終奏 星のように樹のように

文字数 947文字

 ラジオをもとの場所に戻して、洗濯物を取り込んで畳んで、浴室と浴槽をぴかぴかに磨くと、夕飯づくりに取りかかりました。今夜は、とうもろこしと(かぶ)のシチューです。先生のために、ワインも一本冷やしておくことにしました。でもデザートは、用意しません。というのも、なぜだか二人が必ず甘いものをお土産に持って帰ってくるという予感が、あったからです(結局この予感は的中しました)。
 食卓を整えたら、二階のベランダに上がりました。まるでつとめを終えて眠りにつくかのように、じわりじわりと、太陽が世界の裏側に沈んでいきます。同時に、天秤のもう一方の皿が持ち上がるように、真っ白な月が空高く昇ります。今、地上のすべてが黄金色(こがねいろ)に燃えています。ありがとう、とわたしはささやきかけました。太陽と、家と、きっとそこらじゅうに身を隠している、小さな虹たちに向かって。そして、森の奥へと帰っていく、愛すべき小鳥たちに向かって。あなたたちのおかげで、ほんとうに素敵なさびしさを味わえました。
 やがて陽が落ちて、馬車の音が遠くから聴こえてきます。
 一日じゅう待ち望んでいた音なのに、なんでこんなに切ない響きがするんでしょう。なんでこんなに温かいのに、こんなに胸が苦しくなるんでしょう。わたしには、わかりません。ただ、言葉ではあらわせないほど幸せであることだけは、たしかです。
 こうして、一人きりで過ごすわたしの初めての一日が、幕を降ろしました。
 なんていうことのない一日だったかもしれないけれど、それでも、きっといつまでも忘れることのない、大切な一日になりました。
 この世界には、わたしたちが暮らしたすべての日々のすべての記憶が、一つ残らずきちんと保存されるだけの広さと大きさがあるんだと、その時とつぜんわたしは思いました。いくつの星を(いだ)いても決していっぱいにはならない宇宙(そら)のように、いくつの()(かか)えても決していっぱいにはならない大地のように、この世界は、わたしたちみんなの毎日の物語を、一つだってないがしろにすることなく、ぜんぶきちんと()きとめてくれているはず――なぜだか、そんな気がしました。
 わたしの一日の物語も、ここにたしかに存在しました。星のように、樹のように。

   〈『星のように樹のように 聖巨兵カセドラ短編集』 終〉
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