第1話:泉田家の子供達の教育1

文字数 2,983文字

 最初に理解していただきやすいように高度臨床検査センターに簡単に説明しますと現在の大型病院は最新鋭の医療スタッフ、医者、看護婦、薬剤師、臨床工学技士、臨床検査技師、診療放射線技師が全て、そろっています。そのために特に地方の中核都市では診療時間が長く、それが問題となっています。そのため以前、医薬分業として投薬の部門が院外薬局に分離された。

 その他に最近首都圏で高度な臨床検査、放射線検査・CT、MRIを分離すれば大型病院で診療と治療に専念できるようになると首都圏を中心に高価なCT、MRI装置を備え、高度な放射線検査や臨床検査だけを請け負う、度臨床検査センターが首都圏を中心に2000年以降、増え始めた。

 それもビルの大きな事務所の中の検査室の回りに強い放射線と磁気を遮断する特殊な処理処理を行うだけで出来るようになったので、かなりの数の高度臨床検査センターが出来てた。キーワードはメディカルスキャルスキャニングで調べると詳細がわかりる。ちなみに医療検査機器、CTスキャン装置、CTとはコンピュータ断層撮影法の略でありCT検査はエックス線を使って身体の断面を撮影する検査。

 体内の様々な病巣を発見することができるが特に心臓、大動脈、気管支・肺などの胸部、肝臓、腎臓などの腹部の病変に関しては、優れた描出能が知られている。MRI装置、MRIとは磁気共鳴画像の略称です。非常に強い磁石と電磁波を利用し人体を任意の断面「縦・横・斜め」で画像表示することができる検査です。X線を使わず磁石を用いて検査を行うため放射線被ばくの心配がありません。それでは本小説をお楽しみ下さい。

泉田誠二は八王子の郊外に住んで小さい頃から山野を走り回る元気な子供として育った。父の泉田欽一は昼間アルバイトして中央大学工学部の夜間部を卒業した苦労人で自分に厳しく子供達にも厳しく努力するように教育していた。日野にある大手企業で半導体関係の仕事していた。泉田誠一は人に優しく力持ち粘り強くじっくり努力するタイプ。

 弟の泉田誠二は負けん気の強い意地っ張り一気に仕事をする情熱タイプで好き嫌いの激しいタイプで手先が器用。泉田誠一は小学校の頃から遊び仲間のリーダー的存在で人望も厚かった。中学に入ると父の昔、使っていたマック・パソコンのオシャレなデザインに興味を持ち、父のお古になったパソコンをもらいメモリーを増やして大事に使っていた。

 そのため、エクセル、ワード、パワーポイントも使えた。自分も理工学系に進もうと考えていた。中学に入ると数学だけは人に負けない優秀な成績で弱点は英語でラジカセを使い勉強していた。中学2年になりクラスで6位で学年で15位前後の成績で家から通える八王子東高校をめざして猛勉強を開始し中学2年の秋の一斉テストでクラス3位、学年10位まで成績を上げて、八王子東高校が射程距離に入った。

 1998年2月に八王子東高校を受験し合格。これには両親も大喜びしていたが負けず嫌いの弟は俺は都立国立高校を狙うと宣言し多くの問題集とラジカセを買い自分の部屋に閉じこもり、勉強を開始し中学2年でクラストップになり学年3から5位の素晴らしい成績を取り1回、学年トップを取りたいと豪語していた。中学2年の冬の一斉テストで念願の学年トップをとった。

 超強気というか過激な発言の多い子供だった。東大か東工大のどっちかに入りたいなと凄んでいた。そして宣言通り2000年の高校受験で見事、都立国立高校に合格。その後も勉強に励んでいた。兄の泉田誠一はテレビドラマで見たハイテク医療機器を扱う二枚目俳優を見て、この仕事がしたいと調べて見ると検査装置はMRIで、その仕事は臨床放射線技師とわかった。

 この免許は医療系の大学を出るか一部の専門学校に入学するかのどちらかだとわかった。そこで首都大学「昔の東京都立大学」の健康福祉部放射線学科を卒業すれば良いとわかった。そのために高校に入ってもクラストップをもめざし勉強を続けボランディア、社会活動にも参加して、忙しそうにしていた。やがて2001年2月の首都大学健康福祉課放射線学科を受験して合格。

 八王子から南大沢まで15分かけて通うようになったが2年生から卒業までは荒川区東尾久の荒川キャンパスで通うのは厳しいと考えて学生アパートを探した。その頃、次男の泉田誠二は国立高校の2年生になり負けず外来の性格で必死に勉強しクラスでベスト8まで成績を上げて、医学部を狙おうと頑張っていた。2年の冬、クラス3位となり3年を迎え橫浜市大医学部を目標にして勉強を続け2003年を迎えた。

 その頃、泉田誠二は橫浜市大医学部の合格確率が80%になり受験日まで体調を崩さないように自己管理して風邪も引かずに受験日を迎えて無事合格。八王子から通えないので八景島シーパラダイス近くの橫浜市大医学部まで自転車で10分の所にある学生用アパート借り大学にで通う事にした。


一方、兄の泉田誠一は2003年3月、首都大学大学の健康福祉部放射線学科を卒業して臨床放射線技師となった。その後、社会福祉法人の大きな病院の放射線部に2003年4月に採用され50人を超えるスタッフと仕事を始めた。そして近くのN証券に証券口座を開き父に電話して、株はじめたいので100万円貸して欲しいと言い銀行口座を教えた。

 翌日、銀行に行くと送金されており、早速、自分の証券口座に100万円を入れた。そして、2003年5月1日、成り行きで丸紅株を1株122円で8千株を89.6万円で買え残金が10.4万円となった。7月の暑い夜、寝苦しくて寝付けない時に昔の思い出が頭に浮かんだ。
「父が金を持っていないと駄目だと悔しそうに言っていた」のを思い出した。

 その後、株の本を何冊も読んでパソコンを使いプリンターに2次曲線グラフを見て上下に直線を書いて、ここから下を買い、ここから上で売れば良いのだと自分で納得しているの横顔を見た。そして数週間勉強して株投資を始めた。その当時のアパートは玄関を入ると直ぐ流しとテーブルがあり、その先に6畳があり4人で寝て左側に父の書斎があり本棚とパソコンと椅子机があった。

 狭い部屋でイスから腰を上げるだけで本もプリンターでも直ぐに手が届いた。本を読んだり、勉強する時はパソコンのテレビは机の下に置き広くしてから本を開いていたのを思いだした。そして中学の頃になると市営団地に引っ越し大きなテーブルと3人掛けの大きなソファーが入るリビング・キッチンと6畳が3部屋あり6畳1部屋で弟と机を2つを置き夜は布団を引いて寝た。

 隣の部屋は父の書斎でその隣が両親の寝室であり父の書斎に1つのクーラーとリビングキッチンに大きなクーラーが入っていた。風呂も以前比べて大きくなり子供なら十分に2人は入れる大きさだった。今考えて見ると何故、あんな広い家に住み替えられたのだろうと不思議に思った。

 そして高校2年の2000年の時のクリスマスに大きな鳥の丸焼きとたくさんのフルーツがのった大きなクリスマスケーキを買ってきた。翌年、2001年にはカローラを購入したのも印象的だったので良く覚えている。これから遠くへも車で家族4人でいけると思うとゾクゾクした。
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