カフェ・アイリス:いけじじ萌えの4000字

文字数 4,294文字

 喫茶店アイリスの入り口にある樫の木一枚板のドア。その大きめのノブに手をかけたらキィという重い音のあとにスルリと扉は開いた。
 その途端、芳しいコーヒーの香りがする。
 いつものアイリスの香りに『本日の珈琲』の香りが追加されている。
 今日は……カネフォラ種。コンゴのミノヴァとかかな。飲み口はソフトなのにあとから特有の香ばしい香りが鼻に抜ける。
 このアイリスに通うようになってコーヒー豆に詳しくなった。味の違いがわかるとマスターが喜ぶから。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」

 どこか渋いけれども軽い声が響く。通い始めてもう半年くらいかな。
 私がアイリスに通うのはぶっちゃけマスター狙いだ。狙いといっても告白しようとかマスターとどうこうなりたいというのではなくて、なんというか萌えというか推しというか。応援したいというのでもないのだけど、なんというか純粋にその存在が尊いと思って通っていた。

 マスターの笹川(ささがわ)さんはとてもソレっぽいのだ。60くらいのいかにもな喫茶店のマスター。ふわりとなでつけた髪ときれいに整えられたあごひげ。それから優しそうな丸い眼鏡、白いシャツに黒のやわらかい生地のベスト。映画の中にしかいなさそうな人物が目の前にいる。そして店の雰囲気ともとてもあっている。
 昔懐かしい喫茶店の重量感のある木彫の家具と少し大きめの革張りソファ、それからガレのような花の形のランプがどこか薄暗い店内をぼんやりと照らしてゆったりとしたジャズが流れている。
 まさにセピア色の映画の中から抜け出してきたようだ。

「本日の珈琲はミノヴァですが、吉岡さんは苦手でしたか」
「はい、もう少し酸味が強くないほうが好きです」
「ではいつもと同じコロンビアでよろしいですね」

 私がカウンターに座るとマスターがやわらかく微笑む。
 マスターがコーヒーをドリップする姿はどこか現実離れして優雅で、くるくると注がれるお湯とそこからこぽこぽと泡と一緒に浮き上がるコーヒーの粉から木の実のような香ばしい香りが広がっていく。この時間はなんていうか、とても贅沢だ。コーヒー一杯600円くらいするけど、喫茶店のコーヒーはこの雰囲気と香り込みの値段というのがよくわかる贅沢な時間。
 目の前にサーブされたコーヒーを口に含む。ああ、なんともいえず贅沢。特に目の前のマスターが目の保養。マスターは私がそんなことを思っているとはつゆ知らないだろう。

「今日も試されますか?」
「お願いいたします」

 私はゆっくりとコーヒーを飲んでから一息ついて話しかけ、マスターはぺこりと頭を下げた。
 見ているだけで十分だと思っていたのに先月くらいから近寄れてしまった。

 先月、マスターがラテアートの練習を始めた、のを目撃した。
 その日も自分はカウンターに座っていて、他に客がいなかったのにマスターはがさごそと冷蔵庫からミルクを取り出して何か用意をしはじめた。何をしているんだろうとその内側を眺めていたら、カフェラテにスチムミルクを注ぎながらくねくねと動かしている。明るい茶色の表面に白いミルクでなんだかよくわからないごちゃごちゃとした白い塊ができていた。

 ラテ……アート?

 疑問符がつくような、白い何か。
 真面目な顔をしながらミルクを動かす姿にとても……なんというか萌えた。萌え死んだ。
 そしてふぅ、というため息を付いて、白い模様を何もなかったかのようにスプーンでぐるぐるかき回して、自分で飲むことにしたようだ。
 なんというか、物凄く、萌える。

 それからは私の行動は一直線だった。
 ラテアートを作るマスターが見たい。本当は失敗する姿もときめくのだけど、失敗してそこで終わってしまったら、もうこんな萌え狂う光景がみれなくなってしまうではないか。

 正直なところ、私はコーヒーはブラックしか駄目だ。コーヒーに入るミルクというものがどうも苦手だ。せっかくの馥郁(ふくいく)たる香りがミルクのべっとりした臭いで台無しになるような気がして。
 とりまネットでラテアートに必要なものを調べ、なけなしの予算でエスプレッソマシンとミルクピッチャーとラテボウルを購入した。エスプレッソマシンはまぁ……エスプレッソは好きだから自分でも使うことはあるだろう。けれどもこのミルクピッチャーというのは他に採用できる使用方法はあるのだろうか。
 まぁ、でも必要なものだろうし、おそらく何かには、使えるよね。

 そんなわけで、自宅に急遽友人を呼びだしてひたすらラテアートを造りまくった。ラテ自体は正直好きではなかったので、友人がカプカプになるまで飲ませた。目的は絵を書くことだから味なんてどうだっていい。
 いったい何杯のラテを飲ませたのだろう。少なくともリッター単位にはなっている。貴重な友人の犠牲もあって、友人がノックアウトするころ、ようやくきれいなハート型の絵がかけるようになった。
 ふぅ。

 喜び勇んでその翌日、またアイリスを訪れた。
 一昨日と同じ午後3時頃、マスターはいそいそとラテアートの用意を始め、また同じように失敗をしていた。萌え死ぬ。そして前日恐ろしい量の失敗を作り出した私にはマスターの何が駄目かがわかった。

「あの、マスター、ラテアート作られているんですよね」

 その瞬間、マスターはわずかに瞬きをして、悪いことをしているのを見つかったときみたいになんだか恥ずかしそうな顔をした。やばい。萌え死ぬ。語彙力が旅立っている。

「お恥ずかしながら、その、流行っていると聞ききまして、試してみようかと」
「ええと、あの、お恥ずかしながら、その、自分も多少ですがラテアートをやってみたことがありまして」
「なんと、そうなのですか。それは是非ご教示を願えれば」

 ニコリと期待に満ちた視線。ご教示を、願えれば。萌え死ぬ。
 ゴクリと喉を鳴らしておもむろに立ち上がってみる。

「あの、ミルクを注ぐ勢いが、足りないのだと」
「勢いが」
「そ、そうです、あの、一度に流し込むミルクの量を増やして、手早く動かす、というか」

 マスターが急いで追加のミルクを温める。
 流石に扱いは手慣れたもので、先程より少し勢いを込めたミルクをラテに注ぎ、なんと一発でハートマークが完成した。

「「すごい」」
「あの、すごいです、本当に」
「いえ、吉岡様に教えていただかねばできなかったと思います。本当にありがとうございます。師匠と呼ばせて下さい」

 マスターはそう言って、どこか真剣な目で私を射抜いて私の手を握った。
 このマスターの、師匠。鼻血、出そう。出る。
 その時の私はあたかも魔法学院の白ひげの学長のように高まっていた。

「あの、吉岡様、他にも相談に乗って頂けるでしょうか」
「は、はい。何でも」

 繋がれたままの手を振り払うなんてできない。そんなことをすれば折れてしまうかもしれない。違う意味でもドキドキした。
 でも相談って。ひょっとしてハート以外の描き方とかだろうか。でも自分にはハート以外のストックはない。

「ブラックのコーヒーでも絵がかけるでしょうか」
「えっブラック、ですか?」
「そうです」
「エスプレッソの泡の上ではなく?」
「やはり無理でしょうか」

 よくわからないけれど、昨日調べたところではエスプレッソを抽出するときにできるクレマという泡の層の上に泡立てたスチムミルクで絵を描く、のではなかっただろうか。
 泡の土台があるから描けるのであって。ブラックの上に絵を書くのって可能なの?
 試しにお借りしてやってみたけど、ミルクはそのまま下に沈んで全体的にカフェラテ的な色に染まるだけだった。

「あの、やはり土台がないと無理なのではないでしょうか」
「やはりそうなんですね」

 マスターは酷く真剣な表情で考え始めた。
 私はそれまで単に流行のためとかに試しているのかと思ったけど、ひょっとして他に何か目的があるのかな、という気もした。誰か飲ませたい人がいる、とか。お孫さんとかだろうか。家族がいるかは知らないけど。

「私も考えてみます」
「ありがとうございます」

 それから私はネットを調べまくったけど、よい解決方法は見つからなかった。
 落胆して、とりあえず友人にカフェラテを大量に飲ませ続けた。そのせいか友人は体重を5キロ増やした。それでも立体的に作る方法はないかとやたらと泡立てたりしてみたけどウィンナーコーヒーが出来上がるだけでそこに絵を書くのなんかできない。ミルクの温度を変えてみたりしても微妙にうまくいかない。

 そうやって、春だった季節がだんだんと夏に変化していった。
 アイリスでもメインはホットコーヒーからアイスコーヒーに成り代わり、ますますラテアート作成が難しくなった。ラテアートは温かく泡立てられたミルクというのが前提になっていて、アイスコーヒーに乗せてもぬるくなってしまうのだ。
 どうしたものか考えたけど拉致があかず、しかたがなくもう甘いのは無理勘弁してという友人を連れ回していろいろな喫茶店をはしごした。

 そして私は行きつけのイタリアンでアフォガードというものを食べてひらめいた。

 アフォガードというのはバニラアイスにホットコーヒーをかけたものである。その結果、ホットコーヒーとアイスが丁度混じり合って、冷たすぎず暖かくもない丁度いい甘さを醸し出していた。
 私は早速喫茶店に飛び込む……のはやめて友人を犠牲にすることにした。
 友人はこの夏、腹痛に苦しんだという。

 そして今、ブラックのアイスコーヒーにバニラアイスを混ぜたミルクで書かれたハートが形作られていく。ミルクポッドを持ち上げた時、そこには少しでこぼこしているけれども一応ハートが出来上がっていた。
 マスターは緊張した面持ちで少し、うん、と頷いてそのアイスコーヒーを私の前に差し出した。

「え、あの、マスター?」
「その、吉岡様にはいつもご来店を賜りまして」
「え、あ、はい」
「それでいつも美味しそうに飲まれていらっしゃいますからその、恩返しと申しますか、若い方にはラテアートというものが流行っておると仄聞(そくぶん)いたしましたので」

 えっえっおっ? 理解が追いつかない。 
 推しが目の前でよくわからないことを喋っている。

「あの、先程吉岡様がおっしゃられたように先にアイスから召し上がって頂けると幸いです。せっかく浮いているのに溶けて混じってしまいますので」

 その一言で私はスプンでハートをすくって食べた。推しが私のために描いたハートを一口で。マスターのハート、尊い。もったいない。
 バニララテが除かれたその後には、ブラックのアイスコーヒーの黒くつややかな表面と、そこにマスターの優しそうな笑顔が反射していた。

Fin.
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