カフェ・アイリス3 掲示板な午後

文字数 9,214文字

 少し重めの樫の木の一枚ドアをギィと開け、今日も今日とて私は喫茶店アイリスに足を踏み入れた。その途端、ふわりと香ばしい珈琲の香りが鼻をくすぐる。
 今日の香りはわかりやすい、比較的。酸味と甘い香りが特徴のこの珈琲は野趣あふれるキリマンジャロ。アフリカのタンザニアからやってきた人気の根強い豆……に違いない。確信はあんまりない。
 そう思ってドキドキしながらカウンターの端にそっと乗せられた『本日の珈琲』欄に目をすべらせれば、紛うことなきキリマンジャロ。
 おっしゃ!
 心の中で喝采を上げ、見慣れないものに気がついた。
 『本日の珈琲』が書かれている小さな黒板の隣に一回り大きな掲示板が置かれ、そこに何枚かの紙が貼り付けられていた。
「いらっしゃいませ、吉岡(よしおか)様」
「こんにちは、マスター。『本日の珈琲』をお願いします」
「承知いたしました。少々お待ち下さいね」
 マスターの柔らかい笑顔とこのやり取りこそが至福、天国、この世の至高。

 この喫茶店アイリスはマスターの笹川英一(ささがわえいいち)様が40年ほど前からお一人で切り盛りされていると伺っている。この昭和感あふれる木造りの、いわゆる純喫茶店というこの世から駆逐されようとしている古き良き文化と映画のワンシーンのようにそこに不可欠に佇む60代のマスターは私のいわゆる推しなのだ。これこそ無味簡素な生活の中の唯一の潤い。
 だから私は毎日喫茶店アイリスに日参し、マスターの目の前のカウンターにドキドキしながらおそるおそる着座する。少し前までは窓際のテーブルでマスターにお越し願っていたのだけれどそれもまた申し訳なく、何よりカウンターの方がマスターに物理的に近いので。
 マスターの健やかなお姿を目に焼き付ける。尊い。

 そうそれで見慣れないもの。
 そのカウンターに置かれた掲示板、その隣には『神津北公園通(こうづきたこうえんどお)り商店街バレンタインポエムコンテスト』と書かれた三つ折りのピンク色のチラシが置かれていたのでそっと手に取る。
「おまたせしました。本日の珈琲でございます」
「頂きます」
「おや、吉岡様はポエムに興味がございますか?」
 マスターの視線が私の手元にそそがれ、やっぱりドキッとする。
「え、あ、いえ。なんだろうと思いまして」
「この公園通りの商店会でバレンタイン企画をしようという話があがりまして。それで各店舗でポエムを募ることになったのです」
「ポエム、ですか」

 言葉や詩ですらなく、ポエムという響きは何やらふわふわしていて少し気恥ずかしく、ハードルが極めて高い。それを公開するとか、このハードルを乗り越えられる猛者は心臓に毛が生えているに違いない。
 それで掲示板には猛者の足跡、5センチ四方の紙が3枚ほど貼り付けられていた。誰か既に参加しているのかと思って覗き込んで困惑する。
『恋はまことに影法師、いくら追っても逃げて行く、こちらが逃げれば追ってきて、こちらが追えば逃げて行く』
 なんだこれ。ポエムというより大喜利のような。
 よくわからんと思って眺めていると、マスターが妙にしょんぼりと灰色混じりの眉毛の端っこを下げていた。えっ?
「駄目でしょうか」
「えっと、えっとあのこれはマスターが?」
「いえ、シェイクスピアです。私も詩はよくわからないのですが、妙に耳に残っておりまして。その、掲示板を設置しても1枚もなければ流石に誰も張って頂けないと思い、それでお恥ずかしながら最初の1枚を書いてみたのですがやはり古かったでしょうか」
 やばい、マスターがシェイクスピアとか凄いそれっぽい。キュン死。
 シェイクスピアが新しいとはとても言えない気はするけれど、新しいとかそういう問題ではないんじゃないだろうか。でもええと、どうしたらいいんだ。推しを悲しませるわけにはいかぬ。

「シェイクスピアはよくわからないですけど、この喫茶店にはとてもあっていると思います。だから他の方も書いたのではないでしょうか」
「それが他の2枚も常連さんにお願いしたものなのです」
 マスターはますますしょぼんと悲しそうに眉を下げる。いと萌ゆ。
『星の数ほど男はあれど、月と見るのはぬしばかり』
 これは都々逸かな。どこかで見た気がする。
 もう1つは演歌のサビっぽく、やっぱり聞いたことがあるような。
 けれどもどれもこの企画テーマとはちょっと、いや大分違うような気がする、というか。
「とても言いづらいのですが、どれもバレンタイン感がないです」
「バレンタイン感、たしかに」
 マスターはなるほどという風に頷いた。萌え。
「あの、マスターはこの企画を盛り上げたいとお考えでしょうか」
「そう、ですね。せっかくやるのでしたらそれなりにはと思っているのですが」
 その語尾はやっぱり次第にしぼみ、本当にどうしたらいいのかよくわからない、というふうにマスターは指先を軽く組んだ。尊い。

 この企画には色々と欠点がある。というか、根本的に企画自体から企画を盛り上げようという気概がない。さっきからパンフレットを眺めているけど、ようは『みんなでポエムを書いて盛り上がろう』というだけで、その先がまるでない。例えば優秀者には何かプレゼント、というようなお得感もない。
 ただでさえポエムを晒すなんてハードル高いのにこれじゃ誰も参加しないよ。いっちゃ悪いが恥を晒すだけというか。
「マスター、この企画にはポエムを書こうというインセンティブがありません」
「インセンティブ、でしょうか」
「ええ。投稿してもなにもないといいますか……。例えばポエムを出すと100円引きとかクッキーをつけるとか」
「なるほど……いえ、そうですね。おっしゃることはとてもよくわかります。けれども……」
 割引をするとお店の売上が減ってしまうのは確かで。
 カフェ・アイリスはそれほど高くない。本日の珈琲なら500円に消費税。特別で貴重な珈琲を頼んでも1000円前後っていうところ。そこから100円引くのは大変かも。かといってクッキーも経費がかかってしまう。箱で多めに仕入れればそうでもないかもしれないけれど、そもそもクッキー1枚もらえるからといってポエムを提供するかというと疑問だ。自分なら書かない。
 けれどもマスターの答えは違った。
「何といいますか、できれば自発的に貼っていただけると嬉しいな、と思いまして」
「自発的に」
「そうですね。なんと申しますかモノで釣るのは詩に対して失礼なのではないかと、少しだけそう思ってしまいまして」
「た、確かにそうですね、ハハ」

 申し訳ありませんでしたッ‼︎ 私は心のなかで土下座する。
 モノで釣ることしか考えていませんでしたッ‼︎ 推しの心をちっとも推し量れない我が不徳が憎い。
 そういえばマスターはポエムに困ってシェイクスピアを引くような人だ。詩に詳しくないと先程おっしゃっていたけれど、私なんかと比べて遥かに詩への造詣が深いに違いない。
 私はシェイクスピアといえば何故かベートーベン風の小難しい顔をした男が語る『生きるべきか死すべきか、それが問題だ』しかしらない。いや、あれ? これはシェイクスピアだったよね、うーん自信がない。
 えーと、じゃあ他に方法、方法。モノで釣るのが無理、えーとそれならば何が?
「みんながポエムを書きたいなという雰囲気になればいいのですよね」
「ええ。けれどもそれがどうしてよいのか途方にくれておりまして……」
 私の馬鹿馬鹿。推しを困らせてどうする。
 でも私にもちっとも浮かばない。そもそもポエム提供とか何の罰ゲームかよと思うわけで。けれどもどことなく元気のなさそうなマスターの様子からは、詩というものにあまり抵抗がなさそうだ。
 マスターはひょっとして文学青年だったのだろうか。40年ほど前の20歳くらいのマスターがぽわわんと思い浮かび、この喫茶店で人の出入りが一段落ついた時に窓際の木漏れ日の下でボードレールの詩集でもそっと開いているのだ。ぐへへ。
 なお、私はボードレールの詩集なんて読んだことはないのだが。

「そうですね……他のお店はどうされているんでしょう。商店会の企画ということですと他のお店でもされているんですよね」
「他の店ですか……どうでしょうね。この通りのカフェやショップが10店舗参加しているのですが、私も日中はお店があるのでなかなか……」
「では! 私が行って調べて参ります!」
「え、あの、宜しいのでしょうか」
 マスターは少しだけ大きく目を見開いた。尊い。
「ええ、今日はお休みなので!」
「本当に……ありがとうございます。いつも吉岡様には感謝しております」

 推しに感謝されるとかもう冥利に尽きる。死んでもいい、いや、駄目。
 けれどもどうしよう。なんとなく言ってはみたけれど、ここの通りの他の店は行ったことがない。
 この神津北公園通りは神津(こうづ)駅から市役所に向かう道沿いで、住民票を取りに行った帰りにたまたまこの喫茶店アイリスに立ち寄ってマスターにハートを射抜かれただけなのだ。
 私の家は駅の反対側で通りの入口にあるアイリス以外に全く用事がない。だから正直どんなお店があるのかもわからない。
 そう思っているとマスターは奥から古びた商店街のマップを持ってきた。
「このマップの北側半分は既にありませんし、残っているのは5店舗ほどなのですけれど」
「随分変わったんですね」
「今は北側は公園になって全く面影がありませんが、私が若い頃は北側にも店が並んでその裏には長屋が続いていたのです」
 マスターの若い頃とか!
 どこか懐かしそうに窓の外を眺めるマスターはまさに映画のワンシーンである。それはともかくマスターは古びた地図の4店舗ほどの店に丸をつけた。その他はイベントに参加している今の店名のメモ。マスターは字もお美しい。
 昔からある店はひょっとしなくとも昔のマスターを知っているやもしれぬ。これは行かねば。うほほい。

 アイリスのドアを押し開けて外に出れば、ぴゅうと木枯らしが吹いた。寒い。
 すたすた歩いて3件隣の喫茶店の店外に置かれたA看板のメニューには、バレンタイン特別パフェ1600円。ポエムを書けば100円引き。
 やはり割引が鉄板だよね。それにしても1600円か……。他の店もこの調子だと懐がヤバイ。けれども推しのためなら致し方がない。金は推しのためにある。……でも高い、だから紅茶だけ。紅茶ならマスターのコーヒーとも被らないし!
 カウンターに備え置かれた小さな紙片とペンを手に取れば、店員が生ぬるい視線を向けてくる、と思ったのは被害妄想に違いない。
「あの、短歌でもいいんですよね」
「勿論です。宜しければこちらにご住所をお書き下さい。抽選で公園通り商店会共通商品券をお送りします」
 それは美味しい。
 推しのために生活を切りつめるのは当然だ。もっといえば貢ぎたいくらいだけれど、500円とはいえ30日続けば1万5000円になる。これまで目をつぶっていたけれど、薄給の身には木枯らしが吹き付けるようにそれなりに厳しい。

 そもそもポエムを出す人間なんてほとんどいないだろう。当たる確率はきっと高いに違いない。なんだか自分が物欲の権化のように思えて、マスターの高潔な心意気との落差が激しすぎる。でも胸は痛むがお財布事情は切実だ。背に腹は変えられないと言うし。 
『かぷかぷと珈琲香るカウンター そっと添えたるチョコいと甘し』
 こんな適当なのでいいのかな。とりあえず何も言われなかった。
「お姉さんはこのお店、長いんですか?」
「いいえ、2ヶ月前にバイトに入ったばかりなんですよ」
 にこやかに笑う店員はバイトで、この辺りの古い話、もといマスターの過去は知らないそうだ、残念。
 それから都合5件の物販店を渡り歩き、3件程のカフェをはしごした。
 物販のうち3件はただポエムを貼る掲示板を置いて放置、カフェアイリスと同じスタイルだった。正直スマホ屋と靴屋はどうしようもない気はする。残り2件は香水屋と輸入雑貨で、ポエムを書くと特別なバレンタインラッピングをしてもらえるシステムだった。
 回転が速いのか輸入雑貨を除けば全て新しいお店で、昔の商店街のこと、つまりマスターのことは知らなかった。輸入雑貨屋のご店主も2代目で、この商店会のことはあまり詳しくは知らないらしい。マスターは年3回ほど行われる商店会の会合で顔を合わせるくらいで、物静かな人という印象しかないみたいだ。

 商品券のプレゼントはすべてのお店でやっていた。聞けば商品券はこの企画自体の賞典らしい。なんでそんな重要なことをパンフレットに書いてないんだよ、全く。
 商品券ゲットの倍率を上げるためにそれぞれの店にポエムを提供することにした。知名度の低さに乗じるのだ。お店も喜ぶしwin-winに違いない。私がwinするには最終的にラックに頼る必要はあるのだけれど。
『ほろ苦き遠くより来た甘味かな 思い馳すのは珈琲の香』
『馥郁と香る珈琲注ぐ手に 小さなチョコとロマンスグレー』
『珈琲とチョコの香りのマリアージュ モカブラウンに染まる店内』
『こっそりと置いてこようかチョコレート 気づくのかしら珈琲の隣』
フルシティ(深入り焙煎)その鼻先に立ち上る チョコの香りと珈琲と』
 我ながらよくこれだけ浮かぶものだなぁと思うけれど、推しへの愛は無限大。羞恥に耐えつつマスターのことだけを考えてひたすらひねり出していると、なんとなくするりと出てくる。商品券も欲しい。

 カフェ3件のうち1件は掲示板周りに花束や小物を置いてセットを作り、インスタ映えを狙っていた。もう1件はポエムを提供すればエスプレッソカップに特別なホットショコラを一杯プレゼント。うん、チョコはバレンタインっぽい。
『ほろ苦い思いも全てあの店に チョコと一緒に漂う空気』
『あの店のどこか懐かしこの香り チョコを添えたら甘い思い出』
 最後の1件は『あなたの大切な人にポエムを贈りましょう』という企画に仕立ててハート型のメモが配られ、原本は持ち帰ってチェキったものを掲示板に貼っている。これはバレンタインっぽい。チェキのフィルム代って高かったかな。費用計算は難しい。
『いつだってここでの時間は特別で 今日は追加でチョコを隣に』
「ハートはラミネートいたしますか?」
「ラミネート?」
「ええ、どなたかに送られるならラミネートにすると見栄えがよくなりますし」
 確かに紙だと運んでいる間に折れてしまうかも。
 これまで都合9つポエムをひねり出してきたけれど、どれもマスターへの推し愛ばかり。旅のポエムは書き捨て、そのまま掲示板に貼ってもらうことにした。家に持って帰ってもどうしようもないし、捨てるのも忍びないし、マスターにお渡しするなんてとんでもない。
 何枚かのチェキの写真が貼られる中に1枚だけ赤いハートの紙というのはなんだか少し気恥ずかしい。
 けれども結局、どのお店も若い店員さんばかりで昔のマスターを知る人はだれもいなかった。残念残念。

 私の長……くもない旅の終点、最後のお店は公園通り商店街の一番端っこにある『パティスリー・エクセデスノルゲン』。たまに雑誌でも特集されるドイツ菓子の専門店で、小さなカフェスペースが併設されている。
 古い店だと聞いて期待したけど、カラリとベルが鳴る入り口を開けて『いらっしゃい』と声をかけた小柄な赤毛の女性店員はまだ10代後半くらい。マスターの話は知らなさそうだ。
 見回して掲示板を見つけると、そこには他の店の比較にならないほど、わさわさと小さな紙が降り積もっていた。
「あんたも願掛け目的かい?」
 気づいた赤毛の店員が近寄ってくる。
「願掛け、ですか?」
「おう。先月末にさ、タウン情報神津で特集してもらったのよ。ドイツのバレンタインは男から女に贈るんだ。そんでドイツにはホワイトデーがないからな、だから女はお返しに詩を贈るってことにしたのさぁ」
「へぇ。うん? 贈る、ことに、した?」
 つまり、捏造? そう思っていると店員さんは妙におばさん臭くヘヘっと笑う。
「おうとも。うちオリジナルだ。女が男に送ったっていいんだよ。詩は『好き』とか『ラブ』とか思いがこもってりゃ簡単なものでもいい」
「そりゃまあ、そうかもしれませんが」
「短いならチョコに字入れサービス付だ。そのままプレゼントしちまえばいいさ。効果は折り紙付きだとも。あんたもどうだい、詩を置いてくかい?」
 店員は追加で意味ありげに笑った。
 詩を書く。そんな羞恥プレイできっこないと最初は思っていたけれど、ここまで詩を書いてきたんだからコンプリートしたい気持ちになってきた。ハート型のピンクの紙にチョコレート色のペンで書き込んだ。なんとなくさらりと書けた。慣れだろうか。
『幾重にも甘さ重なるほろ苦さ 思い出すのはあの樫のドア』
「へぇ、英一んとこか。あんたも見る目があるねぇ」
「ひえっ。英一って」
 マスターを名前で呼ぶとは恐れ知らずな! 思わず慄いた。
「うん? 送り先はアイリスの英一じゃないのかい? あそこのドアが思い浮かんだんだよ。それでチョコを作るかい?」
「ちょ、チョコをですか?」
「うん。たっぷり魔法を込めてチョコに書いてやるぜ、それ」
 それと言われて指された詩を見て、この文字をチョコに書くとして、それをマスターにだと? いや、それはちょっと待って、無理無理いや推しにプレゼントを贈るというのは割とありふれた行為で、いやそれでもバレンタインにマスターにチョコを渡すだと⁉︎
 私はすっかり動転した。

「ほらよ、サービスだ。あとケーキいくつか買ってけ」
「えっとあのその」
「大丈夫だよ、ちゃんとドイツ語で書いたから。あんた読めないだろ。それにアイリスの花言葉は愛のメッセージだ。ちゃんと渡せよ」
 えっ愛の⁉︎
 呆然としているまま、あれよあれよと英一が好きなやつだとケーキを2つ包まれて追い出された。わけがわからない。お代はそれなりに高かった。高すぎるほどではなかった。確かに美味しそうだった。
 とぼとぼと公園通りを反対側の入口の喫茶店アイリスまで戻る途中にようやく頭が働き始め、2つ持たされたアプフェルシュトゥルーデルの箱を片手に途方に暮れる。どっしり生地のアップルパイなのだけど、これ2個で1週間分のカロリーはありそうだ。

 英一の好きなケーキ……?
 そういわれるとなんだかこれは贈呈しなければという強い気持ちが沸いてくるわけで。推しに推しの好きなものを進呈できるなんて推し冥利に尽きる。そうかぁ、マスターが好きなケーキなのかぁと思えば気持ちはぐへへと向上した。
 そして今日2回目の喫茶店アイリスの扉を押し開けると、ふと目をあげたマスターと目が合った。ラッキー。
「おや、おかえりなさいませ」
「た、ただいまなさい! あ、あの、これを!」
 おかえりとか鼻血出る滾る。混乱するままケーキの箱を押しやると『ああ、ノルゲンのケーキですね』と返事があった。会話、尊い。
「よくご存知なのですか?」
「ええ、小さい頃からよく。この企画もノルゲンのご亭主の案です。お若いでしょう?」
「ご亭主、ですか?」
「ええ。赤毛の女性です。私より歳上なんですよ」
「ブッ」
 10代にしか見えなかったんだけど? いやでも確かに貫禄が。
 マジか。いやそんなことより推しの前で吹くとは失態がすぎます。けどマスターより年上⁉︎ ならマスターの若い頃のことを是非聞きに伺わないといけない。心のメモに書き留める。
 ケーキのお礼ですと本日の珈琲をご馳走になり、じゃりじゃりしそうなほど甘くて林檎の香り高い至福のケーキを頬張りつつ、ポエム対策を考えた。

「参加したいと思わせるにはスペシャリティがあってもよいのではと」
「スペシャリティ、でしょうか。けれどもこの店のお客は大抵がお一人様ですので、ノルゲンのようには無理でしょう」
 確かにこの昭和感あふれるアイリスにラブイベントは無謀すぎる。
「そうですねぇ。バレンタインに縁がなさそうな方ばかりで……すからバレンタイン路線は捨ててしまってはどうでしょう」
「捨てる、でしょうか?」
「スペシャリティ、つまり特別な気分になればいいわけです。このお店のお客は珈琲好きな人ばかりです」
 私以外は、という言葉をそっと隠す。
「例えば詩に合った珈琲をマスターがお勧めするのはどうでしょう」
「私が、ですか」
 マスターの整った眉毛が少し驚きの形をつくる。
「はい。普段と違うコーヒーが楽しめるっていうスペシャリティ」
「なるほどそれは面白そうですね」
「このお店にイチャつきにくる方はいなさそうですし。……それでこれはおまけです」
 再び私以外はという言葉を隠してどうしたものかと逡巡する。愛というよりそれは推し。推し活ならばプレゼントは鉄板とビクビクしながらチョコを裏向きにお渡しすると、ありがとうございますと穏やかに受け取って頂けてホッとした。

 その後、私のアドバイスが功を奏したのかお勧め珈琲案は大好評で、何日か通ううちにアイリスの掲示板もノルゲンほどではないにしろ、紙が降り積もるようになっていた。よかったよかったと胸をなでおろし、けれどもこれだけ応募が増えると商品券は当たらないのだろうなと少し残念になる。
 けれども推しの喜ぶ姿が一番だ。
 そんなこんなでバレンタインデーは穏やかに過ぎてしばらく経った頃、小さな異変が起こった。
「吉岡様、いらっしゃいませ」
「マスター、本日の珈琲お願いします」
 そして本日の珈琲とは別に小さなチョコレートが4つほど入った小皿がついてきた。
「あの、これは」
「私も商店会員なので応募された詩を拝見したのです。そうしたら吉岡様のお名前がいくつもありまして」
「な」
 その瞬間の衝撃と不覚感とジレンマと絶望と羞恥と驚天動地と動揺は筆舌に尽くしがたい。よく珈琲を吹き出さなかった。まさか、あれを、あれが、マスターの目に⁉︎ なんだって! もう駄目だ!
「このお店を気に入って頂けて本当に……吉岡様?」
「うがが……お店?」
「ええ。それにチョコレートもお好きなようで」
 絶望に打ちひしがれようとしていた私に予想していなかった言葉が響く。
 お店? お店? マスターではなく⁉︎
 そういえば詩にダイレクトアタックはなかったはず。内心の大混乱がマスターの笑顔で癒やされ、疑心暗鬼と対抗している。大丈夫? 本当に? 恐る恐る見上げても、マスターは優しく微笑むばかりだ。本当に?
「ノルゲンのご亭主に伺ってテンパリングというものを教えていただきました。召し上がって頂けると幸いです」
「頂きますとも‼︎」
 その艶めいたチョコは本当に美味しかった。本当に、色々な意味で涙が出た。推しから手作りのお返しを頂けるなんて。心臓が止まると思った、本当に。色々な意味で。
 そしてアイリスはバレンタインの喧騒から日常に戻り、私が降り積もらせたポエムは結局商品券をもたらしたりはしなかった。


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