蜂蜜同盟

文字数 26,696文字

    1


 できることなら、べつの日に――もっと静かで落ちついた

に――来られたらよかったな。でもあたしが王都に到着した今日という日は、よりによってとびっきり騒々しくて

だった。今日は顕世暦(けんせいれき)1761年、ツガの月の18日。ホルンフェルス王国が建国されてからちょうど850年目の、歴史的な節目となる記念日。というわけで目下(もっか)、こちらの王都ヨアネスにありましては、それはそれは盛大なお祭りの真っ最中。……まったく、朝も()よからよくやるわ。なんで人間たちって、なにかにつけて馬鹿騒ぎしたがるのかしら。
 まぁともかく、こうしてあたしは一ヵ月間にもおよんだ一人旅を終えて、最終目的地であるここヨアネスに辿りついたところ。正直な話、好奇心にまかせてあっちこっち寄り道なんかしなかったら、もっと早くに来られてたはずなんだけどさ。でも、うん、今さら愚痴ったってしょうがないね。そろそろ下界に降りる決心を固めて、伯父(おじ)さんを探しださなくちゃ。
 あ、下界っていう言葉は、ほんとに

言ってるの。だってあたしは今、およそ高度100エルテムくらいの上空を飛んでるから。(ハト)やスズメやカラスだって、あんまりこの高さまでは上がってこない。おかげで、のんびり気ままに飛ぶことができる……のはいいんだけど、ちょっとこの陽射しはこたえるな。まだ8時を回ったばかりだっていうのに、さすがは夏の太陽ね。あたしの背中の健気(けなげ)な羽が、今にも

()げちゃうんじゃないかって、本気で心配になってくる。それに、ずっと抱えっぱなしのこのリュックサックも、いいかげん降ろしたい。里を出た時には(たこ)みたいに軽かったのに、行く先々であれこれ買ったり拾ったりしたものだから、今ではメロンみたいにまるまる膨らんじゃってる。これって、アトマ族のあたしにとってはけっこうな荷物だよ。もしあなたが人間なら、そうね、たとえば、自分がパンダでも抱っこするところを想像してみてよ。今のあたし、だいたいそんなぐあい。
 でもきっと、今日でこの大荷物ともお別れできるはずなんだ。もちろん、うまく(こと)が運んだら、だけど。
 あたしはほっぺたを流れる汗を(ぬぐ)いつつ、さてどこへ降りたものかしらと、地上の様子を見まわした。
 故郷の里を出てからここへ来るまで、人間たちが暮らす場所をたくさん巡った。そのなかには、目が回っちゃうくらい大きな(みやこ)もいくつかあった。でも、それらをぜんぶ足したって、

には(かな)わない。まぁ、さすがは世界の首都といったところね。たくさんのきらびやかな建物がひしめきあって、まるでこの世の全種類の花の種をごちゃまぜにしてばらまいて出来あがった花壇、って感じ。しかもその花壇は、この高さから見渡しても、東西南北すべての地平線の先まで広がってる。
 そして今日は、そんな花々のあいだを、世界じゅうから詰めかけた人間たちが埋め尽くしてる。それに、色とりどりの風船、手旗、連結旗(ガーランド)、紙吹雪。鳴りやむことのない太鼓の響き、バグパイプ、ヴァイオリン、トランペットの音色。馬のいななき、車の警笛、列車の汽笛。商人たちの大声、子どもたちの笑い声。は~、まるでこの世のすべてのおもちゃ箱をいっぺんにぶちまけたみたいな騒ぎ。こんな調子が十日十晩にわたって休みなく続くっていうんだから、たいしたものだわ。こうして眺めてるぶんには、なかなか愉快ではあるけどさ。自分からそこへ入っていくっていうのは、やっぱりちょっと気が引ける。よく知られてることだけど、アトマ族(あたしたち)って、自分の身のまわりのものが放つ気配や波動をすごくはっきり感知しちゃうから。だからあんまり、好きこのんで人ごみに近づくことはない。疲れちゃうもの。
 けどそれはあくまで、多くのアトマ族に見られる「平均的な傾向」。そう、平均というからには、そこから外れる人たちもそれなりにいる。たとえば、ほら、わざわざ今日この都に集まって、人間たちと一緒になって楽しんでる、あたしの同族の人たち。どこの町や村でも、人間たちに混じって生活するアトマ族は、ちらほらとは見かける。でもここまでおおぜいのアトマ族を市街地で目にする機会は、ほんとに滅多にない。たぶんみんな、かなりの変わり者にちがいないよ(って、あたしが言えたことじゃないかもだけど)。
 で、あたしが今から会いにいこうとしてる伯父さんも、そういう「変わり者」の一人――なんだと思う。というのも、あたしはまだこの伯父さんには一度も会ったことがないんだ。だからどんな人なのか、どんな顔をしてるのかさえ、さっぱり知らない。おじいちゃんたちから聞いたところによると、なんでもその人は小さい頃からとんでもない傾奇者(かぶきもの)だったんだって。今から20年も前に一人で里を飛び出して以来、激動の歴史に揺れる世界を舞台に華々しい冒険を繰り広げ、ついにはあの王都ヨアネスに居を構えるまでに至った傑物(けつぶつ)――それが、その伯父さん。という、話。……なんかちょっと、

って感じが、しないでもないけど……。
 でもま、あたしとしては、今のところはおじいちゃんの言葉を信じてみるしかない。「きっとおまえの助けになってくれるじゃろう」って、おじいちゃんはあたしに言った。「王都に着いたら、ひとまず伯父さんを訪ねてみなさい。必ずや、温かく歓迎してくれるはずじゃ」
 それであたしは、その伯父さんちに向かおうとしてるってわけ。
 さて、ぼちぼち街へ降りるとしますか。


    2


 話に聞いてた伯父さんの家は、たしかに話に聞いてたとおりの場所にあった。「ヨアネス市クヌート区ハムスン通り25番地〈満福宮(まんぷくきゅう)〉」。これがあたしがおじいちゃんから聞かされてた、伯父さんちの住所。今年の新年のお祝いの手紙に、この住所が書いてあったんだって。伯父さんはその手紙のなかで、自分の豊かな暮らしぶりの報告と一緒に、この住処(すみか)の美しさを揚々(ようよう)(たた)えていた。おじいちゃんが何度か、それを読んで聞かせてくれた。えっと、たしか……「偉大なる王の通りに建立(こんりゅう)されし黄金の庭園に(いろど)られた天使の宮殿」……とかなんとか。
 ……うん。たしかにその通りの入口では、立派な王様があたしを出迎えてくれた。と言ってもそれは、王冠をかぶった素っ裸のブタが酔っぱらって酒瓶を振り回してる絵が描かれた、薄汚い看板だったけど。
 黄金の庭園らしきものも、ちゃんとあった。この飲み屋街の片隅に立つ一軒の酒場の店先に並べられた、金メッキ仕上げのプランター。ただしその中身はからっぽで、異臭を放つ泥と枯れた花の残骸が底にこびりついてるだけ。
 あと、天使っていうのは、たぶんあれのことね。屋根のてっぺんにちょこんと()っかってる、安っぽい木彫りの像。でも天使っていうか、あたしには宙返りに失敗したコウモリにしか見えないけど。
 ええ。もう言うまでもないよね。そう、このうらぶれた酒場の名こそ、〈満福宮〉。まったく、どうとでも名乗れるものだわ。
 あたしは人目を忍んでその二階建ての酒場に近づき、屋根裏の小窓からなかをのぞきこんだ。やっぱりね。天井が斜めになってる小さな収納部屋のすみっこに、アトマ族用のベッドやテーブルや椅子が置いてある。そのすべてが、目も当てられないほどぼろぼろの代物(しろもの)だけど。きっとどこかから拾うなり盗むなりしてきたものにちがいないわ。どこかに出掛けてるのか、今は部屋のあるじの姿はない。
 なんていうか、あまりにも(あき)れかえっちゃうと、ため息さえ出ないものね。あたしはコウモリ――じゃなかった、天使――の像の隣に着地すると、とりあえずリュックを降ろして一息ついた。ふむ。どうしたものかしら。はっきり言って、ちょっと休んだらすぐにでもここから離れたいっていうのが本音。だけど、故郷のみんなをこうも長いこと(あざむ)きつづけてきた悪漢(あっかん)がどんなやつなのか、ちょっとだけ見てみたくも――ないか。ないない。あほらしい。やっぱり、さっさとこんなところ――
「ねぇ、ちょっと。そこのあんた」
 とつぜん呼びかけられた。荒っぽい女の人の声だった。あたしはおでこの触角(しょっかく)をぎくりと震わせて、おそるおそる下を見おろした。声のした方から、めまいがするほど強いにおいの煙草のけむりが昇ってくる。ぼさぼさ頭で寝巻姿の痩せたおばさんが、酒場の入口に腕組みして立ってる。煙草をはさんだ指をひょいと振って、あたしに降りてこいって言ってる。
 仕方なく、あたしは立ち上がった。そして屋根裏部屋の窓にすばやく自分を映した。真っ白なポンチョに、水色のショートパンツ。二つに分けて結んだライムグリーンの髪。リボンのついた麻のサンダル。どこにも変なところはない、はず。どこにも悪漢の同類に見えるようなところはない、はず。
 にこやかな顔をつくって、あたしは酒場の(ぬし)とおぼしきおばさんの前へ降りていった。
「あの、あたしのこと呼ばれました?」あたしは()いた。
「他に誰がいんのさ」おばさんは顔を横に向けて煙をいっぱい吐きながら、めんどくさそうにうなずいた。
「なにかご用ですか?」あたしは息を止めてたずねた。
「こっちの台詞(せりふ)だ」おばさんは鼻を膨らませた。「あんたこそ、うちになんの用だい」
「あ、いいえ」いかにも心外、というふうにあたしは首を振った。「あたしはただ、ちょっとお宅の屋根で休憩させていただいただけです。ほら、このとおりの荷物ですから……」
「祭りを見に来たのかい」おばさんはじろりと目を細める。
「はい」あたしは即答する。
「どこから」
「えっと、ざっくり言うと、南の方です。大陸の」
「今いくつ?」
「12です」
「ふぅん」おばさんはまた煙草をくわえ、けむりを吐いた。今度は頭をのけぞらせて、真上に。そしていっそう(いぶか)しげな表情をこさえて、あたしを見おろした。「そんな(とし)で、しかもあんたみたいなやせっぽちの女の子のアトマ族が、たった一人でここまで旅してきたってのかい?」
 あたしはうなずく。息を止めたまま。
「なんのために」おばさんは冷ややかに問い詰める。
「ええっと、その」いやな予感を覚えて、あたしは少しだけ空中で後ずさりする。「それはもちろん、この記念すべき建国祭を見物するた――」
「待ちな」ぬらりと両手を下に降ろして、おばさんは急にあたしを(にら)みつけた。
「はい?」あたしはまた少し後退する。
「さっき、南っつったな」
「え、あ、はい」しまった……。
「あんた、あの

の知り合いだね」
「く?」あたしはすっとぼける。「くそ、ちび……?」
「しらばっくれんじゃないよ」煙草を地面に投げつけて、おばさんは怒鳴る。「たしかに聞いたことがあるよ、あの野郎の口から。自分はその昔、大陸の南にあるアトマの里から出てきたんだ、って」
「あ、あのぅ。いったい、なんのこと……」
「教えな! あの馬鹿が今どこにいるのか!」おばさんは肩を怒らせてあたしに食ってかかる。「あいつめ、まるまる半年ぶんも家賃をすっぽかして夜逃げしやがって! それに、酒のツケだって家賃の倍も溜まってるんだ! まったくあのごろつきめ、ちびのくせに人間並みに呑みやがるんだから」
「あ、あたし、なんのことだかわかりません!」リュックサックの(ひも)を両手でぎゅっと握り、あたしは思いきり背中の羽を広げた。
「嘘つけ!」おばさんがあたしに手を伸ばす。まるで蚊でもやっつけようとするみたいに。
「嘘じゃないもん!」あたしはひらりを身をかわし、一気に空へと舞い上がる。「あたし、そんな人のことなんか知らない!」
「あっ、こら! 待て、おい、降りてこい! おーい!……」
 どこにも行くあてなんかなかったけど、あたしはとにかく死に物狂いで飛んだ。一度だって振り返らなかった。おっかないがらがら声もくさい煙も天使もどきのコウモリも、もうなにもかもがうんざりだった。そしてもちろん、会ったこともない――一生会いたくもない――ろくでなしの伯父さんのことも。


    3


 へとへとになるまで飛んで、適当に目についた街路樹の枝に腰を下ろした。そして今度こそ全力でため息をついた。なんだか、ずいぶん遠くまで来ちゃった気がする。ブタの王様の通りがどこにあったかさえ、もうぜんぜん思い出せない。ここがどこかもさっぱりわからない。でもこれだけ移動しても、まだ王都のど真ん中にいることに変わりはない。相変わらず、右も左も、前も後ろも、ずっとずっとごちゃごちゃした街並みが続いてる。(ひと)()も、どんどん多くなってきた。太陽もそろそろ本気を出してきた。あたしはまたため息をつく。
 それにしても、ちょっと胸が痛むな。里のみんなのことを想うと。おじいちゃんたち、伯父さんの正体を知ったらどう思うかしら。あたしは内心、こんなことじゃないかって、うすうす想像してはいたけどさ。まったく、ほんとにとんでもない人ね。なぁにが黄金、庭園、宮殿よ。ばかばかしい。もうどうせならこのまま嘘をつきつづけて、どこかで一人で勝手に生きていってほしいところだわ。とにかくあたしは金輪際(こんりんざい)、この件については考えないことにする。脳味噌の労力がもったいないもの。
 それじゃあ、さっそく気を取り直して――と言いたいところだけど、はて、どうしたものだろう。先のことを今からあれこれ心配してもしょうがないって、わかってはいるんだけどさ。でもそれにしたって、とりあえず今夜の宿は必要でしょ。その気になれば公園とかどこかの屋根のうえとかで野宿してもいいけど、こんなにくたびれることのあった一日の終わりには、叶うなら綺麗なシーツにくるまって眠りたいものだわ。
 あたしはごそごそとリュックのなかを漁り、財布を取り出した。そして中身を膝のうえにそっくり出して、丁寧に勘定する。アトマ規格の大陸通貨の硬貨が、ぜんぶで23枚。でも残念ながら、1ネイ硬貨や10ネイ硬貨ばかり。王都の物価じゃ、たぶん朝ごはんを一回買ったらおしまいだろうな(下手したら足りないかも?)。ちぇ。ちょっと長旅が過ぎたみたい。
 なんてことをうじうじと考えてたら、急に息を吹き返したみたいに、おなかの虫がぎゅうと鳴った。気づけば、喉もからっから。いそいそと水筒に手を伸ばす。でもすぐに引っこめる。いっぱい飛んだ朝のうちに、空のうえでからっぽにしちゃってたことを思いだしたから。ここでまた、三度目のため息……。
 ……いやいやいや、これくらいでへこたれるなんて、あたしらしくない。がんばれレスコーリア、とあたしは自分を奮い立たせる。実際に、両脚を踏んばって立ち上がる。鳴り止まないお腹の悲鳴に負けじと、せいいっぱい胸を張る。深く息を吸って空を見上げて、そして――きらりと輝く、一粒の希望を見つける。ちょうどあたしの真上に、街路樹の枝についた小さな黄色の実がぶらさがってる。あたしはそれをじっと見つめる。実はつやつやとしていて、ぷっくりと膨らんでて、いかにも美味しそう。これまでにも何度か、いろんな土地でおなじような実を口にしたことがあった。たぶん、

。あたしは手を伸ばす。今度は引っこめない。しっかりと獲物をつかんで、そっともぎ取った。
 ひとくち(かじ)ったその瞬間に、舌のうえで雷が暴れた。思いっきり吐き出したけど、ちょっと遅かった。少しだけ、喉の奥にまで果汁が流れていった。あたしは足もとの枝にしがみついて、げえげえと咳きこんだ。なんて味! きっと、この都会の土と水で育ったせいね。いったいなにをどうしたら、ここまで不味(まず)くなれるのかしら。
 まちがいなく真っ青な顔になっちゃってるはずのあたしは、両目からぽろぽろと涙をこぼしながら、必死の思いで身を起こした。リュックのなかに、おじいちゃんが持たせてくれた薬が入ってたはず。あぁ、もう、いったいどこに入れたんだっけ。ていうか、なんでこんなに荷物が多いのよ。これじゃまるで、砂漠でビー玉でも探すみたいな難業じゃない……。
 で、結局、薬は見つからなかった。その前に、あたしの意識が飛んじゃった。まるで、砂漠で遭難して力尽きた人みたいに、あたしは街路樹の枝からまっさかさまに落ちていった。


    4


 意識が戻ってまず目に飛びこんできたのは、数式だった。うん、数式。は? 数式? そう、数式。数式だわ、これ。まちがいない。いや、でも、なんで? どうして? ああ……そうか、そういえばいつか、おじいちゃんに言われたっけ。おまえはアトマ族にしては賢すぎるし、それに本を読み過ぎるから、いつか頭がおかしくなってしまうかもしれんぞ、って。きっと、その時が来たんだわ。あたし、ついにおかしくなっちゃったんだ。
 あれ。でも、この数式……
「よかった。気がついたんだ」
 だれかが言った。あたしの、すぐそばで。あたしはのっそりと顔を上げた。まばゆい逆光を背景にして、一人の人間の女の子がこっちをじっと見おろしてる。彼女は椅子に座って、机だかテーブルだかに載ってるあたしを観察してるみたい。ぱっちりと開かれた金色の二つの瞳が、あたしの目の前でぴかぴかと光ってる。
「このまま目を覚まさなかったらどうしようって、ちょっと心配になってきたところだったんだよ」ほっとしたように女の子は言う。「呼吸も心拍も問題なかったから、ただ眠ってるだけだっていうのはわかってたけどさ」
「あー……、そう?」
 なにがなんだかわからなくて、あたしは口ごもりながら起き上がった。でもうまく足腰に力が入らない。仕方なく、ぺったりと座りこんだまま上半身だけ起こす。そして気づく。なんだか、お尻の下がやけに

する。見ると、どうやらあたしって、なにかの新聞か書類みたいなもののうえで寝てたみたい。さっきあたしの視界いっぱいに映ってた数式は、そこに印刷されてたもので、そしてその一部が……
「ごめん」あたしは女の子を見上げた。
「ううん」女の子はほほえむ。「気にしないで」
 彼女はほんとになにも気にしてない様子だった。情けないことに、あたしったら気絶してるあいだにけっこうな

をこぼしてたみたい。それが染みこんだ箇所の文字は(にじ)んで、まるでぼやけた影みたいになっちゃってる。
「大事なものだったんじゃないの?」あたしは訊く。
 女の子はひょいと首をすくめる。「大事は大事だけど、こんなちっちゃな()みくらい、どうってことないよ」
「……なら、いいんだけど。いや、よくは、ないけど……」
 ひとまず安堵の息をついて、あたしは改めて自分の下に敷かれている印刷物を見渡した。一般的なノートのページより、少しだけ大きな規格の白い用紙だ。触った感じ、けっこう上質なものみたい。それが二十枚かそこら、テーブルのうえに乱雑に散りばめられてる。どの紙にも、一面に細かい文字や数式やグラフがびっしりと並んでる。
 思わず、あたしは首をかしげる。
 そして女の子の姿を、もう一度ちゃんと眺める。
 身長があって目つきや話しかたもしっかりしてるけど、まだ幼い人間の子どもだ。ひょろりと痩せていて、色白で、質素なギンガムチェック柄のワンピースを着てる。そして、おそろしく真っ赤な髪色をしている。長くてまっすぐなそれは、頭のうえで一つにまとめて首の後ろにすとんと降ろされてる。
「これ、あなたのなの?」書面を見やりながら、あたしは彼女にたずねた。
「え? うん、そうだけど」彼女はうなずく。
「読めるの? これが?」あたしはちょっと眉をひそめる。
 彼女はまたうなずく。こともなげに。
「……ふぅん」感心して、あたしはぱちぱちと瞬きする。「ねぇ、失礼だけど、あなた今いくつ?」
「僕、12歳だよ」彼女はこたえる。「きみは?」
「おなじ」あたしはこたえる。「あたしも、12」
「へぇ。奇遇だね~」
 さも愉快そうに彼女は笑う。笑うとすごく子どもっぽい。でもどうやら、ずいぶん賢い子みたい。人間にもいるんだ、こういう子が。
「ねぇ、ところで、ここはどこ?」あたしは周囲を見まわす。
「どこ、って――」女の子は首をかしげる。「見てのとおり、カフェだよ」
 彼女の言うとおり、たしかにここはどこかのカフェの屋外席みたいだった。ぐるりを背の高い赤レンガの壁で囲まれた、小さな裏庭みたいな空間だ。足もとにはしっとりとした芝生が広がり、天上からは穏やかな木漏れ日がぽたぽたと降り注いでる。今のところ、あたしたちのまわりに他の客の姿はない。あたしと、このちょっと不思議な人間の女の子の、二人きり。お祭りの喧騒も、表通りの活気も、ほとんどここまでは届いてこない。なんだかとても、しんとしてる。
「覚えてないの?」女の子が訊く。
「なにが?」あたしは首をひねる。
 彼女は空を指差した。「きみ、あそこから落ちてきたんだよ」
 あたしは手のひらで(ひさし)を作って、うえを見上げた。なるほど。この場所を覆うようにびっしりと枝葉を(しげ)らせてるあの()は、たしかにあたしがさっき不時着した樹にちがいなかった。毒々しい黄色をした小さな実が、葉っぱの隙間に星々みたいに光っていやがる。
「……ね、だいじょうぶ?」
 女の子が不安げに問う。あたしはがんばって微笑を浮かべる。そして思いだして、慌ててまわりを見渡した。
「これ?」
 大きなカフェオレボウルの(かげ)に隠れてたあたしのリュックサックを、女の子が持ち上げてあたしの前に置いてくれた。
「よかった」あたしは胸を撫で下ろした。
「きみと一緒に落ちてきたんだよ」
「うん。あたしのなの。ありがとう」
「あのさ、ほんとにだいじょうぶ?」彼女は目を細めてあたしを見つめる。「あんな高いところから落っこちて、どうもないの?」
「あ……うん」あたしは自分の体のぐあいをたしかめる。「平気みたい。運がよかったわ」
「そっか」女の子はうなずく。でもすぐにちょっと表情が曇る。「う~ん、でも……」
 体の無事を確認した途端、

と不服を申し立てるみたいに、あたしの胃袋がきゅるきゅるきゅると悲鳴をあげた。
「やっぱり」女の子が嘆息する。「平気じゃないでしょ。だってきみ、今にもほっぺが()げちゃいそうだもん」
「う……」あたしはがっくりと肩を落とす。「実は、あたし――」
「マノン博士~。おまちどおさま~」
 とつぜん、女の人の甘ったるい声がした。見ると、カフェの厨房に通じる勝手口のドアが開いて、そこから一人の若い女性の給仕が顔をのぞかせていた。彼女は銀色のトレイを片手に、ふりふりとお尻を揺らせてこちらまで歩いてくる。あたしは条件反射的に、女の子の膝のあいだに(もぐ)った。
「ごめんね~。待ったでしょ?」注文の品をテーブルに(はい)しながら、給仕の女性が言う。
「ううん、ぜんぜん」女の子は首を振る。「ていうか、僕、まだ博士じゃないですから」
「あらあら」女性は笑う。「でも、もう時間の問題じゃない~」
「わかりませんよ」
「いい~え。お姉さんにはわかるわ」彼女は(から)になったトレイを器用にくるりと手先で回転させる。「マノンちゃんは、きっとそれはそれは立派な博士になるわ。そうね~、たぶん、明日にでも」
「もぉ」マノンと呼ばれた女の子はため息をつく。「やめてください」
 ぽん、と音がする。女性が優しく女の子の頭を撫でた。
「じゃ、ごゆっくりね~」
「はい。ありがとう」
 ごそごそとテーブルのうえに這い上がって、あたしは元の位置に腰を降ろした。そして女の子を見上げた。
「博士なの?」
「だから、ちがうったら」女の子は吹き出し、ポケットから取り出したハンカチを畳んであたしの横に置いた。「さ、どうぞ」
「え?」
「座りなよ」
「あ」あたしはぽかんと口を開ける。「……ありが、と?」
「一緒に食べよう」
 彼女はそう言って、アイスクリームの大玉が載った焼きたてのワッフルの皿と、たっぷりと蜂蜜の(たた)えられた小瓶を、丁寧にあたしの前に並べてくれた。
「……いいの?」ごくりと生唾を呑みこんで、あたしはおずおずと女の子を(あお)いだ。
 彼女は惜しげない笑顔でうなずき、切り分けたアイスクリーム・ワッフルにこれまた惜しげなく蜂蜜をかけてくれた。あたしは夢でも見てるような気持ちでそっと手を伸ばし、指先にちょっとだけ蜂蜜を取り、おそるおそる口に運んだ。
「だ、だいじょうぶ?」女の子が心配そうにあたしの顔をのぞきこんだ。
「うん」あたしは両目に浮かんだ涙を拭いながら、ぐっとうなずいた。


    5


 食べながらいろんな話をした。
 といっても、ほとんどずっとあたしがマノンから浴びせられる質問にこたえてばかりだったけど。もうなにしろこの子ったら、ちょっと尋常じゃないくらいの好奇心の持ち主なんだもの。それにアトマ族とちゃんと喋るのはこれが初めてだったらしくて(あたしだって人間とここまで話しこむのは初めてだったけど)、ほんとに文字どおりに根掘り葉掘り、彼女はあたしのことを知りたがった。
 それであたしは、たずねられるがままなんでも話した。
 とある湖のなかほどにある、小さなアトマ族の里で生まれ育ったこと。
 物心ついた頃から人間たちの書いた本を読むのが大好きで、とくに天文学や数学に夢中になったこと。
 そして、12歳の誕生日を迎える前夜、里の長老でもあるおじいちゃんと一族のみんなに向かって、自分はこの里を出た方がいんじゃないかと思うって、打ち明けたこと……。
「どうして?」口のまわりにワッフルの切れ端をくっつけたマノンが、身を乗り出してたずねる。「どうしていきなり、そんな大胆なことを決断したの?」
「ん~……」あたしは口をもぐもぐさせながら虚空を見つめる。「……なんて言うんだろ、心の声、ってやつ? 自分の内側から聴こえてきたそれに、ただ素直に従っただけ。あとは、そうだな……里の図書館にある本をぜんぶ読みつくしちゃって退屈してた、っていうのもあるけど……」
「心の、声」マノンは小さな声で復唱した。「でもみんなびっくりしたでしょ? 長老たち、きっと反対したんじゃない?」
「ううん、べつに」あたしは肩をすくめる。「遅かれ早かれこういうことになるだろうって、みんな予想してたみたい。もともとあたしって、朝から晩まで一人で自由に過ごすことが多かったから。それに人間たちが思ってる以上に、アトマ族って個人主義的な考えかたをする人が多いんだよ。相手が仲間や家族でも、とくに引き留めたり束縛したりすることはないの。一緒にいようがいまいが、大いなる源素(イーノ)を通じて、世界のどこにいても魂はみんな一つに繋がってるって、直観的に理解してるから」
「……なるほど」マノンは神妙な顔をしてうなずく。「けどさ、いくらなんでも12歳の女の子を一人で外に出すなんて、僕ら(にんげん)の常識からするとかなり突飛な話だよ」
「あら。あなただって一人で外で過ごす12歳じゃないの」
「あ~」まるで初めてその事実に思い当たったみたいに、彼女は目を丸くした。「あぁうん、それもそうだね」
 このあたりでやっとこちらにも質問をする隙ができたかなと思って、あたしは口を開こうとした。でもまたもや、向こうに先を越された。
「ねえねえ、じゃあレスコーリアは、なぜ王都を行き先に選んだの?」
 ちょっと気圧(けお)されつつ、あたしはこたえる。「どうして、って……それはやっぱり……」ほんの一瞬、例のろくでなしの伯父さんのことが脳裏によぎるけど、すぐに払いのける。「やっぱり、今の世界でいちばん栄えてる街、だからかな。きっと王都(ここ)だったら、あたしみたいな風変わりなアトマでも、自然に受け入れてもらえるんじゃないかって、あたし自身も、おじいちゃんたちも、考えたから……」
「ふむふむ」マノンは上下に首を揺らす。「そっか。うん、そうだね。そういえば、僕のいるところにも、何人か余所(よそ)からやって来たアトマの人たちがいるよ」
「へぇ」あたしのおでこの二本の触角が、ぴんと伸びる。「ならその人たちって、人間たちに混じって生活してるってこと?」
「うん。そうだよ」こたえながら彼女は次のひとくちを頬張(ほおば)る。「あんまりくわしくは知らないけど、みんなそれぞれにうまくやってるみたい」
「……ふぅん」あたしは小さく吐息をつく。「そうかぁ。そうなんだ……」
 (から)にした自分の皿を脇にのけて、マノンは紙ナプキンで口や手を綺麗にした。そして洗面器みたいに大きなカフェオレボウルを両手で持って、中身をこくこくと飲んだ。おなじ飲み物が、あたしの前にも置かれてある。蜂蜜が入ってた小瓶の(ふた)(うつわ)がわりにして、マノンが分けてくれたもの。あたしもそれを飲む。自然なミルクの甘さと芳醇なコーヒーの香りが、すごく見事に融け合ってる。正直、ここまで(うま)く作られたカフェオレには、他の土地ではお目にかかったことがない。この街にも、少しは美点があるみたいね。
「ごちそうさま」あたしはハンカチのうえで正座して、親切な少女に向かって深々とお辞儀をした。「どうもありがとう。ほんとに助かったわ」
「いいんだよ」マノンは苦笑する。「そんなにかしこまらないで。僕の方こそ、とっても楽しかった。いやぁ、こんな巡りあわせってあるんだね」
「ね、マノンは……」ふいにあたしはまわりの景色に視線を漂わせる。あいかわらず誰もいなくて、とても静か。耳に入るのは、木の葉の揺れる音ばかり。「マノンは、お祭りには行かないの? あなたはいつも、こうして一人で――」
 この時、どこかで大きな鐘が鳴った。時刻を告げる鐘にちがいなかった。どこの街に行っても、おなじような音を耳にする。まだ見てないけど、きっとこの街の時計塔はものすごく立派なものなんだろう。遥かな上空から、まるで街ぜんたいを包みこむようにして、その音は降り注いだ。
「……うわぁ」
 響き渡る鐘の音に耳を傾けていたら、とつぜんマノンが顔をしかめた。
「なに?」あたしは首をかしげる。「どうかした?」
「うう、また、やっちゃった……」自分の頬を左右から手で挟んで、彼女はうめく。
 あたしは背中の羽を少し広げる。「ちょっと、どうしたの。なにかあったの?」
「ごめん、レスコーリア!」
 そう叫ぶとマノンは急に立ち上がった。弾みで、椅子が後ろに倒れた。あたしは慌てて顕術(けんじゅつ)を発動して、手を触れずにそれを宙でつかんだ。そしてそっと地面に降ろした。でもマノンは、椅子のことなんかまったく目にも入ってないみたい。血相を変えてテーブルのうえの書類をかきあつめると、自分の手提(てさ)げかばんに乱暴に突っこんだ。
「あのっ、あのね、僕ね……」ばたばたと帰り支度をしながら、彼女は息を切らせる。
「なにか用事でもあったの?」
「うん!」ようやくぜんぶをかばんに詰め終えて、マノンは激しくうなずく。「そうなんだよ、すっかり忘れちゃってたよ。僕、人と会う約束をしてたんだった」
「あらま」あたしはぱっと羽を広げて飛びあがった。「たいへん。急ぐの?」
「もう、時間過ぎちゃってる」彼女は青空の彼方に吸いこまれていく鐘の残響を指差す。「僕、とりあえず行ってくる!」
「あっ、ちょっ――」
 彼女は駆け出した。そしてそのままカフェの建物に飛びこみ、表通りへと消えていった。去り際に一度だけこちらを振り返って手を振ってたけど、それがなにを意味するのかあたしにはわからなかった。仕方ないから、しばらく待ってみることにした。でもまもなく他の客が裏庭のテーブルに案内されてきて、あたしたちが平らげた皿を片付けるために給仕の女性もこちらへ向かって来た。あたしはリュックサックとハンカチを持って、空高くへ舞い上がった。レンガに囲まれた庭を出ると、途端に祭りの喧騒が四方八方から押し寄せてきた。あたしはもっと高くへ飛んで、眼下をざっと見まわした。でもあの子の姿は、人々のなかのどこにも見つけられなかった。
 まるめて(たば)にしたハンカチを胸の前でぎゅっと抱きしめて、あたしはまたあてもなく街の空へと漂い出た。


    6


 しばらく無心で青空のなかを泳いだ。じりじりと照りつける太陽の下、マノンが置き忘れていったハンカチを日傘がわりに頭にかぶって、あたしはぼんやりと地上を見物した。
 時間が経つごとに、ますますお祭りの熱気は高まっていった。
 もうどの通りも広場も、ほとんど地面が見えないくらい人でいっぱい。それに、人間たちほどじゃないけど、アトマ族の人たちの姿もだいぶ増えてきた。着飾った群衆のあいだを飛び交う彼ら彼女らは、さながら花畑で乱舞する蝶の群れみたい。触角の揺れぐあいや羽の震えっぷりを見るにつけ、みんなが心から楽しんだり夢中になったりしてる様子が伝わってくる。ま、けっこうなことだわ。正直、根が田舎者のあたしは、まだこういう光景には慣れないけどさ。里のみんなやおじいちゃんも、きっとこれを見たら腰を抜かすだろうな。
「おじいちゃん、元気かな」
 まったく自覚のないまま、あたしはぽつりとつぶやいていた。自分の声がいきなり聴こえてきて、驚いたくらいだった。ときどきやって来る

に胸をつかまれて、あたしは一度きゅっと両目を閉じた。
 たちまち、懐かしい声が頭の奥からよみがえってくる。
「里を出ていくのはかまわんよ、もちろん」おじいちゃんは言った。あたしの髪に(くし)を入れてくれながら。明くる日にはあたしが12歳になるという日の、夜更けのことだった。「おまえの命、おまえの体じゃ。おまえの心のままに、みずから導くといい。だがね、レスコーリア。人の世で暮らしていくというのは、きっとそれなりに

だろうよ」
「そうなのかなぁ、やっぱり」あたしは前を向いたまま言った。
「おまえのような風変わりな子を、じいちゃんはこれまでにも何人か見送ってきたがね。音を上げてすぐに帰ってくる者、あるいはそれなりに時間が経ってから帰ってくる者、それに、出ていったきり行方不明になってしまう者、いろいろじゃったよ。なかにはおまえの伯父さんのように、うまくやりおおせる者もおらんではないが」
「……ほんとにそんなに、むずしいことなのかな」無邪気にあくびをしながら、あたしは言った。
「ほほほ」ぽんぽんとおじいちゃんはあたしの頭を撫でた。「しかしまぁ、おまえの頭の出来(でき)では、この里は――アトマだけの世界は――あまりにも(せま)かろうて。多少の困難は覚悟のうえで、思いきって挑戦してみるがいいよ」
「うん」あたしはいきおいこんでうなずいた。「それにあたし、自分からここを出ていくって言い出したんだし」
「そうじゃな」おじいちゃんは櫛を置いてあたしの椅子をくるりと回した。あたしたちは正面から向きあった。「おまえはまだ幼いが、それでも、

。ちょっと、厳しいようじゃが」
「ううん、へーき」あたしは首を振る。「そういうの、あたし向きだよ」
「うむ」いつも寝る前にする抱擁を、おじいちゃんはあたしにくれた。「大丈夫じゃ、レスコーリア。おまえなら、どこへ行っても大丈夫。……だが、できることなら――」
 そこまで回想が及んだ瞬間、まるで突風が吹きつけてきたみたいに、空と大地のすべてが大歓声に呑みこまれた。そしてそれに続いて轟く、華々しいファンファーレと号砲花火。あたしはわれに返って、めまいをこらえながら街を見渡した。
 都の中心に天高くそびえる王城、その(ふもと)の城門前に、六体ものカセドラが出現していた。どれも、〈アルマンド〉という名で呼ばれる王国軍の量産型巨兵だ。花のように鮮やかなピンク色の鎧に身を包む、人のかたちをした巨大な機械兵士。その躯体(くたい)内部に人間が搭乗して操縦する、地上最強の戦闘兵器……なんだけど、もちろん今日は戦うために出てきたんじゃない。巨兵たちは今、たった一(りょう)の馬車を守護するために剣を掲げている。その馬車を直視するのは、遠くからでもちょっと目が痛い。だって車体も屋根も窓縁も車輪も装飾も馬具も、なにもかもが黄金に輝いているから。まるで、太陽そのものみたいに。王様とお(きさき)たちが乗っているのはあきらかだ。
 さらにその前後には、十の戦車と百の騎馬と千の軍人が、みっしりと整列してる。隊列の先頭には、金管楽器や太鼓をたずさえた大編成の歩くオーケストラ。空には、幾万もの紙吹雪。地には、熱狂する王国民たち。音楽の派手な転調に合わせて、王城のバルコニーからおびただしい数の純白の鳩が解き放たれた。馬たちがいっせいに(ひづめ)を鳴らし、巨兵たちの重い一歩が踏み出される。パレードが始まった。
 王城前の広場からまっすぐに伸びて都市をつらぬく大通りを、あたしはまるで大河でも眺めるみたいな気持ちで目でなぞった。始点から終点まで、王国旗を打ち振る人々で満杯だ。歓声はもはや、大地を揺るがす地鳴りそのもの。こんな数の人間たちが、ふだんはいったいどこに隠れて暮らしてるんだろうって、なんだか不思議に思えてくるほどだよ。おじいちゃんたちがここにいたら、驚きすぎて泡吹いちゃってたかも。
 あ、そうだ――と、さっきまでおじいちゃんの思い出に浸ってたことを思いだして、あたしは再び地上へ降りていった。例のカフェをめざして飛びながら、広げていたハンカチをきちんと畳みなおした。そろそろあの子が戻ってきてるかもしれない。
 でも彼女の姿はなかった。もしかしたら、もう戻らないのかもしれない。それとも、一度戻ってきて、そのままどこかへ行っちゃったのかもしれない。しばらく前から、カフェの屋内も屋外も満席になってたみたいだから。あるいはあの子もみんなとおなじように、パレードを()に行ったのかも……。
 なんて、あれこれ考えてても仕方ない。それにこのままぼおっとしてるっていうのも、なんだか居心地がわるい。あたしはハンカチを小脇に抱えたまま、とりあえず近くを探してみることにした。目印(めじるし)は、もちろんあの真っ赤な髪。
 そして実際、

があたしにあの子の居場所を教えてくれた。
 最初に彼女と会ったカフェの横の路地を町外れへ向かって辿っていくと、やがて小さな川――というか水路――にぶつかる。立ちならぶ集合住宅や商店がつくる日陰(ひかげ)の底をひっそりと()う、浅くて狭くて流れのない川だ。その川沿いの人気(ひとけ)のない細道を、場違(ばちが)いなほど赤く瑞々(みずみず)しい光が一瞬きらりと駆け抜けた。あたしのこの()が、たしかにそれを上空から捕捉した。いちかばちか、あたしはそちらに向かって直行した。
 その結果、(はか)らずも目撃することになった。
 大きく腕を広げた一人の人間の男が、背後から少女に襲いかかるところを。
 あたしは両目を全開にして急降下した。
 けれどぎりぎり間に合いそうになかったから、あたしはハンカチをめいっぱい広げて、渾身の顕術の衝撃波でそれを押し出した。
 それは空中を矢みたいに突進し、不審者の顔面に真正面から張りついた。
 目深(まぶか)にフードをかぶっているその男は、いったん暴行の手をゆるめて顔のハンカチをむしり取った。そして下品な罵声をひとこと吐き捨てると、赤髪の少女のかばんを無理やり奪って、そのまま脇道の奥へと走り去ってしまった。
「マノン!」地面に尻もちをつく少女のもとへ、あたしは飛びこんだ。「大丈夫!?
「れ、れす……」マノンはぱくぱくと口を開け閉めして、うっすらと瞳を涙で濡らした。「レスコーリア……?」
「ちくしょう、あいつ……!」
 少女に怪我がないのを確認しながら、あたしは歯ぎしりして男の逃げた先をにらんだ。でももうそこには、誰の姿もなかった。


    7


 ひとまず安全な場所まで彼女を連れていくことにした。最寄りの開けた通りに出て、道端(みちばた)木陰(こかげ)に落ち着いた。まわりはあいかわらずの人だかりだけど、目が届く場所に交通整備の警官も立ってるし、ここならいちおう安心できそうだ。
 あたしは近くの露店までひとっ飛びして、全財産と交換で一杯の冷たいレモネードを買ってきた。それを飲んで気持ちと呼吸を整えると、マノンはようやく言葉が話せるようになった。
「うう~」不機嫌な犬みたいに鼻にしわを寄せて、少女はうなった。「くっそぉ。すごい怖かったよぅ」
「そりゃそうでしょ」あたしは嘆息する。「おとなの女の人だって怖いわよ、あんな目に()ったら。ほんと、無事でよかったわ」
「ありがとう、レスコーリア」マノンはぺこりと頭をさげる。「きみが来てくれなかったら、僕は今ごろ、どうなってたか……」
「これ、ちゃんと返さなきゃと思ってね」あたしはぐしゃぐしゃになっちゃったハンカチを差し出す。
「あぁ……これ、僕の……」かすかに震えが残る手で、彼女はそれをそっと握りしめる。
「ねぇマノン」あたしは声を低くしてたずねる。「どうして、あなた一人でいたの? 誰かと会う約束をしてたんじゃなかった?」
「うん」彼女はうなずく。
「その人とは会えたの?」
「ううん」彼女は首を振る。「まだ、会ってなかったんだ。あれから大急ぎで待ちあわせ場所に行ったんだけど、もういなくなってた。十五分か二十分くらい、約束の時間に遅れたから……もしかしたら、怒って帰っちゃったのかも」
「……そう」あたしは腕組みをする。「それじゃ、約束の場所っていうのは、どこだったの? まさかとは思うけど、さっきの――」
「そうだよ」ハンカチで顔や首の汗を拭いながら、マノンはこたえる。「さっき僕がいた通りだよ」
 あたしはじわりと眉根を寄せる。「……なんで? よりによって、なんであんな地味な裏道なんかで会わなくちゃいけないわけ」
「さぁ……」少女はふっと肩を落とす。「僕にはわかんないよ。ただ呼ばれて行っただけなんだもの」
 その時、近くにいた警官が口にくわえた笛をぴぴっと吹き鳴らした。車道に飛び出そうとする若者たちをたしなめたみたい。
「……とりあえずあたし、あのおまわりに言ってくるわ」あたしは宙でくるっと体の向きを変える。「あなたの身は無事でも、あなたの荷物は無事じゃなかったんだもの。ちゃんと届けを出さ――」
「待って待って待って」マノンはあたしの服の(すそ)を指先でつまんだ。
「うぐ」あたしは後ろ向きにのけぞる。「な、なにを」
「お願い待ってレスコーリア」指先に力をこめてマノンは懇願する。「おまわりさんにはまだ言わないで」
「どうしてよ」あたしは彼女の指を振りほどき、余計に顔をしかめる。「相手は立派な強盗犯なのよ。こういうのはなるべく早いうちに、おまわりとか親御(おやご)さんとかに――」
「わかってる、わかってるよ」マノンは大きくぶんぶんとうなずく。「僕もそれはわかってるんだけど、でも、また騒動を起こしたってことになったら、その、また僕、教授たちに、大目玉を……」
「教授?」あたしは彼女の顔をのぞきこむように見上げる。「誰、教授って。あなたの学校の先生?」
「えっと、あの、うん」マノンは軽くうつむく。「まぁ、そんなところ」
「……ふぅん」あたしは肩をすくめる。よくわかんないけど、まぁとにかくなにか、おとなたちに頼りたくない事情があるみたい。「あっそう。わかったわ。でもさ、これからどうするの? かばん、()られっぱなしでいいの?」
「まさか!」少女は今度は右に左に首を振る。「ぜったいぜったい、ゆるさないよ。必ず取り戻すんだ。だってあれには、大事な書類や資料や、先生がくださったお手紙だって入ってるんだし」
「先生? それって、さっき言ってた教授とは、べつの先生?」
 一瞬、少女は真顔になる。「……うん、そう。そうだよ。ちがう先生。僕の……僕のふるさとにいらっしゃる、とても大切な先生」
「……へぇ」あたしはちょっと伸びちゃった服の裾をぴしっと伸ばして整えて、すばやく深呼吸した。「よし。そんじゃ、行こっか」
「え?」マノンは目を点にする。「どこへ……」
「決まってるじゃない」あたしは両目を細めて、(こぶし)の骨をぽきぽきと鳴らした。「奪い返しに行くのよ」
「来てくれるの、一緒に?」手に持つハンカチを(しぼ)るようにきつく握って、マノンはあたしを見つめた。
「当たり前じゃない」(かわ)ききった口のなかいっぱいに広がった蜂蜜の味を思いだしながら、あたしは胸を反らせた。「あなたはあたしの恩人だもの」
「レスコーリア……」
「さぁ、立って」あたしは言った。「反撃開始よ」


    8


 まず、犯人の犯行後の行動を予想してみた。そしてすぐに、あたしとマノンの考えは一致した。犯罪者にとって、これだけ姿をくらましやすい日はないだろう。きっと人ごみに身を(まぎ)らそうとするはず。
「なら、こっちだ」決意を表明するみたいに、マノンはハンカチを頭にぎゅっと巻きつけた。「急ごう」
 はぐれたりしたら面倒だから、あたしはマノンの肩に乗って移動することにした。それにあたしには、土地勘がぜんぜんないし。マノンはこのあたりの地図はだいたい把握してるらしく、迷うことなくすいすいと道々(みちみち)を駆けた。
 犯人が逃げていった小路(こみち)は、そのまま進むとやがてべつの表通りへ行き着くのだという。でもそこへ至るまでには、少々複雑な路地裏の迷路を突破しなくちゃいけない。相手がそこで手間取ってるうちに先回りして、(おもて)へ出てきたところを捕獲しようという作戦だった。他の案を練る時間がもったいないから、あたしたちはその作戦一つに賭けてみることにした。
 でもその場所に辿り着いて、人垣(ひとがき)のなかからじっと息を詰めて待ってみても、一向に男が姿を現す気配はなかった。
「ちょっと待ってて」
 あたしはいったんマノンのもとを離れ、目標の小路へ接近した。そしてその奥を目を凝らして観察した。誰もいない。なにもない。ただの暗くてじめじめとした路地裏の道で、野良猫もカラスもネズミさえもいない。精神を集中して波動探知をしかけてみても、ぜんぜんなんの手応えもつかめない。
「もうここから出ていったあとだったのかな」戻ってきたあたしに向かってマノンがたずねた。
「かもしれない」あたしは周囲を見渡す。このあたりも他の表通りとおなじく、(あふ)れるほどの人波(ひとなみ)。「困ったな。この人たちのなかに紛れこまれたら、どうしようもないわ」
 マノンも同意する。「きっとおまわりさんが百人いても見つけるのは無理だね、この状況じゃ」
「もしかすると、まだ表へ出てきてないってことも、あるのかな……」あたしは宙をたゆたいながら頬杖をつく。
「あるいは、路地裏のどこかに隠れちゃったのかも。それとも、僕の知らない経路から、まったくべつの場所へ逃げたのかも……」マノンは自分の頭を両手で抱えた。
 二人してため息をついた。
 ちょうどそこで、地響きのような震動が足もとから突き上げてきた。
 あたしたちはいっとき思考を中断して振り向いた。(かど)を曲がった先の目抜き通りを、パレードが通過していくところだった。あまりの人だかりでろくに本隊を見ることはできなかったけれど、カセドラだけはばっちり見えた。それは大きな建物と建物のあいだに切り取られた青空のなかを、まるで足の生えた山のように悠然と歩んでいった。王族たちが乗る黄金の馬車は、その屋根の一部だけがかいま見えた。
「ここから、どうしよう」意識をこちらに引き戻して、マノンが沈んだ声でつぶやいた。
 あたしは巨兵たちが過ぎ去ったあとの四角い青空をじっと見上げたまま、口をつぐんで熟考した。
 思いだすのよ――と、あたしはみずからに命じた。思いだして。あの瞬間のことを。あの瞬間に、あなたの目に映ったすべてを。そこに秘められているはずの、なんらかの手掛かりを。
「レスコーリア?」
 マノンが心配そうにあたしの顔をのぞきこんだ。それでも今しばらくあたしは黙考を重ね、かろうじてつかまえた手掛かりの糸をゆっくりと手繰(たぐ)り寄せていった。
 そして宣言した。
「戻るよ」
「戻る?」マノンは首をかしげる。「戻るって……どこに?」
「犯行現場に」あたしは言った。


    9


「それは僕も考えないではなかったよ」路地裏を走りながらマノンが言った。「だってよく聞くもの。犯人は犯行現場に必ず戻るものだって」
 彼女の前方を先行して飛びながら、あたしは首を振った。「それとはちょっとちがうのよ。たぶん」
「どういうこと?」
「あのね……」
 犯行当時の状況を事細かに検証するうちに、気づいたことがあった。
 あの時、犯人は少女の後方から忍び寄り、彼女の体に手を伸ばした。そしてあたしの妨害を受け、それをとっさに振り払うと、一瞬の隙をついてかばんを奪い取った。ものの数秒にも満たないその一連の出来事の様子を、あたしは頭のなかで何度も何度も入念に再生した。
 そのなかであたしが気になったのは、

だった。
 よくよく思いだしてみると、マノンの背後から突き出てきた二つの手は、右と左でかなり高さがちがっていた。たしか、左手が高くて、右手が低かったと思う。
 それってなんだか、あとになって考えてみると、ちょっと変な動きだ。
 だって物盗(ものと)りが狙いなら、もっと素直に標的(かばん)めがけて両手を伸ばすはずだもの。わざわざあんな奇妙な姿勢で、それもあんなに両腕を大きく広げて近づくなんて、ちょっと不自然。
 だからあたしは、こう考えてみた。
 たぶんあいつ、最初は

、どこかへ連れ去ろうとしてたんじゃないかしら?
 あの左手はマノンの口を押さえるために、そして右手は胴体をまるごと抱えこむために、それぞれあの位置と高さに差し出されたんじゃないのか?
 でもそれを実行する寸前に思わぬ邪魔が入ったものだから、少女本人を(さら)うことはできなかった――というわけだ。
「……なるほど」マノンがうなずいた。「そうか。そういうことなんだ」
「ええ」
 そう、もしも犯人がマノンごと拉致しようと目論(もくろ)んでいたのだとしたら、おそらくは、

。だって、いくら人通りの少ない裏通りだからといって、今日のこの街の人出(ひとで)を考えると、抵抗する女の子を抱えたまま長距離を移動するなんてことは、いくらなんでもできないはずだもの。そんなことしたら、すぐに誰かの目に留まるに決まってる。
「だから、犯行現場の近くに僕を連れこむ場所を用意してた可能性が高いというわけだね。このあたりには、馬車や自動車を入れることはできそうにないし」
「そういうこと」あたしはうなずく。そしてふっと飛行速度をゆるめる。「さ、もうすぐあの川のところに出るよ。こっからは慎重に行こう」
「了解」
 こうしてあたしたちは犯行現場まで戻ってきた。すぐさま周辺を探って、あたしたちは川沿いに立つ集合住宅の外階段をのぼった。そして四階あたりの踊り場に潜伏した。手摺(てすり)(さく)の隙間から、マノンが最初に襲われた地点がはっきり見える。
 あたしたちは互いに唇の前に指を立てて、沈黙を示しあった。マノンは身をかがめ、眼下の道にまっすぐ視線を注いだ。あたしは彼女の頭のうえに立って目を半分閉じ、じっと耳を澄ませた。
 その後、何人かの人間があたしたちの下を通り過ぎていった。
 そのたびにあたしたちの心臓はどきりと跳ねたけど、それはみんなただの一般市民か、あるいは迷子になった観光客たちだった。とくに怪しい人はいない。
(むぅ)
 途中、マノンがうめいた。
(だいじょぶ?)
 あたしは小声で彼女にたずねた。彼女は苦しげな笑みをこぼして、(しび)れてしまった自分の足をぐいぐいと揉んだ。あたしも張りっぱなしの触角の緊張をやわらげるために、おでこやこめかみを手のひらでほぐした。
 辛抱づよく、あたしたちは待った。
 待って、
 待って、
 待って……
 待ち伏せすること、およそ三十分。
 ようやく事態が動いた。
(あれ……)マノンがぴくりと肩を震わせる。(なんで、今ごろ来たんだろ……?)
(誰なの)いつのまにかどこからともなく路上に現れた一人の女性を見据えて、あたしは首をかしげた。
(僕が待ち合わせしてた人)
(なんですって?)
 あたしたちは息を止めて女性の動きを目で追った。
 彼女は一人のようだった。まわりには誰もいない。上下とも臙脂色(えんじいろ)の質素なスカート・スーツを着ていて、細い銀縁(ぎんぶち)の眼鏡をかけている。鎖骨に触れるほどの長さのまっすぐな黒髪。かすかに浅黒い肌。年齢は、たぶん二十代中盤か後半。背丈は平均的だけど、体重はたぶん同年代の女性の平均の半分くらいしかなさそう。それくらい痩せてる。持ち物は、たっぷりとした大きさの革かばんが一つきり。
(どっちから来た?)あたしは少女にたずねた。
(たぶん、だけど……)
 マノンはそろそろと片手を上げて、道の脇に立つ一つの建物を指差した。それはなにかの商店のようだった。表の扉に大きな板が(くぎ)で打ちつけてあって、廃屋になってからだいぶ経っているのが遠目からでもわかる。
(さっき急に、あそこの裏口から、出てきたような……)
(……そうね)あたしはうなずく。(この道をどちらかからやって来たのだったら、もっと早く気づけてたはずだもの)
(うん)少女はこくりと唾を飲む。(でも、なんであんなとこから……)
(……どうやら、あなたを探しに戻って来たってわけじゃ、なさそうね)すたすたと足早(あしばや)に去っていく女性を見送りながら、あたしは言った。(……う〜ん。なんか、あの人――)
「あっ!」
 思わず声をもらしてしまって、マノンは慌てて自分の口を両手で塞いだ。あたしもさっとしゃがみこんで、新たに商店の裏口から出てきた人影を凝視した。
 

にちがいなかった。
「やっぱりいたな、あんにゃろ」あたしは不敵な笑みを浮かべた。
「な、なんで」マノンは柵にしがみついて、こわごわと男を見おろした。「なんであの人と、おなじ建物から……え……そんな、まさか……」
 マノンを襲った男は、さっきの女性のあとを追っておなじ道を歩きはじめた。犯行時にかぶっていた上着のフードは、今は脱いでいる。おかげで、短く刈り込んだ銅色の髪と、黄みがかった生白い肌が(あら)わになっている。思ってたより若い男だ。こいつの方は、荷物はなにも持ってない。完全に手ぶらみたい。
 あたしはぎろりと眼光を放って、道の先を行く女の姿をもう一度見た。
 ……ふむ。なるほどね。そういうことか。
 ちょうど、女がちらりと後ろを振りかえってうなずくところだった。それにこたえて、男はひらりと手を振ってみせた。それから女は再び前を向き、そして、よしておけばよかったのに、自分が今しがた受け取ったばかりの(ブツ)を、革かばんのなかから引っぱり出して確認した。
(ぼ!)マノンが手の(ふた)の奥で叫んだ。(ぼ、僕のかばんだ! 今あの人が取り出したのって、僕のかばんだよ。まちがいない)
(ここで待ってなさいよ)あたしはリュックサックのなかから必要なものを取り出して、飛び魚みたいにまっしぐらに地上へ飛び降りた。
(えっ、ちょっと、どうするの――!?
 飛びながら、あたしは(さや)からナイフを抜いた。ナイフっていっても、人間が魚を獲る時に使う釣り針を、里の鍛冶屋さんで打ち直してもらったものだけど。
 あたしはまず、男に狙いを定めた。
 上空から標的に向かって一直線に降下し、最初の一撃を脳天にお見舞いした。
 男は小さな悲鳴を上げ、自分の頭のてっぺんを両手でまさぐった。でも次の瞬間には、気を失ってその場に倒れこんだ。
 先を歩く女が物音に気づいて、後ろを振り返る。そして今まさに倒れゆく男の姿を目撃し、はっと息を呑む。道の前後を見まわす。誰もいない。ここには、この男と自分しかいない。では、どうして? なにが起こったの? 女は血眼(ちまなこ)になって首をねじり、周囲の建物の窓という窓に目を走らせる。でもこの時にはすでに、あたしは女の頭の真後ろに張りついていた。
「それ」
 あたしは一思(ひとおも)いにやった。女のむきだしの首筋に、さっくりと刃を突き立てた。
 この人は悲鳴さえ上げなかった。まるで糸を切られた(あやつ)り人形みたいに、ただ無言でくたくたと地面に崩れ落ちた。
 少女が潜んでいる階段の踊り場を見上げて、あたしはぐっと親指を立ててみせた。マノンは両目をまんまるにして、呆然とこちらを見おろしてる。
「おいで」あたしは大きく口を開けて言った。「もうだいじょうぶだよ」


    10


 あたしが使ったのは、アトマ族秘伝の毒薬だった。ほんの一滴でたちまち全身の神経を麻痺させちゃう、とびきりのやつ。ナイフの刃には、それがたっぷりと塗りこんであった。こいつはあんまり強力すぎるから無闇に使っちゃいかんぞ、っておじいちゃんに言われてたけど、今日の場合は、まぁ、仕方なかったよね。いや~、正直びっくりした。人間に使ったのは初めてだったけど、まさかここまで効くなんて。今度から、取り扱い注意だわ。でも、うん、気分よかったな。
 ともかくこうして、マノンは大事なものを取り戻すことができた。かばんの中身も、ぜんぶ無事だった。財布も、書類や資料も、そして大切な先生からの手紙も、ちゃんとあった。彼女はそれはそれは喜んだ。あたしも一緒になって喜んだ。でもやっぱり、それはそれとして、あたしはこの一件を軍警察に知らせることにした。ちょっと(しぶ)りはしたけど、マノンも結局それに同意した。これだけの悪行を、このまま放っておくわけにはいかないものね。
 いつしか()が傾いて、大いなる祝祭に()く王の都に、茜色の光が満ち満ちた。気が早い夜店の店主たちは、それぞれの軒先に色とりどりの(あか)りをともしはじめた。あちこちから料理とお酒の香りが立ちのぼり、空には無数のカラスの鳴き声が響き渡った。パレードは終わったけれど、お祭りはまだまだ終わらない。今夜も明日も明後日も、続いてゆく。
 軍警察の建物を出て、一緒に街の通りを歩きながら、あたしたちは互いを(ねぎら)いあった。
「ねぇレスコーリア」夕陽を一身に浴びるマノンが、ほっと息をつくように呼びかけた。
「なぁに」あたしは寝そべるような姿勢で宙を漂いながら、こたえた。
「あのね、僕、こんなにはちゃめちゃな一日って、今までなかったよ」
「あたしだって」
 ふいにあたしたちは顔を見合わせて、(せき)を切ったように同時に大笑いした。
「は~、でも安心したよ」笑いが収まると、マノンは晴ればれとした顔で空を仰いだ。「論文が流出する前に事件を解決できて、ほんとによかった。教授たちには、小言をいわれるだけで()んだよ」
 あたしは少女が肩にかけているかばんに目をやった。
 犯人たちの狙いは、少女の所持している論文(あたしがよだれを垂らした例の書類だ)と、やはり

だった。
 犯人二人のうちの男の方、こいつは、ただ(かね)で雇われただけのならず者だった。
 雇い主は、言うまでもなく、もう一人のあの女。
 彼女は、なんとマノンが所属する組織の指導的立場にある人物で、少女の大先輩にあたる研究者だった。ふだんはいつも物静かで協力的な感じの人だったらしいけど、その胸の内では、自分とおなじ研究分野で奇跡的な成果を挙げつづける後輩の――しかもおそろしく年下の――少女に対して、並々ならぬ敵意と嫉妬心を募らせていたのだという。
 そしてついに、少女がまた新たな論文を執筆していることを知った彼女は、仕上げを手伝う名目でそれを奪取してしまうことだけでなく、もういっそのこと本人ごとこの世から消してしまおうという、実におぞましいことを思い立った。

の外れた暴走する悪意を止めるものは、どこにもなかった。彼女は迷うことなく、計画を実行に移した。不首尾に終わったからよかったものの、まったく、

人間ってのは、ほんとに救いようがないわ。
「あれ、まさかあなた自身が書いたものだったなんてね」あたしは吐息まじりに感心する。
 少女はなんてことなさそうに肩をすくめる。束ねた赤髪が、夕風にふわりと揺れる。
「なんていうか……賢いとか出来(でき)が良いとかっていう程度の話じゃないわね。それってもうほとんど、天さ――」ここで突然、あたしのなかで眠っていた一つの記憶がぴかりと光った。「……ねぇ、もしかして、あの人? なんていったかしら、えっと、たしか……ディーダラスさん? だったっけ? 去年だか一昨年(おととし)だか、新聞で読んだわ。そういう名前の、ものすごく若くて天才的な研究者が、王都の科学アカデミーに招致された、っていう記事を」
 また少女は肩をすくめる。今度はちょっぴり、照れくさそうに。
「あなた……マノン・ディーダラス」あたしは彼女に面と向かって問いただした。
 少女は小さくうなずき、にこっとほほえむ。
「なぁんだ~」しみじみとあたしはうなずく。「あなただったの! はー、驚いた。でもそうか、そりゃ、

なら、それくらいの芸当はやってのけるでしょうね。まさかこんな小さな女の子だとは、思いもしなかったけど」
「あんまり褒めないでよね」マノンはうつむいてもじもじする。「僕なんか、まだまだ駆け出しの下っ()なんだから……」
「あ、そうだ」あたしはぽんと手を叩く。「そういえば、あなたが書いたその論文。カフェで見た時に気づいたけど、数式の一部に間違いがあったよ」
「え?」マノンはぴたりと立ち止まる。
「ほら、あの、たしか7ページ目くらいの、第3項あたり――」
 あたしの指摘を聞くか聞かないかのうちに、マノンはその場で立ったままかばんを漁って論文を取り出した。そしてすぐさまその間違いの箇所を発見し、あっと声を上げた。
「ほんとだ!」彼女は目を見開く。
「でしょ」あたしはうなずく。「(かい)はきれいにまとまってるから、きっと式を清書するあいだにうっかり書き間違えただけなんじゃないの」
「そう、そうだよ」マノンはうなずく。「きみの言うとおり。この式は、最初から解ありきで作った、いわゆる後付けの式だったんだ」
「やっぱり。そんなふうに見えたよ」あたしはにやりと笑う。「たいしたミスじゃないけど、なんにせよ提出前に気づけて良かったんじゃない」
「……すごぉい」マノンは論文を手にしたまま、あたしの顔をじっと見つめた。「すごいんだなぁ、レスコーリアは」
 あたしは肩をすくめる。「そう? べつに、それほどでもないと思うけど」
 かばんに論文をしまうと、マノンは大真面目な顔をして首を振った。
「ううん。きみくらい頭脳明晰なアトマ族がいたなんて話、僕はこれまで一度も聞いたことがない」
「へぇ? そうなんだ」
「うん、うん、そうだよ。……あのね、お昼にもちょっと話したけどさ、僕のいるところにもね、すごく優秀なアトマ族の研究員や技術者が、何人かいるんだ」
「あぁ。そんな話、したね」
「……でもね。これは、僕、確信をもって言えるけど――」
 マノンはぐいと大股で一歩踏み出して、なぜかあたしに向かって器のかたちに重ねた両手を差し出した。なんとなく自然ななりゆきで、あたしはそこにちょこんと飛び乗った。二人の目が、至近距離でばっちり合う。
「レスコーリア。きみは、その誰よりも、遥かに優秀だと思うよ」
「はは」あたしは笑みをこぼす。「まさか」
「嘘じゃない」マノンはきっぱりと一度だけ首を振る。「嘘じゃないよ。本当のことだよ。きみは自分が思ってるより、ずっとずっとずっと、類稀(たぐいまれ)な人だ。――ねぇ、レスコーリア」
「なに」あたしは首をかしげる。
「僕と一緒に来てよ」
「はい?」あたしはもっと首をかしげる。ほとんど、ほっぺたが肩にくっつくくらい深く。
「僕、きみともっと一緒にいたい」少女はぽっと頬を明るくする。「きみともっとお話ししたい。きみともっといろんなことを教えあいたい。きみが僕の友だちになってくれたら、とってもとっても、心強い!」
「ちょ、ちょっと待って」あたしは慌てふためく。「なにをそんな、そんないきなり……」
「これから行くとこ、決まってないんでしょ?」彼女はこちらにずいずいと顔を近づける。
「ま、まぁ、うん、それは、そうだけど……」
「だったら僕のうちへおいでよ!」あたしを乗っけた両手を頭上に掲げて、マノンは高らかに告げた。
「はぁ⁉」あたしは彼女の指にしがみつく。
「僕、一人暮らしだから、なんの遠慮もいらないよ」夕焼けにまばゆく照らされる少女は、屈託のない笑顔であたしを見上げる。「ね。今日から僕ら、一緒に暮らそうよ」
「え…………ええ~~っ!?
 仰天してひっくり返りながら、でもあたしの胸のなかでは、今この瞬間、自分の運命が

へ向かって転がりだそうとしているのを、たしかに感じ取っていた。そこにはまったく疑いもなく、怖れもなく、ただきらきらとした喜ばしい予感だけがあった。
 だけどマノンったら、まだあたしがなんの返事もしてないのに、あたしを天高く持ち上げた格好のまま、たくさんの人でにぎわう通りの真ん中をくるくると踊るように回りはじめた。あたしは恥ずかしいやら驚くやら呆れるやら、もういろんな気持ちで頭も心もしっちゃかめっちゃかになっちゃって、結局、お腹がよじれて涙が出てくるまで、めいっぱい笑った……。


     ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


 その日の夜、あたしたちは街角の夜店でたらふくご飯を食べてから、凱旋門の屋上へ昇った。そこで世界じゅうからやって来た人たちと一緒に、世界一の大花火を見た。こんなに素晴らしいものがこの世にあったなんて信じられないって、あたしはそれを見ながら本気で思った。こんなに美しいものを作り出すことのできる人間たちのことを、この時ばかりは、心から好ましく思った。
「おじいちゃんたちにも、見せてあげたいな」あたしはマノンの肩に座ってつぶやいた。
「いつか見れるよ」少女は無垢な微笑と共に言ってくれた。「みんなで、一緒に」
『……大丈夫じゃ、レスコーリア』あたしの胸の奥から、おじいちゃんの声がまたよみがえってきた。『おまえなら、どこへ行っても大丈夫。……だが、できることなら――
「素敵な夜ね」あたしは言った。
「うん」マノンはうなずいた。「ほんとだね」
 ――できることなら、たった一人でいい。たった一人でいいから、日々を共に歩む友だちを見つけなさい。それだけで、おまえの人生は何倍も、何十倍も、何百倍も、素晴らしいものになるよ』
 そのうち落ち着いたら、おじいちゃんに手紙を書こうと思う。旅のあいだに見たたくさんの綺麗な景色のことや、心優しい人たちのことや、夜空を埋め尽くす光の花々のことなんかを、ぜんぶそっくり教えてあげたい。そして、なによりも、新しくできた友だちのことを。……あ、もちろん、あの伯父さんのことは一切書くつもりはないよ。あたし、自分が楽しかったことだけ、感動したことだけ、美しいと思ったことだけ、書くんだから。
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