ザ・ピーナッツが教えてくれたこと

文字数 1,319文字



 ザ・ピーナッツ。
 この私の母親と同い年の大スターについて、想いを綴ってみたい。
 彼女たちが引退したのは、1975年のこと。当時私は9才だ。少年時代の私には、怪獣映画の「モスラ」で小美人役を好演していたという印象が強すぎて、歌手として一世を風靡した実績をリアルで知ることはない。「ザ・ヒットパレード」も「シャボン玉ホリデー」も、私にとってはお兄さんお姉さん世代の話題、という絶対的な距離感があるものだ。
 デビューは1959年。当時皇太子であった平成天皇のご成婚の報に国中が湧いた年である。レコード会社間の争奪戦となったというほど、デビュー時からの売れっ子であったザ・ピーナッツ。 TV、RADIO、舞台、地方での営業等の超過密スケジュールでフル稼働し、正しく眠る間もない忙しさだったという。
 当時マネージャーを務めていた諸岡義明(現渡辺プロダクション取締役)氏は、かつてTV番組でこのように回想していた。
「すごい努力家以上のものだと思う。プロとしての自分たちがやらなきゃいけないことをきっちり見極めていた。あれは嫌だ、これは嫌だということは一切なかった」
 いくつもの音楽番組に出演する際、当時TV番組はすべて生放送。歌詞の間違いはプロとして許されなかった。多くの歌手はカメラ脇に歌詞のカンペを張り、それを見ながら歌ったこともあったそうだが、二人は生憎近視であり、カンペは彼女たちの力にはなってくれなかった。なので、どんなに忙しくても毎週20曲もの歌詞を、寝る間も惜しんで完璧に覚えていたそうだ。
それら努力の背景、不平不満を一切漏らさない強い意志の源には、歌手になるという夢を実現へと導いてくれた所属する渡辺プロダクションの創業者である渡邊晋氏に対する、何より強い恩義が揺るぎ無くあったからだと、そう感じられてならない。
 歌は、歌い手の生の声が作品になるもの。そこには、いくらテクニックや鍛錬で培われ積み上げられた完成品があろうとも、人の目には映ってくれない内面性の魅力、ザ・ピーナッツの二人のような真面目で誠実で努力家な内面は、ただそのまま作品の中に埋没されてしまうことはなく、きちんと歌の中にも反映されてしまうものだ。人一倍実直な二人の歌を聴けば、テクニックや経験だけで、人の心を揺さぶる歌唱は決して生まれてはくれないことを知ることになる。
この事例は、歌だけの世界でのみ言えることではなく、この社会の多くの枠組みの中でも教訓とされるべきものだろう。
 そんなことを、ザ・ピーナッツは私に教えてくれた。
 1975年、二人は引退後、表舞台から姿を消した。ステージ衣装は後輩歌手に譲り、楽譜は全て焼却したという。芸能仲間との交友も絶ち、自宅に閉じこもった。残りの半生を「普通の人」として静かに暮らすことが、育ててくれた渡邊晋社長との約束と感じていたのだという。
そして、姉の伊藤エミ(本名:日出代)は2012年に、妹の伊藤ユミ(本名:月子)は2016年に、それぞれの生涯を閉じた。
 私がなぜ44年前に引退した双子の歌手ザ・ピーナッツを、令和の今になっても特別な眩しい存在として崇めているのかについて、本文によって少しでも伝わってくれたら嬉しい。
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