もしも僕が家を建てたなら

文字数 16,834文字

       1


 猫たちに少し早めの昼食を与えると、モニクは礼拝堂を出ました。(おもて)の玄関から出たのでしたが、扉に施錠はしません。むしろ半分開けたままにしておき、猫たちが好きに通れるように、そして(いの)りに来た人が自由に出入りできるようにしておきます。けれど、自分が寝泊まりしている部屋や台所のある翼廊(よくろう)へ通じる扉と、建物の裏の勝手口には、きちんと鍵をかけました。
 春の真っ盛りの、晴れやかな日でした。空は一面こってりと青く塗られ、太陽は地上の花々に負けじと満開になっています。
 モニクは玄関先で立ち止まり、甘く(かぐわ)しい空気で肺をいっぱいにしました。そして目を細めてあたりを見渡し、風が運んでくる音に耳を傾けます。丘を包み込む森の震えが、目の前に広がる草原(くさはら)の息づかいが、まるで鳴り止むことのない親密な喝采のように、彼女の世界を満たしています。
 なにに対してというわけでもなく一度うなずくと、モニクは今日の第一歩を踏み出しました。


 彼女が暮らす礼拝堂を含めて、この丘の(いただき)には三つの建物が立っています。それらはまるで一続(ひとつづ)きに繋がっている器官のように、ひろびろとした野原のうえで肩をならべています。モニクは通い慣れた砂利道(じゃりみち)を大股で進み、三軒のうちのまんなかに立つ建物に向かいました。
 それは彼女が責任者をつとめている、小さな縫製工場(ほうせいこうば)でした。
 彼女の姿に気付いた女性たちが、次々と窓越しに手を振ってきます。モニクもそれにこたえます。大部屋のなかにずらりと居並ぶ女性たちの机では、足踏みミシンがきしきしきしきしと小気味の良い音を響かせています。
 一階の事務所に入ると、さっそく経理担当の女性が彼女を出迎えました。
「お早いお出かけですね」
「ちょっと届けものがあってね」
「では、馬車で?」
「いいや」モニクは肩にかけたナップザックを軽くゆすります。「いつものやつで行くよ。たいした荷物じゃないし、このとおり、せっかくの日和(ひより)だからさ。夕方までには戻るよ。みんなによろしく言っといておくれ」
「わかりました」経理の女性はうなずきます。「行ってらっしゃいませ」
 工場を少し迂回するようにしてさらに砂利道を奥へ行くと、悠然と()を浴びる庭の樹々(きぎ)のあいだに、最後の一軒が見えてきます。鮮やかな(だいだい)色の三角屋根と、真っ白に塗装された外壁がまぶしい、のんびりとした(たたず)まいの木造二階建ての家屋です。今は屋内に住人の気配はありませんが、モニクはそのことを承知しています。彼女はただ、先日からこの家の横手に停めたままにしておいた自分の自転車を、取りに来たところです。
 ナップザックの(ひも)をしっかりと両肩にかけて、彼女はサドルにまたがりました。それから真っ黒なレンズの遮光眼鏡をかけて、いきおいよくペダルを一漕(ひとこ)ぎします。
 けれどその途端、ふいに後ろ髪を引かれるように停車し、しぶしぶ振り返ります。
 ちょうど彼女の目線の先に見えている家の二階のベランダに、いくつかの洗濯物が干してあります。そのうちの一つ、上品なかたちをしたパフスリーブの花柄のワンピースが、今にもずり落ちてしまいそうに、かろうじてハンガーの(はじ)っこにしがみついています。穏やかな春のそよ風に、そこまでの悪戯(いたずら)ができるとは思えません。
「まったく。よっぽど慌ててたみたいだね」肩をすくめて、モニクは自転車を降りました。「だから夜更かしはほどほどにしろって、いつも言ってるんだ」
 ポケットから鍵束を取り出すと、彼女は合鍵を使って家に入りました。念のため居間と食堂の戸締まりまで点検してから、一息(ひといき)で階段をのぼります。ベランダに出てワンピースの窮地を救い、ついでにもう乾いていた洗濯物を三つ四つ取り込んでしまうと、さっさと外へ舞い戻ります。
 玄関を出る間際、壁に掛けられた姿見(すがたみ)に映る自分自身と、思いがけず目が合いました。
 世の男たちをたやすく超す堂々たる()(たけ)、四十も半ばを越えてなお衰えることのない屈強な肢体(したい)赤銅(しゃくどう)の粉をまぶしたように輝く黄金色(こがねいろ)の髪は、ざっくりと三つに編んで胸の前に降ろしてあります。眼鏡の上辺(じょうへん)からちらりとのぞく瞳は、淡くきらめく緑。今日の外出着は、上下の揃った濃い水色の背広。シャツは落ち着いた乳白色で、首もとには小さなカモメの模様が散りばめられた(こん)のスカーフ。なにやかやと忙しかった一週間を切り抜けたおかげで、肉付きの少ない頬はいつもより余計にこけて見えます。
 まるで腐れ縁の旧友にでも出くわしたみたいに、モニクは鏡の向こうの人物に無言で笑いかけました。直後、食堂の鳩時計がぽっぽうと一度だけ鳴きました。十一時三十分。少し急ぐ必要があります。丘から下界の町までは、彼女の健脚をもってしても、自転車でおよそ二、三十分はかかります。


       2


 午前の最後の授業が終わり、昼休みを告げる鐘がきんこんかんと叩かれるやいなや、校舎から子どもたちがいっせいに飛び出してきます。お日様の降り注ぐ校庭はまたたく間に青空食堂と化し、そこかしこでお弁当の包みが開かれます。
 しばらくすると、職員室の裏口から一人の教師が外へ出てきました。
 ともすれば生徒の一員に見えてしまいかねない、とても小柄で年若い女性です。短く整えられた金とも銀ともつかない色味の髪は、ちょっとだけ横のところが跳ねています。セーターにもスカートにも、チョークの粉が付着した跡があります。大きな丸眼鏡が小さな鼻のうえで斜めに(かし)いでいます。
 子どもたちにきゃあきゃあと(はや)し立てられながら、彼女はばつがわるそうに校庭を横切ってきます。モニクは校門の脇に立って、その様子を呆れ顔で眺めていました。
「ごめんね」言うが早いか、女性は両手を合わせて深く頭を下げました。
「ほら」目の前までやって来た彼女に向けて、モニクはナップザックから取り出したお弁当を差し出しました。
「ありがとう」にっこりと笑って、女性はそれを受け取ります。「次からは気をつけるね」
「聞き飽きたよ、その文句は」
 そこで二人のそばを通りがかったわんぱくたちが、「またハスキル先生が忘れ物してる!」とさかんにからかいながら、走り去っていきました。続いて、校庭じゅうから、くすくすと笑う声が巻き起こります。
 みんなから隠すようにお弁当をぎゅっと抱きしめると、ハスキルは背中を丸めて赤面してしまいました。モニクはため息をついて、彼女の頭をぽんと叩きました。
「しっかりおしよ。忘れ物をする子を、あんたはこの先どんな顔して(しか)るんだい」
「ほんとだよね」ハスキルは顔を上げて苦笑します。
「笑ってる場合かね」
 かぶりを振って、モニクは腕組みをします。いちおうそれらしく(いか)めしい表情をつくってはいますが、実のところ、内心はさっぱりなんとも思っていないのが明らかです。
 この新米の教師がときどき忘れ物やうっかりをやらかすことを、モニクはよく知っていました。
 けれど、ハスキルが忘れたりうっかりしたりする対象は、いつも決まって

でした。自分以外の誰かを傷つけたり悲しませたりするような失敗を彼女がおかすところを、一緒に暮らしてきたこの七年間、モニクはただの一度も見たことがありません。
「モニクは? もうお昼食べた?」ハスキルがたずねます。
「まだだよ。先に銀行の用事を片付けてから、どこかで適当にすませるつもり」
「そっか」背筋をしゃんと伸ばして、ハスキルはほほえみます。「じゃあまた夜にね。今夜はわたしがごはん作るから、うちに来てよ」
 大きな手のひらを再び差し伸べ、跳ねた髪をそっと直してやりながら、モニクはうなずきます。「午後もがんばるんだよ」
「まかせて!」若き教師は自分の胸をどんと叩きます。「明日は待ちに待ったお休みだしね。最後まで全力で駆け抜けるわ」
「ま、ほどほどにね」
 子供たちの笑顔のあいだをすいすいと歩き去っていく小さな背中を見送ると、モニクは愛車と共にその場を(あと)にしました。


 ハスキルが勤める初等教育学院は、タヒナータの町のなかで旧市街と呼ばれる地区の(はず)れにありました。目的の銀行は、まさにそこから町の反対側、新市街の中心部にあります。
 その道のりを、モニクは歩くような速度でぶらぶらと辿(たど)りました。陽射しも風も柔らかで温かく、まるで湯のなかを泳いでいるような心地がします。先を急ぎたくなる気持ちなど、少しも湧いてきません。時折(ときおり)すれ違いざまに、見知った町民が挨拶を送ってきます。そのたびに、彼女は自転車のベルをちりんと鳴らして応じます。
 橋を渡って大きな川を越え、新市街に入ると、まっすぐに銀行へ向かって用件を完遂しました。これで今週じゅうに自分がなすべき重要な仕事は、すっかり終えたことになります。
 しかし、モニクの顔色はいまいち冴えません。
 銀行の(おもて)の階段の最上段に立って、彼女は真正面に開けた大通りを(にら)みつけます。
 正確には、通りそのものではなく、それが果てる先のさらに向こうの、空の彼方にそびえる雄大な(みね)の、そのまた頂上に輝く銀色の宮殿を。そして、それを守護するように巡らされた高い石壁(せきへき)を。
 近頃はどこもかしこも、かの建造物の噂で持ちきりです。着工からわずか五年という驚異的な早さで建設が進められ、いよいよこの夏には完成するものと目されている、コランダム公国の新たな要塞宮殿。
「どこからでも見えやがるね」モニクは忌々(いまいま)しげに毒づきます。「いっそ、あれが()っかってる山の(ふもと)に暮らしたら、毎日見ずにすむのかもしれないね」
 けれど現実は皮肉なもので、彼女とハスキルが暮らす郊外の丘からは、この町からこうして見上げるよりも遥かに間近に、くっきりと、あれらの建物が目に入ってしまうのでした。近年の公国が押し進める軍備拡張政策に強い反感を抱く彼女にとって、それはまったく歓迎しがたい状況でした。
 とはいえ、今さら彼女一人が駄々をこねたところで、なにがどうなるわけでもありません。まさか今の家から引っ越すなんていうことも、決して本気で考えているわけではありません。あの丘の守手(まもりて)として生涯を尽くすことを、彼女は七年も前に誓っています。
 気を取り直すようにぐっと胸を()らせ、大きく息を吸って吐くと、モニクは再び自転車で出発しました。
 でもいくらも進まないうちに、ブレーキを握りました。
 目抜き通りにあふれる雑踏のなかに、馴染みの顔を一つ発見したのでした。
 遮光眼鏡を少しずらして、モニクはその若い男性の姿を凝視します。首の後ろで短く束ねられた、蜂蜜色の波打つ髪。ほっそりした中背の体を包む濃緑色の騎士団員制服。まるで風に吹かれる煙のようにふわふわとした身のこなし。そしてあいかわらずの、静かにまどろむような――モニク流の言葉づかいで表すなら、「(ねん)がら年じゅう寝惚(ねぼ)けちまってるみたいな」――顔つき。どうやら他人の空似ではなさそうです。
「なにやってんだろうね、こんな時間に」
 怪訝(けげん)そうにつぶやくと、モニクは自転車を手で押して彼の跡をつけました。一定の距離をおいて、音もなく、気配もなく、まるで影のようにぴったりとくっついて、相手の背中を追いかけます。
 青年は一度も後ろを振り返ることなく軽やかに()を運び、やがて一軒の玩具店に入っていきました。モニクは小さくため息をつき、自転車を歩道の脇に停めて、少し時間をあけてからおなじ店を訪ねました。
 店内の奥の、天井まで届く壁一面の棚に詰め込まれた大量のぬいぐるみの前で、青年はなにごとかを深く熟考している様子です。その背後から、モニクはやはり足音も気配も消して、じりじりと接近していきます。
「ねぇ、どっちがいいと思います?」
 まったく出しぬけに、腕を組んで前を向いた姿勢のまま、ぼんやりとした口調で青年が問いかけました。今のところ彼は一人きりで、同行者はいません。近くにほかの客や店員の姿もありません。
 こっそり舌打ちをすると、モニクは(ゆう)に十歩ぶんはある距離をずんずんと進み出て、彼の隣に立ちました。
「どれとどれで悩んでるんだい」
「あれと」青年は棚のうえの方を指差します。「あれです」今度は右下の方。
「あの……ライオンのやつと、トカゲのやつ?」
「違いますよ」首を振って青年は笑います。「あ、ライオンは合ってます。でもトカゲじゃなくて、その隣のカバですよ」
「ふぅん」モニクは両手を腰に当てて、きつい鼻息を一つ吹きます。「なんだか、どっちもどっちだねぇ。……というか、レイ」
 レイと呼ばれた青年は、腕をほどいて彼女の顔を見上げます。「はい。なんでしょう」
「あんた、あの子の部屋をぬいぐるみで埋め尽くそうってのかい?」モニクはじろりと青年を見おろします。「それとも、ゆくゆくはあの家まるごと、ぬいぐるみ博物館にでもするつもりなのかい?」
「ははは。そいつは良い考えだなぁ」
「はははじゃないよ。それにそもそも、もうライオンもカバもあげたことあるだろ」
「え?」レイは首をかしげます。「……いや、僕の覚えてるかぎり、ライオンもカバもまだあげたことないです。あ~、もしかしてそれって、去年あげたヤマネコとアリクイのことじゃないですか?」
 そう言われて、モニクは思わず眉間に(しわ)を寄せて考えこみます。そしてハスキルの部屋に山と積まれたぬいぐるみたちの顔を、一つ一つ思いだそうとしてみます。けれどその試みは、早々(はやばや)と頓挫してしまいます。色も形も大きさも種族もごたまぜのあの大軍団を一人ずつ正確に識別することに比べたら、まだ森に生えている野草の種類を見分けることの方が簡単そうです。
「そうだったかねぇ」モニクはうつむきます。それから一瞬黙りこくったのち、さっと首を打ち振ります。「いやいや、そんなことはいいんだよ。あたしはあんたに、こんなところでなに油売ってんだって言いに来たんだよ。そろそろ詰所に戻ってなきゃいけない時間だろ?」
「今日は夜番(よばん)なんですよ、僕」再び陳列棚に見入りながら、レイはこたえます。
「あぁ」すぐさまモニクは納得し、謝罪の意を込めて軽く頭を下げます。「そうだったの」
「ところで、モニクさん」ライオンをじっと見つめたまま、青年が呼びかけます。「覚えてます? こないだの腕相撲の勝負」
 モニクは大仰(おおぎょう)に嘆息します。悔しい気持ちがどっと(よみがえ)ってきます。
「もちろん、忘れるもんかね」彼女は低い声でうなります。「まったく、なよなよしてるくせに、腕っぷしだけは一人前なんだから」
「へへ」青年はいたずらっぽい表情でこちらを向きます。「じゃ、あの約束も覚えてますか? 負けたらなんでも言うこと一つ聞く、ってやつ」
 モニクは短くうなずきます。悔しい気持ちがさらに上塗(うわぬ)りされます。
「僕、お昼まだなんですけど」自分のお腹をさすりながら、青年は彼女の仏頂面をのぞきこみました。
 観念して、モニクはふっと笑いました。「あたしもだよ。……仕方ないね、どこでも好きな店を選びな」
「やったぁ」青年はえくぼをつくって笑いました。


       3


 かつてモニク・ペパーズは、大陸各地の紛争地帯や貧困地区で救護活動に従事する国際組織〈救世隊(きゅうせいたい)〉の一員でした。それ以前には、紛争地のまっただなかで負傷者を生み出す(がわ)の人間――根無し草の雇われ兵――だった彼女が、その組織に所属することになったのは、ある戦場で出逢った二人の医術士によって命を救われたことがきっかけでした。
 その二人こそ、ハスキルの両親であるエーレンガート夫妻でした。夫妻は共同で救世隊の(いち)医療班を指揮していました。
 彼らへの恩義に報いるため、モニクは自身の快復と同時に傭兵の職をきっぱりと捨て、夫妻に付き従う医療助士の道を邁進しました。数々の過酷な環境をともに(くぐ)り抜けるうちに、いつしか三人のあいだには、家族同然の心の結びつきが生まれました。
 夫妻に、いわば「本物の家族」である一人娘がいることを、モニクは早くから知らされていました。そして、二人がことあるごとに、故郷に置き去りにすることの多い娘の安否を気にかけていることにも、彼女はすぐに気付きました。
 初めて二人に同行してエーレンガート家を訪れたその日にはもう、彼女のなかで永遠に(くつがえ)ることのない決意が固められていました。恩人夫妻の娘とこの丘の平安を、あたしはこれから一生をかけて護っていく。
 さいわい、優しく素直な少女に育っていたハスキルと、飾らない正直な性格のモニクとは、あっという間に大の仲良しになりました。まるで、どこかで別々に分かれてしまっていた鍵と鍵穴が再会したかのように、二人の気質はしっくりと噛み合いました。
 丘で一緒に暮らしはじめてすぐの頃、ハスキルは新しい家族に幼馴染みの少年を紹介しました。それがレイ・バックリィでした。少女と少年は保育園からの親友どうしで、この当時まだ両者とも11歳になったばかりでした。少年は町外れの借家で厳格な祖父母と三人で暮らしていました。少女があちらの家を訪ねることも(まれ)にありましたが、だいたいは少年が丘へ遊びに来ました。実の家族のように屈託なく互いを想いあう幼い二人を、モニクはいつも近くから見守ってきました。


 レイが選んだのは、新市街に最近できたばかりの喫茶店でした。一階に美容院が入っている建物の二階にある、こざっぱりとした店でした。調度品も食器もメニュー表も、すべてが鏡のようにつやつやと輝いています。ベランダが広くとってあり、外の街路樹の枝葉が屋内にまで迫ってきています。大半のテーブルが客で埋まっていて、そのほぼ全員が若い女性です。
 二人は大きな窓の前の席に通されました。モニクは露骨に顔をしかめて、窓に背を向けている方の椅子に腰掛けました。その正面に座ったレイは、彼女の肩越しに山上の要塞を一瞥(いちべつ)し、小さく苦笑しました。
 注文した品が運ばれてくるのを待つあいだ、モニクはまわりの客の様子を仔細に観察しました。率直に言って、彼女が普段つきあっている女性たちとは別の世界に住む女性たちばかりです。
「意外だね」モニクは声を潜めます。「こんなところに来たかったのかい?」
「調査のためですよ」青年もまた店内をそれとなく見渡しながら、小声でこたえます。「良いお店だったら、今度ハスキルと一緒に来てみようと思って。お客は女の人ばっかりだって聞いてたから、僕一人じゃ入りづらかったんです」
 モニクは再び店を一巡(いちじゅん)眺めまわし、落ち着かなげに何度か(あし)を組み替えました。「……ま、綺麗な店では、あるけどね」
「ええ」レイは空の青と()の緑に二分(にぶん)される外の景色を、まぶしそうに眺めます。「そうですね。ま、綺麗です」
 だいぶ待ってようやく出てきた料理もまた、「ま、綺麗」なものでした。
「……こんなんじゃ足りないだろ」口もとを拭って、モニクが青年に声をかけました。「もう一品、頼むといいよ」
「いや、でも」
「遠慮しなさんな」
 手を挙げて給仕係にメニューを持ってくるよう頼むと、モニクはそれを青年の前に開いて置きました。そしてぐっと(あご)を突き出して、有無を言わさず追加の注文を命じました。
「ごめんなさい」青年はぺこりと一礼します。「それじゃあ、お言葉に甘えます」
 次の品を彼が平らげているあいだ、モニクはちびちびとコーヒーを飲みながら、その様子をなんとはなしに見守りました。丘の家で彼と初めて顔を合わせたのが、彼女にはまだつい昨日のことのように思いだされます。その頃の彼は、ほんとうにごく普通の、取りたてて人目を引くところのない、やせっぽちの男の子でした。いえ、今だって、その頃からほとんどなにも変わっていません。体の線が細いことも、顔つきに少々()まりがないことも、気性が綿雲(わたぐも)みたいに穏やかなことも、なにもかもそっくり子供の時のままです。
 そして、ちゃんばら遊びだけは、常軌を(いっ)して上手だったことも。


 青年が食べ終わるのを見計らって、モニクは口を開きました。
「あそこには、騎士団の新しい兵舎も建つんだろ」言いながら、振り返ることなく背後の空を親指で差します。「あんたも行くことになるのかい?」
 静かにナイフとフォークを置き、レイは顔を上げます。
「さぁ、どうなるんでしょうね」青年は口のまわりを綺麗にし、グラスの水をひとくち飲みます。「僕らはまだ、なにも聞かされてません。まさか団の全員があっちに移るってことは、ないと思うけど」
「首都の市街がからっぽになるからね」
「ええ」青年はうなずきます。「でも団長とかお偉方(えらがた)たちは、みんな向こうに行くのが決まってるって話です」
「どっちがいいの、あんたは」ゆったりと脚を組み直して、モニクはさりげなくたずねます。「街に残るのと、あそこに行くのと」
「どっちでも」青年は即答します。「この街の近くにいられるのなら、僕はどっちでもかまいません」
 そう語る彼の瞳の奥にあの丘の光景が広がるのを、モニクはまざまざと目撃しました。(ひそ)かに胸を熱くして、彼女はこくりとうなずきます。
 しかし、
「……あぁ、でも、どっちにしようかなぁ」
 ふいに眉根を寄せて、青年は弱々しくこぼしました。一瞬でモニクの胸は冷えてしまいました。
「なんだい、頼りないね」彼女は声を荒げます。「腕っぷしばっかり強くなって、そういうところは昔からちっとも変わりゃしないんだから。いいかい、いったん口にした言葉ってのは――」
「カバがいいかなぁ」青年は腕組みしてうなります。「いや、やっぱりライオンかな……」
 ぱったりと両目を閉じ、モニクは自分の眉間を指先で強くつまみます。
「ね、どう思います?」テーブルのうえに身を乗り出して、青年は真剣な表情で意見を求めます。
「もう、好きにおしよ!」かっと目を開き、モニクは一喝(いっかつ)します。「ライオンもカバも、たいして変わりゃしないよ」
「え~。ぜんぜんちがいますよ」
「ちがわない。というかね、あんたもハスキルもぼちぼちいい年頃なんだから、そろそろそういうのは卒業して、もっとこう……」
「もっとこう?」青年は首をかしげます。
「もっとこう……なんていうか、年頃の娘が喜ぶような品物をだね」
「年頃の娘」まるで、話には聞いたことのある(話に聞いたことしかない)小説の題名でも読みあげるような口ぶりで、レイはくり返します。「でも、ハスキルはとても喜ぶんですよ。彼女はぬいぐるみが好きなんです」
「知ってるよ、そんなことは」モニクは呆然と天井を仰ぎます。「でも、あの子だってもう18になるんだ。ライオンやらトカゲやらより、もうちょっと相応(ふさわ)しいものがあるんじゃないのかね」
「ふむ」青年は神妙な面持ちで腕を組みます。「それって、たとえば、どんな?」
「どんなって」
 とっさに言葉が途切れます。言い出したのは自分でしたが、それは彼女が最も不得手(ふえて)とする話題の一つでした。思わず目が泳いでしまうのを、彼女は抑えることができません。
 けれど今は幸運にも、泳ぎながらたくさんの実例を鑑賞することができます。
「たとえばだね……」モニクはカウンター席に一人座って書き物をしている若い女性に目を留めます。「金のイヤリングとか」続いてベランダで談笑する優雅なご婦人に視線を移します。「銀のネックレスとか」それから、壁に掛けられたポスターのなかのお姫様。「宝石のブローチとか」最後に、今しがた店に入ってきたばかりの、育ちの良さそうな二十歳(はたち)くらいの娘。「天然石の指輪とか」
「イヤリング、ネックレス、ブローチ、ユビワ」青年は夜空の星を観測するような遠い目をして、復唱します。そして徐々にうっすらと、頬を紅潮させます。「指輪ってのは、なんかちょっと照れくさいな。ほら、あの、ブレスレットとかじゃだめですか。おんなじ()っかだし」
「なんだっていいんだよ」やけっぱちでコーヒーを一気飲みして、モニクは憮然(ぶぜん)と言い放ちます。「ともかく、なんていうか、そういうものだ」
「そういうものですね」青年は背中をまっすぐにしてうなずきます。「そういうものなんだ。なるほど。たいへん勉強になります」
「……だろ」なにやら急に込みあげてきた疲労感を押し隠しながら、彼女はうなずきました。
 ちょうどそこで、町の時計塔の鐘が立て続けに二度鳴らされました。その音は思いのほか大きくて、店内のお喋りがいっせいに()みました。鐘の余韻が遠ざかると、それと入れ替わるように、樹々(きぎ)葉音(はおと)がさわさわと流れ込んできます。
「二時か」窓から吹き込むそよ風を顔に浴びて、レイは青空を見あげました。
「そろそろ行くかい」モニクがたずねます。
 青年はうなずきます。「ごちそうさまでした。モニクさん、いつもありがとう」
 彼女は柔らかく首を振り、騎士団員の制服の肩に着いていた小さな糸屑(いとくず)を、そっとはたき落としてあげました。
「午後もがんばるんだよ」彼女は言いました。


       4


 翌朝、モニクはいつもの休日より少し早起きをして、礼拝堂の裏にある(うまや)に向かいました。そしてそこで暮らす一頭の牡馬(おすうま)に、いつもより多めの朝食を与えました。馬は食欲も旺盛で、体調も万全で、機嫌も良好のようです。今日はよろしくな、と彼の耳もとでささやくと、モニクは意気揚々と馬車を出しました。
 十時過ぎに、ハスキルがやって来ました。今日の彼女は、袖のふくらんだ花柄のワンピースを着て、真っ白な丸い帽子をかぶっています。胸の前にかけられたキャンバス地の(かばん)のなかから、スケッチブックの(かど)が少しだけはみ出しています。
「忘れ物はないね?」毛糸のコートを羽織ったモニクが、御者台から声をかけました。
「ないよ」ハスキルは荷台に腰かけて苦笑します。「今日は、ね」
 木漏れ日にあふれる丘の坂道を、馬車はとろとろと(くだ)っていきました。ハスキルは両手を膝のうえに載せて、光と緑と鳥の声に満たされる移ろいゆく景色を、夢見るようなまなざしで眺めました。手綱を(あやつ)りながら、モニクがちらりと後ろを振り返ります。
「待ち合わせ場所は、いつものとこかい」
「うん」
「お昼はどこに行くんだい」
「それも、いつものとこ」
 ふいにモニクは口をつぐみ、五秒ほど間を置いて、もう一度振り返ります。「たしか、二人で会うのは半月ぶりだったね」
「うん。それくらいになるかな」
「たまには別のところに行ってみようとは、思わないのかい」
「別のところ?」ハスキルは首をかしげます。「どこかに良いお店があるの?」
「……いいや」ふいに湧いてきた笑みをこらえて、モニクは肩をすくめます。「どうだかね」
 旧市街の古い教会の前で、レイが待っていました。着古した青いセーターに、少し(たけ)の足りていない茶色の綿ズボンという格好です。髪はいつもと変わらず一つに結んで背中に降ろされ、やはりいつもどおりにくねくねとしています。昨日は手ぶらでしたが、今日は大ぶりのリュックサックを片方の肩にかけています。
「おはよう。待った?」ハスキルが荷台から声をかけます。
「ううん」彼女の手を取りながら、青年は首を振ります。「さっき来たばかりだよ」それから首を曲げて御者席をのぞきこみます。「昨日はありがとうございました」
 モニクはひらりと手を振ります。「あんた、少しは眠ったのかい」
「ええ、このとおり」青年は両目をぱっちり開いてみせます。
「じゃ、行っといで。五時に、またここに迎えに来るからね」
「ありがとう」ならんで歩道に立って、二人は声をそろえます。「良い一日を、モニク」ハスキルが言いました。
「あんたたちもね」


 駅の繋ぎ場へ馬を預けると、モニクは少々気合いを入れて街へ()り出しました。昨日の晩にしたためておいた買い出しの品の一覧表を片手に、次々と商店を巡っていきます。馬車で出てきたせっかくの機会を有効に活用して、食料や消耗品を買い込んでおこうという考えです。
 あらかたの品物を揃え終えたのは、もう三時になろうかという頃でした。買い物がてらに林檎を一つ食べたきりなにも口にしていないことに、そこでようやく気付きました。両腕いっぱいに抱えた荷物を馬車に積み込み、愛馬にもたっぷりと飼い葉を与えて、そこからいちばん近くにある店に入りました。小さな川を眼下に(のぞ)む、古風な喫茶店でした。テーブルはぐらつき、食器には細かなひびが走り、メニュー表は謎の()みや手垢(てあか)だらけですが、居心地は決してわるくありません。モニクは大皿いっぱいの卵とハムとチーズの料理を食べ、大きなカップでなみなみ二杯ぶんのコーヒーを飲みました。
 そして三杯目を頼もうかどうかと迷いながら、窓の外へ顔を向けたその時でした。
「は?」
 思わず声が漏れます。ごまかすように咳払いをして、そのいきおいで結局三杯目のコーヒーを注文します。それが運ばれてくるまでのあいだ、彼女はテーブルに両肘をつき、そっと目を閉じて、左右のこめかみを(こぶし)でぐりぐりとほぐします。そして新しいコーヒーの到着と同時に、もういちど窓の外に目をやりました。
 間違いありません。川を挟んだ向こう岸の土手の、生い茂る野の草花のうえにならんで寝転んでいる男女は、どこからどう見ても、何度見返しても、レイとハスキル以外の何者でもありません。それに、よく見ると、二人はどうやら本気で眠り込んでしまっているようです。二人とも背中を丸めて、互いの(ひたい)を寄せあって、緑のベッドに横たわって、(しず)やかに瞳を閉じています。
 モニクはそっとコーヒーカップを持ち上げ、それに唇をつけながら、眠る二人の姿を見つめました。左右対称に向きあう二人の姿は、彼女の目にはまるで、柔らかく組みあわされた二つの手のように見えました。
「まったく」モニクはカップの(かげ)に微笑を隠します。「風邪でも引いたらどうするんだい」
 二人が当分起きる気配がないのを見て取ると、モニクは椅子のうえで少し背を伸ばして、外の景色をすみずみまで眺め渡しました。川のほとりには、二人とおなじように横になっている人の姿がちらほらと見られます。水の音色がよほど眠気を誘うのか、やはりそのほとんどが、眠るかうとうととしている様子です。岸の斜面をのぼった先には細い石畳の道が伸びていますが、川の上流にかかっている石の橋のうえとおなじく、あまり人通りはありません。それもそのはず、このあたりには鉄道関連の倉庫が立ちならぶばかりで、人を惹きつけるものはとくにありません。
 モニクは再び二人に視線を戻しました。さっと川風が吹きつけて、ハスキルのかたわらの地面に開いて置かれていたスケッチブックのページが、ぱらぱらとめくれます。彼の姿をスケッチするのは、彼女が子供の頃から続けている趣味でした。
 スケッチブックごとどこかに飛んでっちまわなけりゃいいんだけど、と胸中で案じつつ、二人が目覚めるまでここにいることに決めて、モニクは(かばん)のなかから読み古したイーノ神教(しんきょう)の聖典を取り出しました。


 その男は、一人で現れました。枯木(かれき)みたいな色の窮屈そうな上着に、乾いた泥がこびりついているだぼだぼとした黒いズボン。やけに真新(まあたら)しい美品の革靴を、素足で()いています。灰色の髪はカラスの群れにでも突っつかれたかのように荒れ放題で、ほんの少し白髪が混じっているのが見えますが、まだそれほどの(とし)でもなさそうです。たぶん、彼が狙いをつけている男女の二人組と、さほど変わらないでしょう。
 モニクは読書に没頭しすぎていた自分に対し、鋭く舌打ちをしました。
「あたしもすっかり勘が鈍っちまったもんだ」口のなかで音にせずに吐き捨てます。「……あいつ、

ね」
 彼女の見立てどおり、男はまさにその道に熟達しているようでした。おそらくは、誰からも怪しまれない場所からじっくりと時間をかけて狩場(かりば)を観察したのち、いったんこれと目星をつけた獲物に照準を定めたなら、一瞬の隙を突いて早業(はやわざ)のごとく仕事をやってのけるのが、彼の流儀なのでしょう。ちょうど良いぐあいに、熟睡する二人組はほかの人たちからいくぶん距離のはなれたところにいます。それに、小柄な女性の方の持ち物らしき鞄は、体を丸めて眠る彼女の背後の地面に置かれています。絵に描いたような、格好の餌食(えじき)というものです。男は上着のポケットに両手を突っ込み、土手のうえの道を悠々とした足取りでこちらに近づいてきます。
 ぱたんと聖典を閉じると、モニクは店内の窓の状態をすばやく確認しました。川に面してならぶ窓はいずれも背が高く、下はおとなの腰ほどの高さから始まり、上は天井につくほどもあります。しかしそのぶん、開け閉めすることは難しそうで、実際にそれらが開けられることはまったくないのか、どの窓縁(まどべり)にもごちゃごちゃとわけのわからない置物や古雑誌や色の褪せた植物の鉢が敷き詰められています。今すぐ窓から出るのと、そこから顔を突き出して大声を発する案は、この時点で却下されます。
 続いて店内を見回します。現在、午後三時四十五分。一日のうちで、食堂が最も静かになる時間帯です。モニクのほかには客は一人しかおらず、そのおじいさんも壁に寄りかかってぐうぐうと居眠りをしています。店員はみな厨房の奥に引っ込み、会計台には誰の姿もありません。台には小さなベルが置かれてあり、それが鳴らされるまでは誰も外に出てきそうにありません。
「まいったね」
 モニクは立ち上がりました。ともかく一刻も早く会計をすませて玄関から外へ出て、店の建物をぐるりと回って岸辺に降りるより、ほかありません。間に合わなかったなら、きっと――いや間違いなく――男は逃走するでしょうが、それを捕らえるには、遠くに見えているあの石の橋を渡らなければなりません。それ以外に、あちら側に移る手立てはありません。
「ちくしょう。なんて()のわるい……」
 彼女は鞄のなかを引っ()きまわし、財布を探します。しかしこういう時にかぎって、それはすぐには見つかりません。頭に来て、どうしてこんなものが今日必要だと思ったんだと自分を呪いながら、手帳やら折り畳んだ帽子やらスカーフやらを引っぱり出してテーブルにぶちまけます。
 しかし、彼女がついに財布を掘り出したまさにその時、あの男の手もまた、ハスキルの鞄に触れていました。
 モニクは窓の外を振り返り、歯ぎしりします。今すぐ窓を蹴破って川を泳ぎ渡り、あいつの首根っこをつかまえて二度と立てなくしてやりたいと、強く激しく切望します。
 そんな凶暴な視線を彼方から向けられていることなど露知らず、男は、そろりそろりと、もう片方の手も伸ばして、鞄の(ふた)を開けていきます。
 その次の瞬間、男は土手の斜面を駆け上がっていました。そして来た道を去っていきました。今度は、両手を大きく振って、両脚がもげるほど全速力で走って。
 財布も、鞄も、自分のお尻も、椅子にどさりと落とし、モニクは呆然と男の行方を見送りました。
 男の両手は、最初から最後まで、からっぽでした。
 いったい、なにが起きた?
 ぽかんと口を開けて、モニクは眠る二人の姿を熟視(じゅくし)しました。
 二人とも、先ほどからずっとおなじ体勢のまま、少しも動いていません。春の午後の光と風に(いだ)かれて、寄り添う花の(つぼみ)のように、じっとその身を落ち着けて。
 おもむろに、青年の片手が宙に舞いました。
 その手は、彼女の大切なスケッチブックをそっと閉じて、表紙のうえに優しく置かれました。てっきり眠っているものと思われていた青年のまぶたは、どうやらしばらく前から、ほんの少しだけ開かれていたようです。モニクは今この時、それに気付きました。彼女は息を呑んで、吸い込まれるように、その深く穏やかな瞳を見つめました。そのおなじ瞳が、きっと少し前には、見るも恐ろしい峻烈な眼光を放ったに違いありません。不埒(ふらち)な輩はその一撃を浴びて、心を粉々に砕かれたことでしょう。
「そうでなくちゃな」
 椅子の背もたれに体をあずけて、モニクはにやりと笑いました。そして冷えてしまったコーヒーの残りを飲み、散らかった荷物を一つずつ鞄のなかにしまいこみました。約束の時間までは、まだ小一時間ほどあります。二人もそろそろ起きるだろう。あまり長居するのもあれだし、しばらく散歩にでも出るかな。一人静かに、彼女はそんなことを考えて、ゆっくりと水辺の景色を一望しました。
 しかし、話はまだ終わってはいませんでした。
 さっきの男が、また戻ってきました。今回は、ぞろぞろと四、五人の仲間を引き連れて。
 がっくりと肩を落とすと、モニクは岩のように重いため息を吐き出しました。なんてこった。彼女は顔を(ゆが)めて(うめ)きます。新聞沙汰(ざた)なんかに、ならなけりゃいいけどね。まったく、こんなのはどう転んだって、武勇伝なんかにはなりゃしないよ。それどころか、つまらない醜聞(しゅうぶん)になりかねないね。公国を守護する誇り高き騎士団の勇士が、正当防衛のためとはいえ、町のちんぴら連中なんぞを叩きのめすだなんて……。
 今度ばかりは、モニクは冷静に、機敏に、決然と立ち上がりました。ここから全力で駆けたら、たぶん喧嘩がいちばん盛り上がっている頃には、間に合うだろう。その後のことは、その後のことだ。
 でも結局、彼女がこの日、実際に走ることはありませんでした。
 その代わり、


 二人ぶんの荷物をすばやく肩にかついで、眠ったままのハスキルの体を両腕でひょいと抱き上げると、彼はけらけらと笑いながら、あっというまにその場から走り去ってしまいました。
 突然の出来事に驚き、ハスキルは彼の腕のなかでぎょっと両目を()きます。いったいなにごとかとたずねる彼女に対し、青年は愉快そうに背後を示します。顔を真っ赤にした男たちもまた、このまま引き下がってなるものかと疾走します。しかし標的が逃げ込む先が開けた表通りであることを認めると、途端に意気が(くじ)けてしまったのか、すごすごと失速してしまいます。唖然とした表情で立ち尽くして、彼らは(あかね)色の光が射し込む道の先を、それからしばらくぼんやり見つめていました。
 モニクは普通に会計をすませて普通に外へ出ました。そしていったん立ち止まり、深く息を吸って吐いて、あてのない散歩に出発しました。
「……まったく。あたしはいったい、なにを見せられたんだろうね」歩きながら、彼女は力なくつぶやきました。


 夕焼けの丘を馬車はとことこと登っていきます。荷台で心地良い揺れに身を委ねるハスキルの膝のうえには、玩具店の店名が印刷された包装紙につつまれているなにものかが、ちょこんと腰かけています。別れ際に、彼がリュックからそれを取り出して彼女に手渡すのを、モニクは御者台から眺めていました。
 手綱をゆるめて、モニクはなにげなく振り返ります。ライオンなのかトカゲ――じゃなくてカバだったか――なのか、外から見ただけではわかりません。
「まだ開けないのかい?」だんだんじれったくなって、彼女はたずねました。
「うん。帰って、手を洗ってからにしようと思って」ハスキルはほほえみ、ぬいぐるみの包みを抱きしめます。「今日はどんな子かなぁ」
「どんな子だろうね」肩をすくめて、モニクは前を向きました。
 その日の夜、ハスキルの家で二人は一緒に夕食をつくりました。だいたい支度ができたところで、モニクが食前酒とグラスの用意を買って出ました。ハスキルは先にテーブルについて、そこでようやく例の包みを開封しました。
「うわー!」
 とつぜんの叫び声に驚き、モニクはワインの瓶をわしづかみにしたまま食堂へ飛び込みました。
「なんだい、どうしたんだい!」
「ねぇ、見てこれ」ハスキルは目を丸くして、彼から贈られた新入りを抱きかかえてみせました。「今日のは、なんだかすごいのよ」
「――ぶっ」モニクは思いきり吹き出しました。「はっ、ははっ……! あはははっ、あ~っはっはっはっはっはっはっはっは!」
 結局今回レイが選んだのは、ライオンの方でした。百獣の王の名に似つかわしくない、とぼけた顔立ち。輝くような小麦色の、ふわふわとしたたてがみ。そして、耳には金色のイヤリングを、首には銀色のネックレスを、胸もとには紅い宝石のブローチを、胴体には水晶の埋めこまれたブレスレットを着けています。どれもこれも、いわゆる

です。
「はっはっはっはっはっは……!」
「え、なに? なにがそんなに可笑(おか)しいの?」ハスキルは首をかしげます。
 それからもずっと、モニクの笑いは治まりませんでした。壁に手をつき、もう片方の腕でお腹を抱えて、彼女は思うぞんぶん笑いました。ハスキルはそんな彼女の様子を、絢爛豪華に着飾ったライオンを両腕に抱えたまま、ぽかんと眺めました。
「もう、まったく、あんたたちときたら……」ようやく喋れるようになると、モニクは苦しげにつぶやきました。


     ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


 二人の関係性が思いがけず一気に進展したのは、ちょうどこの年の夏のことでした。最後の血縁者だった祖母が他界してしまうと、レイは町外れの借家に一人きり残されました。自分が去ったらこの家を引き払いなさいという祖母の遺言にしたがって、彼は家を出ることになりました。次はどんな家で暮らすの、とハスキルは彼にたずねました。どこでも好きな場所に好きな家を建てていいって言われたら、あなたはどうする?
「そうだな」彼は言いました。「もしも僕が家を建てたなら、きみが暮らしてる丘みたいな丘にきみが暮らしてる家みたいな家を建てるよ」
 じゃあ、その家ならもうあるじゃない、と彼女は言いました。その日から、二人は一緒に暮らしはじめました。()くる日の朝、いつものようにハスキルの家を訪ねて、そこに寝巻姿で新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる青年の姿を発見して、モニクはそれはそれは仰天したものでした。
 こうなった経緯(いきさつ)を二人から聞かされると、彼女はまた笑って、おおいに肩をすくめました。
「まったく」彼女は言いました。「でもあんたたちは、

って感じがするね」
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