おなじところへ帰るところ

文字数 23,005文字

    1


「じゃあ、最後にもう一回だけ聞くね」ハスキルが言いました。「ほんとのほんとに、忘れものない?」
「ないよ!」母に向かってノエリィは大きな声でこたえます。「ほんとのほんとの、ほんとにないよ。ね、ピレシュ」
 隣からじっと顔を見つめられたピレシュは、呑気きわまりないノエリィの笑顔に一瞥(いちべつ)をくれてから、毅然(きぜん)とした目つきでハスキル先生を見上げました。
「はい、先生。全部きちんと持っています」
「切符も、お金も、招待状も……」
「はい。切符も、お金も、招待状も、二人ぶん全部

に」
 そう言うとピレシュは自分の胸の前にかけてある黒革(くろかわ)のポーチに、さっと手のひらで触れました。続いてノエリィも、自分の首からぶらさげている毛糸で編まれたポーチをぱしぱしと叩きます。けれどこちらには、ただ少しのおこづかいが入っているだけのようです。
「だいじょうぶだってば。だからもう聞かないでよね、お母さん」ノエリィがやれやれと首を振ります。
 深く長く吐息をついて、ハスキルは一歩、二歩と、ゆっくり後ろにさがります。そして家の前庭に並んで立つ二人の少女の姿を、今一度くまなく眺めます。
 彼女の実の娘であるノエリィは、彼女とおなじ金色がかった銀色(あるいは銀色がかった金色)の髪を頭の横でゆるくまとめて、リボンの巻かれた麦わら帽子をかぶっています。近ごろ新調したばかりの丸眼鏡は母のものとおそろいで、その奥の瞳もやはり母のそれとそっくりな琥珀色にかがやいています。ふんわりと肩口(かたぐち)のふくらんだ夏物のワンピースは、白地に黄色の水玉模様。靴は今日のために選び抜いたレース飾りつきの革靴。持ちものは、先ほどの毛糸のポーチと、赤茶色の旅行鞄が一つ。底に車輪のついた箱型のそれは、ふつうの子ども用の規格の製品ですが、持ち主の女の子がひときわ小柄なため、なんだかやけに大きく見えます。
 そして、それとほぼ同形の鞄を、もう一人の少女もたずさえています。ただしこちらは、持ち主である少女がひときわ長身であるため、なんだかやけに小さく見えます。
 物思わしげに一瞬だけ唇を噛むと、ハスキルはことさらに目を細めて、ピレシュのいでたちに見入りました。けれど、改めて見るまでもなく、今日もこの少女は、あいかわらず全身が黒の一色です。黒の革靴、黒のワンピース。ポーチも、鞄も、やはり黒。でも、さすがに髪の色だけはどうにもなりません。それはまさに漆黒の対局に位置する、息を呑むばかりの曇りなき白金(はっきん)色。しかし少女は、まるでそれを自分の恥ずべき過失であると見なすかのように、幅の広い真っ黒なカチューシャで頭を覆っています。
(……ああ)ハスキルは胸の内でため息を吐きます。(とうとう、今日の日までに、この服を脱がせることはできなかったわね)
 さわやかな朝の風が丘を駆け上がるように吹きつけて、芝生のうえに立つ三人の体を撫でていきました。黒づくめの少女の長くまっすぐな金髪が、まるで柳の枝葉のように幽玄(ゆうげん)と揺れます。
(せめてこの髪と目の色だけでも、黒でなかったのが救いだわ)少女の深い緑色の瞳をのぞきこんで、ハスキルは思います。(これまで黒だったら、もうあまりにも、さみしすぎるもの……)
「先生?」ピレシュが心配そうに恩師を見つめ返します。
「あ、うん」ハスキルはわれに返ります。そしてふっと微笑を浮かべます。「……ねぇ、ピレシュ」
「はい」
「あのワンピース、その鞄に入れた?」
「……はい」
「よかったら、着てみてね」
「…………はい」
 そこへ馬車が到着しました。
 手綱を握る御者のおじいさんが、少女たちと鞄を荷台に乗せてくれます。
「頼んだわね、ゲムじいさん」ハスキルが言いました。
「おまかせください」御者のおじいさんはかぶっていた鳥打帽(とりうちぼう)を軽く持ち上げ、うなずきました。「必ず無事に、お嬢さまがたを駅までお連れします」
 ねぇ、もう一回だけ聞くわね――という言葉をぐっと呑みこんで、ハスキルは窓越しに二人の少女の手を握りしめます。
「いい、二人とも。向こうに着いたら、きちんとみなさんにご挨拶するのよ。知らない人ばっかりで、緊張しちゃうかもしれないけど」
「うん」「はい」
「それから、二人だけで行動する時は、絶対に、明るくて人の多いところを歩くこと。絶対に、絶対に、暗くなってから街へ出たりしないこと。いいわね?」
「うん、りょうかい」「はい、わかりました」
 ハスキルは二人の手を離し、今度は二人それぞれの頭を優しく撫でました。
「ノエリィ。一緒に行けなくてごめんね。楽しんでいらっしゃい」
「うん」ちょっとだけ瞳を潤ませて、娘は母の腕を両手で握りしめました。
「ピレシュ」
「はい」
「せっかくの機会よ。肩の力を抜いて、楽しんできてね。家のことも寮のことも、なにも心配いらないから」
「……はい」
「それから、このどじっ子のこと、お願いね」
「はい」ピレシュは遠慮がちに先生の手に触れて、こくりとうなずきました。「ノエリィはわたしが守ります」
「わたしも、ピレシュを守る!」
 横から身を乗り出したノエリィが、母とピレシュを一緒くたにして抱きしめます。三人は顔を見合わせて笑いました。
「よろしい!」ぱっと身を引いたハスキルが、腰に両手を当てて胸を張りました。「なにかあったら、いつでも学校の方に伝報(でんぽう)を打ってね。行ってらっしゃい!」
「行ってきまぁす!」「行ってまいります」
 こうして幼馴染みどうしの少女たちは、初めての二人きりの旅行に出発しました。時は顕世歴(けんせいれき)1766年、夏の盛りの頃のことでした。この年、ノエリィは11歳、ピレシュは13歳になっていました。


    2


 その手紙がハスキル・エーレンガートのもとに届いたのは、およそ一カ月前のことでした。けれど、自宅の郵便箱のなかにそれを見つけて、差出人の名前をたしかめても、ハスキルは最初その〈アストラッド・シンメンタール〉なる人物の名に、まったく思い当たる(ふし)がありませんでした。
 それが誰だかわかったのは、手紙の中身を読んでいる最中のことでした。
 手紙の送り主は、ハスキルが二十数年前にたった一度だけ会ったことのある、遠縁(とおえん)のおばさんの一人でした。たしか、ハスキルの父親のお兄さんのうちの誰かの奥さんのお姉さんだか妹さんだかなんだか、それくらい遠い人だったはずです。シンメンタールという姓についてはすっかり忘れてしまっていましたが、「アストラッドおばさん」と口のなかで唱えてみたところ、長らく忘れ去られていた思い出がいくつか、ハスキルのなかで鮮明によみがえりました。
 たった一度しか会ったことがなくても、ハスキルはそのおばさんのことをよく覚えていました。だって、十歳かそこらだった当時の自分を、他にはなにも目に入らないというぐらいに熱烈に、可愛がってくれたのでしたから。父方の親戚やその家族一同がここタヒナータの街にやって来て、みんなで夏の休暇を過ごした日々のあいだのことでした。お別れの日に、おばさんが涙を流して抱擁してくれたことを、ハスキルは肌身で記憶していました。
 それぞれに慌ただしい歳月をくぐり抜けるうちに、両者はすっかり疎遠になってしまっていたのですけれど、アストラッドおばさんは小さなハスキルちゃんに対する愛情を失くしてしまったわけでは、決してありませんでした。どこでなにをしていても、いつもあなたの健康と幸福を祈っていたと、彼女は手紙に書いていました。
 手紙は、実に十枚にも及ぶ大作でした。そこには、この二十年のあいだに彼女の身に起こった幾多の出来事や近況について、事細かに綴られていました。
 歴史小説でも堪能したような感慨とともに手紙を読了すると、ハスキルはそれと一緒に同封されていた豪勢な招待状を手に取り、ぼんやりと見おろしました。
 昨年の暮れ頃、アストラッドおばさんの夫であった実業家のシンメンタール氏が、長い闘病生活の果てに、とうとう天に召されてしまったのでした。おばさんのもとには、素晴らしい結婚生活の思い出の数々と、莫大な資産と、そして、さる湖のほとりに立つ古いお城が(のこ)されました。
 ……お城?
 ハスキルは手紙と招待状をテーブルに置き、ふだんどおりに紅茶を淹れ、テラスから庭の花壇を眺めました。そして、ちょっと頭を抱えてしまいました。


 招待状は、二通ありました。一通はもちろん、ハスキルへ。そしてもう一通は、ハスキルの娘、ノエリィへ宛てて。
 今年の夏の休暇の季節に合わせて、半年間におよぶ改修工事を経て生まれ変わったお城での初の晩餐会が、開かれるというのでした。シンメンタール夫妻ととくべつに親しかった友人たちや親戚の人たちが、それに招待されました。
 なぜそんな集まりに自分たち母娘(おやこ)が呼ばれるのか、ハスキルにもノエリィにもさっぱりわけがわかりませんでした。けれど、それだけおばさんがハスキルのことを想いつづけていてくれた証だと素直に受け取ることにして、二人は招待に応じる決意を固めました。そしてそうと決まったら、ノエリィはたちまち夏の旅行計画に夢中になりました。ひと月も前から服や鞄や持ちものの支度に取りかかり、早くその日が訪れないかと、それはもう毎日そわそわとして過ごしました。
 悲劇は、ハスキルが返事の手紙を書き終えた日の翌朝に起こりました。
 ハスキルが院長として運営する高等学院が、王国政府から今後どのような支援や助力を受けられることになるかをうらなう重要な会議の日程が、通達されたのでした。なんという運命の悪戯(いたずら)か、それはまるっきり、旅行の日程と重なっていました。
 もちろんノエリィは、泣いて泣いて、泣き暮れました。その日は夕食すら、喉を通りそうにありませんでした。
 でも結局、ノエリィはその夜もお腹いっぱいになって眠りにつきました。
 母娘が暮らす家のすぐ隣に、ハスキルの学院の校舎と学生寮が立っています。(えん)あってその学生寮の一室で生活しているピレシュは、夕飯の時間になるとエーレンガート家を訪れるのが習慣でした。
 そしてその日の夕方、食堂の床に突っ伏してばたばたと暴れるノエリィと出くわして、ハスキルからくわしい事情を聞かされると、彼女はしばらく黙って考えこんだのち、みずから提案してくれたのでした。自分でよければ、ハスキル先生の代役としてノエリィを連れていきます――と。


 二人を乗せた列車は、旧コランダム公国領の主都タヒナータの駅を、午前9時ちょうどに出発しました。これから目的地までは、二度の乗り換えを挟んで、およそ6時間にもおよぶ長旅になります。
 少女たちが目指すのは、コランダムの南東に位置する旧アンセルメ連邦共和国領北部の小さな町、ファンデルネール。「女神の手鏡(てかがみ)」と(たた)えられる麗しき〈ルエデリ湖〉を(いだ)く、知る人ぞ知る保養の名所です。
「お天気で、良かったね」
 個室席に二人で向かい合って座って、ノエリィがにっこり笑いました。
「うん」ピレシュはうなずきます。そして一呼吸おいて手を伸ばし、ノエリィがかぶっていた麦わら帽子を脱がせます。「飛んでっちゃうわよ。降りるまで、持ってなさい」
「うん」窓から吹きこむ風を浴びながら、ノエリィは言われたとおりにそれをきゅっと両手で抱えました。
 大きく開け放たれた窓の向こうに、鮮やかな夏の景色が途切れることなく流れていきます。濃緑の平原、果てなき花畑、輝く山々。小さな村、中くらいの町、大きな都。故郷の地から遠ざかるにつれて、少女たちが初めて目にするものがだんだんと増えてきます。
「きれいだね」ノエリィがうっとりと言いました。
「うん」髪を手で押さえて、ピレシュはまぶしげに(まぶた)を細めます。「先生にも、お見せしたい」
「そうだね」ちょっと寂しそうに、ノエリィは微笑します。「今度はみんなで出かけようね」
「うん」
「ねぇ。ピレシュは、怖くない?」
「なにが?」
「もちろん、わたしたちだけで知らないとこへ行くってことが、だよ」
「怖くない」ピレシュは肩をすくめます。「……ってこともないわ。やっぱり少しは、怖い。わたしだって、こんなことは初めてだもの」
「だよね」ノエリィはほっと息をつきます。「よかったぁ」
「べつによくはないでしょ」
「うん。ふふ……」
 いつしか車窓の外に広がる眺めのなかに、少女たちが慣れ親しんだ土地のものは一つも見当たらなくなっていました。どこへ行っても変わらない青空や雲や草木を除いて、どの建物も、人々の服装も、鳥たちの羽の模様も、そして風や空気の香りさえも、すっかり異邦のそれに変容してしまいました。
「そろそろ最初の乗り換えね」ピレシュが言いました。「準備しとこう」
「うん」
 小さくうなずくと、ノエリィは再び麦わら帽子をかぶりました。そしてつばの下から、向かいに座る少女の姿をこっそりじっと見つめました。
 黒の一色に包まれるその身に、窓から射す太陽がぎらぎらと注がれています。
「……ね、ピレシュ」ノエリィは遠慮がちに呼びかけます。
「なに?」うつむいて黒革のポーチのなかをごそごそと探りながら、ピレシュはこたえます。
「暑くない?」その服、と続く言葉は言葉にせずに、ノエリィはたずねます。
 たずねられた少女はポーチから二枚の切符を取り出して、一枚を前に差し出し、平然と首を振ります。
「暑くないわ」
 やがて汽笛が鳴り響き、二人はいったん列車を降りました。


    3


 列車はおおよそ時刻表どおりにファンデルネールの駅へ到着しました。二人はしっかりと手を取りあって、降車する乗客たちの列に並びました。途中の二度の乗り換えの時にも、昼食のために知らない街の駅食堂に入った時にも、こうしてずっと、二人は手を繋ぎあっていました。
「やっと着いたね」ノエリィが意気揚々と腕を振り上げます。「列車、楽しかったぁ」
「ちょっと、離れないでよね」ピレシュはその手をぎゅっと引っぱります。
「ハスキルちゃん!」
 プラットホームに降り立った途端、改札口の方から大きな声が飛んできました。
「――じゃなかった、ノエリィちゃんに、ピレシュちゃん!」
 前言を修正しつつこちらに向かって手を振っているのは、アストラッドおばさんにちがいありません。綿菓子みたいにふっくらとした白髪頭の女性で、(とし)は今年で七十だと聞かされていましたが、まだ五十代、ともすれば四十代かと思えるほど、身のこなしが

としています。背丈はそれほどでもありませんが、脚がものすごく長くて、ふつうの人の胸のあたりから腰が始まっているように見えます。(そで)のないピンク色の夏用ニットに、ベージュのデニムを身に着けています。履物(はきもの)は意外なことにごくふつうの運動靴で、草の切れ端が靴紐(くつひも)のあいだに絡まっています。目鼻立ちのはっきりとした端整な顔立ちは、やはりノエリィが知っている親族の誰にも、まったく似ているところがありません。
 改札を出るやいなや、少女たちは愛情あふれる歓迎を受けました。
「よく来てくれました」じんわりと涙目になって、おばさんは二人を抱きしめました。「なんて素敵なの、二人とも」
「はじめまして、アストラッドおばさま。このたびは、わたしたちをお招きくださって、ありがとうございます。わたし、ハスキル・エーレンガートの娘、ノエリィです」
 数日前から何十回も練習を重ねてきたご挨拶をついに――ひと言だってとちらずに!――述べて、ノエリィがうやうやしくお辞儀をしました。ピレシュもそれに続き、自身の名と謝辞を口にします。
「こちらこそ、はるばる訪ねてきてくれて、ほんとに嬉しいわ」おばさんは目もとを拭いながら、深く息をつきます。「……あぁ、まるで時間が巻き戻ったみたい。ノエリィちゃん、小さい頃のお母さんにそっくりよ」
「よく言われます」照れくさそうに、ノエリィはうつむきます。「今だって、お母さんといると、しょっちゅう姉妹にまちがわれます」
「ハスキル先生、お若いものね」ピレシュが小声で続きました。
 アストラッドおばさんは声を出して笑って、改めて少女たちの肩を抱きました。今度は、二人の背後から。
「さぁ、行きましょう。馬車を待たせてあるわ」


 三人を乗せた馬車は、ファンデルネールの町なかをのんびりと進みました。どこまでも続く真っ白な石畳の道沿いに、おなじく真っ白な石壁の家々が並んでいます。しかしそれらに(ふた)をする屋根は一軒としておなじ色のものが見当たらないほど多彩で、まるで町そのものが一つの巨大な絵の具箱のようです。
 あれこれとお喋りしているうちに、馬車は市街地を抜けて自然豊かな景観のなかへ入っていました。
「ほら、見えてきたわ」ゆるやかな坂道をのぼりきったところで、アストラッドおばさんが前方を指差しました。「あれがルエデリ湖よ」
 それはまさに本物の鏡のように、周囲の山々や雲の群れをそっくりそのまま水面に映しています。水辺にはぽつぽつと小邸宅や船小屋が立ちならび、そのなかには少女たちの当面の宿となるはずのお城も見えます。ここからちょうど対岸あたりの水際(みずぎわ)(たたず)むそれは、ハスキルやノエリィが過剰に(ふく)らませていた夢想のなかの姿とはちがって、むしろ

とした可愛らしい建物でした。外壁は一面こってりとした白漆喰(しろしっくい)に塗りこめられ、摩耗した鉛筆のようにまろやかなかたちの尖塔が中央にそびえています。屋根はすべて空とおなじ青色で、建物のまわりの樹々(きぎ)と芝生は目が覚めるような緑色で、この城の風景画を描くには白と青と緑の三色さえあれば事足りてしまいそうです。
「あれが……」窓から顔を半分出して、ピレシュは可憐な白亜の城をじっと眺めました。
「ええ、そうよ」アストラッドおばさんが誇らしげにうなずきます。「あれが私たちのおうち。そしてこれから一週間ほど、あなたたちが過ごすことになる場所よ」
 ピレシュと並んで外へおでこを突き出して、ノエリィが歓声をもらします。湖上にせり出した美しいバルコニー、それにそこから湖面に達するまで扇形(おうぎがた)に広がり伸びてゆく石づくりの階段、そしてそれを(くだ)った先に係留されているいくつかの手漕(てこ)ぎボートへと、少女は順を追って目を奪われていきます。
「あのっ、アストラッドおばさま、あの――」
「もちろんよ」瞳を輝かせて振り返ったノエリィの肩を、おばさんは先取りしてそっと抱き寄せました。「あそこのボートで湖に出られるわ。さっそく明日、みんなで乗りましょう」
 頬を紅潮させてこくこくとうなずく少女を、アストラッドおばさんはさも愛しそうに見つめました。窓から顔を出したまま戻らないピレシュは、一人(ひそ)かに両目を閉ざして、馬の(ひづめ)と風の音に耳を澄ませていました。片方の手は、ずっと恩師の娘の手を握ったまま。
 夕刻の訪れとともに、少女たちは最終目的地に辿り着きました。


    4


 お城にはすでに他の招待客たちが集まっていました。予想していたとおり、そのなかにノエリィの知っている顔は一つもありません。名前をちらりと耳にしたことがある人が一人か二人いるくらいのもので、あとはみんな見ず知らずの人ばかりです。
 けれどその全員が、最後に到着した小さな二人組を、まるで今宵の主賓(しゅひん)であるかのように歓待してくれました。
 ハスキルとの約束を果たすために、少女たちは精一杯の背伸びをして、一人一人にきちんと挨拶をしてまわりました。二人にとって救いだったのは、招待客の数がそれほど多くなかったこと(ぜんぶで二十人ほどでした)と、そのほとんどがお年を召した親切なかたがたばかりであったこと、そしてとくべつに盛装している人が一人もいなかったことでした。みんなまるで、近所のお宅の晩ごはんにちょっとお呼ばれしたくらいの(くつろ)ぎぶりです。
 二人の到着の騒ぎが一段落した途端、おばさんはシェフや給仕の人たちに混じって――というよりその全員を先頭に立って指揮して――、せわしなげに台所とバルコニーを行ったり来たりしはじめました。ノエリィとピレシュは自分たちに提供された三階の部屋のベランダから、その様子をぽかんと眺めました。
「お手伝いに行こうかしら」ピレシュが言いました。
「そうだね」ノエリィはうなずきます。「準備ができたら声をかけるっておっしゃってたけど、ちょっと休んだら早めに降りていってみよう」
 今日から二人が一緒に寝泊まりすることになる部屋は、お城と聞かされて想像していたような瀟洒(しょうしゃ)な空間ではぜんぜんなくて、まるで人形の家(ドールハウス)の一室のように温かく素朴なお部屋でした。両開きの大きな窓に、たっぷりとした半月型のベランダ。牛でも(かくま)えてしまいそうなクローゼットに、(かし)の木みたいにのっぽの古時計。テーブルにはクッキーやキャンディの詰まったガラス箱が置かれてあり、暖炉のうえのマントルピースには()みたての花の活けられた花瓶とアンティークのぬいぐるみが並べてあります。貼りたての壁紙も、敷きたての絨毯も、隣り合わせで二つ置かれたベッドのシーツも枕も、それに浴室の壁のタイルも、ぜんぶが鮮やかな草花模様です。
 湖に面したベランダからは、今夜の宴の会場となるバルコニーが見おろせます。
 (くじら)みたいに大きなビュッフェ・テーブルに、今まさに数々の名品が陳列されはじめました。同時に、百はあろうかという燭台も城内から運び出されてきます。けれど今しばらくのあいだ、それらが灯されることはなさそうです。このまま永遠に去らないのではないかと思われるほど(はげ)しい夕陽が、世界のすべてを紅く燃やしています。
 いつしか時を忘れて立ち尽くしていたピレシュは、はっと息を呑んで背後を見まわしました。すぐそこにいるものと思っていたノエリィの姿が見当たらなくて、一瞬ぞくりと背筋が凍ります。
 けれどただノエリィは、一足先に部屋に戻っていただけでした。彼女はベッドのうえに両脚を伸ばして座りこみ、麦わら帽子をぱたぱた(あお)いで自分の顔に風を送っています。ベランダから駆けこんできたピレシュの姿を、少女はきょとんと見上げます。
「どうしたの?」
「……どうもしない」
 鼻から荒い息を吐いて、ピレシュは肩をすくめました。そしてみずからもベッドに歩み寄り、そのうえで鞄を開きました。愛用の(くし)を取り出すと、まずノエリィの髪をほどいて()いて()い直してから、みずからの長い白金の髪を念入りに梳きはじめます。
「ねぇねぇ、わたしもやってあげよっか?」隣のベッドからノエリィが声をかけます。
「いいのよ」せっせと手を動かしながら、ピレシュはこたえます。「すぐ終わるから」
「ちぇー」少女は左右の脚をぶんぶん揺らします。「じゃあ次はきっと、わたしにさせてね」
「ええ。覚えてたらね」
 髪が崩れないよう肘をついてベッドに倒れこんだノエリィは、持ち主の少女に気づかれないよう、開かれた鞄の中身をこっそりのぞきこみました。旅行用品のあれこれやら着替えやらの狭間(はざま)に、表面に花柄の描かれた(ひら)たい紙箱(かみばこ)が埋もれているのが見えます。縦横(たてよこ)十字にリボンが掛けてあるその箱が一度以上開かれた形跡は、やはりまだありません。
 一度だけそれが開かれたその時その場に、ノエリィもいました。
 およそ一ヵ月半ほど前のことです。
 ハスキルとノエリィが二人で選んだというそれを突然受け取って、うながされるままその場で開封して、その中身を手に取って、やはりうながされるままにピレシュはそれを自分の胸に当てて鏡の前に立ちました。贈った二人も贈られた少女も、みんな笑顔を浮かべました。
 でも、それきりでした。その場で再び箱のなかにしまいこまれてしまった美しい純白のワンピースは、そのままいつまでも、日の目を見ることがありませんでした。
「……あのさ。ほんとに着替えなくていいのかな」ノエリィが身を起こしてたずねました。
「いいんじゃないかしら」櫛をしまい、落ちた髪を丁寧に拾い、ピレシュはふぅと息をつきます。「おばさま、さっき言ってらしたじゃない。そのままの格好でいいって」
「それは……うん」
「だからいいのよ」ピレシュは立ち上がります。「他のお客さまたちも、べつにそんなに着飾っていらっしゃらないみたいだし。気にすることないわ」
「そうだね」ノエリィも立ち上がります。そして自分の服のしわをことさら執拗に伸ばしながら、ちらちらとピレシュの顔を見やります。「……ねぇ、ピレシュ。ピレシュはさ、その――」
「ノエリィ」すっと首だけ曲げて、彼女はこちらを振り向きます。
「――なに?」思わず声を裏返らせて、少女はこたえます。
「疲れてない?」
「え?」
「もう少し休む?」
 ノエリィは首を振ります。
「じゃ、そろそろ行こう」穏やかに微笑して、ピレシュは右手を差し出しました。「みなさんのお手伝いをしなくちゃ」
「……うん」その手をそっと取って、ノエリィはうなずきました。


 主催者と客人たちの気心(きごころ)知れあった雰囲気そのままに、とても気楽で愉快な夕餉(ゆうげ)のひとときになりました。
 かつての城主であり、みなの良き友であり、そしてなによりも良き夫であったシンメンタール氏を(しの)んで、心温まる乾杯が交わされました。そして思いがけず現れた愛らしい二人組を囲んで、尽きせぬ笑顔が()きました(自分たちがなにを喋ってもみんながにこにこ笑うのが、ノエリィたちにはちょっと不思議でしたけれど)。
 宴がお開きになったのは、午後十時を少し過ぎた頃でした。
 客人の半分は去りましたが、もう半分は留まりました。彼らもまた城に宿泊する人たちでした。舞台を城内の食堂へと移して、彼らは二度目の乾杯を始めました。みんなにおやすみを告げると、ノエリィたちはアストラッドおばさんに連れられて部屋へ戻りました。
「二人とも、今夜は本当にありがとう」一緒に階段をのぼりながら、おばさんが言いました。「あなたたちが来てくれたおかげで、なんだか私もみんなも救われたわ」
「こちらこそありがとうございました」ピレシュが頭をさげました。「お料理も、湖やお庭の眺めも、それにみなさんのお話も、みんな素敵でした」
「お母さんにも、食べさせてあげたかったな」眠たげな声でノエリィがつぶやきます。「持って帰れるなら、持って帰りたいです」
「来年は三人でいらっしゃい」アストラッドおばさんはくすくす笑って、少女たちの頭を撫でました。
 部屋の前まで来ると、おばさんは駅で出迎えてくれた時とおなじように、二人を正面から抱きしめました。それから言いました。
「お部屋にある浴室、気兼ねなく使ってね。タオルや部屋着なんかも、用意しておいたから。なんでも自由に使ってちょうだい」
「ありがとうございます」二人は声をそろえました。
「明日は、私たち水いらずでボートに乗りましょう」
「はい」ぱっちりと両目を開けて、ノエリィはうなずきました。
「おやすみ、二人とも」
「おやすみなさい」二人はまた声をそろえました。それからふいにノエリィが早口で告げました。「……ごめんなさい、ちょっとはしたないけど、失礼しますっ」
 彼女はそう言うと一目散に部屋へ駆けこんでしまいました。
「どうしたのかしら?」
「心配いりません」ピレシュがため息をつきます。「ただのお手洗いです」
「あらら」おばさんはほっと微笑します。
「では、わたしも失礼します」少女はお辞儀をします。
「ええ」おばさんもおなじようにします。けれどすぐに顔を上げて、廊下の壁にならぶ燭台の灯りを映す少女の(おもて)を、しばしじっと見つめました。
「……あの?」少女はかすかに首をかしげます。
「残念だったわね」ささやくように、おばさんは言いました。「モニクさんのこと」
 少女はきゅっと唇を結びました。
「ハスキルちゃんから、手紙で教えてもらったのよ。心から、お悔やみ申し上げるわ」
「……いたみいります」もつれる舌で、ピレシュは応じました。しかしその声は自分でも驚くほど、重く冷たくこわばっていました。
「私も、人生をともに歩んだ相棒が旅立っちゃったから」おばさんは言います。言いながら手を持ち上げて、それを前に差し伸ばそうとして、かろうじてこらえて、そっと降ろします。「あなたの気持ちは、痛いほどわかるわ」
「はい」他になにをどう言えばいいのか少女はわかりません。
「私ね」ぱっと首を振って廊下を見渡して、おばさんは声を弾ませます。「このお城をホテルにしちゃうつもりなの。そのために、すっかり作り直したのよ。たぶん、秋が来る前には開業できるはず」
 少女はうなずきます。
「世界じゅうからたくさんの人をお招きして、いっぱい楽しい時間を過ごしてもらおうって思ってるの。あの人、言ってたのよ。俺が逝ったらここはお前の好きにしなさい、ってね。だから私、ここをとことん(にぎ)やかで幸せな場所にしてやろうって誓ったの。強い人だったけれど寂しがり屋でもあったあの人の魂が、喜んでくれるように。寂しくなんか、させないように」
「はい」少女は言います。にこりともせずに――いえ、


 なにかを深く承知したかのように、おばさんは一度ゆっくりとうなずきました。そして音を立てずに半歩ほど後ろにさがり、一瞬迷った末に、やはり手を伸ばして少女の肩に軽く触れ、ほほえむと、そのまま去っていきました。
 部屋に戻ったピレシュは、ノエリィにせがまれて一緒にお風呂に入りました。それからすぐに寝巻に着替えて、ベッドに横になってしまいました。
「あ、ピレシュったら。髪、ちゃんと乾かしたの?」
 ノエリィがたずねます。けれどもう、返事はありません。用意されていたものではなく、持参した黒っぽい肌着に包まれたその身は、窓から射す月光を浴びてただ沈黙しています。ほんのささいな波音と、しっとりとした清涼な夜風が、そのうえを密やかに流れていきます。
 ページを開いたばかりの日記帳を自分の枕元に置くと、ノエリィは足音を忍ばせてピレシュのもとへ向かいました。そして薄手の毛布をお腹に掛けてあげて、そのままそろりそろりと顔を乗り出して、眠る少女の寝顔をのぞきこみました。その瞬間、自分の胸の奥がぎゅうっと縮むのを、ノエリィはたしかに感じました。
 こちらに背を向けて眠っているピレシュの手のなかには、小さな写真が一枚、やわらかく握られていました。そこに写っているのは、今より少し幼い頃のピレシュと、彼女の育ての親であった、ある一人の女性。ノエリィはみずからもその瞳にたっぷりと涙を(にじ)ませて、幾筋もの涙が伝った(あと)のあるピレシュの頬を、そっと撫でました。
「おやすみ、ピレシュ」耳打ちするよりも小さな声で、少女は告げました。「ぐっすり眠ってね。今日も、ありがとう」
 自分のベッドに戻って鉛筆を手にしたノエリィでしたが、二、三行も書かないうちに、その手から日記帳はぽろりと落ちてしまいました。少女たちが寝静まった部屋の天井に、月あかりを反射する湖面の揺らぎがいつまでも踊っていました。まるで、水底から見上げる銀河のように。


    5


 エーレンガート家が所有する丘の(いただき)には、三つの建物が仲良く肩を並べています。二十数年来、この光景は変わりません。それぞれの建物の外観にだって、ほとんど変化は見られません。けれどそのうちの、ハスキルたちエーレンガート母娘が暮らす家屋を除いた二つの建物の中身は、7年前のある時を境に、がらりと様変わりしていました。かつては縫製工場(ほうせいこうば)だった建物は、学校の校舎に。そして礼拝堂だった建物は、学生寮になりました。
 1758年――すなわち今から(さかのぼ)ること8年前――の冬、三年ものあいだ続いた世界大戦が、ようやく終結の時を迎えました。当時、タヒナータ市中の国立高等学院に教師として勤務していたハスキル・エーレンガートは、自身も終戦間際に最愛の夫を失っていましたが、その悲しみを振りほどくかのように、教育の機会を奪われた若者たちの保護と支援に尽力しました。かくしてその翌年、タヒナータ郊外の丘のうえに、新たな女学校が設立されることになったのでした。
 その事業をハスキルの隣で全力で支えてくれた、ある一人の女性がいました。それが、モニク・ペパーズ――のちにピレシュ・ペパーズの母となる人でした。
 ノエリィが生まれるずっと前から、モニクはこの丘でハスキルと一緒に暮らしていました。今は亡きおじいちゃんとおばあちゃん(つまりハスキルの両親)との(えん)を介してこの地の住人となった彼女のことを、ノエリィもハスキルも、心から愛し信頼していました。そしてモニクもまた、ハスキルを実の妹のように、ノエリィを実の娘のように、(いつく)しみ(まも)ってくれました。彼女は長らく礼拝堂の管理室に住みこみ、かつては縫製工場の責任者も務めてくれていましたが、のちには、学院施設の管理責任者と寮母の役目を一身に担ってくれるようになりました。
 そして、〈エーレンガート女学院〉が開校して一年ほどが過ぎた、ある冬の日の暮れ方のことです。
 ノエリィは、モニクに手を引かれて家まで連れてこられた見知らぬ女の子を、そこで初めて紹介されました。
 その時のことを、ノエリィはまだはっきりと覚えています。
 玄関先から吹きこんでくる雪。おそろしげな風のうなり声。そのなかに立つ、背の高い痩せっぽちの女の子。ぼろぼろのコート、ほつれたマフラー、穴だらけの靴。げっそりとこけた灰色の頬、くすんだ金色の髪、そして虚ろな緑の瞳。ピレシュ、とその子は名乗りました。苗字は? とノエリィはたずねました。ペパーズ、とモニクが代わってこたえました。それって? とノエリィは首をかしげました。モニクは二人の子どもたちに互いに握手をするようにうながして、言いました。この子は今日からピレシュ・ペパーズに、つまりあたしの娘になったんだよ。仲良くしてやっとくれ。
 おなじ日の夜、ノエリィは母親から丁寧に説明を受けました。
 あのピレシュという子も、私たちとおなじように、大切な家族を戦争で失ったの。ただし、あの子は、自分以外の家族の全員を、いっぺんに失ってしまったの。つまり、この広い世界のなかで、

になってしまったのよ。それで戦争が終わってから今までずっと、おなじような境遇の子どもたちと一緒に、町の孤児院で暮らしてきたの。つい先週のことなのよ、モニクが知り合いのかたを通じてあの子と出逢(であ)ったのは。それからは早かったわ。あっという間に、モニクはあの子を自分の養子にすることを決めちゃったの。養子ってなあに、とノエリィは訊きました。自分と血の繋がりがない子どもを、自分の子どもとして迎え入れるってことだよ、とハスキルはこたえました。
 こうして、四人での生活が始まりました。
 モニクと一緒に学生寮のなかで暮らしはじめたピレシュは、最初の頃こそ(かたく)なに心を閉ざしていましたが、美しい丘の自然や、エーレンガート母娘の虚飾なき温かさ、そしてなにより新たな母であるモニクの実直な愛情に触れることで、心身共に少しずつ立ち直っていきました。ともに幾度(いくたび)かの冬を越え、春を迎え、夏を生き、秋に憩い、いつしか四人で一つの家族となっていた彼女たちの日々は、このままいつまでも豊かに静かに過ぎていくものと、彼女たちの誰もが思っていました。
 今年の春先にモニクを襲った心臓の病は、いわゆる劇症と呼ばれるたぐいのものでした。なんの前触れもなく突如彼女を(むしば)んだそれは、ほんの数日のあいだに、彼女の生命をことごとく刈り取ってしまいました。まだ57歳という若さでした。
 丘は悲しみに包まれました。故人の教えを守って誰よりも気丈で誇り高い少女に育っていたかつての孤児は、その気丈さと誇り高さこそ失ってしまうことはありませんでしたが、しかしその心の一部は――あるいは大部分は――再び深い黒のなかに沈んでしまいました。




 旅の二日目も見事に晴れて、ボート遊びにうってつけの日和(ひより)になりました。
 大きなバスケットにお弁当やお菓子や紅茶を詰めこんで、一行はお昼前に湖上へ()ぎ出しました。それは古びてはいるけれど頑丈そうな(つく)りの、四人まで乗ることのできる木製ボートでした。
 得意げにオールを握ったアストラッドおばさんと対面するかたちで、ノエリィとピレシュは肩を寄せあって敷板に腰かけました。今日のノエリィは、白いシャツと黄色のショートパンツに、いつもの麦わら帽子。アストラッドおばさんは、青いワンピースと銀色のつば広帽子。ピレシュは、黒のブラウスに黒の膝丈(ひざたけ)スカート、それにやはり黒のベレー帽という格好です。
 風も波も穏やかで、見渡すかぎりどこまでも静かです。遠くから流れてくる鳥たちの歌声や、ちゃぷちゃぷと水が掻き分けられる音ばかりが、軽やかに秘めやかに湖面に揺蕩(たゆた)っています。
 おばさんのオール(さば)きは大した腕前で、正午を告げる鐘がファンデルネールの町から響く頃には、ボートは湖の中心にまで達していました。
「ここから見ると、いっそうきれいですね」お城をまじまじと見つめて、ノエリィが吐息をつきました。「なんだか夢みたい。あんな素敵なところで、わたしたち一晩過ごしたんだね」
「うん」ピレシュはうなずきます。
「嬉しいこと言ってくれるわね」鼻の頭に玉の汗を浮かべたアストラッドおばさんが、満面の笑みを浮かべました。「今の言葉、うちの人に聞かせてあげたいわ」
「ごめんなさい、おばさま」ノエリィが申し訳なさげに言います。「まかせっきりになってしまって。くたびれたでしょう」
「なんのこれしき」おばさんはぐっと力瘤(ちからこぶ)を作ってみせます。「あの人が体をわるくしてからは、私こうして何度も、あの人を乗せてここまで出てきたのよ。あの人も、ここからの眺めがなにより好きだった」
「そうですか」ノエリィはにこりと微笑します。「おじさまとわたし、気が合いそうですね」
「ええ……きっと」
 それから三人は船上のランチを満喫しました。そのあいだじゅう、アストラッドおばさんが覚えているかぎりの、小さなハスキルちゃんとの思い出話を披露してくれました。それに熱心に耳を傾けながら、当然といえば至極当然のことだけど、自分のお母さんにも子どもの時代があったんだなと、ノエリィはしみじみ感じ入っていました。
「不思議」その隣で、やはりピレシュも遠い目をしてつぶやきました。「今の自分より年下のハスキル先生のお姿なんて、ぜんぜん想像もつかない」
「ふふっ」いかにも可笑(おか)しそうに、アストラッドおばさんは目を細めます。そしてサンドイッチにかぶりつくノエリィの背を、とんと撫でます。「想像もなにも、ほんとに

姿

よ」
「あぁ……」ピレシュも思わず吹き出します。「そっか。そうでしたね」
「そんなに似てますか?」ちょっぴり憮然とした表情を浮かべて、ノエリィは自分の頬に手のひらで触れました。
「私、記憶力には自信があるの」おばさんが胸を反らせます。「そうだ、帰ったら一緒に写真を見ましょう。ずいぶん古びてはいるんだけど、二十年前の夏にハスキルちゃんたちと撮った写真が何枚か残ってるのよ」
「ぜひ」ピレシュはきらりと瞳を輝かせます。「それはぜひとも、拝見したいです」
「うん。楽しみにしててね」おばさんは悪戯っぽくほほえみます。
「ん~……。ほんとに、そんなに似てるのかなぁ……」
 一人でぶつぶつとこぼしながら、ノエリィはサンドイッチを両手で持ったまま、ふいに体を傾けて、自分の姿を湖面に映そうと試みました。
 その時でした。
 三人の乗るボートが漂う近くの林のなかから、突如、猟銃のそれとおぼしき銃声が鳴り響きました。続いて、岸辺から一斉に飛び立つ水鳥の群れの、けたたましい羽音。
「ひゃっ」
 驚いて全身の平衡を崩したノエリィは、そのまま体を傾けていた方向に倒れこんでしまいました。その先にあるのは、もちろん、底の知れない巨大な水たまりです。
「あぶない――っ!」
 一瞬で顔ぜんたいを蒼白にしたおばさんが、慌てて立ち上がりました。しかし舟ごと転覆することを怖れて、その身は反射的に中腰の姿勢で硬直します。バスケットのなかでがちゃがちゃと皿がぶつかり、水筒が倒れて舟床に紅茶がこぼれ、林檎がごろごろと転がり、サンドイッチが一つ船外に落下しました。
「ノエっ……!」
 喉を引きつらせて、おばさんが手を差し伸ばします。
 その手を、ピレシュの左手が強くつかみました。
 そして彼女のもう片方の手は、がっちりと、ノエリィの手首をつかんでいました。
 まるで主人の身代わりとなったかのように水面に落ち、思いがけず発生した波にさらわれて泳ぎ去っていく麦わら帽子を、ひしと抱き合った三人は呆然と見送りました。
「怪我は……」おばさんが声を震わせます。「怪我はない? 二人とも……」
 厳しいほど冷静なまなざしで、ピレシュは腕のなかの少女の状態を確認します。そして表情もなくうなずきます。
「大丈夫です」
「あぁっ、よかった……」二人の少女をまさぐるように抱き寄せて、おばさんが嘆息しました。「ほんとに、よかった」
「ごめ……」じわりと涙を溜めて、ノエリィが小さくしゃくりあげました。「ごめんなさい……」
 その目の(ふち)を指先でそっと払い、ピレシュは無言で首を振りました。
 全員の心が鎮まると、三人は口数も少なに城へ戻りました。


    6


 骨の芯まで冷や汗が()みこんだ彼女たちの心身が落ち着きを取り戻すのに、あと少しの時間が必要とされました。
 陸に上がった三人は、互いを慎重に(いたわ)わりあいながら、いったんそれぞれの部屋に引きあげました。それから夕方前まで、冷たい飲み物と湖畔のそよ風をお供に、ゆっくりと静養しました。
 空が赤く染まりだす頃、お昼寝から目覚めたノエリィの手を引いて、ピレシュは庭へ出てみました。そこで土まみれになって庭仕事をしていたアストラッドおばさんを見つけ、例の写真の件を持ち出しました。三人でバルコニーのテーブルにつき、年季の入ったアルバムを囲んで大いに歓談しました。そのまま夕食の時間になりました。昨晩とは打って変わって、とても静かで穏やかな晩餐でした。ナイフやフォークの音が湖ぜんたいに響き渡るようにさえ、感じられるほどでした。
 やがて夜の(とばり)が降り、月が天高く昇り、夜鳥(やちょう)やコオロギが控えめに鳴きはじめ、少女たちは寝床に(もぐ)りました。
 けれど長いお昼寝をしてしまったせいか、ノエリィは途中で目が覚めてしまいました。部屋の隅に番人のように佇む柱時計は、深夜1時を示しています。
 少女は横になったままごしごしと目を(こす)り、あくびをして、眼鏡をかけます。おそろしく静かです。城内のどこからも、なに一つとして物音が伝わってきません。波と風のささやかな響きがなかったら、きっとあまりの静寂にいたたまれなくなっていたにちがいありません。
 じんわりと込みあげてくる恐怖心を振り払うように、ノエリィはいきおいをつけて起き上がりました。そして隣のベッドをのぞきました。
 それはからっぽでした。
 ピレシュの姿がありません。
 少女はベッドから出て、まず浴室を、それからベランダを確認しました。でも、どこにもいません。
 この部屋にいない、と彼女は直感的に判断します。今のこの部屋には、わたししかいない。
 いっとき立ったまま目を閉じ、すっと耳を澄ませてから、彼女はもう一度ベランダへ出ました。そしてひんやりとした石の手摺(てすり)に両手をついて、あたりの景色を見渡しました。
 バルコニーから湖へと下っていく大階段のなかほどに、小さな人影があります。夜風にそよぐ金色の髪、黒い寝巻。凛とした、でもどこか心許(こころもと)ない背中。ピレシュは一人でそこにいて、じっと座りこんで、身動き一つせずに湖を眺めています。あるいはなにも眺めてなどいないのかもしれませんが、ともかくその瞳は、まっすぐに暗く深い水の方へと注がれています。
 ノエリィもまた寝巻姿のまま、部屋を出ました。そして駆けるようにまっしぐらに、幼馴染みのもとへと向かいました。


「眠れないの?」隣に腰かけて、ノエリィはたずねました。
「ごめんね」
「え?」ノエリィは首をかしげます。「なにが?」
「帽子」ピレシュは言います。「拾ってあげられなくて。あなた、あれ気に入ってたでしょ」
 波にさらわれた麦わら帽子が水中へと沈んでいく映像が、ノエリィの瞳のなかによみがえります。
「ううん、いいの」少女は首を振ります。そしてほんの少し身震いして、自分の膝をぎゅっとつかみます。「たしかにお気に入りではあったけど、帽子くらいですんでよかったよ。もしわたしが落っこちてたら、きっとたいへんだった。わたし、うまく泳げないから」
「そういえばそうだったね」ピレシュは小さく苦笑します。「でももしそうなったって、わたしが必ず助けてたけど」
「……ねぇ、ピレシュ。ほんとうに、ありがとう」彼女の横顔を見つめて、ノエリィは言いました。「今日も、いつも、わたしのこと、助けてくれて」
「いいのよ」ピレシュは前を向いたままふっと息を吐きます。「わたし、あなたのこと守るって、ハスキル先生と約束してるんだから」
「うん」
 今夜の上空には濃い雲の筋がいくつも流れていて、それらが(まる)い月の前を次から次に通過していきます。たくさんの帯状の影が一面に落ちる地表は、まるで縞馬(シマウマ)の体の模様のようです。肩を寄せて座りこむ二人の少女の身を、ひっきりなしに影が覆い、去り、また覆い、また去ってゆきます。
 ノエリィはわれを忘れて湖に見入っていました。
「……あの時、もしピレシュに助けてもらえてなかったら、わたし今ごろ、この真っ暗な水の底に、沈んじゃってたかもしれないんだ」
「だから」少々語気を強めて、ピレシュはノエリィの方を向きました。そして月光が()いたり消えたりする眼鏡のレンズを、鋭く見つめます。「……だから、絶対にそんなことさせやしないわよ。この、わたしが」
 にわかに風向きが変わり、雲の群れとその影たちを翻弄(ほんろう)しはじめました。
「わたしも、もっとしっかりしなくちゃ」ノエリィは言いました。「もしピレシュが落っこちても、ちゃんと助けてあげられるように」
「しっかり、って……」ぽかんとした表情を浮かべて、ピレシュは首をかしげます。「べつに、いいじゃない。ノエリィはノエリィのまま、今のままでいたら……」
「あのね、わたしね……」決然としたまなざしで相手を見つめ返して、少女は告げます。「わたしだってね、もっとちゃんと、ピレシュの役に立ちたいの」
「……もう」かすかにうつむいて、足もとに迫る(さざなみ)を見おろしながら、ピレシュはつぶやきます。「……今でも、もう、じゅうぶん、だけど……」
「ううん」少女は首を打ち振ります。「わたし、もっともっともっと、ピレシュの力になりたいんだ。たとえピレシュが底まで沈んじゃったとしても、力づくで引っぱりあげてあげられるくらい、強くなりたいの」
 胸を反らせてふんと鼻息を吹く彼女の様子が、なんだか言葉にならないほど健気に感じられて、思わずピレシュは笑みをこぼしてしまいました。
「それなら……」彼女は言います。「それなら、よっぽど鍛えなくっちゃね」
「うんっ!」
「……ふふ」
「ねぇピレシュ」勇ましい顔つきもそのまま、ノエリィはついに意を決しました。「うちに来ない?」
「え?」
「うちで……わたしたちのおうちで、わたしと、お母さんと、ピレシュの三人で、暮らさない?」
「え……」
「わたしね、ずっと、ずっと、言いたかったんだ。その……モニクが、天国に行っちゃってから、今日まで、ずっと」
「……ノエリィ」ささやくようにその名を呼んで、ピレシュはほほえみました。「ありがとう。でも、わたし――」
「いつでも、ほんとにいつでも、来ていいんだよ! だって……ピレシュは、ピレシュなんだから。わたしたちは、いつだって、大歓迎なんだよ。わたし、お母さんと、いつも、話してるん、だから……」
 うまく息継ぎもできずに言葉を繋げているうちに、どうにも(とど)めようもなく、少女の両の瞳から滴がぽろぽろとこぼれ出しました。
 ピレシュは下唇を強く噛み、思いきり首を振り上げて、真上の空に顔を向けました。しばらく、そうしていました。けれど、一粒だけ、取り逃してしまいました。頬を伝う一筋を早業(はやわざ)のように拭い去ると、その手でノエリィの背中を支えました。
「お母さんって、呼んでいいんだよ」眼鏡を外して自分の腕を目もとに押し当てながら、ノエリィが言いました。「わたしのお母さんのこと、ピレシュのお母さんにしても、いいんだよ」
 今しばらく、ピレシュは唇を解放することができません。
「……わたしは、最近やっと、泣かないでも寝られるようになった」何度か深呼吸をして、ノエリィは再び口を開きます。「でもまだ、お母さんは、毎晩毎晩、お部屋でお祈りしながら、泣いてる」
 その様子を想像してしまった瞬間、ピレシュのなかの(せき)が決壊してしまいました。ぐっと顔を背けて遠くの山並みを睨み、きつく閉ざした(まぶた)の隙間から滝を流します。
「こないだも、また夜中に一人で泣いてるお母さんに気づいて……わたし、その時に初めて、お母さんと向かいあって、モニクがいなくなっちゃったことについて、ちゃんと話をしたの」
「…………」
「寂しくて寂しくてたまらないって、お母さんは言った」ついに両手で顔じゅうを覆って、ノエリィは喉を震わせます。「だって、モニクがいてくれたから、一人ぼっちじゃなかったんだもの、って。モニクがいてくれたから、お母さんは、毎日あの丘に帰るのが、楽しみで仕方なかったんだもの、って。どんなに(つら)かったり悔しかったりすることがあっても、モニクにただいまって言いたくて、モニクにおかえりって言ってもらいたくて、さぁ今日も元気にうちに帰ろうって気になれた、って……」
 話しながらノエリィは、ぱったりと上体を傾けてピレシュに身を委ねました。ピレシュもまた、それをそっくり受け入れます。
「でも、でもね」ノエリィは続けます。「それよりも、自分がモニクを失ったことよりも、もっとずっと悲しいのは、モニクがどんなにピレシュを残して逝くことを残念がってたか、わかるからだって。そして……そして――」
「…………」
「――そして、ピレシュが、今、ピレシュがどんなに、どんなに歯を食いしばって、毎日泣かないように我慢してるかってことが、わかるからだって……」
「う…………」
 あきらめて、ピレシュは嗚咽を吐きました。がっくりとうなだれ、その濡れそぼった頬を、ノエリィの温かな髪に押しつけます。
 風がひゅうと吹いて、樹々がざわめき、波が揺れ、どこかで夜の鳥がはばたきます。
 雲が、散ってゆきます。
「わたしね」ピレシュがゆっくりと口を開きます。「わたし、モニクのこと一度も、お母さん、って呼んだことないんだ」
「……うん」
「引き取ってもらってすぐの頃にね、言われたの。あんたのお母さんは、あんたを産んでくれたお母さんただ一人だって。だから自分のことは、名前で呼んだらいい、って」
「うん」
「だからわたし、そうしたの。モニクの、最期の日まで……」
「うん」
「でも、一度くらい、お母さんって呼んであげてもよかったなって、今ちょっと思ってる」
「ふふっ」すぐそばに優しい心臓の鼓動を聴きながら、ノエリィは微笑します。「そうだね。きっと、喜んだ……いや、照れくさがったろうね」
「うん、きっと」ピレシュも小さく笑います。そして目を閉じます。「でも、これからでも遅くないって、わたし思うの。だってモニクは……モニクは今では、永遠の存在になったんだもの。いつでも、どこででも会える人に、なったんだもの。わたし、だから、呼ぶよ。モニクのことを……母さんって」
「うん」
「でも」少女は目を開きます。「でも、わたしの心のなかでだけ、ね。なんだか、口に出して言ったら、『だからあたしのことそう呼ぶんじゃないって言ったろ』、……なんていって、怒られちゃいそうだから」
 まざまざとその姿が思い浮かんで、ノエリィは口もとを(ほころ)ばせます。
「ありがとう、ノエリィ」ピレシュは胸の底から言葉を汲み上げました。「ほんとうにありがとう。わたし、あなたとハスキル先生のことが、とても好き」
「わたし!」ノエリィは顔を上げます。「わたしだって! それに、お母さんも……」
「うん」手のひらで包むように、ピレシュはノエリィの頭を撫でます。「わたし、ハスキル先生のこと、この世でいちばん尊敬してる。誰よりも、信じてる。だけど……だけどね、わたしのお母さんは、この世に二人だけ」
「うん……」
「二人だけなの……」
「うん」つられて再び涙しながら、ノエリィは大きくうなずきます。「……うん、うん。そうだね。そうだよ。そう……きっと、モニク、喜ぶよ。喜んでるよ。きっと今、すごく、幸せで、照れてるよ……」
 いつのまにかすっかり雲が晴れていました。(さえぎ)るもののなくなった夜空に、満月があかあかと輝いています。少女たちは互いの身を預けあったまま、湖の真ん中にくっきりと映る黄金の真円を見つめました。それはまるで、暗く深い水の底から、浮上してきたもののように見えました。
「帰ろう」ピレシュが言いました。
「うん」ノエリィがこたえます。けれど間髪入れずに首をかしげます。「って、あれ? もう?」
「ちがうちがう」小さく吹き出して、ピレシュは首を振ります。「家に帰ろうって意味じゃないよ。部屋に帰ろうって意味だよ」
「あ、うん。そうだよね」ノエリィも笑います。
「明日、町へ連れてってもらおうよ。そしていっぱい、お土産を買おう」二人一緒に立ち上がりながら、ピレシュが言いました。「それから、帰ろう。家に」
「うん!」
 光の湖に見守られながら、二人の少女は階段をのぼっていきました。部屋に帰り着くまで、いえ、部屋に帰り着いても、二人はずっと手を繋いでいました。この晩、初めて二人はおなじベッドで一緒に寝ました。翌朝ちょっと寝坊したノエリィがベッドを出ると、真っ白なワンピースを身に着けたピレシュが、ベランダで朝陽を浴びていました。走っていって、ノエリィは彼女に抱きつきました。


    7


 心からの感謝を互いに伝えあって、少女たちとアストラッドおばさんは別れました。出迎えてくれた時以上に涙を流して、おばさんは列車が見えなくなるまでずっと手を振ってくれていました。二人も、いつまでも窓から手を振り続けました。
 長い休暇の季節が終幕を告げ、再び(めぐ)り来る現実の日常へと、人々の心が帰っていきます。列車のなかは、遊び疲れた子どもたちや恋人たち、それになんだか憂鬱そうな顔をしたおとなたちでいっぱいでした。そんななか、かけがえのない旅を終えようとしている二人の少女は、それぞれに深く満ち足りた表情を浮かべて、去りゆく夏の景色を見送りました。やはり、互いにその手を繋ぎあって。
 黄昏の閃光に包まれながら、最後の列車はタヒナータ市内に入りました。見慣れた街並みや緑の丘が、少女たちの最後の車窓に飾られました。
 駅に到着すると、ピレシュはしばらく前から眠りこんでいたノエリィを揺さぶり起こし、その手をしっかりとつかんで、故郷のプラットホームに降り立ちました。まだうとうとしているノエリィの足は、右に行ったり左に行ったり、どうにもうまく前に運びません。降車した他の乗客たちに置いていかれるようなかたちで、二人はのらりくらりと進みます。
 すれちがった見知らぬおばあさんが、ピレシュに声をかけました。
「どうしたかね? その子、迷子かい?」
「へっ?」
 ピレシュは目を丸くします。どうやら、家族とはぐれてしまった知らない子どもを、自分が保護したところだと思われたようです。
「一人で大丈夫かい? どこへ連れてくのかね?」心配そうにきょろきょろしながら、おばあさんがたずねます。
「いいえ」笑って、ピレシュは首を振りました。「どこにも連れていきません。わたしたち、おなじところへ帰るところです」
「おや、なぁんだ」おばあさんはほっと息をつきました。「そうだったんかね。そんなら、気をつけてお帰りよ」
 改札口へ近づくと、その向こう側で、両手を高く挙げてぶんぶんと振っているハスキル先生の姿を見つけます。その隣には、馬車の御者である顔馴染みのおじいさんの姿もあります。二人は大きな声で少女たちの名前を呼びながら、(あふ)れてこぼれてしまいそうなほどの笑顔を咲かせています。
「ただいまっ」ノエリィが叫ぶように言いました。
「おかえりっ」二人の娘をいっぺんに抱きしめて、ハスキルも叫び返しました。「あれ? 二人とも、ちょっと背が伸びた?」
「え~?」ノエリィが大袈裟にのけぞります。「たった一週間で~?」
「ほんとに、そう見えるわ」ハスキルはしみじみとほほえんで、それからまたぎゅうぎゅうと抱擁を強くしました。
「いてて……」ピレシュが苦笑します。
「似合ってるわ、ピレシュ」彼女の耳もとで、ハスキルがささやきました。「とても綺麗よ」
「……はい」純白のワンピースをまとう少女は、頬を真っ赤に染めて、こくりとうなずきました。「ありがとうございます」
「おかえりなさい」
「はい」少女は一瞬、そっと瞳を閉じました。「ただいま、先生。ただいま……   」


      おかえり。
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