夜を越えて:失った先の6000字

文字数 5,717文字

 私の隣では白い砂浜がどこまでも広がっている、はずだ。
 そう思いながら海岸道路を1人、車で走っていた。
 対向車も何もない真っ暗な中をハイビームで切り裂きながら。
 途切れないザザリという波の音。そしてたまに聞こえるヒュルリという風の音。
 そして気がついた。涙がポロポロこぼれていて、それが風に流れていたことを。

 優太(ゆうた)と会ったのは3ヶ月前だ。
 どうということのない出会いだった。道端で出会ったんだ。
 私はちょうどその夜、その時の彼氏に振られたところだった。振られた理由は実に単純なものだった。

 『ごめ、女できたから別れるわ、じゃな』

 それで私はゴミのように捨てられた。
 だからご丁寧にも女の肩を抱く写メと一緒に送られたメッセージをゴミ箱に突っ込んで、全ての連絡先を着拒して、写真や関連するものをフォルダごと削除した。一緒に行った場所、笑った思い出、それから。次から次へと。
 そうするとスマホのデータがごっそり軽くなった。まるで私の中身がごっそり欠けたように。その男は17の時から3年付き合った男だった。だからスマホに残っていたデータの大半はその男の関係だった。

 だから私は思わずスマホを握りしめて、それでそのままたまたま通りがかった川にでも投げ捨ててしまおうかと、そう思って、スマホを振り上げてそれでしばらく固まっていた。そのとき、スマホの中ではすっきりさっぱり削除したはずの記憶が私の頭の中で未練がましくぐるぐるしていたから。

「何してるの、大丈夫?」
「え、あ……なんでもない」

 突然聞こえたその声に私は動揺した。そして振り上げていた手をろした。
 頭の中があの男のことで一杯で、周りなんてちっとも気にしていなかった。そしてはたと見渡すとそこは人気(ひとけ)のない川。ここがどこだかはわかるけど家とは反対方向でめったに来ない道。
 随分長い間デタラメに歩いていたのか。それに気がついたら足はぐったり重くてよろけた。なんだかもう頭の中も体も全部がぐちゃぐちゃだった。

「あの、本当に、大丈夫ですか?」
「今から帰るので大丈夫です」
「よく来てくれるお客さんですよね、僕は駅前のコンビニ店員です。コンビニまででしたら送りますけど」

 そう言われて改めてまともに顔を見る。
 確かにその顔に見覚えが会った。なんとなくわけのわからないところにいたものだから少し心細くなっていて、それだけでももう、ホッとした気持ち。暗闇の中にちょっとばかし灯りが灯ったような気がした。だからその15分ほどの距離を並んで歩くことにした。
 それで何かもう、一人でずっと話していた。
 元カレがいかに糞で、私はどんなに悲しくて、もうどうしていいのかわからなくて。その人は私のその益体もない話をずっと無言で隣で聞いてくれて、それで改めて口を開いたのがコンビニに着いたときだった。

「ちょっとだけ待って下さい」

 そういわれて、ジジジと不連続に音が響く寂しい電飾の前でぼんやり待っているとその人は制服に着替えて出てきた。
 名札には『角優太(すみゆうた)』と書いてある。

「はいコレ」
「え」
「ココア。いつも買ってたよね? なんか疲れてそうだったから」
「あの、ありがとう」
「疲れることってあるよね。僕もあるから。だから気にしないで。それじゃ」

 そう言って優太はあさりとコンビニに戻っていった。ココアが温かい。真っ暗な中でぽぅと明かりが灯ったように甘かった。
 そのコンビニは私の家とバイト先のちょうど中間地点にあった。
 私のバイト先は喫茶店だ。だから早番の時の早朝と遅番のときの深夜にコンビニに寄るとたまに優太がいた。それであのあと大丈夫だった? とか、まあ、なんとか、とかそんな会話を続けて、なんとなくいい雰囲気になって、1ヶ月くらいで付き合うようになった。

 優太の家はあのスマホを投げ捨てようとした川の少し先。それで私は優太の家に泊まったり、たまには映画を見にでかけたり買い物に行ったり、ドライブにいったり、なんだかそんな暮らしをしていた。

 ドライブ。
 この町には長い長い海岸線がある。この辺り有数の白砂の海岸に沿って道路は東隣の三春夜市(みはるよし)から時折岩場で途切れながらもこの神津(こうづ)市の東南部に続き、そしてさらに南の石燕市(せきじゃく)まで続いていく。
 砂浜に沿った1本の海岸道路は市をまたいでずっとつながっているんだ。そしてその先のどこかへもきっと。

 海岸沿いには海岸道路以外の道はない。それから少し北に行けば大きなショッピングセンターもある。だからこの道は昼間は結構混んでいる。けれども夕方が過ぎて海の色が藍色と薄灰色と薄紫の帯が交差するようになるころには通るのは大型トラックが大半になり、そのうち何も通らなくなる。そのくらいの時間にラジオをかけながらボロボロに古いオープンカーに乗って海岸線を走るのが優太の趣味だった。

 真っ暗な夜の中、時折強い潮風が吹く。
 山に差し掛かる時、その山陰で車のライト以外は全てが真っ暗に変化する。どこかから鳥の声が聞こえたり、それからボウという船の汽笛が聞こえたりする。夜の海はいろんな音が溢れていた。
 けれども私にはそんな夜は退屈で、ぼんやりと月を眺めたりその月が照り返す昏い夜の海を眺めたり、それからラジオに耳を傾けたりするうちにだんだんと眠くなっていつのまにかシートで寝てしまう。だいたいそんな感じだった。

「なんでそんな夜にドライブするの? 昼の方がいいじゃん」
「昼は落ち着かないんだよ。他のものがたくさんあって」
「ふうん?」
「デートはとかはざわついててもいいんだけど、ドライブのときは何もないほうがいいんだ」

 優太が言うことはなんだかよくわからなかった。
 けれども私はなんだかよくわからないままこの優太との生活にしがみつきたかった。優太はなんだか頼りなかったんだ。押すとふわふわと遠ざかる。距離が上手く詰められない。もっと私を見て。それでどこかにいったりしないで。
 大丈夫?
 ある日突然別れるって言ったりしない?

 その時の私は彼氏を失ったばかりで何だかものすごい喪失感があった。だから私はいろいろな物事を確かめたくて優太を振り回していた。元カレとの思い出を上書きするように水族館やショッピングセンターにでかけた。
 それから優太の部屋に居座った。私の存在を優太の日常に印象づけたくて。
 優太の部屋にはあまり物がない。6畳と小さなキッチンがある部屋にベッドと小さな机と椅子があるくらいで、それもあまり使われていないようだった。
 あとは部屋に何冊か雑誌が転がっているくらい。
 たいていは車の雑誌。パラパラめくると優太が持っている車と同じような車に花柄のワンピースを着た女の人が乗っている写真があったからなんとなくそんなワンピースを着てみたりしたけれど、優太はかわいいねというだけで話は終わってしまってやっぱりなんだか消化不良な感じ。

 それでベッドに2人で座って映画を見たりもした。たまに私がご飯を作って一緒に食べたりした。でもなんていうかその空っぽに思える部屋はそれはそれで完結している気がして、ひょっとしたら私が異物なんじゃないかという気がふらりとして不安になって、なんだか阻害された気持ちがして突然悲しい気持ちが溢れ出して涙が溢れる事もあって。
 優太の中に私はいるの?
 そうすると優太は心配してくれたけどそれ以上はなにもなくて。でも冷静に考えるとそれ以上っていうものはもともと存在しないんだとも思う。

 私と優太の生活はそういった、なんだか一方的なものだった。
 なんていうか、優太は優しすぎて空気のようにどこにいるのかわからなかった。どこどこに行こうと言うといいよと言ってくれたし反対することも何もなくって、だからよけい優太の存在や真意が見えなくなって。そう。まるであの夜のドライブのように。
 だから私は一方的に優太を振り回して、後から思うと優太は私と付き合うのはそれほど楽しくなかったんじゃないのかな、そんなことも思った。
 つまり私は優太の生活の中では必要ないんじゃ、私の存在は優太にとって無意味じゃないかというような不安。
 また、突然いなくなっちゃう。

「ゆりは僕にしたいことをよく聞くけどそんなこと特にはないんだ」
「そう? でも」
「たまにこうやって海岸沿いをずっとドライブするのが好きで、他はどうだっていいんだ。なんていうか今までずっと一人で走ってたから隣にゆりがいるだけで、なんていうか僕は十分なんだ」

 いつだったか忘れたけど、真っ暗闇のドライブの途中に優太がそんなことを呟いた。私にはその意味がよくわからなかった。こんな真っ暗なドライブの一体何が面白いんだろう。

「優太はなんでドライブするの? せめて昼なら綺麗な景色とかそういうのが見えるのに」

 もう何度目かわからない質問。
 そして続くいつもどおりの答え。

「そうだな、なんて言っていいかよくわからないんだけど、なんか世界で一人ぼっちな感じが好きなんだ。今は二人ぼっちな感じ」
「よくわからないよ」
「そうだよね、ごめん。でも一緒にいてくれてありがとう」

 謝られる筋合いも感謝される筋合いもないんだけど。
 けれどもなんだかその、世界で一人ぼっちという言葉は妙に寂しくてまた不安になった。不安になると碌なことはない。私は多分私の中の何かの喪失をものすごく恐れていたから。だから私は優太のシフトレバーを握る左手にそっと右手を乗せた。真っ暗な中でも優太の手はほのかに暖かかった。優太はやっぱりここにいる。そんなことを思った。

 でも結局そんな生活はたいして長くは続かなかった。
 ある日突然、優太は死んでしまった。事故死だった。コンビニに行く途中にトラックが突っ込んだらしい。その連絡が来たのは朝で、優太の両親からだった。優太のスマホの履歴は私とコンビニの連絡先しかなかったから。
 ご両親は隣市に住んでいて、葬儀はそこで執り行われた。両親と高校の時の担任とあと何人かの近所の人くらいしか列席せず、友人や恋人といった優太独自の関係の人間は私くらいだった。小さな葬儀。
 優太はいじめられたりしていたわけではないけれども、小中高と特定の友人がいなかったらしい。誰とも親しくならずに一人で過ごしていた。それで大学に進学もせずに実家を離れて神津市で一人暮らしを始めた。ご両親にとっても優太の考えていることはよくわからなかったらしい。

「できれば優太の物を形見分けでもらって頂けませんか」

 そういって見せてもらった優太の実家の部屋も今の優太の部屋とあまりかわらずほとんど物なかった。車の雑誌が目についた。パラパラめくると優太が乗っていたあの車が載っていた。

「あの車はどうするんですか?」
「ああ、あれは処分します。うちはみんなオートマですから乗れません。処分といっても廃棄費用がかかるだけですけどね」
「あの、それなら是非私に頂けませんか」
「あの、あれは維持費がかなりかかるものなのだそうです。おそらく優太はバイト代の大部分は車にかけているくらいで」

 そう、それは私も知っていた。私がデートに誘わない日は優太はいつも家で車の整備や洗車をしていたから。そして見るとはなしに扱い方については私もなんとなく理解していた。車は古すぎて、乗る度に整備が必要で、だから一日かけて整備したら一緒にドライブに出かけ、また一日整備する。
 走るのはいつもあの誰もいない夜の海岸線。
 そんなことを思いながら私は車のキーを受け取った。
 優太の住んでいた部屋は解約して引き払うらしい。そうするときっと、優太の痕跡はなくなってしまうだろう。この車以外は。
 なんだかとても変な感じだ。私は優太に捨てられるのを怖がっていたのに、私のほうがここに残っているんだから。

 アパートの近くに駐車場を借りた。優太が死んでから初めての休日。
 優太のことはよくわからない。けれども優太がこの車をとても大切に思っていたことは知っている。
 私は車をきれいに洗って長い時間をかけて整備をした。
 そうするうちにだんだんと日が暮れて夕闇が迫っていた。車に乗り込みエンジンを駆けるとドドドという振動音がシートに響く。アクセルを踏むとまるで後ろから何かに押されるように車はそっと動き出した。なめらかに道を下りて心臓の音のような心地よい振動が背中に伝わり私の心臓の鼓動と溶けて混ざり合っていく。
 なんだかとても不思議な気分だ。

 真っ暗な中で一人エンジン音に揺られていると、なんだか真っ暗な世界に包まれているような不思議に温かい気がした。車の熱が体に伝わってきているかもしれない。そしてそれは真っ暗な夜に、真っ暗だからこそ不連続に、自分の体と夜の闇の区別がつかずに私の外縁が静かにどんどん広がっていくような、不思議な感覚がした。
 世界と、私。世界の中に一人ぼっちだけれども、その他のすべてとつながっている。

 今まで車に乗っている時は優太のことばかり気になっていて、反応がないからなんだか微妙に面白くなくて、そんな私を優太はつまらなく思っていないかとか何かしなければいけないのではとか妙な焦りがあった。けれども今はなんだかそんな気持ちもわかず、ただひたすら、なんというかこの車に揺られていると自分がこの世界の中にいるという感覚がぼんやりと残った。きっと優太もこの世界の中にいる。きっとどこかに。
 優太が感じていたのはこれだったのかな。何だか全てが満ち足りているような変な気持ち。

 シフトレバーを引くと助手席が薄ら寒いことに気がついた、
 ここに誰かいてくれればきっと温かいだろうな。そう感じる。今更になって優太のことが少しわかった気がする。
 私は優太の隣に座っていたけどただそれだけで、本当の意味で隣に座ることはできなかった。
 そのことが、なんだかひどく悲しく寂しい。もうすでに優太はここにはいなくなっていた。
 だからラジオのスイッチを入れた。いつも優太がやっていたように。
 パーソナリティの明るい声が流れる。誰かの声。私は世界とつながった。
 どこか懐かしい不思議なメロディに耳を傾けていると目の端にわずかに光が霞んできた。
 もうすぐ夜が明ける。

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