カスタネット・アルコットの数奇な運命

文字数 17,860文字

    Ⅰ カスタネットは女の子


 カスタネットのおはなしをしましょう。
 といっても、あの手のひらでぱかぱか鳴らす楽器のことじゃありません。カスタネットというのは、れっきとした一人の女の子の名まえです。顕世歴(けんせいれき)1763年げんざい、カスタネットは17さいになったところで、苗字(みょうじ)はアルコットといいます。カスタネット・アルコット。なかなか、おぼえやすい名まえではありませんか。
 さて、それでは、今このとき、そのカスタネット・アルコットという女の子が、どこにいるかというと、それは列車のなかです。カスタネットは、もうかれこれ五時間ものあいだ、がたんごとんと走る鉄道の車輛(しゃりょう)にゆられています。さいしょにしゅっぱつした駅からかぞえて、四かいも乗りかえをしました。だから長いこと乗っているようでいて、あんがいばたばたと動きまわることが多くって、ほとんどたいくつするひまもありませんでした。駅の階段をのぼったりくだったり、車窓をながめたり、おべんとうを食べたり、ほかの乗客とおしゃべりをしたりしているうちに、いつのまにか五時間たってしまったというぐあいです。
 けれど、まだまだ、目的地にはつきません。それは、まだまだ、遠くにあります。どれくらい遠くにあるのか、カスタネット本人にも、けんとうがつきません。
 これは、カスタネットにとってはじめてのひとり旅で、そして、

の、つまり

一方通行(いっぽうつうこう)の旅です。カスタネットはこれから、新しい町で暮らすことになっています。そのためにこうして、たったひとつのかばんをたずさえて、たったひとりでおひっこしをしているというわけです。
 だから、カスタネットのおはなしというのは、どうして彼女がひとりきりで遠くの町へ移り住むことになったのか、ということについて、おはなしするということになります。
 では、その前にちょっと、今げんざいのカスタネットのようすを見てみましょう。
 窓ぎわの座席で、ほおづえをついて、うとうとしはじめた、カスタネット。
 どこかから流れこんでくる風が、首にまかれたスカーフや髪の毛を、ふわふわとゆらしています。
 髪の色は、まるでニンジンみたいな、元気のよいオレンジ色。でも髪型は、かなりの癖毛(くせげ)のために、毛先が一本のこらず

としていて、それをぜんたいに短くかりあげているものだから、まるでサニーレタスみたいです。
 (ひとみ)の色も、まるでとれたての葉野菜みたいな、みずみずしい緑色。目のかたちは、いくぶん細めで、目尻のところが

とつりあがっているものだから、これもまるで横にたおしたニンジンみたいです。
 鼻にかんしては、とくにいうこともありません。まぁ、じゃっかん、てっぺんがうえにむかって突き出ているていどです。
 くちびるは、ふるさとでたくさんの皮肉なことばを口にして生きてきたおかげか、ちょっといじっぱりなかんじに、いつでも

とむすばれています。
 身長は、1.58エルテム。体重は、ないしょ(でも子鹿(こじか)みたいにやせています)。
 お日さまに近い土地で暮らしてきたわりに、(はだ)の色は新品のキャンバスみたいにやわらかな白。
 今は、お母さんの手づくりのワンピースと、いちばんうえのお兄さんの奥さんからもらったスカーフを身につけています。
 かばんは、さっきもいいましたが、旅行かばんがひとつだけ。これは、お父さんからゆずりうけたものです。
 ……と、こんなふうです。だいたい、わかっていただけましたか。
 おや、カスタネットが今、おおきなあくびをしましたね。
 主人公が眠ってしまわないうちに、おなはしをはじめるとしましょう。


    Ⅱ カスタネットの誕生(たんじょう)


 子どものころの夢を、ほとんどのおとなはすっかり忘れてしまいますが、じつはそこに、そのひとの本性(ほんしょう)を読みとく(かぎ)がかくされています。と、世間(せけん)ではよくいわれます。それがほんとうかどうかはわかりませんが(きっとだいたいほんとうでしょうが)、ともかくカスタネットがその胸にいだいたさいしょの夢は、「かせどらのそうじゅうしゃになること」でした。
 カセドラの操縦者。
 ええ、もちろん、カセドラって、あのカセドラのことです。山のようにおおきな、にんげんのかたちをした機械(きかい)じかけの兵士。それの()()に、つまり操縦するひとに、なりたいというわけです。
 小さな女の子が、生まれてはじめていだく夢としては、ちょっといがいな感じがしますね。そうです、おさっしのとおり、カスタネットはとびきりやんちゃな女の子でした。
 けれど、カスタネットがそんなあぶなっかしい夢をもつようになったのは、きっと半分くらいは、お父さんのせいです。
 カスタネットがこの世に生まれた1746年というのは、アルコット一家(いっか)が暮らすコニカルコ共和国(きょうわこく)が、はじめてじぶんたちのカセドラをつくりあげた(とし)でした。
 共和国の首都(しゅと)にあるいちばんの大通(おおどお)りで、カセドラのおひろめを()ねたせいだいなお(いわ)いのパレードが、かいさいされました。カスタネットのお父さんとお母さん、それにカスタネットより先に生まれていたふたりのお兄さんたちは、わざわざこれを見るために、一家のおうちがある高原(こうげん)からおりてきました。
「なんと、りっぱなものだろうか」お父さんは、瞳をうるませていいました。
「ほんとに、りっぱですね」そのとなりで、お母さんがいいました。「でもこんなにりっぱなもの、いったいなにに、つかうんでしょうか」とも、小さな声で、つけくわえました。
「ごらん、おまえたち。こちらに手をふっているよ」お父さんがいいました。
 大通りのまんなかをずしんずしんと歩きながら、雲にあたまがぶつかりそうなくらい巨大(きょだい)な機械の兵士は、まわりにあつまった市民たちにむかって、ゆうゆうと手をふりました。カスタネットのお父さんとお母さんとふたりの子どもたちも、手をふってかえしました。
「これでこの国のみらいは、だいじょうぶだ」お父さんは、息子たちの肩をだきしめていいました。そして奥さんのふくらんだおなかを、やさしくなでました。「おっ、うごいたぞ」
「まあ、元気な赤んぼだこと」お母さんは、おなかを両手でかかえて、ほほえみました。「お母さんを、けっとばしたわ」
「この子も、よろこんでいるな」満足そうに

と、お父さんは笑いました。「カセドラのように、つよくおおきく育つにちがいないぞ」
「こんども、男の子かしら」お母さんがききました。
「おれは、そんな気がするな」お父さんがいいました。
 でも女の子でした。その子は、カスタネットという名まえをあたえられました。そしてパレードを見物(けんぶつ)した日以来(いらい)、すっかりカセドラのとりこになってしまったお父さんによって、カスタネットは物心(ものごころ)つくまえから、カセドラのかっこよさを教えこまれて育ったのでした。
 そんなわけですから、もともとおてんばな性分(しょうぶん)をもって生まれたカスタネットは、早くも三歳になるころには、じぶんはおおきくなったらカセドラにのるひとになるんだと、そこらじゅうをばったんばったんと()びはねながら、宣言(せんげん)してまわっていました。


    Ⅲ カスタネットの夢


 でもそのとうじは、今よりもずっと、カセドラを操縦する女のひとの少ない時代でした。なにしろカセドラに乗ることをゆるされるには、まず軍隊(ぐんたい)に入って、それからとくべつな訓練所(くんれんじょ)に入って、せんもんてきな勉強をたくさんして、いくつもの試験(しけん)をとっぱしなくてはいけません。最近でこそ、軍隊に女のひとがかかわることもふえてきましたけれど、カスタネットが小さいころは、女の子が兵隊さんになりたがるということが、まずありえないようなはなしでした。
 カスタネットのお父さんは、もちろん、そのことをわかっていました。
 でも、みんなから「でたらめだ」といわれる夢にちょうせんする娘を、こころの(あつ)いお父さんが、おうえんしないはずがありません。
 さいわい、カスタネットは、すばらしく運動(うんどう)しんけいのよいからだと、ひじょうに回転(かいてん)のはやいあたまをもって生まれました。からだとあたま、どっちもしっかりきたえたら、おまえはいつかきっとカセドラ()りになれるぞと、お父さんは娘をはげましました。ふたりは、カスタネットがまだ(まめ)つぶのように小さかったころから、毎日のようにカセドラごっこをしてあそびました。じっさい、お父さんはとても大柄(おおがら)なからだのもちぬしだったので、豆つぶみたいな子どもからすると、まるきりカセドラのようでした。お父さんはカスタネットを肩車(かたぐるま)したり、おんぶして走りまわったり、ときにはみずからもカセドラとなった娘からぼこぼこになぐられたり、おしりを(ほうき)でたたかれたり、

をむしられたりしました。
「そんなちょうしで、カセドラ乗りになんか、なれるのかしら」(おっと)と娘のようすをながめて、お母さんはいつも首をかしげていました。
「今はいいんだ、これで」娘をせなかに乗せて(にわ)をのしのしと()いながら、お父さんがいいました。「勉強も、鍛錬(たんれん)も、もうちょっとお姉さんになってからでいいんだ。な、カスタネット」
「だぁ、だぁ」お父さんの髪の毛をひっぱりながら、カスタネットはいいました。
 けれど、カスタネットが9さいのときに、世界じゅうをまきこむおおきなせんそうがおこってしまいました。それは、3年ものあいだつづきました。アルコット一家の暮らす村はほとんどひがいをうけませんでしたが、それでも、共和国の首都もカセドラも、それにほかの国の町や自然、いろんなものが、ぼろぼろになってしまいました。
 この3年の月日(つきひ)が、カスタネットのお父さんを、(だい)のカセドラ(ぎら)いにしてしまいました。
「おまえがなんといおうとも」12さいになった娘にむかって、お父さんがおそろしい顔をしていいました。「おれはぜったいに、ぜったいに、ぜえったあいにい、おまえをカセドラ乗りになんかさせん」
「どうしてよ!」カスタネットはかんかんになって(おこ)りました。「わるいのは、せんそうでしょ。カセドラじたいは、わるくないわ」
「あら。それは、たしかにそうね」ちかくで聞いていたお母さんが、おっとりとうなずきました。
屁理屈(へりくつ)をいうのはやめなさい!」お父さんも負けじと声をはりあげます。「とにかく、もうカセドラのことはわすれなさい。あんなものは、()のなかやみんなのために、なんの役にもたたん。ただのひとごろしのばけものだ」
「むかしは、あんなにほめまくってたくせに!」カスタネットは学校の教科書をお父さんにむかってなげつけました。「じぶんのかんがえをころころ変えるのって、男らしくないわ、お父さん」
「男らしくなくていい!」お父さんは教科書をかわしていいかえしました。「じぶんの娘を戦場(せんじょう)におくる男のほうが、くずだ!」
「もういいわ!」どかんとつくえをなぐりつけて、カスタネットは立ちあがりました。「あたし、こんな家、出てってやるんだから」
「ならん!」玄関(げんかん)のドアをからだでふさいで、お父さんが怒鳴ります。
「ならんくない!」お父さんのこかんをめがけて、カスタネットがこぶしをうちだします。
「あら!」ふたりのうしろで、お母さんがさけびました。
 父と娘はぴたりとうごきをとめて、お母さんのほうをふりむきました。
「どうした」お父さんがたずねました。
「あなた。産まれそうよ」こんもりとふくらんだおなかを手のひらでさすって、お母さんがいいました。
「ええっ!」
 カスタネットとお父さんは、いっしょにお母さんのそばへかけよりました。
「医者を呼ばにゃあ!」お父さんがとなりの部屋へ飛んでいきました。
「お母さん、だいじょうぶ?」カスタネットがお母さんのせなかを支えました。
「カスタネット」お母さんは娘のあたまをなでて、ちからづよくにっこりとしました。「さぁ、いろいろ手伝ってね。あなた、お姉ちゃんになるのよ」
「あ、う、うん」カスタネットはうなずきました。
 こうして、カスタネットの夢がひとつ消えてしまったその日に、新しい家族がひとり、ふえたのでした。


    Ⅳ カスタネットの天使


 これで、アルコット家のきょうだいが全員そろいました。
 一ばんめの男の子、セルパン。
 二ばんめの男の子、カシシ。
 三ばんめの子にしてさいしょの女の子、カスタネット。
 そして四ばんめが、末っ子の女の子、クラベス。
 この四人の子どもたちと、お父さんとお母さんの六人家族で、アルコット家は民宿(みんしゅく)をいとなんでいました。小高(こだか)い山と山のあいだの、あざやかな青空(あおぞら)草花(くさばな)がひろがる高原のなかほどに、その宿(やど)はたっていました。お父さんが若いころ、なかまたちのちからをかりて(いち)から(きず)きあげた、おおきな丸太(まるた)の建物です。
 アルコット一家は犬やニワトリたちといっしょにそこで暮らしながら、山のぼりやハイキングにやってきた人たちに、食事と寝床(ねどこ)をていきょうしていました。
 お父さんはむかしは猟師(りょうし)をしていたので、自然のなかの歩きかたを教えることや、自然の食材(しょくざい)をつかった料理をするのが、とてもじょうずでした。お母さんはむかしはフルートを吹く音楽家(おんがくか)だったので、しょっちゅう食堂で小さなコンサートを開いては、お客さんたちをよろこばせました。
 きれいな景色に、すみわたる空気。
 おいしい料理に、すてきな音楽。
 それに、両親(りょうしん)を手伝ってよくはたらく、けなげな子どもたち。
 いつしか、アルコット家の民宿は、なかなかの評判(ひょうばん)になっていました。
 そして、

だった評判は、あるときを(さかい)に、

とうなぎのぼりに上昇(じょうしょう)しました。
 アルコット夫妻(ふさい)がさずかった四ばんめの子ども、クラベスと名づけられた女の子は、それはそれは、うつくしい赤んぼうでした。「まるで神さまのように光っておる」と言ったのは、クラベスが産まれた日から一ヵ月ものあいだ毎日かかさず民宿をたずねてきた村長さんでした。村長はでっぷりと太ったおばあさんで、じぶんの家を出ることさえめんどうくさがるひとでしたので、それが毎朝毎朝、えっちらおっちらじぶんの足で坂道をのぼって赤んぼうに会いにいくので、村じゅうのひとたちが仰天(ぎょうてん)したほどでした。その、村じゅうのひとたちにしたって、ほとんどみんな毎日、赤んぼう見物にやってきたものでしたけれど。
 妹がほしくてほしくてたまらなかったカスタネットは、それはもう夢中になって、クラベスちゃんをだいじにしました。
 ある日、あたたかい()だまりのなかで、カスタネットは赤んぼうに子守歌(こもりうた)をうたってあげながら、そのちっちゃな耳もとにささやきかけました。
「かわいい、かわいい、あたしの天使ちゃん。ふわふわちゃん。もちもちちゃん。なんてきれいなのかしら。あたしが、あなたをまもってあげますからね」
 そのとき、ふたりのいる二階の部屋の(ゆか)――つまり一階の天井(てんじょう)――が、

(ほうき)のあたまで(たた)かれました。
「カスタネット!」お父さんが下から天井ごしに呼びかけてきます。「手があいたらいそいで来てくれ!」
「ばわうばわう!」いつもお父さんの声に反応する犬(黒くて長い毛の大型犬(おおがたけん)、3さいの男の子、名まえは「ジングル」)が、庭でさかんに()えます。
 ぎゅっと顔をしかめると、カスタネットはため息をつきました。いぜんだったら、「はいはい!」とか「しずかに呼んでよ!」とか「うるさいばか犬!」とか、怒鳴りかえすところですが、今はもちろんそんなことはしません。なにしろ、目のまえで、赤ちゃんがきもちよさそうにすやすやとねむっているのですから。小さなまんまるのからだに毛布をかけると、カスタネットは今しばらく妹の寝顔(ねがお)をながめ、かたりかけました。
「ね、クラベス。お父さんはいっつもあんな調子で、下品(げひん)でやかましいし。お母さんは、なんていうか、ちょっとほわほわしすぎてるし、兄ちゃんたちは、ふたりともそれぞれに、ずいぶんとんちんかんだし、おまけにあの犬ときたら、いつまでたってもおばかだし。あたしがしっかりしてなきゃ、いけないでしょ。あたしだけが、きっとあなたのことちゃんとだいじにできるひとなのよ。ね、だからクラベス、お姉ちゃんを好きでいてね。あたしも、あなたをいつまでも好きでいるからね」
「カスタネットォ!」お父さんが叫びました。「まだかぁ!」
「ばわわっばわう!」ジングルもつづきます。「ばわあぅ!」
 床をけりつけるためにカスタネットは思いきり片足をふりあげましたが、ぎりぎりのところでこらえて、しゅうっと鼻息(はないき)をふきだすと、そっと足をおろし、だまって一階へむかいました。


    Ⅴ カスタネットの兄 その一


 カセドラの操縦者になるという夢をあきらめてからというもの、カスタネットは(つぎ)なる夢をさがして、あれやこれやに首をつっこんでみました。野球選手、郵便配達人、画家、ガラス工芸職人、ギター弾き、ヴァイオリン弾き、ピアノ弾き。綱渡り曲芸師(きょくげいし)。ライオンの調教師(ちょうきょうし)。犬の床屋(とこや)さん。ペンキ塗り。井戸掘(いどほ)り。按摩師(あんまし)。鉄道の運転手。天文学者。漁師。消防士。それからほかにも、たくさん……。
 そうしたなかで唯一(ゆいいつ)、一日いじょう続いたものがありました。
 それは、「物語(ものがたり)を書くこと」でした。
 二歳になったクラベスちゃんに、いろいろな絵本を読んできかせてあげているうちに、自分でもおはなしを書いてみたくなって、宿のお手伝いのきゅうけい中に、食堂のかたすみでいっきに一作(いっさく)書きあげました。『怒りの戦士(せんし) タンバリン』と名づけられたその記念(きねん)すべき処女作(しょじょさく)は、家族や常連(じょうれん)のお客さんたちから、大爆笑(だいばくしょう)をもってむかえられました。カスタネットにそっくりなタンバリンという名の男の子が、わるいおとなたちをひとりずつ(うやみ)のかなたに(ほうむ)りさっていく、無慈悲(むじひ)でおそろしい物語でした。ほんとうは読むひとすべてを感動させるつもりで書いていたカスタネットでしたが、ま、なんの反応もないよりは、笑われるほうがましか、と思い、めげずにすぐに続編(ぞくへん)のしっぴつにとりかかりました。
 けっきょく、『タンバリン』の物語は、それから二十二(かん)までつづきました。まわりのひとたちは、よくもまぁそんなに闇に葬られるべきおとながいるものだと、感心(かんしん)というか、ほのかに恐怖(きょうふ)さえおぼえていましたが、ただひとり、新作(しんさく)がでるたびに、おおよろこびで真剣(しんけん)に読んでくれる読者がありました。
 それがアルコットきょうだいのいちばんうえのお兄さんの、セルパンでした。
 カスタネットはこの6さい年上(としうえ)のお兄さんのことを、「にんげんの言葉をしゃべるトンカチ」くらいにしか思っていませんでしたが、なにしろじぶんが新しい作品をかくたびに熱狂(ねっきょう)してくれるので、ちょっとずつ見なおすようになっていました。
 そんなある日のことです。その当時(とうじ)、高原のふもとの町の調理師(ちょうりし)学校にかよっていたセルパンが、学校から帰るなり、ひどく思いつめたようすで、カスタネットをこっそり呼びつけました。
「なによ、セルパン兄さん」食堂の給仕(きゅうじ)をするときの服にきがえながら、カスタネットは兄をにらみました。「そんな、(はら)にいっぱつ()らったオットセイみたいな顔して。あたし、いそがしいんだけど」
「あのな。今日は、おりいって、おまえにたのみがあるんだ」父親ゆずりのおおきなからだをもじもじさせながら、セルパンはひそひそ声でうちあけます。
「たのみ?」鼻がもげそうなくらい、カスタネットは顔をゆがめます。「めずらしいわね。いったい、なんなの」
「じつは……」
 てっとりばやくいうと、それは、恋文(こいぶみ)代筆依頼(だいひついらい)でした。恋文というのは、読んで字のごとく、恋ごころをよせるあいてに、じぶんの(おも)いをつたえるためのお手紙(てがみ)です。それをセルパンは、じぶんのかわりに、じぶんが愛読(あいどく)する物語の作家先生(さっかせんせい)に、かいてほしいとおねがいしているわけです。
「だめだろうか?」兄はすがるように妹の顔色(かおいろ)をうかがいます。
 もちろん即座(そくざ)にことわるつもりでいたカスタネットでしたけれど、そのしゅんかんに、ふっと、いつもじぶんのかいたものをまじめに読んでくれる兄のすがたがまぶたのうらに浮かびあがってしまって、ついつい、首をたてにふってしまいました。
「ん~、そんじゃあ、いちどくらいなら、いいわよ」いばりくさって、カスタネットはいいました。
「ほんとうか!」(ほお)をかがやかせて、セルパンは感激(かんげき)しました。「おまえなら、きっとそういってくれると信じていたよ。いやぁ、もつべきものは、才能(さいのう)あふれる妹というものだな」
 そこまでいわれて、カスタネットもまぁ、わるい気はしませんでした。だからその日の夜のうちに、てばやく依頼のしごとをかたづけてしまいました。
 しかし翌日、セルパンは両目をまっかっかにして帰宅するなり、じぶんの部屋にとじこもって、次の日の朝までおいおいと泣きつづけました。
 そのこっぴどい失恋のせきにんは、なぜかすべて、カスタネットになすりつけられることになりました。
「カスタネット。おまえいったい、どんな手紙を書いたのだ」お父さんが(くら)い顔をして()いつめました。
「どんなって」カスタネットは腕をくんで歯ぎしりしました。「そりゃもう、かんぺきこのうえない傑作(けっさく)を書いてあげたにきまってるじゃない」
「なにがかんぺきだ!」(かぎ)のかけられたドアのむこうがわから、うちひしがれる兄のさけびがとどろきます。「あんなにおそろしそうにひきつるレベックの顔は、見たことがない! なにが、〈(われ)のこの熱き(おも)成就(じょうじゅ)せし(あかつき)には(なんじ)と我の愛の威光(いこう)により地上(ちじょう)の闇はことごとく葬り()られん〉、だ! 闇に葬るとかそういうのは、物語のなかだけにしておけよ! というかおまえ、なんでもかんでも闇に葬ればいいってものじゃないぞ!」
 家族や常連客のみんなが、じろりとカスタネットを見やります。
「今日、レベックは、遠くの国へひっこすんだ」セルパンが(なみだ)をこらえてうったえます。「これが、おれの、さいごの機会(きかい)だったんだ。それが、おまえ……」
「いいかげんにして!」閉じられたドアをカスタネットはぜんりょくでけっとばしました。「だったらさいしょから、じぶんで書きゃあよかったじゃない。じぶんからひとにたのんでおいて、あたしのせいにするんじゃないわよ!」
「ひどい、ひどいよ」お父さんが悲しげにかぶりをふりました。「カスタネット。兄ちゃんはな、はちゃめちゃに傷ついているんだ。もうちょっと、やさしくしてあげなさいよ」
「はあ?」カスタネットは眉根(まゆね)をよせました。「いや、だって……」
「そうだよ、カスタネット」たまたまあそびに来ていた村長さんが、きびしい目つきでたしなめます。「ひとのこころの(いた)みをわからないものに、よい物語は書けないよ」
 それに続くようにちくちくとまわりのみんなから()びせられる非難(ひなん)の言葉や視線(しせん)に、ついにたえきれなくなったカスタネットは、どかんどかんと床をふみならして、じぶんの部屋にかけこみました。そして書きかけの『怒りの戦士 タンバリン 第二十三巻』の原稿(げんこう)を、びりびりにやぶいてしまいました。
 この日以来、カスタネットが物語を書くことは、二度とありませんでした。
「ちくしょう。いつかこんな家、出てってやるわ」カスタネットは窓のむこうの夕陽(ゆうひ)を見つめて、ちかいました。


    Ⅵ カスタネットの兄 その二


 恋文の事件(じけん)がじょじょにしずまってくると、こんどはうえから二ばんめの男の子のカシシが、ちょっとした運命(うんめい)のわかれ道にちょくめんすることになりました。(とし)があけるとすぐに、となり町にあるゆうめいな大学(だいがく)に入るための試験をうけることになっていたのです。
 このころ、カシシとカスタネットは、ひとつの部屋をいっしょにつかっていました。カシシが18さいで、カスタネットが14さいで、カスタネットは、年ごろの女の子がじぶんだけの部屋をもたせてもらえないことは、「闇に葬られるべきおそろしい状況(じょうきょう)」だと、つねひごろからかんがえていましたし、ときにはそれが原因(げんいん)で、ひどいかんしゃくをおこすこともありました。
 カスタネットは、このカシシというお兄さんのことを、「ぶっこわれためざまし時計のようなやつ」だと思っていました。
 じっさい、カシシ兄さんは、セルパン兄さんとはまたちがった方向で、とても変わったひとでした。
 なんといっても彼は、いつどこにいても、けっしてまわりの雰囲気にえいきょうされずに生きていました。まわりがおおさわぎしているなかでひとりぽつんと(そら)を見あげていることもあれば、まわりがしーんとしずまっているなかでひとりげらげらと大笑(おおわら)いしていることもありました。それに、カシシはじつによく本を読みました。いえ、本だけでなく、

は、なんだって手あたりしだいに読んでしまいました。新聞、手紙、教科書、絵本、漫画、なにかの説明書、食材の発注書、それに『怒りの戦士 タンバリン』さえも。カスタネットが不気味(ぶきみ)に思うのは、彼がそうやっていろいろ読んだあとで、かなり時間がたってから、とつぜんその読みものの感想(かんそう)解釈(かいしゃく)考察(こうさつ)を、めちゃくちゃな早口(はやくち)でまくしたてることでした(それも、だれかにきかせるわけでもなく、ひとりごとで!)。しかもその発作(ほっさ)は、いつも予告(よこく)なしにいきなりはじまるので、それだから、いつ鳴りだすかわからないめざまし時計、というわけです。
 たとえば、夜、ベッドにもぐりこんで、目を閉じてさあ寝ようというときに、となりのベッドからぶつぶつとわけのわからない言葉がきこえてくるところを、想像(そうぞう)してみてください。カスタネットがじぶんだけの部屋をほしがる気持ちが、よくわかっていただけるかと思います。
 けれど、だからこそ、カスタネットはそんな兄のことを、だれよりもおうえんしていました。だって、大学に合格(ごうかく)したら、とうぜん、となりの町にひっこすことになるでしょうから。これは、ぜひとも、なにがあろうとも、かならず合格してもらわなければならないと、カスタネットはこころをもやしていました。
「あぁ、まちどおしい」試験の日がちかづいてくると、カスタネットはカレンダーのまえで手をくんでおいのりしました。「神さま、はやくあのおつむぶっとび兄さんを、となりの町へ連れてってください。どうか、どうか……」
 それでけっきょく、カシシはぶじに試験に合格しました。家族みんな、とてもよろこびました。カスタネットはとくによろこびました。お父さんといっしょに下宿(げしゅく)の部屋をさがしにでかけるカシシ兄さんを、カスタネットはそれはそれは晴れやかな表情(ひょうじょう)で見送りました。そしてふたりのすがたが見えなくなるやすぐに部屋にもどって、あたまのなかで兄の荷物(にもつ)家具(かぐ)をすっかり外へほうりだして、さてこれからどんなすてきなお部屋にしてやろうかしらと、ねんいりに想像をふくらませはじめました。じっさいに、いくつかの家具の位置をいどうさせたりもしました。
 しかしはやくもその日の夜に、カスタネットのささやかな夢は、うちくだかれてしまいました。
 夜おそく帰ってきたカシシは、いつかのセルパン兄さんみたいに、両目をまっかっかにしていました。
「いったいなにがあったのです」お母さんが息子をだきしめて、たずねました。
「いくつか、部屋を見てまわっていたときのことだ」お父さんが、ぐったりと(かた)をおとしてせつめいしました。「カシシのやつ、とつぜん、しくしくと泣きだしてしまったのだ。ごみごみしていてせまっくるしい町のなかで暮らすことなど、たえられないといってな。草や花や山や犬やみんなが、とても恋しいといってな」
 ふだん、まったくじぶんの調子を(くず)さずに生きているカシシが、これほどあからさまにこころを痛めているさまを見て、家族みんな、おなじようにこころを痛めて、それならば、ちょっとばかり遠いけど、この家から通学(つうがく)するようにしたらいいと、そんなふうに話がきまりました。
 今、家族みんな、といいました。でも、ほんとはみんなじゃなかったことは、いうまでもありませんね。そう、ただひとり、こころを痛めるどころか、心底(しんそこ)あきれかえっている女の子がおりました。
「なんじゃそりゃ」よろめきながら、カスタネットはこっそりつぶやきました。「これは、そろそろほんきで、あたしが出てくことをかんがえなくちゃだわ」


    Ⅶ カスタネットの爆発(ばくはつ)


「やっぱり、王都(おうと)かしらね」16さいになったカスタネットは、ひとりでひそかにかんがえていました。「このあたしにふさわしい、新しい出発点(しゅっぱつてん)といったら」
 ここでいう「王都」とは、世界一の大都市(だいとし)である、ヨアネスという町のことでした。ちっぽけな田舎(いなか)の村を出て、たくさんの可能性(かのうせい)にみちあふれた都会(とかい)で、かがやかしい第二(だいに)の人生をはじめようと、カスタネットはもくろんでいるのでした。
 けれど、カスタネットも、アルコット家のみんなや近所(きんじょ)のひとたちも、まだ王都へいったことのあるひとはひとりもいません。それがどこにあって、どんなばしょなのか、じつのところ、カスタネットにはちっともわかっていません。地図(ちず)で見るかぎり、ものすごく遠いところにあることだけはわかります。それに、今では世界じゅうのだれもかれもが王都にあこがれをいだく時代(じだい)なので、たとえそこへいったって、住むばしょを見つけるだけでもひとくろうだという(うわさ)です。
「まぁ、冷静にかんがえて、もうちょっとおとなになんないと、どうしようもなさそうね」カスタネットは思いをめぐらせます。「とにかく今はしっかり勉強して、いろんな道をさぐるべきだわ」
 そんなおり、思いもかけず、すばらしい機会がめぐってきました。カスタネットがかよっている高等(こうとう)学校が、王都にあるという提携校(ていけいこう)転入(てんにゅう)する生徒の募集(ぼしゅう)をはじめたのです。とくべつな試験と面接(めんせつ)をとっぱした二名だけが、その転入の資格(しかく)を手にすることができるという話でした。
 いうまでもなく、カスタネットは(ふる)いたちました。
 それから毎日かかさず、一日に8時間も勉強にとりくみました。家族や近所のみんなに心配されましたが、カスタネットはだれのいうことにもいっさい耳をかすことなく、ひたすらねっしんに勉強にうちこみました。
 その結果(けっか)、みごとに、カスタネットは試験に合格しました。
 カスタネットは学校でいちばんの成績(せいせき)をおさめました。
 でも、カスタネットとまったくおなじ点数(てんすう)をとった生徒が、あと二名いました。
 この三名で、さいごの面接をして、二名がえらばれ、一名が脱落(だつらく)することになるわけです。
 正直(しょうじき)、カスタネットは、ぜんぜん()ける気がしませんでした。じぶんと同点(どうてん)だったほかのふたりの生徒のことを、カスタネットは知っていました。ふたりとも、勉強や読書(どくしょ)ばっかりして、はきはきとしゃべったり、愛想(あいそ)よくふるまったりすることの、苦手そうなひとたちでした。これは、勝ったわ、と、カスタネットは自信満々(じしんまんまん)に、ほくそ()んでいました。
 そして面接の日がやってきました。
 そしてその次の日には、カスタネットは学校を退学していました。
 面接官(めんせつかん)のひとりにむかって、カスタネットはおそろしい暴言(ぼうげん)を吐きまくったあげく、しまいにはそのひとの顔面(がんめん)を、こぶしで思いきりなぐりつけてしまったのでした。
 その面接官は、カスタネットの暮らす地区(ちく)をたんとうする教育省(きょういくしょう)のお役人(やくにん)でした。三人の生徒のうちで、さいごに面接の順番(じゅんばん)がまわってきたカスタネットは、じぶんが面接室(めんせつしつ)一歩(いっぽ)入ったしゅんかんから、このおじさんがひどく軽蔑(けいべつ)するような目でこちらをにらみつけていることに、すぐに気づきました。
 後日(ごじつ)わかったことですが、この役人のおじさんは、そのむかし、カスタネットのお母さんが独身(どくしん)だったころ、彼女の愛を手に入れるために、恋敵(こいがたき)だったカスタネットのお父さんと決闘(けっとう)をして、こてんぱんに負かされたことがあったのでした。
 そのときの復讐(ふくしゅう)だといわんばかりに、このひとはカスタネットにたいして、とても冷たくて、いやらしくて、いじのわるい言葉を、山ほど浴びせかけました。
 あまりに屈辱的(くつじょくてき)なできごとに、カスタネットはただただおどろきあきれ、目にはちょっぴり涙もにじんで、なにもかんがえることができなくなってしまいました。全身(ぜんしん)が石みたいにかちこちにかたまり、影みたいにじっとしずみこんでしまいました。
 しかし。
 まさかあの(ほこ)り高き怒りの戦士が、このままだまってひきさがるわけがありません。
 カスタネットがほとんどひとこともしゃべらないまま終わってしまった面接のちょくごに、役人のおじさんが、カスタネットのお父さんとお母さんを侮辱(ぶじょく)するようなことを、こっそりと吐き捨てたのを、カスタネットはたしかにききました。
 次のしゅんかんには、カスタネットの目のまえで、役人のおじさんは鼻血(はなぢ)をながして床にひっくりかえっていました。
 カスタネットのお父さんとお母さんは、この事件のてんまつをきいて、悲しいんだか、うれしいんだか、よくわからない気持ちになってしまいましたが、ともかく、じぶんたちの名誉(めいよ)のためにたたかってくれた娘を、しかるわけにはいきませんでした。
「まぁ、学業(がくぎょう)だけが、人生じゃないしな」といって、お父さんは、

と笑いとばしました。
 あわれなカスタネットは、こうして、王都へいく夢だけでなく、学問をおさめる道さえ、うばわれてしまったのでした。
「なんであたしって、いつもこうなるのかしら」()ふけに、カスタネットはひとりで外へ出て草のうえに寝ころび、星空(ほしぞら)を見あげました。「カセドラに乗るのも、お話をつくるひとになるのも、王都へいって暮らすのも、なにもかも、あたしが願ったそばから、きっちり

になっちゃうんだから。いっそのこと、もうなにも願わないほうが、いいのかもしれないわね」
 さびしそうにつぶやくカスタネットのまうえで、(なが)(ぼし)がひとつ、きらりと夜空(よぞら)をかけぬけていきました。でも、カスタネットは、なんのおねがいごともしませんでした。星が消えると、だまってたちあがり、家に帰りました。


    Ⅷ カスタネットの憂鬱(ゆううつ)


 学校を追い出されたカスタネットは、毎日もくもくと民宿のしごとにいそしみました。いぜんより、笑顔やおしゃべりは少なくなってしまったし、ひとりでぼんやりする時間もふえたけれど、まあまあおだやかに、日々をすごしていました。
 お父さんもお母さんも、宿の料理長(りょうりちょう)みならいとなったセルパン兄さんも、言語学(げんごがく)研究者(けんきゅうしゃ)をめざしはじめたカシシ兄さんも、5さいになったかわいいざかりのクラベスちゃんも、それから犬のジングルも、みんな変わらず元気いっぱいです。
 カスタネットは、17さいになりました。
 今では、とくにだいそれた夢はいだいていません。ただなんとなく、じぶんの家の手伝いをして、ごはんをたべておふろに入ってねむるだけで、それでまぁいいかと、ちょっぴりなげやりな気持ちで、かんがえているだけです。お父さんや兄さんたちの

は、これはもう一生(いっしょう)、どうしたって(なお)らないだろうけれど、あたしには、なんといっても、あの天使のクラベスがいるんだもの。あの子があたしになついてくれているおかげで、ここでも生きていかれるわ。こころのなかで、カスタネットはそんなふうに思っていました。
 そんなある日のことです。
 なんていうと、なんだ、またなにか事件がおこったのか、と思うでしょう。
 そのとおりです。それはまさに、アルコット家にとって、歴史的(れきしてき)一大事(いちだいじ)でした。
 かつてセルパン兄さんをふって、遠くへひっこしてしまった女のひとがいたことを、おぼえていますか。レベックという名まえのそのひとが、家庭(かてい)のつごうで、とつぜんふるさとに帰ってきたのです。そしてふたたび、アルコット家の暮らす村で、生活をはじめたのです。
 セルパンも、レベックも、それぞれに成長して、ともに23さいの、それなりにしっかりとしたおとなになっていました。
 そして、おどろかないできいてほしいのですけれど、こんどは、なんと、レベックのほうが、りっぱになったセルパンに、ひとめぼれしてしまったのでした。
 ある日曜の朝、ちょっと寝坊(ねぼう)したカスタネットが、みんなのいる食堂におりていくと、いつもカスタネットがすわっている椅子(いす)に、知らない女のひとがすわっていました。
「だれ」カスタネットは目をまるくしました。
「こちらは、レベック」セルパン兄さんがいいました。「おれの、(おく)さんになるひとだ」
「は?」カスタネットは目を(てん)にしました。
「今日からここで、いっしょに暮らすことにきまったんだ」お父さんがいいました。「宿のしごとのことなど、いろいろとたすけてあげなさい。なんてったって、おまえのお姉さんになるのだからな」
「は?」カスタネットは目をぱちぱちさせました。
「れべっく、れべっく」レベックにだっこされているクラベスが、いまだかつて見せたことのない(あま)えんぼうぶりをはっきして、お姉さんにすりすりとほおずりをしています。「れべっく、いいにおい。だいすき」
「は?」カスタネットは目を閉じました。そしてしばらく、そのままでいました。
 こんなふうにして、たったいっしゅんで、アルコット家のようすは一変(いっぺん)してしまいました。
 そしてそれは、だれの目から見ても、とても()変化(へんか)でした。
 なにしろ、笑顔のすてきな美人のひとが、玄関(げんかん)出迎(でむか)えてくれたり、食事を運んでくれたり、寝床(ねどこ)をととのえてくれたり、楽しくおしゃべりをしてくれるのですから。それはもう、宿はますます繁盛(はんじょう)しました。もちろんお父さんたちは、たいそうよろこびました。レベックじしんも、うれしそうでした。新しくできたきれいなお姉さんに、クラベスちゃんもすっかり夢中になりました。
 さて。
 そんななか、われらがカスタネットはというと……
 ――いいえ、やめておきましょう。こんなふうに、じぶんとは無関係(むかんけい)にきらきらと進んでいく家族の日常(にちじょう)のなかで、カスタネットが毎日ひとりでどんな気持ちでいたかということについては、みなさんのご想像におまかせします。


    Ⅸ カスタネットの旅立(たびだ)


 けれど、いつまでもかわいそうなだけのひとは、いないものです。世界は、こんぽんてきには、やさしいものです。ことわざにもあるとおり、「()てる神あれば(ひろ)う神あり」、です。
 その手紙は、夏まっさかりのまばゆい朝に、まえぶれなくとどきました。
 そしてその朝のうちに、カスタネットの(あら)たな運命(うんめい)のとびらが、いきおいよくひらいたのでした。
 手紙の送りぬしは、カスタネットのお父さんの叔母(おば)さんでした。差出人(さしだしにん)住所(じゅしょ)は、かの大都会、王都ヨアネス。それも、そのなかでもごくじょうの一等地(いっとうち)にある、さる名家(めいか)のお屋敷(やしき)でした。
 家族みんなを呼びあつめて、お父さんは手紙のないようをつたえました。
 お父さんの母親(ははおや)のきょうだいのなかでいちばんうえのお姉さんであるその叔母さんは、げんざい、王都にある高貴(こうき)身分(みぶん)のかたのお(たく)で、メイドたちをとりまとめる役目をつとめていました。お父さんは小さいころ、その叔母さんと、この高原の村で一時期(いちじき)いっしょに暮らしたことがありました。ふたりは顔や体格(たいかく)性格(せいかく)が似ていたので、叔母さんはとてもお父さんをかわいがってくれました。それに、この村に暮らす女のひとたちがもつ、すなおでがんこでよくはたらく気質(きしつ)も、叔母さんはたいへん高く()っていました。お父さんと叔母さんは、もう二十年ちかくあっていませんでしたが、手紙でのやりとりは、ときおりつづいていました。今回とどいた手紙は、じつに一年ぶりのたよりでした。
 かずかずの世間話(せけんばなし)がたっぷりと書かれてあるなかで、そのさいごのほうに、ひとつ、思いもよらない提案(ていあん)がしるされていました。
 なんでも、叔母さんが住みこみではたらいているというその名家のご家族には、今年で10さいになる女の子がひとり、いるのだといいます。そしてつい最近、その子につきっきりで世話(せわ)をする役目(やくめ)のメイドが、きゅうにしごとをやめてしまったのでした。叔母さんは、そのかわりとなるひとを見つけなくてはいけなくなったわけですけれど、この女の子というのが、とびきり

で元気のよい子どもだというので、なまはんかなメイドには、とてもじゃないがまかせられない、というのです。
 そこで、きゅうきょ白羽(しらは)()がたったのが、すなおでがんこでよくはたらく村の女の子、カスタネット・アルコットだったというわけです。
「なんで?」カスタネットは眉をひそめてお父さんと手紙をにらみました。「なんでわざわざこんな遠くにいるあたしなんかを、呼びつけるわけ」
「あ~……」なぜだかとつぜん口ごもって、お父さんはあたまをぽりぽりとかきました。「あのな、うんとな、じつはな、その、叔母さんのとこにいるお(じょう)さまというのがだな、その、なんだ、おまえの作品の、愛読者(あいどくしゃ)なのだそうだ」
「は?」カスタネットは顔をしかめました。「なにいってんの? あたしの、作品?」
「うふふ」お母さんが、口を手でおさえて笑いました。「あのねぇ、カスタネット。お父さんはね、むかしあなたが捨てちゃったあなたの小説、ぜんぶとっておいたのよ」
「は~?」カスタネットは首をかしげました。
「いや、だまっててわるかったよ、カスタネットや」お父さんがひらきなおっていいました。「叔母さんのとこのお嬢さんな、『怒りの戦士 タンバリン』に夢中なんだそうだ」
「は!?」カスタネットは椅子をけっとばしてたちあがりました。「まさか、

をおばさんに送ってたっていうの!?
 にこにこしてうなずきながら、お父さんはお母さんにぴったりと肩をくっつけました。こうしていたら娘にぶんなぐられずにすむと、わかっているからです。
「なんてことを……!」顔をまっかっかにして、カスタネットはテーブルにつっぷしました。「闇のかなたに葬ったはずの、あたしの過去が……!」
「それで、どうするんだ?」とつじょまじめな表情になって、お父さんが問いかけます。「叔母さんからのおさそい……なんて返事(へんじ)する?」
 ほかのみんなも――お母さんも、セルパン兄さんも、カシシ兄さんも、クラベスちゃんも、レベック姉さんも、それにあしもとに寝そべっている犬のジングルも、みんな――、じっと、カスタネットを見つめています。
 ひょいと顔をあげて、カスタネットはいいました。
「いくわ」


     ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


 こうしたわけで、カスタネットは今、たったひとりで、王都いきの列車に乗っているのです。あれよあれよと話がまとまって、さみしがるひまもないほどばたばたと支度(したく)をして、まるで稲妻(いなずま)がほとばしるみたいに、カスタネットはふるさとの村を飛び出してきました。
 けれどこうして、ようやくうとうとするよゆうができると、ほんの少しずつ、家族のみんなの顔や、声や、草花のきらめきやささやきが、こころのなかによみがえってきます。ちょっとのあいだだけ、ハンカチを顔にかぶってほろほろと泣くと、カスタネットは、いせいよく(ほお)をぬぐって、窓のむこうの青空を見あげました。空の青さは、世界じゅうどこでも変わりません。
「あたし、がんばるね」太陽に向かって、カスタネットはほほえみました。
 ひとの運命というのは、ほんとうに不思議(ふしぎ)なものです。
 カスタネットがつとめることになる〈シュナーベル家〉の屋敷には、いろいろなひとが出入(でい)りしていましたが、そのなかには、カセドラを操縦する兵士のひともいました。そのひとが、少し先の未来で、カスタネットにこういいました。
「おや、きみがあのおてんばクラリッサの、新しいお世話係(せわがかり)かい。いったい、きみはどれくらいもつかなぁ。これまで、なんにんものメイドさんが、あの子にさんざんふりまわされて、脱落していったからね。まったく、あの子にしろくじちゅうつきあうのは、カセドラを操縦するより、よっぽどたいへんにちがいないよ」
 それをきいて、カスタネットは、思わずくすくすと笑ったものです。いったいぜんたい、人生なんて、どう(はこ)ぶのか、わかったものではありません。カセドラに乗る夢も、物語作家になる夢も、王都で暮らす夢も、いちどはぜんぶおじゃんになってしまったわけだけれど、そのぜんぶがなくっちゃ、

になることも、やっぱりなかったでしょうから。
 さぁ、こんなところで、今日のおはなしはおしまいです。もちろんこの先も、カスタネットの人生の物語はつづいていきます。彼女が、おてんばクラリッサちゃんにさんざんふりまわされる日々のおはなしは、またべつの機会に……。
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