冷たい人:告白できない10000字
文字数 10,312文字
俺の喉と同じようにカラカラに乾燥した冬の空の下で、
ザァザァぶりの雨にただ打たれているような気持ちで、
その言葉を聞いた。
「
◇◇◇
いつからかはわからないけど、ずっと好きだった。
家は実はそんなに近くない。多分物心付く頃からお互いの家の中間地点にある公園で会っていた。
俺と颯人は表面上はそんなに中がいいわけじゃなかった。颯人はいつも同じ幼稚園の子と遊んでいたし。俺はその頃、一緒に遊ぶ友達もいなくて、だいたいが1人でブランコに座っていた気がする。
公園には1本の大きな楓の木があって、公園の端にあるブランコからだけ、その木の裏で泣いていた颯人が見えたんだ。俺は泣いていた颯人に『大丈夫?』って声をかけた。
颯人は誰かに見られてるとは思っていなかったんだろう。一瞬驚いて、決まりの悪い顔で俺に『誰にも言うなよ』って言って、色々文句を言った。
基本的に颯人はとても偉そうだったけど、別に体が大きいわけでもないから、よく他の体の大きい男子に喧嘩で負けていた。でも颯人は許せなかったんだろう。何かある度に俺のところにきて、ブランコの支柱にもたれて俺に背中を向けながら『体がでかいからって威張りやがって』とか文句を色々言う。
泣いていたのは最初に見たときだけだったけど、ひとしきり文句を言うと、『まあいいや』とか言ってニッと笑って、それでまた友達のところに戻っていった。
颯人は怒ったり愚痴る姿を他の友達には見せていなかった。だから他の友人には竹を割ったようなとか、一本気なとか、とにかく弱みを見せない男子と思われていたようだ。
颯人はそもそも強かった。颯人は自分のことは自分で解決していた。だからきっと1人でふらふらブランコに揺られている俺にとって、とても眩しかったんだ。
俺はただ颯人の話を聞いているだけで、何かの解決とか役に立っているわけじゃ全然なかった。でも俺だけがそんな颯人の弱い部分を知っている。そう思うと俺にとって颯人は何か特別な存在だった。
颯人は別にそう思っていたわけではないと思う。俺は他に喋るような友達もいなかったから丁度よかったんだろう。
俺と颯人は小中学校の校区が同じだった。半分くらい同じクラスだったけど、学校にいる間に颯人と話すことはほとんどなかった。颯人は颯人で学校の友人がいた。でも放課後はたまに会った。会って何をするというわけでもなくて。颯人は俺に用がある時に俺を捕まえた。
颯人は陸上部だった。走るのが早い。
俺はずっと帰宅部で、授業が終わって颯人がグラウンドを走ってるのを教室の窓から眺めた。夏の強い日差しの下でも冬の曇り空の下でも颯人はかわらずグラウンドを走り、その体が生き生きと動くのを眺めていた。
颯人の部活の終了時間の少し前にあわせて教室を出る。それで毎日だいたい同じルートで寄り道しながらゆっくり家に帰った。颯人が俺を捕まえにこないかなと少しだけ期待して。
それで捕まったら文句を聞いたり、買い食いしたり、そのままどこかに遊びに行くこともあった。
でもそれだけ。
頻度はそんなに多くなかった。ごくたまに。
でもそれだけで、俺は颯人が好きだった。とても。
一緒に行ったところは覚えている。
真っ白な雪の降りしきる中、馬鹿みたいに雪だるまを作って蹴飛ばす颯人。
夕方のオレンジ色に浮かぶ影法師のように『じゃあな』と分かれ道で手をあげる颯人。
熱い夏にかき氷を食べに行こうとチャリで二人乗りして遠出して、結局帰りも汗だくになって『意味ないじゃん』と文句を言う颯人。
颯人。好きだ。でも、これでいい。
この関係を大切にしたかった。このままで。
颯人を好きだなんて言うことは決してできない。気づかれてもだめだ。だから、こちらから話しかけるなんてできなかった。怖かった。何かの拍子にこの気持ちがばれることが一番に。
その瞬間ですべてが終わってしまうから。
だからたまに颯人から話しかけられて、たまにどこかに一緒にいって。『幼馴染』という名前のついた気軽な、そんな微妙な関係性。それ以上でもそれ以下でもなく。颯人の人生にちょっとだけ引っかかっていれば、それで満足だ。
嫌われたくない。この関係が壊れるのが怖かった。
高校になって颯人は大人びてかっこよくなった。だから颯人がそのうち誰かを好きになって、その誰かと付き合うようになるんだろうなと思って、でも仕方がないと思ってた。
颯人が俺を好きになるはずがない。だからもう、それはどうしようもないことだ。それでも『幼馴染』でいられるのなら、今と同じように俺に文句を言いに来て、それでまた去っていってくれればいい。
こういうところは男女関係より楽だなと思う。隠していることさえできれば。
そう思ってた。
◇◇◇
智司は多分俺の幼馴染だ。多分というのは、よく、わからないから。
智司は幼稚園のとき近所の公園にいた。だいたいブランコのところに1人で。俺は何か癪に障ることがあれば智司に文句を言いにいった。なんで智司に文句を言いにいっていたのかはよくわからない。無関係なのにな。
でも俺はそのころ負けず嫌いで、だから他のやつに弱みを見せたくなかった。智司以外は。
初めて会った頃の智司は俺よりヒョロくてなんだか頼りなかったし友達もいなそうだった。だからこいつなら漏らさないだろうと思って好き勝手話したんだと思う。多分智司が何も意見を言わなかったのもよかったんだ。もし意見を言うなら俺はすぐに反発していただろう。
智司は俺の後ろでブランコで揺られながら、いつも俺の文句を聞いてくれた。ずっと静かに。何故だろう。まるで嫌がらせだよな。虐めてたつもりはなかったし、嫌がっている様子でもなかったと思う。
それから俺は智司と一緒に遊んだことがない。智司に文句を言うだけ言って、その後他の友達と遊んだ。今思うと結構ひどい扱いだ。でもずっとそんな関係だった。
何か違和感を覚えたのは小学校4年生くらいの時だった。そのころ智司は俺と同じくらいの身長になった。放課後にグラウンドで捕まえた時、真正面の低い位置から照らすオレンジ色の太陽をうけて、俺たちから長く延びる影の長さがちょうど同じくらいなことに気が付いた。いつのまにか智司は俺と同じくらいの伸長になっていて、思ったほどヒョロくないことに気が付いた。
あれ? 智司ってこんなだったっけ。何か少し違和感があった。でも智司はいつもどおり『何かあった?』って俺に聞いた。だから俺はまあいいか、と思って並んで歩いて今日あった嫌なことを話した。
その時に話したことはあまり覚えていない。どうせいつもたいした話はしていない。智司はいつもどおり『そっか』と相槌を打ったと思う。
その時の夕方の太陽に照らされた智司の顔は俺が記憶していたより少し大人びていて、記憶との違いに驚いた。そして俺は智司のことを何も知らないことに気が付いた。一緒にいたのに、何も知らない。
その時智司は同じクラスだった。なんとなく智司が気になって、ふとした瞬間に視界に入るようになった。そうすると、俺は学校で智司にほとんど話していないことに気がついた。幼稚園の頃と同じように。俺は学校での智司をほとんど知らなかった。なんでだ?
俺が今まで気が付いていなかった智司。
智司は友達がほとんどいなかった。話をする人がまったくいないわけではないようだが、昼飯はいつも1人で食って、休み時間は1人で本を読んでいた。放課後はうろうろしながらいつも1人で帰っていた。なんとなく後ろをついて行くと、本屋の前で雑誌を手に取ろうとしてる智司と目があった。
「帰り?」
「あぁ、智司は」
「俺も帰り」
「それ買うの?」
「見てただけ」
智司は雑誌を置いて鞄を肩にかけ直す。
まだ雑誌を開いてもいなかった。俺はひょっとして智司の平穏な生活を邪魔していたんだろうか。ふいにそんな気がした。
智司はひょっとしたら一人でいるのが好きなタイプで、俺が声をかけるのが迷惑だったんだろうか。いや、よく考えると迷惑だよな。俺は愚痴しか言っていない。
「何かあった?」
「なんでもない」
「そう」
無言で並んで歩く。いつもなら俺が何か文句を言ってるタイミングだ。だが今は特に文句があるわけじゃない。だから無言で並んで歩いた。
「大丈夫?」
「あぁ」
もうすぐいつもの分かれ道だ。何も話さなかった。よく考えると話しているのはいつも俺ばかりだ。
「なぁ、俺いつも愚痴ばっかりだからさ、悩みがあったら聞くぞ」
「悩み?」
智司は遠くの灰色の雲を眺めて、歩きながら腕を組む。頭が少し傾いている。改めて智司をみると、記憶の中と同じような、違うような、そんな、もう元には戻らないような変化を感じた。少しだけ。
「きのこ派? たけのこ派?」
「たけのこ」
「同志よ」
「うん」
それだけ話して、別れた。
智司はまっすぐ俺を見ながら俺の愚痴を聞く。いつもだ。真剣に聞いてくれているんだと思う。穏やかな表情で。迷惑だったのかな。
でも俺にとって智司は特別だった。智司にだけは何でも言えた。多分どんなことでも。『幼馴染』だから? 一緒に遊んだこともないのに。
中3の頃から智司は急に身長が伸びた。180センチくらいになった。俺を5センチも追い越した。
でも中身はかわっていなかった。いつも俺の話を聞いてくれる。いちど嫌じゃないかと聞いてみたが、ちょっと微笑みながら嫌じゃないよ、と答えた。
嘘をついている様子にも見えなかった。
高校は別々になった。同じ高校を受けたことを受験の日に知った。でも智司は受かって、俺は落ちた。でも近くの高校だったから同じように帰り道によく会った。
智司はやっぱりいつも1人で、本屋とかカフェを眺めながらふらふら帰っていた。そんな智司とたまに目があって、でもなんとなく言う文句もなくて、無言で一緒に歩いて帰ることが増えた。たまに無理に誘っても文句を言うこともなく、ふらふらと智司はついてきた。
よくわからない関係。一緒にいると居心地はいい。俺が智司を振り回す。かといって別に無理強いしているわけでもない。多分。
何回も俺といて楽しいのかと聞いた。その度に楽しいと返ってきた。どこか行きたいところはないのかと聞いた。別にないと返ってきた。
ある日俺は鈴原さんに告白された。中高と同じクラスの人だ。
鈴原さんのことは正直よく知らなかったが、友人の評判はよくて試しに付き合ってみたらといわれた。他人事だと思いやがって。
でも俺は鈴原さんが好きなわけじゃない。だから、久しぶりに智司に愚痴を言った。でも智司はいつもどおりの穏やかな表情で微笑んで。『そう』といういつもの返事に一言付け加えた。
「そう。鈴原さんはいい人だと思うから、悪くないんじゃないかな」
その時俺は気がついた。いつも愚痴ばかり言って、俺は智司の意見を尋ねることもなかったことを。
『どうしよう』って智司の意見を尋ねたのは多分初めてだ。俺はこれまで本当に一方的で、智司の意見を聞いたことはなかった。でも、智司はその時初めて、俺から目を逸らした。なんだか不自然に。
そのことに俺は何か無性に苛立った。今まで目を逸らされたことはなかった。ただ目を逸らされた、それだけなのに、なんだか俺が無視されたような気がして。
何故だろう。その時これまでずっと隣を歩いていたのに道が分かれたような、気がした。ちょっとした、拒否。寂しさ。
俺が誰と付き合うかは興味がないってことか。そうかよ。
でもよく考えたら俺がどうするかはいつも俺が勝手に決めていた。そもそも智司の意思は聞いてなかった。そういえば、いつもこうだったのかな。
俺が思うほどには智司の中で俺は重要じゃなかったのかもしれない。意見を言う価値がない程度には。ふいに浮かぶそんな思い込み。
「冷たい奴だな」
智司の目を見返すこともできないまま、そんな言葉が思わず出ていた。何が冷たいのかもよくわからずに。
そこからは何を話したのかわからない。智司は何も悪くない。でも俺はなんとなくそこからぎくしゃくした気持ちを抱いて帰宅ルートを変えた。
そうすると智司に会うことがなくなった。そう。智司はいつも同じ道を歩いていて、俺が一方的に絡んでいただけだったんだ。そのことがわかった。智司を追いかけていたのは俺だった。
俺は智司と話がしたかった。何かを言いたかった。何かを話したかった。ひょっとしたらこの間のことを謝りたかったのかも知れない。でも、何をなのかはわからない。なんだこの気持ち。このイライラ。何故苛立つ。
俺はひょっとしたら智司に何かを期待していたのだろうか。鈴原さんを否定してもらいたかったのか? どうして? 俺にとって智司が特別だった。特別、ひょっとして。まさか。いやでも、そうなのか? わからない。そんなはずは。どうして今更そんなことを考える。どうしてこんなに苛立つ。どうして智司に相談した。混乱した。どうして。俺は。
……でも智司は俺に鈴原さんを勧めた。つまりそれは結局そういうことなんだろう。
鈴原さんはいい人、か。俺はなんだか少し投げやりな気持ちで、いつのまにか智司が勧める鈴原さんと試しに付き合うことになっていた。智司が勧めたから仕方がなく。そんな言い訳をして。
ひょっとしたら智司は鈴原さんが好きなのか? だから目を逸らしたのかな。『幼馴染』が好きかもしれない人と付き合うのか?
あの時目を逸らされた理由を無意識にさがしていた。
俺は何をやっているんだろう。別に鈴原さんが好きなわけじゃないのに。
◇◇◇
鈴原さんは何度か同じクラスになったことがある。それで確か今は颯人と同じ高校だ。
バレー部で面倒見のいい明るい女子だ。悪い話は聞かない。
颯人から鈴原さんに告白されたと聞いた時、とうとう来たか、と思った。でも覚悟していた以上の衝撃だった。その瞬間、心がバラバラに砕けた。視界が少しぼやけた。
俺はいつか颯人が誰かと付き合うことになると思っていた。そしてそれは少なくとも俺じゃない。だから酷いやつじゃなければ祝福しようと思っていた。でも、やっぱり、痛い。凄く痛いよ。心臓に包丁がささったような。
でも。鈴原さんか。鈴原さんはいい人だ。
だから、用意していた言葉をなんとか返した。少しぎこちなかったかもしれないけど。でもその後、何を話したのかさっぱり覚えていない。多分いつもどおり、分かれ道で別れたはずだ。いつもどおり、できたはず。
それから颯人に会うことはなくなった。
きっと鈴原さんと付き合うことにしたんだろう。舌がざらざらする。まるで砂が詰まっているみたいに。心臓のあたりが冷たい。寝てる間に包丁が刺さった心臓を誰かが機械に置き換えたみたいに。そう、機械みたいに毎日は過ぎていった。俺の毎日は変わらなかった。いつもと同じ道をゆっくりと帰る。違いは颯人に会わないことだけ。
そういえばこの本屋で雑誌を手に取ろうとしたときに颯人に話しかけられたっけ。ふいに颯人の姿が頭にちらつく。少し先のゲーセンで一緒に格ゲーした。全部、覚えている。全部。いろんな颯人を思い出す。いつものように。
俺はいつもの道を歩きながら、いつか一緒にいた颯人の後ろをついていく。俺の1日は変わらない。颯人と通った道を通って家に帰る。颯人を思い出しながら。
だから多分、あれでよかった。俺と颯人は『幼馴染』だ。今は鈴原さんと付き合い始めたばかりで俺に割く時間はないだろうけど、そのうち、また話かけてくれる。『幼馴染』なんだから。特別だ。それがあればいい。
結局遅かれ早かれの話で、いずれ颯人は誰か女の子と付き合う。
鈴原さんはいい人だ。俺の知らないやつと付き合うよりよほどいい。鈴原さんなら祝福できる。祝福、か。俺の思いはどうせ叶わない。なら、颯人が幸せならそれでいい。そう思って。
教室から窓を眺めると、冷たい雨が降っていた。
◇◇◇
鈴原さんと付き合うことになった。
鈴原さんは優しくて気立てがいい人だ。いつも俺のことを気遣ってくれる。問題はない。喧嘩をすることもない。智司と違ってこうしたら、とか意見も言ってくれる。智司と違って? どうして俺は智司と比べている。
俺は鈴原さんと毎日一緒に帰る。同じ学校だから家まで鈴原さんを送る。彼氏だから。でも。鈴原さんと話しながら、智司のことが頭に浮かんでいた。
智司はそもそも意見を言わない。俺が一方的に話すだけで、いつも俺の話を頷いて聞いていた。智司なら俺が何を言っても認めてくれる。そんな安心感があって。たぶん今も相談したら聞いてくれると思う。でもつまり、俺と智司は『幼馴染』だ。
結局俺にとって智司は特別だった。好きであることは間違いない。
でもそれが恋愛的な意味なのか、は考えてみてもよくわからない。でもそうなのかもしれない。終わった後にはじめて、俺が一緒にいて一番安心できるのが智司だったと気がついた。そもそも始まってすらもいなかった。
あのまま『幼馴染』を続けていたとしても、それはずっとそのままの関係だった。ずっとあのまま。俺の頭のなかで智司は俺に頷いていた。
◇◇◇
この間用があって
2人は30メートルくらい先の大きな交差点の対角線上にいた。信号が変わって、颯人たちは俺に気づかず横断歩道を渡ってそのまま俺の向かいを通り過ぎてざわざわした雑踏に消えた。俺を置いて。手を繋いで。
俺には決してできないこと。
鈴原さんはいい人だ。うん。俺は最終的に颯人が幸せなのがいいと思っている。心から。
俺は相変わらず颯人が好きで、だから颯人が他の人はと付き合うのは悲しい。もっというと、颯人が他のやつを好きになるのが悲しい。俺が隣にいたい。
でも、結局颯人が俺と付き合うことはない。なら、颯人はいい人と付き合って、俺は『幼馴染』のままがいい。そのうちまた、きっと『幼馴染』として話ができる。最近颯人と話をしてないけど、もともとそんなに頻繁に話をする仲でもなかった。
もうすぐバレンタインが来る。
颯人は毎年俺にチョコをわけてくれた。小さい頃の俺が颯人がチョコをたくさんもらっていたのを物欲しそうに見たから、1つおすそわけにくれるようになった。だから俺は毎年ホワイトデーに小さなビスケットを返した。小学校の頃から続いている習慣だ。
でもその行為は俺にとって特別で、俺は颯人の手から他人の愛をぶんどって、一方的に身勝手な俺の愛を投げつけた。不自然じゃないように値段をあわせたビスケット。ギャグの範囲に収まるもの。男からホワイトデー貰うなんて気持ち悪い、よね。『幼馴染』だからギリギリ許される行為。
でもそれは俺にとってとても大切な記念日で、大切な行為だった。この気持ちがバレないように細心の綱渡り。俺からできた唯一のこと。
今年はない。颯人は鈴原さんからきっと素敵なチョコをもらうだろう。俺がホワイトデーにビスケットを送ることもない。そう考えると、俺と颯人の間にあったものがまた1つ亡くなったようで、とても悲しくなった。
結局のところ俺は思い出にすがっている。俺は颯人に愛されてると思いたい。あのただの、颯人がくれたというだけの意味しかないチョコレート。それに何かを期待していた。
颯人がいつかわけてくれたバーシーズの大きな板チョコ。多分この雑貨店で売られていたやつ。486円。今年は自分で買おうかな。それもなんだか悪くない。どうせあれも誰かが颯人に渡したチョコだ。
手に取って颯人を思い出す。
◇◇◇
バレンタインだ。
鈴原さんにチョコをもらった。手作りらしい。開けて食べた。おいしかった。ほろ苦いトリュフ。つられてほろ苦い気分になった。
毎年智司にチョコを取られた。まあ、俺が勝手に渡してただけだけど。今年は俺に彼女ができたことは知れ渡ったから、鈴原さんからしかもらってない。だから智司に別ける分はそもそもないんだ。
そういえば今年はクリスマスも鈴原さんとデートした。いつもはどうしてたかな、智司を無理やり誘ってカラオケとかしていた気がする。初詣も鈴原さんと行った。去年の初詣は確か、智司と。
智司とはしばらく会っていない。智司、何してるかな。智司との距離感。俺が空けた。
俺と智司はもともと『幼馴染』だ。鈴原さんは別に束縛は強い方くない。学校でも友達と普通に話してる。だから別に俺が智司に会うのに問題はない。『幼馴染』に会うなんて気にもされないだろう。気にしてるのは……俺だ。
俺は智司に会えなくなっていた。俺から追いかけないと接点はない。だが何故だ。関係が以前と違う、あの日から。そんなふうに感じた。
会えないと、智司のことが頭に浮かぶ。でも智司に会いたいと思う気持ちには違和感があった。俺は智司に会ったら、どうしたいんだ。どんな顔して会えばいい。会って、それで。わからない。
そもそも、会う理由がなかった。理由。バレンタイン。今年は余剰がない、悪いな。……それなら。理由に、なる。
気が付いたら走り出していた。鈴原さんには急用ができたと言ってチョコのお礼を言って。
智司はいつも通り本屋とカフェの間をフラフラしていた。
◇◇◇
バーシーズのチョコを手に取ろうとして、肩に手をかけられた。振り返って、鼓動が跳ね上がった。今ちょうど頭の中で考えていた颯人。なんで。鈴原さんと一緒じゃなかったの?
「鈴原さんは?」
「チョコもらった」
「そう、バレンタインだもんね」
颯人はハァハァと息を吐いている。まるで走ってきたみたいに。そして俺の手を取ってまた走った。いつも相談をする公園に。
「あの、何かあった?」
「智司。すまない」
「え?」
「その、今年はバレンタインチョコ別ける分ないんだ」
「ああ」
よかった。思わずふっと息が漏れた。何か悪いことかと思った。明確な拒絶とか。鈴原さんにチョコをもらう。そんなことはわかってる。別にいい。
でも、バレンタインに会いに来てくれただけですごく特別な気分になる。嬉しい。この綱渡りにぐらぐらと心が揺れた。だめだ、あきらめていた特別感。颯人の顔がまともにみれない。早くここを離れないと。どきどきして、今の俺はあんまりにも不自然だ。
「智司?」
「うん、別に、かまわないよ、それより鈴原さんは?」
「鈴原?」
「そう。一緒にいたんじゃないの?」
「ああ、うん、ちょっと」
「喧嘩でもした? 相談のるよ」
「相談」
そう、相談に乗る。帰ってきた『幼馴染』に俺がすること。すべきこと。俺は颯人の愚痴を聞く。その関係を守りたい。拳を強く握りしめた。心に蓋をするために。顔から何もこぼれ落ちないように。
鈴原さんはいい人だ。颯人の彼女に他の人よりずっといい。だからなんでも相談に乗る。そう思っていたのに。不意に目から涙がこぼれた。色んな気持ちで目の前がゴッチャになって。駄目だ。
「智司?」
「なんで……ハハ、ちょっと風邪気味なのかも、ごめん、相談はまた明日」
だめだ、逃げないと。涙が止まらない。早く。俺が颯人を好きなことを颯人に知られるわけにはいかない、それだけは、駄目。この『幼馴染』だけは、死守したい。
◇◇◇
そう言って逃げ出そうとした智司を俺は後ろから捕まえた。智司はビクッと体を硬直させた。捕まえるのは得意だ、いつもと同じ。俺が智司を捕まえる。
でも抱きとめたのは初めてだった。智司は俺より少しでかくなった気がしていたけど、やっぱりなんだかヒョロかった。鍛えてないな。
「颯人?」
「相談、乗ってくれるんだろ」
「でも」
雑貨店でチョコを見てた智司の表情。酷く寂しそうに見えた。俺は智司との付き合いが長い。だからいつもと違えばすぐにわかる。ずっと俺は智司に愚痴を言っていて、俺をじっと見つめる智司の目を見つめ返していた。寂しい? なんで? それはやっぱり。そう思ったら俺は智司を捕まえていた。
俺は鈴原さんと付き合った。だからわかった。
智司はいつも鈴原さんと同じ目で俺を見ていた。なんだか幸せそうな穏やかな目で。それで俺は気が付いた。確信した。この微妙な距離感。拒絶感。俺は智司にまるっと好かれていた。今も。多分恋愛の方。だから大事に距離を取られている。落っことして壊れないように。
だからこれまで、智司の手首を捕まえることはあっても、それ以外には触れたこともなかった、それにも今気が付いた。初めて捕まえて、触れたところから智司の温度と鼓動が上がるのを感じた。
「智司は俺が好き。違う?」
「違う」
「本当に?」
「……うん」
「本当は?」
「本当に」
「相談がある。俺は多分鈴原さんを別に好きじゃない」
「そっか」
智司から漏れ出たほっとしたような溜息。こんなに近くにくっついて、初めて感じられるほどの小さな吐息。
ゆっくり智司を振り向かせた。久しぶりに目が合った。ふっと目が逸らされた。あの時と同じように。俺が続きを見なかった目からは、混乱と動揺が溢れていて、ふらふらと揺れていた。
初めてまっすぐ見た智司自身の感情がうつる目。
「それで多分俺が好きなのは智司だ、少なくとも鈴原さんよりは」
「嘘」
「俺が嘘ついてるかは顔を見ればわかるだろ、付き合いが長いんだから」
「嘘」
「嘘じゃないから」
だから、そのままキスをした。その証拠に。