけませんか」
「え」僕は一瞬あっけにとられた。そんなことを訊かれるなんて、これっぽっちも予想していなかった。おかげで、勤続十年にもなる店の名前が、ぱっと出てこないくらいだった。「あぁ、僕の勤め先、ですか。あの、えっと……そう、〈ビストロ・ベシーナ〉です」
「〈ビストロ・ベシーナ〉」彼女は丁寧に復唱した。「ありがとうございます。それでは、お気をつけて」
 互いに軽く手を振って、僕らは別れた。


    3


 二年前の冬、一人のホルンフェルス王国軍の青年将校が、このコランダム公国の地で生涯を終えた。それがテンシュテット・レノックスだった。王都の名門レノックス家の跡取りにして、文武に秀でる優れた軍人でもあった彼は、王国と公国による合同軍事演習に参加すべく、演習場にほど近いタヒナータの町に事前に入っていた。彼が搭乗する巨大人型兵器〈カセドラ〉とともに。
 悲劇は、演習開始予定日のほんの数日前に起こった。
 現在では絶滅危惧種になりつつあるけれど、当時はまだこのあたりの森の奥地には、〈天秤竜(てんびんりゅう)〉と呼ばれる巨大な獣が複数生息していた。あろうことか、そのうちの一匹が暴走して森から彷徨(さまよ)い出たあげく、人間の居住区域内に迷い込んだのだった。はげしい吹雪の舞う深夜の出来事だった。
 事態を把握した公国政府の関係者は、ただちに対応策を講じた。それで急遽(きゅうきょ)、異例の出撃要請を受けたのが、たまたま現場近くに滞在していたレノックス中佐と彼の同僚、そして彼らのカセドラだった。この現場というのは、公国領土の北西部に位置する大峡谷(だいきょうこく)だった。そこで竜は討たれた。その遺骸は崖下(がけした)の急流に呑まれたため確認されることはなかったというが、ともかくこうして、市街地に巨獣の侵入を許すという未曽有の危機は回避された。
 しかしそのために払われた代償は大きかった。
 (たけ)り狂う竜との格闘の末に、王国軍のカセドラ〈アルマンド〉が一体、深い谷の底に転落してしまった。なすすべもなく、それはその場で大破した。操縦者も帰らぬ人となった。レノックス中佐が、それに乗っていた。享年25歳だった。
 それから少なくとも一ヵ月間くらいは、町じゅうがこの衝撃的な事件の話題でもちきりだった。僕はまだ中佐の顔をおぼろげに覚えている。当時、毎日のように新聞や雑誌で肖像写真を目にしたから。彼はいわゆる、絵に描いたような貴人(きじん)だった。(つや)やかな白金の髪、精悍な顔立ち、凛々しいまなざし、泰然(たいぜん)とした微笑。そして、数多(あまた)のエンブレムに彩られる壮麗な軍服。
 人並み程度に、僕も彼に関する記事には何度か目を通した。だけど正直に白状すると、僕は彼のことを自分とおなじ世界に生きている自分とおなじ人間だと見なしたことは、ただの一度もなかった。もちろん、気の毒だとは思った。なにしろ余所(よそ)の土地までやって来てわけのわからない怪物と死闘を繰り広げたあげく、まったく予期せぬ悲惨な最期を遂げることになってしまったのだから。
 身を(てい)して町を護ってくれた異国の勇士の死を、公国の(たみ)は心から悼んだ。町を()げて執りおこなわれた慰霊の式典には、僕も市民の一人として参列した。この手で献花台に花を供え、祈りもした。でも、それきりだった。それ以来、彼の存在も、彼を襲った悲劇のことも、ほとんどまったく思い返すことはなかった。僕の平々凡々たる日々は、なにがあろうと変更を受けつけない機械仕掛けの装置のように、それからもただ淡々と回転しつづけた。僕としては、余計なことはなにも考えず、想わず、振り返らず、ただ目の前で回転する

にしがみつくばかりだった。そうして時だけが過ぎた。


 しかし些細(ささい)なきっかけで、人や物の見方(みかた)というものはがらりと一変してしまうものだ。かつては異星に暮らす未知の種族くらいにしか思っていなかった赤の他人が、今や自分とおなじ血肉を(そな)えた当たり前の一人の青年として、僕のなかでくっきりとした存在感を放ちはじめていた。
 レノックス中佐にきょうだいが――妹が――いたということを、今の今まで僕はすっかり忘れていた。
 そしてまさか、

が、実際に面と向かって話をする日が来るなんて、夢にも思ったことがなかった。
 彼女は――ルチア・レノックスは――驚くべきことに、僕とおなじ星で暮らす、僕とおなじ人間だった。たしかに、ある種の特権的ともいえる美貌の持ち主ではあった。でもそれは、あくまで表面的な造形の話だ。中身の造りは、少なくとも僕の目には、自分となんら変わるところがないように見えた。そこには(もろ)く儚い肉体があったし、空虚を抱えこむ哀しき魂があった。迷い、震え、祈り、崩れ、涙する、生身の心があった。僕には、そう思えた。
「いったい、どんな人だったんだろうな」厨房の奥で皿を洗いながら、僕は独り言をつぶやいた。「それにしても……まだ25歳、だったのか」
 ここで初めて気付いたけど、それは現在の僕の年齢でもある。僕は汚れた皿を次々と洗い流しながら、ちょっと想像してみた。自分が巨大な機械の兵士に乗りこんで、恐ろしい怪獣と戦うところを。そして、底の見えない夜の谷間に、一人ぼっちで落下していくさまを。
 人知れず身震いする僕の肩を、近くに来た給仕長がぱんと叩いた。
「ぼさっとするなよ、セディ」彼は言った。「まだお客がいるんだぞ」
「わかってますよ」気を取り直して僕はこたえた。そしてふと振り返り、彼にたずねた。「あの、テイラーさんは25歳の時って、なにしてました?」
 伝票の整理に取りかかりながら、彼はじろりとこちらを見た。
「なんだよ、急に。……そうだな、25っていやぁ、ちょうど前の店を出た年だったな。そんでここに移って、しばらくして結婚して、26になる直前に最初の子を授かったんだ」
「もうお子さんがいらしたんですね」
「そうだよ」彼は自分の手もとに目線を戻してうなずいた。「まだまだ若くて、元気ばりばりで、夢やら希望やら腐るほどあって、まあ、良い時代だったよ。……ん?」
 彼は作業を中断して顔をあげた。僕もそうした。店の入口の扉が小さく開かれ、ドアベルが

と控えめに鳴った。こんな遅くに、どうやら新客みたいだ。でもあいにく、ついさっき今夜の注文は締め切られてしまったところだった。すかさず給仕長が対応に向かった。
 店内に残っているお客も残りわずかだし、じゅうぶんに手は足りているだろうから、僕は壁とにらめっこでもくもくと洗い物を続行した。しかしすぐに厨房の内側に広がった異様なざわめきを察知し、手を止めた。
「どうしたの」僕はいちばん近くにいた同僚に声をかけた。
「なんかえらいべっぴんさんみたいだよ」彼は客席の方へ顔を向けたまま、首をのけぞらせて僕に耳打ちした。
「ふぅん」
 僕は肩をすくめ、次の皿に手を伸ばした。そしてそれをつかんだ瞬間、ある直感が僕のなかを走った。僕は急いで手を拭いて厨房から出た。そしてルチア・レノックスと給仕長のあいだに割って入った。
「セディのお知り合いか?」信じられないものでも見るような目つきで、給仕長が僕を見やった。
 僕はうなずいた。でも僕だって信じられなかった。
「ごめんなさい。こんな時間にいきなり押しかけて」ばつがわるそうにルチア・レノックスが言った。「急いだのですけど、ちょっと道に迷ってしまって」
 言いながら彼女は、顔の下半分まで覆っていた真っ赤なマフラーを指先でつまんでするりと降ろした。店じゅうの人たちが息を呑むのがはっきりと聴こえた。僕もそうだった。給仕長もそうだった。
「なにを謝るのです」僕は給仕長の腕を(ひじ)の先で小突きつつ、彼女に向かってほほえみかけた。「来ていただけて嬉しいです。その後、体調の方はいかがですか」
「はい、このとおり、すっかり良くなりました」
「そうですか」彼女の言葉が真実であることを、僕は本人の顔色から(じか)にたしかめた。「……それはよかった。本当に」
「私、もう一度きちんとお礼をお伝えしたくて……ありがとうございました、セディさん」
「とんでもない」僕は首を振った。そして営業用の表情を整えた。「さて、それで今夜はいかがいたしましょう。お食事なさいますか?」
「あ……ええ」彼女はためらいがちにうなずいた。「でも(おもて)の看板に、もう今夜の注文はおしまいって――」
「大丈夫です」語尾をかっさらうように僕は応じた。「まだ大丈夫ですよ。ね、テイラーさん」
「もちろんですとも」かつてない笑顔で、給仕長はうなずいた。「こちらへどうぞ。ご案内いたします」
 けれど彼女はいろいろと察して、簡単に用意できる手のかからないメニューばかりを選んでくれた。無理を押して招き入れた責任を取るつもりで、僕が大半を調理した。どうやら彼女は真剣にお腹が空いていたみたいで、あっというまにぜんぶぺろりと平らげてしまった。彼女より先に来店していた他のお客たちの誰よりも、彼女の方が食べ終えるのが早かった。
「お口に合いましたか?」皿を下げながら僕はたずねた。
「ええとっても」唇の(はじ)にナプキンをそっとあてがって、彼女は満足げにうなずいた。「最高においしかったです」
「それはよかった」思わず僕は()の笑みをこぼした。胸の内側は誇らしい気持ちで溢れかえっていた。
「こんなに夢中で食事をしたのは、すごく久しぶりな気がします」彼女は喉もとに手のひらを添えて吐息をついた。「ほんとに来てよかった。ごちそうさまでした」
「あれからなにも召し上がらなかったんですか?」ふいに気にかかって、僕は訊いた。
「えっと……」彼女は曖昧な角度に首を傾けた。「実はあの後、すぐにホテルのビュッフェへ行ったのですけど……恥ずかしながら、そこへ着いた途端に、ものすごく眠たくなってしまって」
 僕はちらりと彼女の目をのぞきこんだ。「もしかして、それから今までずっとお休みになられていた?」
 彼女はうなずいた。「おかげで、完全に昼夜が逆転してしまいました」
「そうでしたか」皿を載せた盆を片手に、僕は背筋をまっすぐにして立った。「でもなにはともあれ、しっかり睡眠をとられたようで安心しました」
「ありがとう」彼女は微笑した。それからさっと店内に視線を(めぐ)らせ、壁の時計を一瞥(いちべつ)し、ワイングラスの脚にそっと手先で触れた。「あの、もう一杯だけ、いただけますか」
「ええ、もちろん」僕は言った。「おなじものでよろしかったですか?」
「はい」彼女は言った。「おなじもので」
「すぐにお持ちしますね」
「お願いします」
 その一杯を彼女は一人静かにゆったりと味わった。僕は同僚たちからの質問攻めを回避すべく、清掃や明日の仕込みに集中した。それでもすべてをかわすことはできなかったけれど、くわしい事情の説明はいっさいがっさい(はぶ)いた。「いえ、ちょっとした知り合いです」、「ううん、外国からいらしてるかただよ」、「いやいや、そんなんじゃないです」、「だから、そんなわけないじゃないですか」……といったような返答を適当にならべた。内心、早くこの場から解放されたかった。
「おい、セディ」給仕長が僕の尻を叩いた。「お帰りだぞ」
 汚れたエプロンを外して、僕は彼女のもとへ向かった。
「この後は、どうなさるのですか」失礼を承知で僕は訊いた。窓の外の夜闇(よやみ)を横目に見ながら。
「宿へ帰ります」両手ではらりとマフラーを広げて、ルチア・レノックスは言った。
「このあたりは、辻馬車がつかまりにくいですよ」僕は言った。「ここで少し待っていてください。今、呼んできますから」
「あっ、いえ」彼女は慌てて僕を止めた。「ご心配には及びません。歩いて帰りますから。来た時に迷ったぶん、ちゃんと道は覚えています」
「いや、しかし……」
「大丈夫です」余裕ありげに彼女は言い張った。「夜の散歩は好きですし、それに今は、なんだか無性に歩きたいんです」
 僕はうなずき、一言(ひとこと)ことわって席を離れると、給仕長との緊急談判に向かった。
「いいよ、行け」彼はしっしっと手を払いながら言った。「ばっちり最後まで送ってくんだぞ」
「ありがとうございます」
「うまくやれよ、セディ」
 彼の最後の忠言(ちゅうげん)に関してはただ肩をすくめてやり過ごし、僕は大急ぎで帰り支度をした。同僚たちからの不服そうな小言(こごと)

視線のことごとくを振りほどき、一目散に彼女のもとへ戻った。
「では、行きましょう」肩で息をしつつ、僕は言った。
「え」彼女は目を丸くした。「あの……?」
 僕は手短に経緯を伝えた。そして彼女の返事や反応を待つことなく、なかば有無を言わさず一緒に店の外へと出た。ちょうど閉店間際の時刻だった。少し冷えるけれど、風も霧もない爽やかで深い秋の夜だった。昼間に予期したとおりの星空が、町の天井を覆い尽くしていた。


    4


 それから三日後のよく晴れた朝、僕は車を運転して彼女のホテルへ向かっていた。給仕長から借りた小型の蒸気自動車だ。まだ新車も同然で、車体も座席も車輪もぴかぴかと輝いている。もしもどこかに傷を付けたりなんかしたら、傷一つにつき1万ネイの減給だからなとの(おお)せだから、よくよく気をつけて扱わなくちゃいけない。
 僕自身も今日は所持しているなかでいちばん上等の衣服を身に着けていた。ぴかぴかとまではいかないけれど、それなりに質の良いヘリンボン織りのジャケットとスラックス。何年か前の安売りの時に買ったきりしまいこんであった革靴は、昨晩必死に磨いたおかげで、まぁそれなりのものになった。髪だって、さっき床屋で整えてもらった。(ひげ)もあたったし、歯も磨いた。ついでに耳掃除までやった。なぜか全身の柔軟体操もした。
 このあいだ夜更けに宿まで送った道すがら、彼女は歩きながらいろいろ話してくれた。これから一週間ほど、ここタヒナータに滞在する予定であること。明日は、時差の感覚のずれを解消すべく一日休むつもりでいること。明後日(あさって)は、町なかの思い出の場所を一人で巡るつもりでいること。そして明明後日(しあさって)は、兄が最期を迎えた地を、いよいよ訪ねるつもりでいること……。
「どうやって行かれるのです」慎重に僕はたずねた。「たしか、あの大峡谷のどこか……でしたよね」
 彼女は前を向いたまま小さくうなずいた。「貸馬車(かしばしゃ)か自動車を呼んでもらおうと考えています。歩いていくには、ちょっと遠いみたいですから」
「馬や車でだって、けっこうな距離ですよ」僕はわずかに眉をひそめた。
「そうですか」彼女はぽつりと、なんだか他人事(ひとごと)のようにつぶやいた。やはり、じっと前を見据えたまま。
 しばらくのあいだ口をつぐんで彼女の横顔をうかがいつつ、僕は物思いに沈んだ。でも実は考えるまでもなく最初から腹は決まっていた。それを僕はそのままのかたちで彼女に提示してみることにした。
「明明後日というと、ちょうど僕の仕事が休みの日です」僕もまた前を見たまま、平然をよそおって告げた。「よかったら、僕がそこまでお連れします。車も、店の先輩に貸してもらえると思います」
 ほとんどひっくり返るくらいに仰天して、彼女は僕の方を振り向いた。
「そんな」彼女はぶんぶんと首を振った。イヤリングが飛んでいってしまうんじゃないかと思った。「そんなこと、できません。もうじゅうぶんすぎるほどお世話になってしまったのに、これ以上のご迷惑は――」
「迷惑なんかじゃありません」僕はきっぱりと一度だけ首を振った。そして彼女の顔を初めてちゃんと間近に見た。「どのみち、なんの予定もない休日でした。だから迷惑なんてことは、ぜんぜんありません。……それに、きっと、その場所に行ったら、ルチアさんはゆっくりお過ごしになりたいでしょう。見ず知らずの御者(ぎょしゃ)や運転手が同行するよりは、まだ自分の方が……その、なにかと、融通もきくんじゃないかと思います」
 彼女は僕の目をじっと見つめ返し、それから自分の足もとを呆然と見おろし、また僕の方へ顔を向けた。その動きを、時にはせわしなさげに、時にはのっそりと、四回か五回くり返した。そしてやがて立ちどまった。僕も足を止め、彼女と面と向かいあった。そこは旧市街と新市街を繋ぐ大きな橋のちょうどまんなかあたりだった。僕らのかたわらには街灯が立っていた。しかしとっくに明かりは落とされていた。その代わり、月がとてもまぶしかった。彼女の睫毛(まつげ)の一本一本さえ、あますところなく見ることができた。
「本当に、いいのですか」彼女が言った。
 僕はうなずいた。


 そうして彼女は助手席に座った。
「今日は、よろしくお願いします」彼女は(うやうや)しく頭をさげた。
「こちらこそ」僕もおなじようにした。狭い車内で、おでこをぶつけあわないよう注意しつつ。
 彼女の服装は三日前の夜とおなじだった。黒ずくめの全身に、深紅のマフラー。トライアングルみたいな小さなイヤリング。白金の髪も、やはり前とおなじく一つ結び。当然のように、今日も完璧に美しかった。いい加減、僕はそのことを言葉にして伝えたかった。でも彼女が黒をまとっている意味を考えて、軽はずみにそういうことを口にしていいものかどうか迷っていたわけだけど、なんとも思いがけないことに、彼女の方から先に僕の衣装を称賛してくれた。それでぼくも自然な応答として、言いたいことを言うことができた。これまで何万回も言われてきただろうに、まるでこれが初めてだったみたいに、彼女は照れくさそうにほほえんだ。
「町から離れる前に寄っておきたいところがありますか」繁華街を抜ける手前で、僕はたずねた。
「花屋に」彼女は言った。「どこでもいいので、花屋に寄っていただけたら」
「わかりました」
 それで彼女は大きな花束を調達した。白い薔薇(バラ)だけで作られた花束だった。店主にはなんのための花なのか一言も告げずに、彼女がみずから選んで作らせた。できあがったそれは、たしかに他のどんな花よりも、あの青年に似合うように思えた。ついでと言ってはなんだけど、僕も小さな花束を一つ購入した。こちらは真っ赤な花弁を(いただ)くカネリアの花。このコランダム公国の国花(こっか)であり、僕の兄が好きだった花でもある。
 後部席に赤と白の花束を積んだ僕らは、旧市街北端の門から町の外へと出た。今まさに黄金色(こがねいろ)衣替(ころもが)えしつつある郊外の草原のなかを、のんびりと走った。彼女が望み、僕もそうしたかったから、車の窓は全開にした。すばらしい香りと肌ざわりの秋風が、彼女と僕と花たちを包みこんだ。子どものように夢中になって、彼女は世界を眺めまわした。(だいだい)や赤に色づく樹々(きぎ)、光り輝く小川や湖水、青空に抱かれる小高い丘。草を()む牛や羊や馬たち。澄んだ声で歌う小鳥たち。そして星屑のように大地に散らばる、蝶たちと野の花々。地平線の彼方には、この国の心ともいうべき偉大な森の外縁(がいえん)がかいま見える。
「なんて綺麗なの」彼女はうっとりと息をもらした。
「このあたりは、いつ来ても美しいんですよ」自分が褒められているみたいに嬉しくなって、僕は声を弾ませた。「春や夏には、見渡す限りの緑に染まります。冬にはよく雪が積もって、一面の銀世界になります。なにもすることがない時、僕はよく一人で郊外を歩きまわります。気持ちがとても落ち着くんです。何度来ても、何度見ても、ちっとも飽きません」
「素敵ですね」彼女は僕の方を向いてうなずいた。風になびく髪が数本、その唇に貼りついていた。「たしかに、いつまでも見ていたくなります」
「王国は、どんなふうですか」僕はたずねた。「あちらにもきっと、綺麗なものや面白いものがたくさんあるのでしょうね」
 彼女はふっと息を吸い、顔のまわりの髪を手で払った。「ええ。でも、こんなに広くてたっぷりとした本物の自然は、もうあまりないかもしれません」
「そうですか」
「私は、こういった景色も含めて、公国が、タヒナータが好きなんです」
「それは光栄です」僕はちらりと彼女の横顔を眺めた。彼女は目を細めて微笑していた。「僕もここが気に入ってます」
 勾配(こうばい)のゆるやかな広野(こうや)のうえを、まるで星座をかたちづくる線のように、いくつもの道が()っていた。街道、村道(そんどう)、そして名もなき田舎道。分岐点を迎えるたびに、車は北へ北へと進路をとった。道中ぽつぽつと続いていた僕らの会話は、いつしかふっつりと途切れた。大峡谷が近づいてきていた。近づくにつれ、あたりの風の音が、質感が、じわじわと変化していった。まるである種の獣が、時間をかけて脱皮していくように。気温は一時間前から変わっていないはずだが、得も言われぬ冷ややかさが五感をかいくぐって沁み込んできた。
「もうすぐです」手にしていた地図を(たた)んで、彼女が小さな声で言った。地図は汗で湿ってくたくたになっていた。
 僕は黙ってうなずいた。
 巨大な谷は深く鋭くほとんど直線状に大地を(えぐ)っていた。車はそれと並行して敷かれた未舗装の街道をじりじりと北上していった。土地の人間である僕であっても、ここへは滅多に近づかない。現に今、僕らのまわりには時たま通り過ぎる馬車や自動車はあっても、わざわざ停まって降りようとする者はない。人影もまったくない。
 やがて谷の此岸(しがん)と対岸を結ぶ鉄道橋の横を通過した。ここまで来れば、本当にもうすぐだ。僕も彼女も、完全に口を閉ざしてその時を待った。彼女は首にゆるく巻いていたマフラーをほどき、両手できつく丸めた。僕らはどちらからともなく車の窓を閉めた。それでも谷間の風の咆哮を()め出すことはできない。かえって余計に気味悪く、それはひゅうううと(うな)って聴こえた。細い雲の群れが矢のように天上を流れていた。空は今日も怖いくらいに青い。谷は果てなく大きく、深い。彼女の心臓の鼓動が、すぐそばに感じられる。それは(はげ)しく痛切に震えている。これはいったい、なんという巡りあわせだろう。僕はすべてに圧倒されていた。


 

は一目でわかった。
 荒々しい街道の脇から、丹念に(なら)された石畳の引き込み道が伸びていた。それは群生する灌木(かんぼく)のあいだを通り抜け、そのまま谷の崖へと続く。そして至った先に、彼女の目的地がある。
 僕らは路傍(ろぼう)に車を停め、それぞれの花束を抱えて、言葉もなく外へ出た。
 二年前に一人の青年の運命が決したその地点に、ちょうど聖堂のなかに(もう)けられていた鎮魂碑とそっくりな石柱が一本、まるで剣のように毅然と立っていた。それは眼下に谷底を臨む断崖のうえで、(はば)むもののない太陽を(よく)し白銀に輝いている。これにもやはり故人の名と、碑文が刻まれている。ただしキャンドルのたぐいを供える洞は()られていない。その代わり、柱の土台の前に三日月のかたちをした黒曜石(こくようせき)の台座が設置されている。そこにいつか誰かが供えたものらしいワインの空き瓶が一つ、ぽつんと立っている。瓶の表面に、枯れてしまったなにかの花びらが付着している。きっとかつて壜口(びんぐち)には花が挿してあったのだろう。でもその中身はどこかへ飛ばされてしまったか、あるいは朽ち果てて粉々(こなごな)になるかして、久しいようだった。
 彼女は一歩一歩を、まるで綱渡りでもするように心して、踏みしめて、進んだ。僕は彼女の影になったつもりで、少し距離をあけて後ろからついていった。三日前に聖堂のなかで僕を突き動かした不穏な予感が、今もまた再燃していた。それは実を言うと鉄道橋を通り過ぎたあたりから、すでにざわざわと僕の胸中でうごめいていた。
 僕は彼女から目を離さなかった。片時も。
 石碑のもとに、ついに彼女は到達した。そしてずっと伏せていた顔を、そこでようやく振り上げた。
 柱の頂点に、壮麗な一羽の鳥の彫像が()っている。彼女の目はしばしそれに釘付けになる。ペリカンのように大きくふくらんだ(くちばし)、キリンのように長くしなやかな首、虎のように引き締まった胴と四肢(しし)、そして蝶にそっくりな形状の翼。
原光鳥(げんこうちょう)」僕はその名を告げた。あえて沈黙を破ることで、

に彼女の意識を繋ぎ留めておくつもりもあった。「ご存知ないですか」
 奇妙な鳥をじっと見あげたまま、彼女は小さく首をかしげた。
「このあたりの土地に古くから伝わる昔話に、しばしば登場する鳥です」声から一切の抑揚を排除して、読み上げるように僕は語った。「死と生を――あるいは消滅と復活を――(つかさど)る、神さまの御使(みつか)いです。死者の魂を正しく冥府へと導き、そしてまた光の世界へと連れ戻す役割を担っている存在です。原光鳥自身も、死者たちとともに何度も何度も転生をくり返して、一つの永遠の命を生き続けているとされています」
 彼女は息を潜めて、僕の話に耳を傾けている。その手応えをはっきりと感じる。僕は続ける。
「原光鳥の巣は、この谷間のどこかにあると言い伝えられています。何千年もの昔から現在に至るまでずっと、原光鳥はそこから地上に暮らすわれわれみんなを見守ってくれているといいます」
「今もですか」彼女は振り返らずにたずねた。「今も、ここにいるのですか」
「ええ」僕は迷わず言い切った。「今も」
 彼女はうなずいた。そして大いなる決意とともに呼吸を整え、用心深く、慎み深く、しかし力強く大きく、一歩前進した。
「兄さん」彼女はまっすぐ前を向いた。
 そうして彼女はひざまずき、台座に花を捧げた。僕もそれに続いた。二つの花束がならべて置かれた。僕はそのへんから(ほど)よい大きさの石ころを拾ってきて、それぞれの花束の(おも)しにした。
「ありがとう」彼女は言った。
「いいえ」僕は言った。そして地面に膝をついたまま両手を組みあわせ、心を込めて簡潔に祈った。そして立ち上がった。「向こうに行っています。お気のすむまで、いらしてください」
「ありがとう」彼女はくり返した。
 僕は後ろ向きに歩いた。彼女の丸まった小さな背中を、視野の中心に据えたまま。ある程度離れると、小道の脇の()の幹に背をあずけた。それから一歩も動かなかった。視点も揺るがさなかった。今日は僕はなんとしても、彼女たちの付添人の役目を務めあげるつもりでいた。いったいこれがどういった運命の采配(さいはい)なのか、僕なんかには皆目(かいもく)見当がつきはしないのだけれど、とにかく今僕がやるべきことは、これ以外になにもなかった。それが僕に与えられている使命だった。僕はそのためにここにいる。
 まるで目の前を舞う(ほたる)かなにかをとらえるようにふんわりと、彼女は左右の手を合わせた。そしてたぶん、両目を閉じた。そこから祈りが始まった。ひざまずいて微動だにしない彼女のまわりを、彼女自身のきらめく髪があたかも守護精霊のように、くるくると風に踊っていた。
 祈りは長く続いた。
 静かで、深くて、そしてどこまでも寂しい祈りだった。
 なぜ人は祈るのだろうと、僕はこれまで何度も考えたものだ。祈りはなんのためにある? なんのために祈る? 祈ってなんになる? 祈ってなにが変わる? 祈ってなにが救われる? 祈ってなにが癒える? 祈ってなにが与えられる? 祈ったところで、なにを、誰を、取り戻せる?…… そんなことをくり返し自問しながら、僕もまた、いかなる回答も得られないまま、来る日も来る日も祈ってきた。結局、祈るしかなかったからだ。他にどうしようもなかったからだ。他のことを思いつけなかったからだ。でもたぶん、

姿

。僕にとっても、彼女にとっても。そして、すべての人にとっても。
 ――ふいに、僕はポケットに差し入れていた両手を外へ出した。
 なんの前触れもなく、彼女が立ち上がった。
 同時に、彼女の髪を束ねていたリボンが自然にほどけて飛んでいった。
 谷の彼岸から風が吹きつけた。
 鋭く、重く、しかし奇妙なほど生温かい無音の風だった。
 陽光とおなじ色に輝く長い髪が、まるで孔雀(くじゃく)の羽のように大きく宙に広がった。
 その次の瞬間のことだった。
 台座のうえに置かれていた白い薔薇の花束が、先刻それを供えた当人の手のなかに、再び取り上げられた。
 僕は全力で駆け出した。
 彼女は片手に花束をわしづかみにして、脇目も振らずに崖の方へと走った。
 ルチア、と僕は叫んだ。
 でも実際には、声は出ていなかった。
 僕の息は止まっていた。
 間に合わなかった。
 彼女の方が先に、崖の(きわ)にめぐらされた石造の柵に到達した。
 頭からぶつかっていくようにして、彼女はそこに全身でしがみついた。
 そして髪も服もなにもかもを振り乱し、力の限りを込めて、花束を谷底へと投げ入れた。
 もし僕がその身体を引き留めていなかったなら、そのまま彼女自身も奈落へ放り出されていたかもしれなかった。そう思えるくらい、それは後先をまったく考えない強暴(きょうぼう)なおこないだった。
 僕は彼女を背後から抱きしめて、無理やり地面に引きずり倒した。
「ルチアさん」その耳もとで、僕は言った。
「うっ――」彼女は(うめ)いた。「――う、うう、うぅっ――……!」
 それから長いこと彼女は泣いた。ためらいのないはげしい涙だった。よくもこんなに一人の人間の体内に涙を溜めておけたものだと、僕は驚嘆も呆然も通り越して、もはやただ純粋に感心するほどだった。
 彼女が完全に落ち着くのを待って、僕らは一緒にこの場から去った。去り際、ついでと言ってはなんだけど、僕が供えた赤い花束も谷底に投げ入れておいた。谷間の風に舞い漂う白や赤の花びらを、神話の鳥がどこかから見ていたことだろう。


    5


 帰り道では、一言も口をきかなかった。ただ彼女が両手で覆った顔の奥から、小さな声でごめんなさいと言ったきりだった。それに対して僕は首を振り、ハンカチを一枚差し出しただけだった。彼女はそれを命綱(いのちづな)みたいにして握りしめ、ぎゅっと目もとに押しつけた。町に着くまで、ずっとそうしていた。帰りは、車の窓は開けなかった。夕刻が近づいていた。地表の空気が冷え込んでいくさまが、目に見えるようだった。
 太陽がほんのりと赤く染まりだした頃、彼女の宿が立つ大通りに差しかかった。そこでようやく彼女は顔をあげた。
「今日は本当に、ありがとうございました」彼女は言った。「これでやっと、気がすみました」
「いいえ」僕は言った。
 車はなかなか前に進まなかった。通りの先の方で、馬車か自動車どうしの事故があったみたいだった。男たちの怒鳴り声や罵声、それにいくつもの警笛の音が聴こえる。手旗や警棒を振る警官たちの姿が、渋滞する車輛のあいだにかいま見える。
「あの、セディさん」彼女は言った。「私、ここでけっこうです。歩いて帰ります」
 僕はなにもこたえなかった。
「また後日、改めてお礼に(うかが)います」彼女は続けた。「これも、洗ってお返しします」
 これとは、絞れるほど濡れそぼったハンカチのことだった。僕はやはり口を開くことなく、ぼんやりと夕焼け空を眺めていた。
 そのまま三分かそこら、(なぎ)のような時間が流れた。
「えっと……」しびれを切らして彼女がこちらをのぞきこんだ。「セディさん?」
「お腹、すきませんか」僕は訊いた。前を向いたまま。
「え?」
「僕、いつも休日の夜は、ちょっと本気を出して料理を作ります」僕は言った。「今夜もそうするつもりです。だいたいの仕込みは昨夜のうちにすませてあるし、ワインやウィスキー、それにデザートだって、ちゃんと用意してあります。どれも、普段より少し上等なやつを」
「はぁ」彼女は遠慮がちに首をかしげた。「それは……素敵、ですね」
「よかったら、召し上がっていかれませんか」しっかりと彼女の目を見て、僕は告げた。
「えっ?」
「今から、うちに来ませんか」
「え……」
 彼女が首を縦に振るまでに数十秒を要したが、そのあいだに僕はすでに車線を変更して交差点を曲がり、町外れへと続く小路(こみち)に入っていた。彼女がなんとこたえようと、このまま一人で帰すつもりはまったくなかった。ここで彼女を一人きりにしてしまうくらいなら、あのまま一緒に谷から身を投げていた方がましだったと思った。


 僕の家は旧市街の外れの高所にある。家自体は小さくて古い煉瓦づくりの一戸建て(しかも平屋)だけど、庭はめちゃくちゃに広く、まるで家を陸の孤島に仕立てあげようとするみたいにぐるりと取り囲んでいる。15歳から休みなく働きづめて、去年やっと手に入れた、僕だけの城だ。まぁ、それなりに借金もしたけど。
 今、庭と言ったけれど、これは最初は庭なんて呼べる代物じゃなかった。かつては雑草や雑木(ぞうき)や誰かが放り込んでいった粗大ごみで溢れる、ちょっとした魔境みたいな空間だった。誰にも頼らず、僕が一人でぜんぶ片付けた。これに一年かかった。綺麗なかたちの草木や、気に入った野花だけ残して、あとはすっかり払い清めた。そこに芝生を植えた。花壇を作った。ちょっとした菜園も作った。読書やお茶を楽しむためのベンチだって置いた。一年前には僕のことを不審がっていた近所の住人たちは、最近じゃ庭の見物に訪れるまでになった。
 でも、やりだしたらつい熱中してしまったけれど、僕はべつに庭づくりがやりたくてこの家を買ったわけじゃない。そもそも僕が求めていたのは、この庭の

だった。僕は子供の頃から、ピアノを弾くのが好きだ。いつか近隣の耳や時間帯を気にすることなく好きなだけピアノを弾くことができる住居を手に入れたいと、ずっと夢見ていた。兄とも、いつかそんな家で一緒に暮らそうと約束していた。
 食事のあとで、彼女が僕にピアノを弾いてほしいと言った。
 僕らはお酒のグラスだけを持って、テーブルを離れた。ビーズで編まれた暖簾(のれん)をじゃらじゃらと掻き分けて、食堂から居間へと移った。居間と言っても、彼女の実家の屋敷のお手洗いくらいの広さしかない(というのはもちろん僕の勝手な想像だが)、こぢんまりとした部屋だ。でも僕にとっては世界でいちばん落ち着ける場所だ。張り替えたばかりの花柄の壁紙、やわらかな木綿の覆いが掛けられたソファ、木目の美しいアンティークの小さな丸テーブル、愛読書の詰まった手作りの本棚、そして我が愛機――アップライトピアノ。それは当然のごとく中古品で、どこもかしこも傷だらけで、調律もすぐに狂ってしまうけど、もはや僕にとっては身体の一部みたいな存在だ。
 彼女はソファに腰かけた。僕はテラスから夜の庭を一望し、窓を閉めた。カーテンは閉めなかった。むしろ(はじ)の方までぜんぶ開けた。(さえぎ)るには惜しい月の光だった。卓上の燭台を灯しても、その光は少しも損なわれなかった。それはまるで洗いたての巨大なシーツのように、僕の家と庭を包み込んでいた。僕はグラスをピアノの屋根に置き、演奏用の椅子に腰かけた。
「なにがいいですか」僕は振り返ってたずねた。
「今セディさんがいちばん弾きたいものを」彼女は言った。
 僕はうなずき、胸を反らせて呼吸を鎮めた。そして弾き始めた。ゆったりとしたテンポの、ラグタイム・ワルツ。明るいんだか暗いんだか、軽いんだか重いんだかよくわからない、なんとも言えず不思議な曲だ。だけど15年間弾きつづけても、飽きるということがまるでない。
 演奏が終わると、彼女はグラスを置いて拍手をしてくれた。僕は振り向いて一礼した。
「素敵でした」彼女は言った。「とても」
「ありがとうございます」僕は言った。
「初めて聴く曲でした。なんという曲ですか?」
「正式な名前はありません」立ち上がってグラスを取り、それに口を付けながら僕は再び腰を降ろした。「兄はただ、〈ワルツ〉と呼んでいました」
「兄?」彼女はひょっと眉をあげた。「セディさんの、お兄さんということですか?」
 僕はグラスを持つ手の指を一本ぴんと伸ばし、ピアノの屋根のうえにならべられた写真立ての一つを示した。彼女はそれにしたがい、()みだらけのセピア色の写真のなかでほほえむ一人の幼い少年に目を向ける。
「この子は?」彼女が訊く。
「兄です」僕はこたえる。「さっきの曲を作ってくれた、僕の兄。名前はニルス。だから僕は普段、今の曲を〈ニルスのワルツ〉って呼んでます。この写真は彼が9歳の誕生日を迎えた朝に撮ったものです。他に、まともに彼の顔が映ってる写真がないもので」
「そうでしたか」感じ入ったように、彼女はゆっくりうなずいた。「お兄さんは、作曲をなさるかたなのですね」
「作曲だけじゃありません」僕はちらりと兄の写真を見やった。そしてすぐに視線をグラスのなかに戻した。「作曲、演奏、料理に裁縫、写生に野球、それに喧嘩やデートまで、なんだって器用にこなしてしまう人でした。僕にピアノを教えてくれたのも彼です。でも彼自身は、音楽より絵の方が自分には向いてるって言ってました。実際、彼は絵がものすごく上手かった。僕もよく一緒に描いたけど、まるで歯が立ちませんでした」
「へぇ……」彼女はグラスを両手で包むように持ち、そっとソファに背を預けた。その瞳は屈託のない好奇心できらめいている。
「でもね、兄はいつも僕の絵を褒めてくれました。おまえの絵って、でたらめだけど素直で自由で、見てて面白いよ、って。ぼくもおまえみたいに描けたらと思うよ、って」
 ふっと微笑し、彼女は飲み物をひとくち音もなくすすった。そして改めて写真のなかの兄を眺めた。彼女は短く息を吸い込んだ。
「彼が死んで15年になります」彼女が口を開く前に、僕は告げた。「僕の兄は17歳でこの世を去りました。その当時、僕はまだ10歳になったばかりでした」
 やはり居間は静けさに沈んだ。彼女を絶句させてしまったことを、僕は申し訳なく思った。でもどうしようもない。それは話の運びにおいて告げずにすませるわけにはいかない事実だったし、それにそもそも、単純な意味あいにおいて、


「みなさん、さぞや無念だったことでしょう」まるで花瓶に花を一輪挿すようにそっと、彼女がささやいた。「ずいぶん、お若かったのですね」
「ええ、まったく」僕は喉を鳴らしてグラスの中身を(から)にした。「まさか自分があの頃の兄の(とし)を越えて生きてるなんて、今でも時々信じられなくなります。彼は事故死でした。父親が営む製材所で、大きな機械に巻き込まれたことがきっかけで亡くなりました。彼は僕を」ごくりと僕は唾を呑んだ。そして立ち上がった。「僕を(かば)ってくれたんです。さて、もう一杯いくかな」
 彼女がこちらを見あげた。
 僕はそちらの方は見ずにたずねた。
「ルチアさんも、いかがですか」
「いただきます」彼女は言った。間髪を入れずに。


 一杯ではすまなかった。僕はうちの戸棚に収められているなかでいちばん上物のウィスキーの封を解き、彼女と自分自身に惜しげなく振る舞った。僕はグラスに同量の水で割った。彼女は七分目の量の水で割った。音楽や文芸が二人の共通の趣味だと判明してからは、話題が尽きることがなかった。彼女は前衛的な音楽や小説が好きだということだった。僕は古典的な音楽や小説が好きだった。でも、議論は静かに豊かに喜ばしく白熱した。意見や主張がぶつかりあったりすることは一度もなかった。結局のところ、前衛性のなかにも古典を希求する精神が潜在し、古典性のなかにも前衛を希求する精神が潜在するということを、僕らはどちらも直観的に理解し、それどころか、深いところでは自覚のないままに、その

を強く求めてさえいるのだろう――というところで、話は決着した。
 夜は更けた。ウィスキーは瓶に半分ほどまで減った。僕も彼女もくたくたになっていた。長い一日だった。これが本当の最後の一杯と暗黙のうちに了承しあって、僕らはグラスを満たした。僕らは僕らの兄たちに乾杯し、この不思議な巡り逢いに乾杯した。僕はテラスの窓を全開にした。庭に潜む秋の虫たちの鳴き声が、まるで海の波音のように優しく押し寄せてきた。
「綺麗なお庭ですね」窓辺に立って、彼女が言った。「それに、月も」
 青く澄んだ光に輪郭を縁取(ふちど)られる彼女の後ろ姿を一目見た瞬間に、突然僕のなかで氷が()けた。
 僕はグラスを丸テーブルに置き、彼女になにも告げないまま自分の寝室へと向かった。そしてその部屋の地下収納の(ふた)をこじ開け、奥底から一枚の絵を取り出した。紙面を開かない状態の新聞くらいの大きさの、木枠に張られたキャンバスに描かれた作品だ。その表面はぴっしりと隙間なく厚紙で包装され、さらにそのうえから太い麻の(ひも)で縦に横に斜めに厳重に縛ってある。知らない人が見たらこれを絵だとは思わないだろう。居間に戻った僕に、彼女がそのとおりのことをたずねた。
「それは?」
「絵です」僕は庭先に出ながらこたえた。
 彼女は窓枠にそっと肩を寄りかからせ、包装紙にこびりついた埃をはたき落とす僕の奮闘を黙って眺めた。あらかたの粉塵を払いのけると、僕はその場に立ったまま絵の包装を解きはじめた。
 僕はほどいた。15年前に自分が結びつけた紐を。
 僕は破った。15年前に自分が巻きつけた紙を。
「原光鳥……」彼女が目を細めて言った。「ですよね?」
 僕はうなずいた。そして両手でキャンバスを持ち、月の光の下に絵を明らかにした。そこには画面からはみ出しそうなくらい大きく、一羽の原光鳥が描かれている。その全身は黄金に輝き、虹色の波動をまとった白く巨大な後光を背負って飛んでいる。まるで、この絵そのものが光を放っているみたいだ。
「力のある絵ですね」真剣な表情で彼女が言った。
「ええ」僕は浅く息を吐いた。「兄の最後の作品です」
 彼女は自分のグラスを僕のグラスの横に置いた。「あの、私もそちらに行ってもいいですか」
「ええ」
 彼女は僕の隣に立ち、しばらくじっくりと絵を鑑賞した。それがいったん終わるのを待って、僕は絵の裏表をひっくり返した。キャンバスの裏地に、流麗な筆跡で短い文章が書きつけてある。彼女はそれを読む。僕も読む。でも読むまでもなく、その文章を僕は15年間ただの一日たりとも忘れたことはなかった。

〈 セディへ
 
   ぼくは死なないと思う。
   でももしもぼくがいなくなったら、この絵をおまえの手でもやしてほしい。
   ぼくはきっと死なないと思う。

      おまえの兄 ニルスより

              愛をこめて 〉

「この絵を、兄は病室で描きました」僕は言った。「事故のあと一週間ほど、容態が安定した時期があったんです。そのあいだに、彼はこれを描きあげることに全精力を傾けました。その鬼気迫る姿は、近くで見ていると、ほとんど怖いくらいだった」
 彼女はなにも言わずにいてくれた。ただ沈黙して、僕の隣にいてくれた。
「そして完成したこの絵を、彼は僕にくれたんです。絵を受け取った次の日の朝に、僕は兄に永遠の別れを告げました」
 僕は深呼吸して、ゆっくりと足を前へ踏み出した。彼女はやはり口をつぐんだまま、僕とならんで歩いてくれた。
 家の裏手の庭に、眼下に街並みを望む開けた場所がある。まわりを石塀と背の低い樹々(きぎ)に囲まれたそこは、ちょっとした手つかずの野原みたいになっている。近所の目の届かないここで、僕はよく昼寝をしたり、(まき)を割ったり石を削ったりする。絵をしばし彼女に預けて、僕は余っていた煉瓦をいくつか持ってきた。そしてそれを地面に敷きならべて、即席の祭壇を作った。
 そこに絵を載せた。
「いいのですか?」彼女がたずねた。
「はい」僕は言った。「今がその時です」
 僕はマッチを擦り、持参したロウソクに火をつけ、そしてそれをキャンバスの中心にくべた。空気は乾いていた。風も霧もなかった。火をさまたげるものはなにもなかった。
 昼寝用のビーチベッドを持ってきて、僕と彼女はそこにならんで腰を降ろした。そして二人で天上へと還っていく神の鳥を眺めた。それは(あか)く美しく燃えた。月と星々にたぐり寄せられるように、銀色の煙が空へ向かってふわふわと昇っていった。ここまで来るのに、15年かかった。
「グラスを持ってきとくんだったな」僕は冗談めかして言った。
「……そうですね」彼女は目を閉じて小さく苦笑した。
「死んだのがニルスじゃなくておまえだったらよかったのにと、父は僕に言いました」炎を見つめながら、僕は言った。「彼は僕に三度、そう言いました。二度は耐えました。でも三度目の時に、僕は家を出ました」
 彼女はやはり黙って聴いていてくれた。
「それきり、家には帰っていません。父とも会っていません。母とは、年に一度くらいは会います。会うたびに彼女は、僕に兄のぶんまでがんばって生きるようにと言います。でも僕はいつもそれを拒絶します。僕は僕のぶんを生きるだけで精一杯だよ、と僕は言います。それでいつも喧嘩になります。それにそもそも、兄は……」
 いま僕は、これまで誰にも――自分自身にさえも――見せようとしてこなかったものを、暗く深い井戸の底から引き上げようとしていた。彼女の肩が僕の肩にそっと触れた。
「……兄は、僕の兄は、きちんと彼のぶんを生きたんです。それは人と比べて短いものだったし、結末はとても不幸なものではあったけれど、それでも彼は、兄さんは、彼の持てる力のすべてを使い果たして生き抜いたのだと、僕は思っています」
「そのとおりです」彼女は言った。
 今度は僕がためらいなく泣く番だった。今度は彼女が僕を地上に引き留める番だった。僕は長く泣いた。15年前のあの日にも、こんなには泣かなかった。彼女がずっとそばにいてくれた。
 やがて絵は消えた。それはわずかな灰だけを、まるで小さな足跡(あしあと)みたいに残して、この世から去った。でも僕は、これほど兄の魂をすぐそばに感じたことは、今までなかった。涙が枯れてしまうと、そこからは僕の生涯において最も澄み渡った祈りの時間が始まった。彼女もまた、それに付き合ってくれた。彼女にも、祈る理由があった。いつでも名前を呼びたい人がいた。いつまでも愛したい人がいた。僕らの抱える空洞の底に、まるで静かに雨水が注ぐように、あるいは木漏れ日が降るように、温かい

()み渡っていった。その

は、なんだかひどく懐かしく、薫り高く、そして慈悲深い感じがするものだった。それは水のように、光のように、あるいは音楽のように、ゆっくりと満ちていった。
「ありがとう」僕は彼女の目を見て言った。
 彼女もまた、おなじ言葉を口にした。やはり僕の目をまっすぐに見ながら。
「また会えますか」
 この夜の最後に彼女が言った。もちろん、と僕はこたえた。
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