風が吹いたら神様が:小さいころの思い出8000字

文字数 7,994文字

1.秋風 美愛

 二礼二拍手一礼。
 どうか、どうかまた神様に会えますように。
 そう祈った。
 けれども会うことはないのだろう、そうも思った。
 私はもう大人になってしまって神様を信じるのは少し難しくなっていたから。

 あれはただの小6の夏休みの不思議な思い出。じわじわと飛行機が飛び立つときのように気温が上昇し、夏休みでその最高潮に達して、秋の訪れとともにやんわりと現実に降り立つ、そんな一夏の鮮明でどこか現実離れした記憶だった。けれども私は風が吹くたびに私に深く染み付いたその記憶を何度も思い出して、またいつか、あの日のように飛び立つことができないか、そう思うと私の足は自然とこの懐かしい神社に向いていた。

 ここは百夜山(ももややま)にある百夜(ももや)神社。
 私が通っていた小学校のすぐ近く。小6の頃、私は一人の男の子が気になっていた。夏枕 景(なつまくら けい)。同級生。最初は目立たなかったけれども夏休みの直前から、なんだかその不思議な雰囲気を目で追っていた。

 そういえばあの夏はとても暑かった。
 エアコンの壊れた南向きの教室は窓が開けっ放し。ジィジィ鳴る蝉の音と暑い暑いと汗をかく級友の声が耳にあふれていたけれど、時折カーテンを大きく揺らしながら突風が教室に吹き込んでみんながうわ、と小さな歓声を上げる。騒がしくなった教室の中で、夏枕君はいつも一人、吹き込む突風が窓の外に逃げていくまで、つまり一連の風の動きをカーテンがふわりと窓際に収まるまで眺めていたんだ。その光景がなんだか新鮮で、まるで夏枕君は風でも見えているのかな、という気になった。そうすると夏枕君の不思議な目がキラキラと煌めいているように見えて、ふと目が合うとなんだかドキドキ心が暖かくなった。

美愛(みちか)は好きな子いないの?」
「え? 夏枕君かな」
「えぇ? 趣味悪くない? どこがいいの」

 急に尋ねられて思わず出た名前。夏休みにどこに行くとか何がしたいとかいう話題の隙間にそっと差し込まれてうっかりして頬が赤くなった。けれども皆に変なの、と笑われただけ。
 夏枕君は教室ではとても目立たなかった。いわゆる陰キャというやつで、教室内で誰かと話したこともなさそうなタイプ。いわゆるボッチ。そういえば私も夏枕君と話をしたことはない。どこがいいのか、それは言葉では言い表せない多分雰囲気とかいうやつだからなんとも答え難かった。

 そういえば夏枕君は夏休みどうするんだろう、どこか出かけたりするのかな。出かけるといえば百夜神社で夏祭りがある。神社は山の上だから、お祭りの日に少し遠くの海で花火が上がるのが綺麗に見える。一緒に見たら楽しそうだな、と思った。
 でも結局夏休みが始まる前に夏枕君に声をかけることはできなくて、終業式の鐘がなった時にはいつの間にか夏枕君は教室からいなくなっていた。

 でもこれでよかったのかもしれない。私は二学期、つまりこの夏休みが終わったら親の転勤について県外に行く。だからもし付き合えたとしても夏休みが終わるまでの短い時間。だから、いいんだ。



 その日、私は百夜神社の歴史を調べに石段を登っていた。自由研究だ。スケッチブック片手にふうふうと息がきれた。百夜山の石段は森の中を南に伸びる。だから山影で少し涼しい。石段の先を見上げると、大きな赤い鳥居とそれを囲う森の緑が繋がり、その上は真っ青な空にふわふわと白い雲。夏の山はカラフルだ。

 登りきって石碑なんかを写メってうろうろ探索する。図書館で予め調べた歴史を確認の痕跡を探る。百夜神社の神様は志那都彦神(しなつひこのみこと)。風の神様。だからここの神社ではたくさん良い風が吹く。吹いているかな、そう思えばそんな気はする。
 一通りの観察を終えたその時、サァと涼しい風が吹いた。人っ子一人いない境内はなんだか不思議で神聖な雰囲気。どこかで休憩でもしようかと思って拝殿の短い階段に腰掛けるとふいに後ろから声がした。

「神社に来たのに祈りもしないとは罰当たりだな」
「だ、誰?」
「誰でも良かろう。百夜神社に住まうものだ」
「か、神様⁉」

 振り返った拝殿の扉は閉じられて障子の中はよくわからない。でもそういえば神社に来たのにお祈りをしないのはまずいかなと思って、急いで賽銭箱の前に回って南無阿弥陀仏と唱えて10円を放り込んだら風が吹くような笑い声が聞こえた。

「南無阿弥陀仏は寺だろ? 重ね重ね非常識な」
「そんなことを言っても知らないし」
「簡単だよ。2回礼をして2回手を叩いて、1回礼をしてお祈り」

 急いで言われた通りにしたら、よくできました、という声が帰ってきた。

「ところで何を祈ったのだ?」
「神様なのにわからないの?」
「……もやもやしてよくわからなかった」

 ドキッとした。もやもやしたこの気持を言い当てられたようで。神様なら話しても大丈夫かな。王様の耳はロバの耳の靴職人が穴を掘って話したみたいに。

「私、好きな人がいるの。それでどうしたらいいかなと思って」
「……どうしたら?」
「二学期から県外にいっちゃうから告白してもあんまり意味がないかなと思っていて。嘘嘘。本当はそんな勇気がないだけ」
「ふうん?」
「はぁ、どうしていいかわかんない。私の中で好きがもやもやしてる」

 ぐるぐるぐるぐると。カフェオレのミルクみたいにぼんやり茶色に渦をまいている。ピンクではないのだ。

「……好きなら、告白してみればよいのでは」
「それができれば困ってない」
「……そうか」
「……うん」

 ぴゅうと風が吹いて境内の大きな楠と注連縄を揺らした。
 スケッチブックに御神木と書いた木。

「あの楠な、1000年前からあるんだ」
「へぇ」
「あれを植えたのは近隣の村娘だ。戦に取られた想い人の息災を願って植えたのだが、その男は戦であっさり死んでしまうんだ。それで村娘は泣き暮らした」
「それで?」
「それで終わり」
「何それ」
「その、何もせずに後悔するよりは行動したほうがいいんじゃないかな」

 行動。行動か。確かにこのまま何もしないと本当に何もないで終わってしまう。泣き暮らしはしないけど奥歯にものがつまり続ける気がする。

 ふぁ、と大きな風が吹いた。夏枕君だったらこの風の動きを目で追っていたのかな。
 西日が境内を照らした。世界はほんの少しだけこの優しいオレンジ色に照らされて、その中を不思議な風が舞っている。風はそのままだと通り過ぎてしまう。だから夏枕君はずっとその行き先を眺めているのかもしれない。そこを壁のようにせき止めたら、その視線を私で止められる? それならそれはとても意味がある。
 そう思うとなんだかちょっと、すっきりした。

「わかった、神様ありがと。また来ていい?」
「あぁ。だいたいこの時間にいる」

 それから夕方4時頃に神様に会いに来た。
 神様に言われて勇気は出たけど、夏休みに入ってしまって夏枕君に会う方法がなかった。だからまぁ、代わりに神様ととりとめもない話をした。友達のこととか趣味とか。この神社はよく風が吹いていて、どことなく夏枕君に似た空気だったから。

「美愛。お祭りの日に用事はあるか」
「特にないよ」
「舞を舞うから見に来てほしい」
「神様が?」
「そう」

 神様に会える。
 それはなんだか、すごくドキドキした。最近の私は毎日神様に会うことがとても楽しみだった。夏枕君に似た雰囲気のこの神社と神様に。けれども神様は決して拝殿から出てはこなかった。だからどんな姿なんだろうか、夏枕君に似てたりするのかな、とかいつも想像していた。
 その頃には夏枕君と神社と神様を混同していたような気がする。

 お祭りの夜。奉納舞は夜18時から。
 みんなとお祭りに行く、と言って家を出た。小学生が出歩くにはやや遅い時間帯。それだけでも少しワクワクした。
 ぽやりとオレンジ色の提灯が並ぶ石段を見上げると昼の青空とは違って濃く深い藍色の夜空に繋がっていて、このまま昇り続けるとキラキラ真っ直ぐ空に立ち登る天の川に届くんじゃないかな。そう思うほど幻想的で奇麗。

 行き交う大人の波に紛れてするりと境内に忍び込む。そこには舞台が設置され、周りを篝火が取り囲んで揺れていた。夜の中でそこだけ白い、不思議な空間。ぼんやり見ていると、トトンと鼓の音がした。周りで騒いでいた大人たちが急に静かになり、境内にサァと一陣の風が流れた。
 境内の扉が開き、人影がゆっくり歩み出る。あれが、神様?
 お面を付けた白装束の神様はそろそろと地面を這うように舞台をあがる。鼓や笙、狛笛がそれぞれ合わさり道となり、神様はそれにあわせていつもより随分低い声で祝詞を唱えながらゆっくりと舞った。その舞いはスローモーションのようで、強い風で揺れる灯火のゆらぎにあわせて神様は地面に浮いたりゆっくりと回り、その舞が終わったことを私は神様が拝殿の奥に入ってぴしりと扉が閉められる音で気がついた。凄い。本当に神様だ。
 その翌日。

「すっごかったです。本当に‼」
「喜んでもらえてよかった」
「神様は本当に神様なんですね‼」
「なんだそれ」
「だって時間が止まったんだもん」

 結局のところ、私は神様が好きになった。それから十日、神社に通い続けて結局夏枕君に会えないままの夏休み最後の日はヒグラシがカナカナと鳴いていた。

「神様、転校したくない。会えなくなるなんて嫌」
「……告白、上手くいったのか?」
「え? あ、それはその」
「そうか」
「ちがくて神様と」
「俺と?」

 なんだか随分早く日が落ちかけて、世界を薄らと物悲しい紫色に染めていく。

「美愛が大人になったら俺を迎えに来て」
「私が? 神様がじゃなくて?」
「俺はこの神社を動けない」
「……そっか、神様だもんね。わかった約束」

 そう言うと、これまで固く閉じられていた拝殿の扉が少しだけ開いて、そこから白くて細い指が伸びてきたから指切りをした。その頃には夜が神社を見下ろしていた。

2.夏枕 景
 むしゃくしゃしていた。
 今日も舞の練習、毎日練習。小さい頃は格好いいと思った。けど自分がやるとなると途端に逃げたくなる。夏祭りで踊るとか何の羞恥プレイだ。ハァ、逃げ出したい。十歳になったら跡継ぎが舞う仕来りとやらで、見に来るのかと思うと同級生ともなんとなく疎遠になり、仕方なく本ばかり読む生活を送っていた。何で神社の家に生まれたんだろう。
 神様を下ろす奉納舞。筋が良いと褒められたって仕方がない。

 その日、練習の合間に拝殿の柱にもたれて本を読んでいた。本はいい。ここじゃないどこかに繋がっている。風も同じだ。どこかから来てどこか遠くに去っていく。羨ましい。俺もどこかに行きたい。ここじゃない所。
 そう思うと外で風の音がして障子の向こうに突然影が見えた。油断してたから驚いて悪態をついた。普通神社に来たら柏手くらい打つだろ。
 そう指摘したら素直に何故か南無阿弥陀仏を唱えた。変なやつだ。その声で気づいた。秋風だ。同級生と思うと急に嫌な気分になった。

「何しに来た」
「自由研究だよ。歴史を調べてるの」

 しばらく話して、秋風が本当に俺が神様だと勘違いしているように思えた。そんな馬鹿なことがあるか。そのアホなところは別にいいが、俺だと気づかないのかな。……そうか。秋風は小3の時に転校してきたから俺が神社の息子と知らないのかもしれない。
 そう思うとなんだか新鮮だった。外から来た風のようで。……夏休みが終わると去っていく。やはり風のようだ。

 どうやら好きな奴がいるらしい。
 ……そうか。少し落ち込んだ。俺も秋風が気になっていたことが意識の表面に浮かんできた。教室で風を目で追った時、ふいに目が合うことがあった。秋風はいつもふわふわと窓の外を眺めていて、そのまま飛んでいきそうだなと思ってつられて窓の外を見てしまう。やはり風と同じように去っていくのか。そう思うと少しでもここに未練を残して欲しくて、その誰だか知らない奴に告白してみたらどうだ、と勧めた直後に嫌な気分になった。
 それで秋風が好きなその名前も知らない奴が嫌いになった。

 そっか、と呟いたのに秋風はそれからほとんど毎日百夜神社に来た。夕立で駆け込んで来ることも。雨は陽と風の音を隠す。障子越しに見える秋風の影が薄くなり、心細さからより大きな声で話しかけた。
 俺はいつの間にか秋風を美愛と呼ぶようになっていた。何と呼んだものか悩んで名前を聞いた時、秋風は『秋風』ではなく『美愛』と言った。名前呼びは躊躇したが聞いた以上は『秋風』とは呼べない。

 それにしても美愛は本当に俺と気が付かないんだな。そのことに安堵すると同時に寂しくなった。美愛はこのまま夏が終わって俺が誰のことかも解らないまま転校していく。それは何だか物寂しかった。あれほど誰にも見られたくないと思っていたのに。

「夏祭りに舞を舞うから見に来てほしい」
「いいよ」

 美愛は俺が誰か知らない。馬鹿馬鹿しいが俺を神様だと思っている。どうせもうすぐ別れが来る。ならあえて『俺』として会う必要はない。けれども神様としてでもその印象に残してもらえれば。俺をここではないどこかに連れ出してほしい。秋の風と一緒に。

 その年の舞は正直あまり覚えていない。舞台に出る前はものすごく緊張して、一歩拝殿から足を踏み出すとその先はふわふわとして何だかよくわからず、気がついたら『舞い終えた』という記憶とともに拝殿の扉を閉めていた。両親からはまるで本当に神様が降りてきたようだといわれたが全くピンと来ず、狐につままれたようだっだ。けれども美愛の感想は嬉しかった。

「すっごかったです。本当に‼」
「本当に?」

 舞はもう終わったから練習はなくなった。けれども俺はそれ以降も毎日拝殿の影に潜んで美愛の訪れを待っていた。夏の終わりを知らせるように日暮しや鈴虫の声が増え、日が落ちるのが早くなる。障子越しの美愛の影は日を追う毎にどんどん薄くかそけ()くなっていく。

「会えなくなるなんて嫌。神様と」

 今、何て言った? 俺と?
 夏休み最後の日は一段と日が落ちるのが早く、その声を聞いた時は障子に美愛の影は既に映らず真っ暗に沈んだ拝殿の中でただ美愛の声だけを聞いていた。夏の名残を惜しむように。
 この会話が終わってしまえば俺はもう美愛と会うことはない。そもそも美愛が会っているのは神様だ。俺じゃない。
 俺は美愛に名前も知らない好きな奴に告白したらいいんじゃないかと言った。それなら何故俺は告白しなかったんだ。こんな直前になってこんな思いをするなら、早く俺は俺だと言っておけばよかった。こんな、俺自身の欠片も挟まっていないような『神様』との会話なんて糞食らえだ。馬鹿。
 
「美愛が大人になったら俺を迎えに来て」
「……そっか、神様だもんね。わかった約束」

 『神様』じゃなく『俺』を迎えに来てほしい。その時何故そんな事を言ったのかはっきりしないが、『俺』はまた美愛に会いたかった。けれども美愛が約束したのは『神様』だった。はは、当然だ。俺は『神様』なんだから。
 せめて、せめてと思って拝殿を初めて開けて手を伸ばした。絡められる小指。この小指は俺の小指だ。神様なんかじゃない。

「約束だよ。迎えに来るね、神様」
「……あぁ」

 それから随分時間が流れて、俺は百夜神社の宮司を継いだ。
 全てはぼんやりとした過去の出来事。思い起こせばあれ以降、風を目で追うことはなくなっていた。
 毎年夏祭りで舞を舞う。けれども神様が降りてきたのはあのたった一回だけ。ひょっとしたら神様は美愛についていってしまったんだろうか。そう思う。
 もうすぐ奉納舞の時間だ。水干を着て烏帽子を被り、面をつける。ふぅ。18時か。そう思って拝殿の扉を開けた時、強い風が拝殿に吹き込み、衣装を激しくはためかせ、俺の中に何かが帰ってきた気がした。

3.百夜神社

 篝火がたかれ、鼓が打ち鳴らされ、笙のふわふわとした清らかな調べが流れる上に狛笛の少し高い音が光のように響き渡る。まるで現し世から切り取られたかのような世界で俺は舞っていた。

「なんだ、今年はすげぇな」
「10年ちょっと前も同じような感じだったが何なのかね」
「本当に神様が降りてきてるみてぇだな」

 激しく舞いながらもそんな声がくっきりと耳に届くことを不思議に思う。地につく足は即座に離れ、あたかも空を歩くかのようだ。風が俺の隣にいる。俺は風を従えている。練習は怠ってはいないが練習したどの時とも異なる体の動き。けれどもこれは自身が動かしている。そんな確証があった。
 その時の俺は周囲5メートルほどの全ての物事を完全に把握することができていた。小さな鈴虫の羽の擦れ合う振動、風にふかれて木の葉が触れ合う熱、それからその風が吹いてくる先。確かに俺に神様が降りている。この神社の祭神、風の神志那都彦神が。
 そうだ。いつものように海から吹き上がってくる風と百夜山から吹き下ろしてくる風がこの百夜神社でぶつかりあって出来る僅かな上昇気流が篝火をぱちぱちと爆ぜさせる。そしてそのどちらの風とも異なる風がその全ての火花を吹き散らす。
 そしてその風のもとが美愛だとわかった。面影があるかどうかとかは関係ない。たくさんの人々の呼吸音から美愛の息づく音がわかる。美愛から吹いてくる風によって。

 美愛は風とともに帰ってきた。俺は小6のあの夜、美愛にここではないどこかに連れ去ってほしいと祈って舞ったことを思い出していた。
 そうか、あの時に俺に降りて吹いた志那都彦神は美愛と一緒に世界を回って、美愛とともに帰ってきたのか。連れて行ってほしかったのは俺だったのに神様の方を連れて行くとは。
 けれども確かにあの時俺は自分のことを『神様』と言われても仕方がないと思っていた。でも俺は俺だ。

 すぅと地に降り立った瞬間、志那都彦神は天に帰った。急にぐったりと重くなり重力に負けそうになる体にむち打ち拝殿に急ぎ、水干を脱ぎ捨てて裏口から走り出る。
 小さいころに見ていた風が俺の行く先を示していた。

 十数年ぶりにこの町に戻った時、私の皮膚が懐かしさにざわめいた。この町にいたのはほんの3年なのに。
 私の心の中にずっと残っていた百夜神社の神様。それに誘われて拝殿の前の階段に座り込む。拝殿の中にそっと声をかけたけど返事はない。やっぱり何かの勘違いか思い込みだったのかな。そう思って溜息をついているとだんだん人が集まり目の前で舞台が組み上げられていく。

「お嬢さん、夜に奉納舞があるからよかったら見に行ってな。ここの宮司さんが舞うんだよ」

 作業服姿のおじさんにそう言われ、神様を見た夏祭りを思い出す。あれは宮司さんで、やはり人間で、神様ではなかったのか。それは当然だ。神様なんていないんだから。そう思った途端、びゅぅと大きな風が吹いた。
 ここはとても風が強い。だから気持ちがいい。着いたときから神社は懐かしくて落ち着いた。

 夜が満ちて篝火が灯され、鼓の音とともに拝殿の扉が開く。その瞬間、私の中で舞っていた風がふいに出ていくのを感じて急に体が重くなった。
 風? そういえば自分の周囲ではいつも風が吹いていた気がする。その風の向かった先にいる男性は面を付けていたけれども、その風を追う姿に見覚えがあった。そこからの舞はもう人とは思えなくて、神様だった。空を飛んでいた。人にあんな動きができるものなのか。やっぱり神様だ。私の見間違いではなかったのか。

 はっと気を取り戻した時には舞台の上には誰もいなくてざわめきが満ちていた。
 見失っちゃ駄目。
 そんな声が聞こえて私を誘うように風が背中を押した。拝殿の裏に向かうと肩で息をしている男性がいて、その回りに風が舞っているのに気がついた。風はここに帰って来たのか。いえ、でも私は風じゃない。私は秋風美愛。

「ちゃんと迎えに来たよ」
「……ありがとう。でも俺は神様じゃなくて」
「夏枕君なんでしょう?」

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