顔のない鯨

文字数 17,212文字

    1


 おなじような種類の悲劇に見舞われておなじような種類の傷を負っても、そこからいかにして快復するかは――あるいは

は――人によって実にまちまちだ。私は失恋から十秒で立ち直った人を実際に見たことがあるし、十年経っても十年前のその日その瞬間の痛みを十年のあいだ毎日感じつづけた人のことも知っている(その人がその後どうなったのかは知らない。たぶんそのまま十一年目を迎えたのだと思うが)。
 似たようなことが、都市や町にも言える。私はそのことを自分の目を通して知った。
 これからお話しする出来事に遭遇した当時、私は長く暮らした国を去り、一人で大陸じゅうを旅していた。なんの動機もなく、なんの目的もない、まさに旅するためだけの旅だった。得るものも失うものもなに一つないまま、ただ足と目を動かすだけの、いわば「長い散歩」だ。そんなものがいつまで続くのか、自分自身でも皆目(かいもく)見当がついていなかった。それが、意図せずして立ち寄ったあの小さな町で、ふいに終わりを告げたのだった。いや、正確に表現するなら、

を、その町が、そしてその町に(ひそ)み私を待ち受けていた導き手が、私に教えてくれたのだった。顕世暦(けんせいれき)1760年、秋の終わりに接して冬の始まりに(のぞ)む、まるで世界ぜんたいが乗り継ぎのための待ち時間をやり過ごしているような、不思議にうつろな時季のことだった。大戦の終結からかれこれ二年の歳月が流れていたが、その町は、奇妙な言い方になるが、見事なまでに

。国を出て以来、私はいくつもの都市や町を、そして村や集落を巡った。ここで本当に戦争があったのだろうか、と首をひねりたくなるほど短期間で元どおりに再建された町もあれば、つい先日までここでは戦闘が続いていたのでは、と思われるほど荒廃したままの町もあった。あの町は、見まごうことなく後者の部類だった。
 町の名は――あえて記さずにおこうと思う。それは今となっては地図のどこにも載っていないのだし、私の他には、みずからすすんで思いだそうとする者も、もう誰一人いないだろうから。


    2


 町が見捨てられることになった大きな要因は、その立地にまつわる事情にあったのだと思う。ただ一つの戦勝国によって大陸全土が統合されてしまう以前には、その町のすぐそばを二つの国の境界線が通っていた。南のラドゥ王国と、北のアルバンベルク王国。果てなき湿原に覆われる雨の国と、世界の極北を(いだ)く凍てついた冬の国。それらの狭間(はざま)にあって、その町はとりわけ平穏を欠く土地柄で知られていた。一つには、南北の国家による領土の奪いあいの渦中に長らく置かれてきたためであり(どこの国境でもよくある話だ)、一つには、南北の裏社会組織どうしの抗争の舞台でもあったからだった。要するに、旅行案内書を開くと「この町、治安(わる)し」と注意書きがされてあるたぐいの町だ。「やむをえない事情のないかぎり、ここに近づくのは決しておすすめいたしません」。だが私が訪れた時、町はすでに息絶えて久しかった。そしてそれを蘇生しようという救いの手など、どこからも差し伸べられる気配がなかった。誰からも愛されず、(かえり)みられず、このまま終わっていく町。やくざ連中にさえ見限(みかぎ)られてしまったこの場所に、さして恐れるべきものは残されていない。それに私は、先にも述べたとおり、言葉どおりの意味で、いかなる動機も持たずにここへやって来たのだった。
 そう、動機はなかった。だが、あわよくばという、ささやかな――しかしそれなりに切迫した――願望なら、少しはあった。私は飢えていた。町に入る前日の暮れに森で採ったキノコを焼いて食べて以来、なにも口にしていなかった。軽くめまいのする頭を抱えて、私は朝焼けの光とともに町に入った。


 町には誰もいないわけではなかった。というより、思ったより人が残っていることに少々面食らったほどだった。しかし町の方では、まさかまだ自分の内側に留まっている住人がいるとは、夢にも思っていないような様子だった。すべてが埃をかぶり、すべてがひび割れ、すべてが沈黙していた。だがまだ井戸は枯れず、土は生き、花だって咲き、時には行商人もやって来るようだ。まさに私が町に入った時、井戸端で水を汲む老婆と、馬車の御者台から彼女に声をかける行商人の男が、こちらをまるで亡霊でも見るような目つきで眺めていた。私はれっきとした人類の一員であることを示すために、両手を左右に広げて微笑してみせた。二人はぞっとした表情を浮かべてその場に凍りついた。まぁ無理もない。言っていなかったが、私は身長が2エルテムを(ゆう)に超す。おまけにこの時には髪は

のあたりまで伸びており、黒と白の半々に混じるそれは手つかずのまま重力に(ゆだ)ねられていた。身に着けているものは、旅に出て以来一度も着替えていない苔色(こけいろ)のロングコートに、ぺったんこの革鞄(かわかばん)が一つ。長いこと鏡を見ていなかったが、私はまるで――いや、

――亡霊のようだったろう。ぼんやりと降り注ぐ朝陽(あさひ)のなか、(ひげ)だらけの(おもて)に眼鏡だけがいやにぴかりと光って、遠目からはさぞやおぞましいものに見えたにちがいない。老婆も行商人も一目散に逃げていった。
 やはり小さな町だった。交差する二本の大通りと、そこからあみだくじのように派生するいくつもの小路(こみち)、路地、道ならぬ細道。建物の大半は色味を欠いた石やレンガで築かれ、いずれもせいぜいが二階建てだ。三階より高い建物は数えるほどしかない。まるで、年々(ねんねん)地中に沈んでいくことを宿命づけられた町のようだ。数年後に再訪したなら、すべてが埋もれて消えてしまっているかもしれない。
 餌を求めてまとわりついてくる野良犬に()びながら、私は私の餌を求めて町を探った。最初に入った大通りには、なにもなかった。無人の郵便社屋。バケツだけがならぶ花屋。裸のマネキンだけがならぶ服飾店。軒先に細いつららが無数に垂れさがっている謎の店は、きっと精肉店だったにちがいない。つららは、かつて塩漬け肉を縛っていた凧糸(たこいと)の成れの果てだ。今はそこには空気しかぶらさがっていない。せめて一欠片(ひとかけら)でも残っていたら、犬も私も助かったのだが。
 そのまま通りを進むのも希望が抱けなかったので、ふいに小路に入った。まさにあみだくじを辿る指先のようにじぐざぐと進んでいると、とつぜん勘がはたらいた。火事場の直感とでもいうべきそれに従い、私はぽっかりと開けた路地の行き止まりに辿り着き、そこに立つ一軒の雑貨店――の残骸――の前に立った。外から小さな声で呼びかけてみた。返事はない(わかっていた)。私はいちおうノックをして店に足を踏み入れた。


 陳列棚はすべてからっぽだった(これもわかっていた)。しかし簡単にあきらめるわけにはいかない。店の外ではさっきの犬が辛抱づよく私の帰還を待ってもいる。私は会計台の裏に回り、そこから建物の奥へと入った。その先は住居になっていた。かつては店主一家がここで生活していたのだろう。台所の片隅に食材を保管する(かご)がちらりと見えたが、そちらには近づけなかった。見ず知らずの家族の笑顔が記録された写真が、そこに至るまでの廊下の壁一面に飾られていたからだった。私は顔を伏せて勝手口から店の裏へ出た。そして外の石壁(せきへき)に立てかけてあったトタン板の(かげ)に、鉄条で編まれた小さな収納箱を見つけた。そのなかにあった。乾パン、加工肉、ひよこ豆、とうもろこし、小イワシの油漬け、ピクルス、白桃、(なし)。いずれの缶詰も消費期限を一、二年ほど過ぎてはいるが、保存状態はおおむね良好だ。自慢ではないが、私はこれらよりもっと古くなった缶詰を食べたことが何度もある(だが腹を壊したことは一度もない)。一つ残らずいただくことにした。さすがにスパゲッティやコーヒー豆やワインまではなかったが、それは望みすぎというものだ。私は店に戻り、会計台に5000ネイ紙幣を一枚置いた。外に出ると犬に肉の缶詰を一つ開けて与え、ずしりと重くなった鞄を抱えて路地の出口へと向かった。
 その途中、奇妙な物音を耳にした。私は足を止めた。耳を澄ませた。右の方だ。しかし私の右側には、背の低いレンガの家屋が壁のように(のき)を連ねているだけだ。私は足音を忍ばせて、しばらく家々の壁伝いに前進した。ほどなくしてまた聴こえた。まちがいない。ごく些細なものだが、なにかを割るか砕くかする音だ。誰かがいる。誰かがなにかを壊している。直後、見つけた。砂埃に覆われた路地を横切る、人の足跡。小さい。少年か、女性か。それはまっすぐに家と家のあいだの暗がりへと続いている。面倒事に首を突っ込むのはごめんだが、知らんふりするのも気が引ける。彼なり彼女なりが求めているものが、数分前まで私が求めていたものとおなじものであるならば、私にはそれを分け与える気がある。しぶしぶ私は足跡を追った。そして彼女の姿を目にした。


    3


 彼女は一人だった。背が高く、とても痩せていた。赤ワインみたいな色の髪を、ひっくり返したワイングラスみたいなかたちに短く切りそろえている。男物の真っ黒な綿詰めジャケットを着込み、皮膚と一体化して見えるほど細いデニムを履いている。指先だけが出る穴あきの手袋を着けている(はじめは雑巾でも持っているのかと思ったほどぼろぼろの代物だったが)。腰にぶらさがっている小さな革製のポーチからは、使いこまれた工具の(はじ)がいくつかのぞいている。砂まみれの履物(はきもの)は編みあげのブーツで、わずかにのぞく靴下の色は左右でちぐはぐだ(青とピンク)。目つきは鋭く、唇は小さく薄く、頬は()げて血色がわるい。だがどちらかと言うと器量に恵まれた娘だった。(とし)はおそらく二十代の半ば。こんな町でなくて王都にでも暮らしていたなら、きっとそれなりに華やかな世界に招かれていたことだろう。間違っても今みたいに、廃屋に盗みに入るなんていう真似などせずにすんだはずだ。
 足跡を辿って路地裏に迷い込んだ私は、一軒の小さな平屋(ひらや)の裏口に行き当たった。そこの扉にかけられていたはずの錠前は、切断されて地面に落ちていた。切り口がまだ新しい。さっきの物音の正体だろう。
 腰の後ろに忍ばせたナイフの(つか)に軽く一度触れてから、私は身をかがめて家の裏庭に入った。そして建物の横手に回り、テラスの窓から内側をのぞきこんだ。
 居間が見えた。彼女はそこにいた。
 まるで自宅にいるかのようにくつろいだ様子で、彼女は一人掛けのソファに腰かけていた。長い脚を悠々と組み、唇をぺろりと()めながら、手にしている鉱晶(こうしょう)ラジオの分解に取りかかっている。
 私は息を潜め、その経過を興味深く観察した。器用なものだった。するするとすべての螺子(ねじ)を抜き取り、配線や顕導盤(けんどうばん)を傷つけることなく正確に内部を暴き、そしてもちろん、機器の心臓である〈独唱石(アリアナイト)〉を抜き取った。見事なお手並みだった。柔らかな青い燐光を放つそれを、彼女はしばらく指先でつまんでじっと見つめた。ちょうど、それを見る眼球とおなじくらいの大きさの石だ。あまり裕福そうな家には見えなかったが、どうやらここのかつての住人は、ラジオにだけは多少のこだわりがあったものと見える。なかなか立派な石だった。きっとそれなりの()がつく。彼女がそれを売るつもりなら、という話だが。
「そこでなにしてんの」
 目の前に持ち上げた石から視線を逸らさないまま、彼女が一声(ひとこえ)発した。もちろん私に向かって()いているのだ。私は立ち上がり、物陰から出ていった。
「……でっか」こちらをちらりと見やるやいなや、彼女は呆れたようにつぶやいた。
 ガラスの大部分が割れてしまってほとんど枠しか残っていないテラスの窓に近づき、私は肩をすくめた。私がでかいのは確かなことで、それについてはなにも言うべきことはない。
「きみの方こそ、そこでなにをしてるのかね」私は彼女を見おろした。
「あら、見てわかんない? 余所者(よそもの)さん」
 彼女は嘆息し、()った石をポーチに収めた。そしてゆっくりと立ち上がり、両手を上着のポケットに突っ込んだ。まるで枯れた樹木でも眺めるような目で、私を正面から見据えた。
「それを」私は口を開いた。しかし言葉が続かない。返しなさい、と言うつもりだったが、途端に馬鹿馬鹿しくなった。それで結局、もっと馬鹿みたいな言葉が口をついて出てしまった。「それを、どうするのかね」
 彼女は鼻で笑った。左脚から右脚に身体の重心を入れ替えて、(あご)を少し上げて、私の姿を頭から爪先まで見渡して、また笑った。今度のは、やや親しげな笑みだった。
「それは?」彼女は私が手に()げている鞄を示した。それはありったけ詰め込まれた缶詰で、でこぼこに膨らんでいる。「どうやら、そっちもけっこうな収穫があったみたいだね。この辺だと……あそこの店かな。意外。まだそんなに在庫が隠れてたんだ」
「私は代金を置いてきたよ」
「だいきん」まるでもう廃線になってしまった鉄道路線の名前でも呼ぶように、彼女はくり返した。そして苦笑した。「あそこの人たち、みんないなくなっちゃったよ。きっともう誰も帰ってこない」
「そうか」
「つまり旦那は、道端に(かね)を捨てたようなもんだよ。きっと今日じゅうには、その(うるわ)しの

とやらは、誰かの(ふところ)に入ることになるだろうね」
「誰かって?」
「僕みたいな誰か、さ」
 私はいっとき呼吸の仕方を忘れた。少しめまいが酷くなったような気がした。
「……だめだよ」ふうっと息を吐いて、彼女は首を振った。「だめだよ、お優しい旦那さま。僕みたいな(もん)に、いちいちそんな目を向けてちゃ。見たところ、ずいぶんあちこちほっつき歩いてるみたいだけどさ。よく今までまともでいられたね。よく今まで、胸が張り裂けずにいられたね。それとも、旦那の胸はもうとっくに――」
 がしゃん、と音がした。私は一瞬息を止めて、自分の胸に手を当てた。割れたのは私の胸ではなかった(そこにはもう割れるものなどなにも残っていないはずだった)。ここから近くのどこかの建物の、たぶん窓なり扉なりが破られたのだろう。それはなんというか、あからさまに

響きだった。もし私が旅行案内書の執筆者だったなら、今すぐ編集部に帰って当地の記事を書いたことだろう――「やはりこの町、いまだ治安悪し」と。
 彼女は小さく舌打ちし、私に手招きした。
「こっちだよ」
 そう言うと、やはりまたここが自宅であるかのように、(おもて)の玄関へと私を連れていった。そしてふらつく私の腕を取り、開けた通りへと足早に向かった。


    4


 大通りが交わるところは円環状の広場になっていた。円のまんなかに飾り気のない大理石の噴水がある。しかし今そこに水は(たた)えられていない。いや、泥水なら溜まっている。まるですべての通りからここに()き集められてきたかのような廃材やごみの山の下に、(きたなら)らしい黒いぬめりがかいま見える。私の気分はますます悪くなる。
「ねぇちょっと、大丈夫?」彼女が歩きながら振り返る。
 私は黙ってうなずく。そして彼女に先導されるがまま、(かど)を曲がる。そしてそこで嘔吐した。
「やばいなぁ」彼女は私の背中を撫でながらかぶりを振る。「ぜんぜん大丈夫じゃないでしょ」
「少し、待ってくれ」
 へし曲がった街灯の柱にしがみつき、私は胃のなかを(から)にした。その間、ずっと下を向いていた。角をすっかり曲がりきってしまうまで、二度と顔をうえに上げたくなかった。この通りに入るまで死角になっていて見えなかったが、曲がり角のかたわらに巨大な人のかたちをした骸骨が転がっていた。もちろんそれは人のものではない。人体を()して造られた大きな泥人形。人の代わりに剣を手に取り、人の代わりに戦場に(おもむ)き、人の代わりに世界を滅ぼした、機械仕掛けの人造兵器〈カセドラ〉――だったもの――だ。ほんの一瞬見たきりだったが、もはやその躯体(くたい)を構成するもののうちでいわゆる「(かね)になりそうなもの」は、なにからなにまで()ぎ取られ、掘り返され、持ち去られてしまったあとだった。鎧も、素体も、そしてアリアナイトで形成される主要な骨格も。残っているのは、骨や関節部を連結し繋ぎとめておくための金具ばかりだ。重いばかりで値打ちのつかないものだけが、まさに無用の(しかばね)としてここに打ち捨てられているというわけだ。こんなおぞましいものを目にしなければ、もう少し私の胃も我慢できていたかもしれない。
 少し落ち着くと、彼女が肩を貸してくれた。
「すまない」私はこうべを垂れた。
「歩ける?」彼女が私の耳もとでささやいた。
「大丈夫だ」私は口を(そで)(ぬぐ)い、きっぱりと言った。
「じゃ、こっち」彼女は歩きだした。「こいつが邪魔だけどさ、ここから行くしかないんだよ」
 

とは無論、カセドラの残骸のことだった。それは彼女が行く先の小路(こみち)の入口を塞ぐように、片膝を立てて仰向けに横たわっている。私たちはその膝の隙間をくぐり抜けた。
「こうなっちゃあ、(みじ)めなもんだよね」しゃがみながら彼女が言った。「こいつ――〈リタルダンド〉とかいったっけな――これでも、五年前には世界でいちばん新しいカセドラって評判だったんだよ」
「似ているがちがう」私は訂正した。「これは〈リタルダンド〉を改良して製造されたいわゆる後継機、〈ラレンタンド〉。アルバンベルク式汎用巨兵鋳型(いがた)第二番採用躯体、通称『北の魔女』。全高13.1エルテム、本体重量9300マーグ、全備重量推定12600マーグ」
「へぇ」身を起こす私に手を差し伸べて、彼女はまばたきをした。「詳しいんだ」
「たしかに五年前には最新型のカセドラだった」私は目を伏せたまま話す。「だが少し重すぎた。優れた機動性を誇るホルンフェルス王国軍の〈アルマンド〉の敵ではなかった。残念だが」
「べつに残念じゃないよ」彼女は真顔で言った。「こんなもん、ぜんぶ消えちゃえばよかったんだ」
 同感だ、と言うつもりだったが、途端に悲しくなってやめた。ただうなずくだけにした。

をつくるために人生の大半を費やした同僚を何人も知っていた。
「ほら、見えてきた。あそこだよ」
 しばらく二人とも口をつぐんでもくもくと歩いたのち、彼女が指し示したのは一軒の画廊だった。路地に面した(おもて)の飾り窓の内側に、いくつかの絵画が飾ってある――というか、ただ放置されている。いずれも一目(ひとめ)で素人の筆によるものとわかる作品ばかりだ。これだけ枯渇した町であっても、腹の足しにも懐の足しにもならないものは、こうして見向きもされないというわけだ。なんとも哀しいことだが。
「ここは……」私は立ち止まり、軒下に掛けられた看板を読んだ。『貸し出し画廊・画材・額装・絵画教室』。それから目を凝らして窓の奥をのぞきこんだ。だが出入口の扉を入ってすぐのところに厚手のカーテンが左から右へ隙間なく渡されていて、その先はなにも見えない。

だよ」彼女は何重にも施された扉の錠前を一つ一つ開けていった。「僕の」
「……ご招待いただけるのかな」私はたずねた。
「――よし」最後の錠を解除し、彼女はくるりと振り返った。そして路地の左右をすばやく一瞥(いちべつ)して、私の顔と私の鞄を順繰(じゅんぐ)りに見やった。「ん……ああ、そうだよ。入っていいよ」
「どうして」片手で自分の胃のあたりを押さえながら、私は首をかしげた。「不用心じゃないかね。私がきみだったら、私なんかを入れないな」
「旦那、死んだじいちゃんに似てるんだよね」彼女はなにげない顔つきで言った。
「嘘だろう」私は言った。
「うん」彼女は笑った。そして扉を開けた。「僕ね、おなか減ってるんだ」
「そうだろうとも」私は言って、彼女のあとに続いた。そして扉を閉めた。カーテンのあちら側に入ると、まるで頭に袋でもかぶせられたように、外界の光と音がいっせいに遠のいた。


 室内はほとんど真っ暗だった。彼女はマッチを擦り、()りし日には店主が座していたとおぼしきカウンターテーブルに近づいた。そしてそこに置かれてあったキャンドルランタンに手早く火を灯した。小さな太陽が生まれ、宇宙の暗闇を照らした。
 ここはやけに細長い建物だった。まるで奥まで目の届かない洞窟、あるいは夜行列車の車輛(しゃりょう)のなかにいるような気分がする。室内の中央あたりの壁に背をつけて、パッチワークキルトで包まれた大きなソファが置いてある(どうやって一人で運び込んだのだろう)。その前には脚の低いテーブル。その脇の床には大きな調理用の鉄鍋(てつなべ)(これもどこから持ってきたものやら)。鍋のなかには折られて棒状になった額縁(がくぶち)の束が突っ込まれている。その半分は黒々と炭化している。カウンターの裏、ソファの両脇、室内の四隅、いたるところに使い(みち)の失われたスケッチブックやキャンバスや額縁が散乱している。しかし不思議と、絵具や筆のたぐいは一箇所にまとめられている。それはソファが向かう真正面の壁のあたりだった。
 私は軽く()きこんだ。
「あ、ごめん」上着を脱ぎながら彼女は言った。「慣れてないときついよね。窓、開けてくる」
 床に散らばるがらくたをばりばりと踏んづけながら、彼女は洞窟の最奥へと向かった。換気口なら壁にいくつか()いているが、どうやらそこにしか窓はないらしい。私は息を止めて待った。たしかに彼女の言うとおり、ここに充満する匂い――油絵具や画溶液が放つ匂いだ――は、慣れていない者にとってはちょっとしたものだった。
 しゃっ、という鋭い音と共にカーテンが開かれた。そして窓が全開にされた。まるで別次元の宇宙が介入してきたかのように、鮮烈な光と風が雪崩(なだ)れ込んできた。私は思わず手のひらで両目を覆った。またいろいろなものが踏みつけられる音がこちらに戻ってくる。
「ここで暮らしてるのかね」私は手の(ひさし)の下から彼女を見やった。
「そう言ったじゃん」彼女は肩をすくめた。「ま、今んとこは、だけど。そんなに長居するつもりはないよ」
「なぜ今すぐに町を出ない?」手を降ろし、私は彼女の瞳をのぞきこんだ。
「やりかけてることがあるから」
 即答だった。彼女はその細い(あご)をくいと振り上げた。私はその指示にしたがい、背後を振り向いた。
 壁一面に、絵が描かれていた。さっきまで、それは壁に()み込んだ(よご)れかなにかだと思っていた。今では洞窟の奥から射し込む光によってくっきりと照らしだされている。しかしそれは絵画作品としてあまりに規模が大きく、そしてまたあまりに複雑でつかみどころがなくて、いったいなにが描かれているのかすぐにはわからない。
「なんだ」私は呆然と息をもらした。「これは」
 薄くほほえみ、彼女は立ちすくむ私の手を取った。そしてソファが背をつけているのとおなじ壁に、私の背中をそっと委ねた。
 そこでようやく全貌が明らかになった。
 私は息を呑んだ。
 それは(くじら)の絵だった。
 鯨と、それを包む深海の世界だった。
 しかし暗い海の底は、目もくらむほどに、数多(あまた)の色彩とモチーフで(あふ)れていた。
 そこには樹々(きぎ)もあり、鳥たちも飛び、雲も流れ、星々もある。月なんか、十も二十もある。重く濃く黒い水が、それらのあいだを幾千の(うず)となって回転している。
 その中心に――つまり壁画のまんなかに――奇妙に胴体の長い、巨大な白い鯨が泳いでいる。
 いや、泳いでいるのか?
 ただ、浮かんでいるのか?
 あるいは、沈んでいるのか?
 それとも――すでに死んでいるのか?
 ここは、どこだ?
 まるで津波に押し流されたように、私ははげしくのけぞった。壁画から目を()らせないまま、両手のひらを食い込むほど強く背後の壁に押しつけた。
 鯨には、顔がなかった。そこだけが、この広大な絵画世界のなかで、唯一の空白になっていた。
「どう?」屈託のない笑顔を浮かべて、彼女がこちらを振り返った。「僕が描いてるんだよ」
「なぜ」私はごくりと唾を呑んだ。それは(のど)が焼けるほど()っぱかった。「なぜ、この絵を知っている」
「は?」彼女は目を丸くする。
「どこで、これを見た」
「え、ちょっと……なに?」
「こたえなさい。どこで……なぜ」
「旦那。ねぇ、旦那ったら。あなた、顔が真っ青だよ」
「なぜ……なぜ私のことを、知っ……」
 そこまでだった。私の体はそのままずるずると壁を伝って崩れ落ち、ソファに倒れ込んだ。意識が消える瞬間、彼女と顔のない鯨が沈みゆく私を静かに見おろしているのを私は見た。


    5


 悪夢から戻った時にはもう日が暮れていた。一度は開けられたカーテンも再び閉めきられていた。しかし窓は半分ばかり開けてある。夜風がひそやかにカーテンを揺らし、鉄鍋のなかで(くすぶ)る焚き火――というか燃える額縁――の煙を踊らせている。私は毛布を全身にかけられ、ソファに横になっていた。(ほの)かな火の灯りの向こうに、餌を集めるリスのようにいそがしく動く彼女の背中が見える。彼女は壁の絵の制作に没頭している。
 起き上がろうとしてテーブルに片手をついた。その拍子に、からっぽになった缶詰の缶が一つ床に落ちた。卓上には、さらにあと四つもの空き缶が置いてある。
「よく食べたね」私は言った。
「勝手に開けてごめん」こちらを振り返り、彼女はちらりと舌を出した。「でもぜんぜん起きる気配がなかったから」
美味(うま)かった?」私は身を起こした。
「そりゃもう」彼女は大袈裟にうなずいた。「なにしろこの二日間、水とヒマワリの種以外なんにも食べてなかったから。あ、そうだ」
 手にしていた平筆(ひらふで)をかたわらの脚立(きゃたつ)の天板に置くと、彼女はカウンターテーブルから大きな薬缶(やかん)を持ってきて私の前に置いた。
「水。飲んで」彼女は言った。「大丈夫、綺麗な水だから」
 私はグラスを探した。しかしそんなものはどこにもなかった。そのまま注ぎ口から直接飲むんだよ、と彼女が仕草で指示した。私はそうした。おそろしく喉が渇いていたから、それは天にも昇るほど美味かった。果実のような甘みと香りさえ感じるほどだった。
「ありがとう」深く息をついて、私はぐっと頭をさげた。
「まだしんどいでしょ」筆を拾いあげて再び画面に向かい、彼女は言った。「もっかい寝たら」
「泊めてくれるのか」私は訊いた。
「んー」彼女は気のない返事を鼻から吹き出し、さっさっと筆を壁に走らせた。「そうだね、うん、しょうがないって感じだし。それにそもそも、ここ僕んちじゃないし」
「でもきみのねぐらなんだろう」私はもう一度水を口に含んだ。「今のところは」
「それはまぁ、そうだけどさ」
「それに私は男だよ」声を低くして私は言った。「それも、とびきり怪しくて不潔で、正体不明の」
 ふん、と(あざけ)るように彼女は一笑した。そして振り返らずに言った。
「そんなへろへろのくせに、よく言うよ。今の旦那なんか、この筆一本でやっちまえる」
「だろうね」私も笑った。
「それに、腰の裏に隠し持ってたものは没収させてもらったから」
「かまわないよ」それが(さや)ごとなくなっていることには、私は目を覚ましてすぐに気付いていた。「きみにあげる。そのまま持っていたらいい」
「いらない」彼女は手を止めて(きびす)を返し、私を静かに見据えた。「ナイフなんか、腐るほどある。っていうかさ」
 そう言うと彼女は部屋の隅の棚から私のナイフを持ってきた。そして鞘からそれを抜き出し、刃に炎の光をまとわせた。
「見える?」彼女は両目を細めた。
 私もおなじようにしたが、彼女が見ているものが私には見えなかった。
「この、()の付け根のとこ」彼女はそこを指差した。「緑色っぽい糸みたいのが、ちょっとこびりついてるでしょ」
「……うん」
「これ、クタグルルムルダケの菌糸(きんし)だよ」
「クタグ……なんだって?」私は眉をひそめた。
「クタグルルムルダケ」流暢に彼女はくり返す。「昔からよくいるんだ。アサクヒデンデンダケとまちがって、食べちゃう人」
「アサ……デンデン……?」私は顔ぜんたいを(ゆが)めた。
「呆れた」彼女は冷ややかな目で私を睨んだ。そしてナイフを鞘に収め、棚に戻した。「不用心なのはどっちさ。おおかた腹を()かせて、その辺に生えてるのを採って食べたんでしょ」
 今の今まで忘れていた。そういえば私は、昨日の晩に森の外れでそれらしきキノコを切って焼いて食べた。以前にも食べて平気だったキノコ(たぶんそれが

とかいうやつだったのだろう)だと思っていたが、どうやら似て非なるものだったようだ。
「あれを食べるとね、だいたい半日ぐらい経ってから、体内で毒が牙を()くんだ」
「毒」
「そう。クタグルルムルダケが人体に及ぼす主な症状は、めまい、悪寒、発熱、嘔吐、それに――」彼女は私の手から薬缶を取り上げた。「――意識の混濁」そして水をごくごくと飲んだ。
「効果てきめんだったわけだ」
 彼女はうなずいた。そしてそこらに転がっていた額縁と使い古した筆をぼきぼきと折り、鉄鍋のなかに放り込んだ。ちらちらと宙に舞う火の()の奥から、彼女はまっすぐに私の目を見つめた。
「普通は二日二晩、苦しむもんだけど」彼女は言った。私のなかに理性と正気が戻っているのを確認しながら。「旦那はよっぽど丈夫なんだね」
 ぐう、と私の腹が鳴った。彼女は吹き出した。
「食べれそう?」彼女が訊いた。
「愚問のようだ」私は腹をぽんと叩いた。
 彼女は筆を持ったまま部屋を横切り、ソファのそばに置かれていた私の鞄を持ちあげた。それからその中身をごろごろとテーブルのうえにこぼした。
「さぁ召しあがれ。フルコースだよ」彼女が言った。
 私は微笑し、右手を差し出した。「私はドノヴァン」
 彼女は絵の具まみれの手袋を外し、素手で私の手をつかんだ。指は針金のように細く、肌は雪のように白く、それなのに(たぎ)るように温かい手だった。
「僕はソーダ」彼女は言った。
「嘘だろう」私は言った。
「ほんとだよ」
 そして彼女は仕事に戻った。


    6


 ゆっくりと時間をかけて、私は一人で七つもの缶詰を平らげた。私が食べているあいだじゅう、ソーダは壁の絵を描きつづけた。しかし鯨の顔の部分――というか(ただ)しくは

――には近づかない。他のところばかり加筆したり、上塗りしたり、微調整したりしていた。
 とても静かだった。火が揺らぐ微細な音と、遠くで吠える野良犬の声がときどき聴こえるくらいのものだ。他にも少数いるはずの町の住人たちの息づかいは、この夜を通して一度たりとも伝わってこなかった。まるで鯨の腹のなかに、この画家の娘と私の二人だけが閉じ込められてしまったような気がした。
 いや、正確にはソーダは画家ではなかった。その呼称は彼女がみずから否定した。
 この鯨の絵が、正真正銘、彼女が生まれて初めて真剣に描いた――描いている――作品だった。これ以前には、絵筆がなんたるかさえ知らなかったという。
 筆が迷ったり、腕がくたびれたり、脳味噌が過剰に発熱したりするたびに、彼女はソファに戻ってきて私の隣に腰かけた。そしてそのたびに新しい缶詰を開けた(ろくに中身さえ確認せずに)。むしゃむしゃとそれらを頬張りながら、少しずつ話をしてくれた。
 彼女は本当にソーダという名前だった。しかしその名を与えてくれた父親は、先の戦争に取られて消息不明になっていた。母親と二人の妹は遠方の親戚の家に疎開したきり、戻ってきていなかった。その家には二人ぶんしか受け入れる余地がなかったのだそうだが、当時まだ妹たちは小さかったので、無理を言って二人で一人ということにしてもらった。僕も一緒に行きたいだなんて、とてもじゃないけど言い出せなかった。
 ソーダの一家はこの町から少し離れた村で果樹園を営んでいた。運よく樹々は戦火を(まぬが)れ、人の世の惨禍(さんか)とは無関係に果実は例年と変わらず豊かに実った。誰かが残らなくてはならなくて、それは彼女にしかできないことだった。戦時中も、戦後しばらくのあいだも、その園での収入を当てにして暮らす従業員が数名いた。彼らがみんな余所(よそ)へ出て行けるだけの(たくわ)えをこさえるまで、ソーダはなんとか踏ん張った。全員を送り出すと、彼女はついに園を売り払い、孤独と血涙の染み込んだ郷里に別れを告げた。
「今じゃこんなだけどさ」ぽりぽりと乾パンを(かじ)りながら、彼女は遠い目をして語った。「この町だって、前は僕にとっちゃ憧れの場所だったんだ」
 一人で町に出てきた彼女は、数日間あてもなく通りという通りを歩き、昔の知り合いや友人を探した。だが誰も見つからなかった。誰もが去っていた。すべてが消えていた。思い出も憧れも未来への展望も、なにも残っていなかった。すぐにでもここを出て知らない土地へ行こうと、彼女は決意した。それがほんの一ヵ月前のことだ。
 しかしまだこうして留まっているのは、彼女自身が口にしたとおり、

だった。町を去る直前にたまたまこの画廊を目にした瞬間、ほとんど不条理なまでに(あらが)いがたい衝動が、彼女を捕縛した。
「なぜだろう」私は炎の色を柔らかく映す彼女の横顔を眺めた。「なぜきみは、こんなことを始めたんだろう」
 彼女は黙りこくった。
「きみは、画家になりたかったのか?」私はさらに訊いた。
 彼女は首を振った。
「では、なぜ……」
「なぜ、なぜ、なぜ」彼女は首の振りに合わせてくり返した。そして最後に大きく両手を広げ、ため息をついた。「なぜだろうね。そんなのわかんないよ。ただ呼ばれたんだ。それじゃだめ?」
 足もとに落ちていた紙屑を拾い上げ、私はそれを火のなかにくべた。そしてそれが燃えて灰になっていく過程を、じっくりと眺めた。
「呼ばれた」灰が砕けてばらばらになるのを見届けて、私はぼんやりとつぶやいた。「呼ばれたって……それは――」
「さて、もうちょい進めるか」
 弾みをつけて彼女は立ち上がり、また壁に突撃していった。私はそれきり口をつぐんだ。時計がないから時間はわからない。だがおそらく、もう九時か十時といったところだろう。夜は深く、風は冷たい。そして海も深く、水は暗い。鯨は、まだどこにも行けない。なにしろそれは、自分がどこを向いているのか、どこに向かっているのか、そしてきっとどこにいるのかさえ、知るすべを持たないのだから。ふいに目の疲れを覚えて、私はまぶたを二つとも閉じた。そしてそのままの状態で、手探りでコートの内側を探った。小型水筒(スキットル)を取り出し、やはり両目を閉じたままその栓を開けた。目もそこで開けた。
 目の前に彼女が立っていた。
「いいもの持ってたんだ」彼女は言った。
 私は無言で水筒を手渡した。彼女は景気よく一杯やり、唇をセーターの袖でさっと拭った。頬にぺったりと絵具が付着した。青と白が混ざった色だった。服の編み目の模様が織りなすそれは、まるでちょっとした魔法陣のように見えた。
 熱い息を吐くと、彼女はまた深海へ(もぐ)った。
 私もウィスキーを喉に流し込み、背中を後ろに倒して一息ついた。またいっとき、両目を閉ざした。
 

――そう言ったソーダの声の残響が、私の一人の暗闇のなかにぽっかりと浮かんでいた。それはなぜだか、私に日食の光景を思いださせた。


    7


 夜がその最深部に達しようとしていた。
 私たちは二人ならんでソファに沈み込み、共にまどろみながら交替でウィスキーを飲んだ。だいぶ冷えてきたので、窓はほとんど閉められた。火は小さくなったがそのままにしておいて、毛布を頭からかぶった。ソーダも、私も。鯨には、まだ頭がない。
「私のことは訊かないんだな」私は言った。「きみのことばかり話させてしまった」
「だって」彼女は唇の(はじ)だけで笑みをつくった。「身の上話なんて聞いちゃったら、どうしたって情が湧くでしょ」
「たしかに」私は苦笑した。「私の方は、もう手遅れだな」
「訊いてほしいの?」首をひょこっと毛布から突き出して、彼女は私の顔をのぞきこんだ。
 私は短く首を振った。
「ん……」ソーダは私から水筒を受け取り、舐めるようにひとくち飲んだ。そして大きなあくびをした。「……あー、そんじゃまぁ記念に、いや記念にってのも変だけど、一つだけ訊いとこうかな」
 伝染したあくびを噛み殺して、私は続きを待った。
「あなたは、たぶん……西の方から来た」
「半分は、当たり」
「なにそれ」彼女は首をかしげる。
「たしかに、長いこと西の方の国で暮らしていた」私は言った。「でも、そもそもの生まれは北の方だ」
 ソーダは私の手に水筒を戻し、再び頭をすっぽりと毛布で包んだ。それから両手の肌のうちで絵の具がついていないところを探して、その部分でごしごしと目をこする。
「なぁんだ」彼女は言った。「この辺の生まれだったんだ」
「この辺、ではないかな」私は言った。「きみの想像どおり、私の生家は旧アルバンベルク王国領にある。だがここからは、ずいぶん遠い」
「なら、西の方っていうのは?」彼女はまたこちらを振り向いた。「僕の勘が正しかったら、あなたはきっと王都の人だったはずなんだけど」
 私は控えめに肩をすくめた。「当たり」
「今度は半分じゃなくて?」
「半分じゃなくて」
「やっぱりね」テーブルに置いてあったちり紙を取り、彼女は鼻をかんだ。「なんだか、そうじゃないかなって、思ったんだ」
「寒いか?」ふいに私は訊いた。
 彼女は首を振った。「でも、なんていうか、もったいないね。だってあそこは、今や世界の首都じゃん。誰もかれもが、あそこに住処(すみか)を持ちたい、あそこで暮らしてみたいって、夢見る場所じゃん。そんなとこからわざわざ出てくるなんて、やっぱり変わった人だね、旦那って」
 その言葉の末尾のさらに少し先には、ちょうど一言(ひとこと)ぶんの空欄が音もなくぶらさがっていた。そこには透明の文字で、どうして出てきたの、と書かれていた。私にはそれが見えた。
 だが私はそれについて話す気はない。一生、誰にも。
 彼女もそれ以上はなにも訊かない。それでいい。人と人とが互いに親切であるのは素晴らしい美徳だが、しかし誰にでもほいほいと同情するというのは、あまり感心したものではないと私も思う。彼女は正しい。
 おそろしく深まった静寂のなか、ほんの一瞬だけ、夜鳥の鳴き声が響き渡った。それは刹那(せつな)のうちに、ある彼方から別の彼方へと夜空を切り裂いていった。余韻さえ残らないほど、速くて淡い声だった。
 彼女と私は、示しあわせたように一緒に天井を仰いだ。そして互いの寝惚け(まなこ)を横目で見あった。
「これで最後だ」ちゃぷちゃぷと水筒を揺すって、私は言った。
「じゃあ一杯ずつやろう」舌足らずにソーダは言った。「それでおしまい」


     ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「……ねぇ。子どもの頃に図鑑で読んだんだけどさ」彼女はまるで子守唄でも歌うように、小さな声で話しはじめた。「鯨たちってね、海のなかを泳ぎながら、お互いに意思を伝えあったり、会話をしたりしてるんだって。そして、そういう時にあの人たちが使う声って、ものすご~く遠くまで届くんだってさ。なかには、1000エリムくらい先の仲間と交信できる鯨もいるらしいよ。ねぇ、1000エリムだよ! そんなの、もう想像がつかないよ。それだけあったら、世界の裏側まで届くんじゃないかって思うよ。思わない?」
 ずぶずぶと夢の世界へ沈みながら、私はかすかにうなずいた。


「……その話を、知ってからかな」彼女は続ける。やはりささやくような声で。「夜、ベッドに入って目を(つむ)って、眠ろうとする時にさ。たまに思い浮かべるようになったんだよね。僕の知らないどこかの深い海の底で、お互いのことを呼びあってる、大きな大きな鯨たちのこと……」
 私は自分の呼吸の質が、ほとんど熟睡している時のそれに変化していくのを感じていた。まるで身体の外側に立って、自分自身を静かに見守っているような感覚があった。
「そのことを考えたり、思い描いたりするとね。なぜだかわかんないけど、なんだかこう、いつも胸のあたりがさ、じーんとする気持ちになったんだよね。その……遠い遠い真っ暗な場所から、別の遠い遠い真っ暗な場所にいる誰かの名前を呼びつづけてる、鯨さんたちのことを想うとさ」
 私もそれを想った。
 その声を想像した。
 その響きを、その音色を、その深さを。
 そして私は、

をすぐそばに感じた。
 ……ねぇ、どうしてあの時、あなたは俺を――と私はつぶやいた。つぶやこうとした。しかしもう唇は動かなかった。
 ソーダの温かい手が、私の(ひたい)にそっと触れた。
「おやすみ、鯨さん」彼女は言った。「眠るといいよ。もう一度」
 私は頬に水が伝う感触を覚えながら、素直にその導きに従った。来る日も来る日も歩きつづけたこの体に、歩きはじめて以来初めてのまっとうな眠りが、訪れようとしていた。
 そうして私は、暗い海の底に身を横たえた。なにも恐れることなく、なにも疑うことなく。
 

、と誰かが言った。


     ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 朝になると彼女は姿を消していた。彼女の荷物もやはり消えていた。私の鞄のなかに残っていた缶詰も、五分の三ほどがなくなっていた。実にあっけないものだ。ちゃんとお礼を言いたかったし、別れの言葉だって交換したかった。でも彼女はもう二度と戻らない。私にはそれがわかる。まるで泡が弾けるように、跡形もなくどこかへ消え去ってしまった。
 壁の絵は完成していた。鯨には顔が描かれていた。私が眠っているあいだに、それは成し遂げられた。彼女は

のだ。その経過をこの目で見ていたかったものだが、しかしこうして出来上がった作品を観ることができただけでも、私は満足だった。鯨は深い虹色の瞳をしていた。それは私がこれまでに観たなかで最も綺麗な絵画だった。十年経った今でも、すみずみまではっきり覚えている。
 心残りは、この名画の題名を聞きそびれたことだ。ソーダはいったい、この傑作になんという名を与えただろう。私には予想がつかない。あるいは前夜までは、それは『顔のない鯨』という題がぴったりだったかもしれない。しかしそれはもう相応(ふさわ)しくない。ここには顔がある。耳がある。口がある。たとえ世界の裏側に行くことになったとしても、きっともう大丈夫だ。
 薬缶に残っていた最後の水で顔を洗うと、私は画廊を出た。静かな町の無人の通りに、朝の光がまぶしかった。私はそろそろ四十歳になろうとしていた。四十年。けっこうなものだ。だがこの朝、私は自分が十四歳の少年に戻ったような気がしていた。それは、なかなかわるくない感じだった。
 北へ向かうことにした。ふりだしに戻って、そこからまた始めてみよう。私は髪を一つにまとめ、顔を両手で一発叩き、足を前へ踏み出した。新しい太陽を見上げ、彼女がこれからどこかで幸福になることを祈った。心から。
「鯨さん」と彼女は言った。
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